2021年6月29日火曜日

場所と経験 5 「その二つ」決着編

 対比図によって論の全体構造が掴めたところで、「その二つ」に決着をつける。

私は東京で計六回引っ越したが、どの土地もA住んだ家の周囲数百メートルにしかなじみがない。Bそれより先はよくわからないのだ。むろんC(その場所は)地図を見ればわかるし、頭ではわかっている。だが、その二つはすこしも実質的に結びつかない。歩いたことがなければ、場所を実質的に感じることはできないのである。

 解釈の候補は三つ。

①A「なじんでいる内」とB「わからない外」

②B「わからない外」とC「わかる外」

③A「なじんでいる」とC「頭でわかる」


 結論を言えば、この問いに「正解」はない。どの解釈を完全に否定することもできず、どの解釈も可能であることを認めざるを得ない。

 だが、それぞれを支持する論理は明らかにしておきたい。


 ①「内と外」の解釈の妥当性を説明する説得力を持った議論は次のようなものだ。

 Bに続くCの文は「むろん」で始まっている。そしてそれを「だが」で受けて「その二つは結びつかない」と続く。

 この「むろん~。だが~」は、いわゆる「確かに~。しかし~」構文と同じニュアンスであり、そこでは「むろん・確かに」の後は予想される疑問・反論として置かれているだけで、最初から否定するための当て馬だ。

 つまりCの扱いは軽いのである。ABこそ「その二つは結びつかない」と言明されるべき本命なのである。

 これは細部のニュアンスを丁寧に汲み取った鋭い解釈だ。

 だが①を推す論拠にはさらに強力なものがある。

 「その二つは少しも実質的に結びつかない」の後、一文を挟んで「結局私が知っている場所は、いわば数多くの小さい円から成っていて、その間には何のつながりもない」と続く。

 間に入るのが「歩いたことがなければ、場所を実質的に感じることはできない」という一文であり、「感じられない」ことが、円同士の間が空白地帯になる理由を述べている。

 つまり「内と外」が「結びつかない」から、「結局」円同士が「つながらない」ということになる。

 この論理展開は緊密で、間然するところがない。


 授業の展開上は後から浮上した③は、しかし話し合いの推移にしたがって、むしろ最も支持を集めたようだった。

 地図を見て「わかる」こと(C)は、「歩いたことがなければ実質的に」「わかる」=「なじむ」(A)にはならないのだ、と言っているのである。これは本文全体の趣旨に照らしてみても実に納得の解釈である。

 だが授業者の私見を言えば、③は比較的支持できない。

 それは書き手の心理から言えば、間の一文を跳ばしてAとCを「その二つ」と指示するのは、読者に伝わりにくいと考えるのではないか、と思えるからだ。

 直前のCと並列したいのがBではなくAだとすると、むしろ「その二つ」という不明確な指示語ではなく「歩いてなじむことと、頭でわかることは(実質的に結びつかない)」というような明示をしたくなるのではなかろうか、と思う。


 では②「外と外」を支持する論理とはどのようなものか。

 ①「内と外」型の解釈は、この「二つ」を、物理的に分割された別の空間として捉えている。そしてその一方が「感性的になじみのある空間」、一方が「感性的になじみのない空間」である。。

 つまり「感性」が分割の根拠として強調され、両者が「つながらない」といっているのである。

 一方、②「外と外」型の解釈では、「その二つ」とは、結論を言えば「感性的な空間」と「均質な空間」である。

 Bの「わからない外」を「幻想的な空間」であるとする解釈が話し合いの中で語られているのを散見したが、これは全く文脈を捉え損ねている。「わからない」のは、私がそう感じているだけだ。つまり個人的な「感性」のみがそれを「わからない」と感じさせている。したがってBもまた「感性的な空間」なのである。

 それに対してC「地図を見ればわかるし、頭ではわかっている。」は地図の比喩で明らかなとおり、「均質な空間」としてそれが捉えられている。

 もちろん文脈上、「均質な空間」にはじめて論及されるのはここより三段落後の「だから~」の段落の、「ところで、第三の空間がある。それは~」である。したがって「その」という指示語で指し示される対象に「均質な空間」を想定するのは適切か、という疑問は可能だろう。

 だが、文章を書いている、またそれを読む読者の思考はそのような単純な線状性に限定される必要はない。柄谷の中には、「幻想的/感性的」という対立を提示した時点ですでに「均質な」という対立も想定されていると考えられる。ただそこに言及するには線状性による制約があるというだけだ。

 「外と外」型の解釈は、物理的には同一の空間を、「感性的になじみのない空間」でもあると同時に「地図には載っていて、頭ではわかっている空間」=「均質な空間」とも捉えている様子が描写され、それらの捉え方が全く違ったものであることが述べられているのだ、というものである。

 こうした、同一の対象が、捉え方によって違ったものとして感じられる例として、柄谷は後の段落で、「登山客が地元民にとってはタブーの地を平然と通過すること」という例を挙げている。「登山客」にとって「均質な空間」であるところの登山ルートを、「地元民」は「幻想的な空間」であるところの「タブーの地」と捉える。同一の対象を、両者は違ったものとして見ている。

 同一の対象であっても、捉え方の違う二つの空間は、それぞれの認識の中では別のものである。それが自分という単一の主体の中で起こったとしても、やはりその認識像は「結びつかない=重なり合わない」。


 A「なじんでいる」は感性的な捉え方で、C「わかる」は均質な捉え方だ、と整理してみれば、③もまた「感性/均質」が「結びつかない」と言っているのだ、ということになり、これは文章の最終的な主張を先取りして述べていることになる。

 ①の解釈は前後の文脈の論理展開から最も整合性が高く、②③は文章全体の趣旨に適合する、と言えようか。


2021年6月24日木曜日

場所と経験 4 「幻想的」とは何か

 三項対立となる対比図を画いた。

 これで文中の論理構造は一望できたが、だからといってこの文章の主旨が「わかる」というためには、もう一歩踏み込んだ考察が必要である。

 この文章のわかりにくさは、まず対比のラベルとした「感性/幻想/均質」がどのような対立要素を持っているかが、語義的にはまるでわからないことによる。

 どう考えたらいいか?


 対比する項目同士は、必ず対比を可能にしている共通の土俵と、対比軸を構成する対立要素(「差異」といってもいい)をもっている。

 例えば「感性」の「実質的」「リアリティ・切実感」と「均質」の「擬似的」「抽象的」と並べれば、「感性」と「均質」の対立要素は明らかだ。これは語義的な対立がわかりやすい。

 だが、同じように「生きた他者」と「理念」、「見たものだけを見たということ」と「意味づけ」を並べて、その対立要素を考えようとすると、これは難しい。だからこそ、そもそも文中から抽出することが難しかったのだ。


 また、この文章での最終的な議論は「感性的/均質な」の対立軸を巡って展開されるので「幻想的」にそれほど踏み込む必要はないのだが、実は高校生にとって最も厄介なのは「幻想的」の概念の理解のはずなのだ。

 「幻想的」とはどういうことか?


 「幻想」という言葉はわかる。耳慣れない言葉ではなく、難解でもない。

 皆にしてみれば「幻想的」とは、それと対比される「感性的」の属性である「実質的」の対比で、「実質的ではない・実体がない」などということだと捉えればいいと思えるだろう。

 だがこれは、間違っているとは言わないが、充分とも言えない。

 「均質な」の属性は「擬似的」「抽象的」である。

 「擬似的」とは「本物に似せた」だから、その対比は「本物・実物」ということになる。「抽象」の対義は「具体」だ。

 これらの性質は「感性的」の「実質的」に対応している。「均質/感性」がそのような対立を形成しているのに、「幻想」はこれとどう違うのか?

 「均質」とも対立要素をもつ領域として「幻想的」を捉えるには、単に「幻想」という語義からの解釈では不十分なのだ。


 実はここにはある「常識」の決定的な欠落がある。そればいわば時代的なものだ。この文章が書かれた時には、読者にとって常識であり、それがいまや「知る人ぞ知る」になってしまったのだ。

 それが「幻想的」という言葉の意味を高校生が捉え損ねる重要な原因なのである。


 「場所と経験」が雑誌に掲載された昭和47(1972)年の読者にとって「幻想」という言葉は、「共同の幻覚」の柳田国男などよりよほど自明なものとして、「共同幻想」という言葉を想起させたはずだ。それは完全に当時の言論界にとっての「常識」だったのだ。

 「共同幻想」は1968年に刊行された吉本隆明の『共同幻想論』の流行に伴って完全に人口に膾炙した言葉だった。当時の言論人も大学生も、当たり前のように「共同幻想」という言葉を使っていたのだ。


 つまり「幻想的」という概念の理解にとって重要なのは、「幻想」という語の含意する「実際には存在しない」などという意味合いとともに、それが共同体の成員に共有されたものである、という点である。

 つまり「幻想的」とは、実体はないが皆が信じている、という意味なのだ。

 とすると「幻想的/感性的」の対比を成立させる対立要素は何か?

 「幻想的」が「共同体の成員に共有されたものだ」という意味だとすると、対比軸を挟んで、「感性的」にどういう意味を見出すべきか?

 「個人的な」という意味である。


 ではそうした観点から「均質な」の意味をどう捉えるべきだろうか?


 「幻想」の「共同体・国家」という例から連想されるのは「国際的」である。

 だがこの「国際的」も、何やら含みのある言葉らしいという感触を察知すべきだ。

 それに続く文脈から判断するとこの「国際的」は否定的なニュアンスを担っているらしいのだ。

 結局、「幻想的/感性的/均質な」という対比は

 という対立要素としてだけでなく、

とでも表現すべき対立としても捉える必要がある。


 「均質」のもう一つの形容「抽象的」という語は「実質的(感性)」との二項対立が意識されやすい。「抽象的/具体的=実質的」という対立が想起されるからだ。

 だが、「共同体(幻想)/個人(感性)」との三項の対比関係の中で考えるならば、ここでの「抽象的」とは「共同体の枠を越えて誰にでも適用されるがゆえに、逆に誰のものでもない=国際的」といったような意味合いを担う用語なのである。


 捉えにくい(しかも捉え損ねていることが意識されにくい)「幻想的」という語の意味合いを考察することで、三項がどのような対立要素を含んだ対比なのかが明らかになってきた。

 この「幻想的」という概念は先述の通り「場所と経験」の主旨からすると比較的重要ではないのだが、「社会と個人」をテーマとする文章などと読み比べるときなどにはきわめて重要な概念である。

 例えば政経の授業で紹介される「想像の共同体」などという概念にも通ずるものとして、「幻想的」の意味合いも捉えておきたい。


場所と経験 3 対比図

 「部分」の解釈から入ったが、実はここでこの問題に決着をつけない。何度も繰り返すように、「部分」の解釈の妥当性は「全体」の解釈と相補的だからだ。

 一度「全体」解釈へ歩を進める。


 論の骨子を掴むためのメソッドは対比構造を明らかにするのが定番。

 いつものように、対比を構成する「具体例・比喩」「抽象語・概念語」「形容」をマークしていく。いくつか文中に挙がったら「ラベル」としてどの言葉がいいかを共有する。

 「場所と経験」の大きな対立構造を読み取ることは、それほど難しいことではない。文中に明示されているからだ。まず「幻想的な空間/感性的な空間」が対比され、続いて「均質な空間」が対比される。

 つまり、この文章は珍しい三項対立になっているのである。

 これは「情報流」の「プレモダン/モダン/ポストモダン」の三層対比とは違う。これは時間軸上で直線に並ぶ。だが「幻想的/感性的/均質な」はそれぞれが二項対立を作りうる拮抗した三項だ。

 そこでいつもの直線一本で対比軸を書くのではなく、Y字に三つの領域を区切って、そこに文中の語を配置していく。


 挙げるべき語句は、文中の重要と思われる語句、いわゆるキーワードとは限らない。ここを誤解してはいけない。

 例えば「人間」や「経験」などの語句が気になる。これらはいずれもこの文章を語る上で最重要のキーワードだが、そのままただちにどこかの領域に配置されるわけではない。これらは決定的に重要なキーワードである「場所=空間」が「幻想的」「感性的」「均質な」それぞれの形容を冠してどの分野にも属してしまうのと同じように、それ自体はニュートラルな語だといっていい。

 すなわち「人間」に対して「感性的」に直面することもできる一方で「均質な」空間にいるものとして捉えることもできるし、「感性的な空間」における「経験」もあるし、「幻想的な空間」における「経験」もあるのである。それぞれの例を文中から指摘することが可能だ。


 あるいは「知識」も目を引くらしく、皆がとりあげたがる語句だ。

 だがこれも「真に『知識』を持つこと」という形で「感性的」に配置できるものの、それは「擬似的な『知識』=もっともらしさ」との対比において初めて意味をもつのであるに過ぎない。つまり「知識」そのものをとりあげるよりも、それを「真」たらしめる条件の方が重要なのである。

 ここでも対比的なのは「真の/もっともらしい」という形容である。


 さて、上記「人間」「経験」「知識」が文中に登場するのは終わりの三段落だ。この部分の読解は、前半ほど容易ではない。

 まず、この三段落が同じ論理展開の反復になっていることに気づくだろうか?

 こうした把握には、段落を一掴みにする感覚が必要だ。一掴みにした感触が、次の段落、その次の段落とよく似ている。

 これができたら、三つの段落が相互に参照可能になる。

 「我々は多くのことを知らされ~」の段落では「均質」と「感性」の対比であることが見て取れる。とりあえずそのままその二つの語が文中に登場しているからだ。

 この対比を「私は『人間』について~」の段落にあてはめると、「理念」が「均質」に、「生きた他者」が「感性」に属することで対比を成すことになる。

 こうした読解は、前の段落の「均質/感性」という対比が明確に意識されていないと難しい。「生きた他者」も「理念」も、この言葉自体の意味合いが「均質」や「感性」といった言葉と結びつく妥当性はない。文脈の対比構造から「生きた他者」と「理念」がそれぞれ「感性」と「均質」に配置されることがわかるのだ。

 同じように「我々は日々多くのことを経験しているが~」の段落では「意味づけ」が「均質」に、「見たものだけを見たということ」が「感性」に属する。これも、三つの段落の論理展開が同じであると見なすからこそ可能な読解である。


 さて、文中にマークした語句を、先ほどのY字で区切られた領域にそれぞれ配置していく。これができれば、この文章の全体の構造が一望できる。



2021年6月22日火曜日

場所と経験 2 問題点の整理

 「その二つ」とは「家の周囲数百メートル」の円の①「内と外」か、②「外と外」か? ③どちらでもないのか?


 人数比はクラスによるが、皆の意見はそれぞれにバラける。

 こういうわかりやすい対立点があると授業が盛り上がって面白い。

 解釈の妥当性の根拠を巡って議論を繰り広げてほしいのだが、その前に、まずはそれぞれ、互いの解釈がそれなりに成立することを納得してほしい。

 そして振り返ってほしい。自分が考えたどちらかの解釈は、そうでない解釈との比較検討の上で選んだものではないはずだ。それぞれ自然に、ある一つの解釈が脳内に成立して、それで納得していたのだ。先に引用した解説書の執筆者もそうだったのだ(授業者もまた当然そうだった)。

 思い出してほしい。「永訣の朝」の冒頭で語り手が室内にいるのか庭先にいるのか、解釈が分かれたのも、それぞれの解釈は両者を比較して選ばれたものではなく、自然と一方の解釈がそれぞれの読者の頭に浮かんだのだ。

 我々は通常、他者の存在がなければ、それとは違った解釈が可能であることなど想像しない。

 授業者もまた、かつて授業でこの問いを発したときには、ある解釈をしていて、そうでない解釈をする生徒の答えを最初は一蹴していたのだ。ところがそうした答えが別のクラスでも相次いで提出されることで改めて考えてみて、初めてその解釈もにわかには否定できないことに気付いたのだった。

 授業という場でなければ、こうしたことが起こっていることに気づくことはなかった。

 他人と互いの考えを交換することで初めてこうした解釈の違いが表面化したのだ。


 文脈の中で「その二つ」と指示される対象は、「内と外」「外と外」どちらの解釈の可能性も排除できない。自分はなぜ「自然と」そのどちらかの解釈をして、なんら違和感を感ずることもなかったのか? 相手はなぜ違った解釈にたどりついたのか? 自分の解釈の妥当性を主張し、それ以外の解釈にはどんな不整合があるのかを、相手にどう説得したらいいのか?


 議論を進めると問題点がわかってくる。

 問題の箇所、

私は東京で計六回引っ越したが、どの土地も(A)住んだ家の周囲数百メートルにしかなじみがない。(B)それより先はよくわからないのだ。むろん(C)地図を見ればわかるし、頭ではわかっている。だが、その二つはすこしも実質的に結びつかない。歩いたことがなければ、場所を実質的に感じることはできないのである。

において、「その」といって指し示せる候補が文脈上、下線を付したABCの三箇所ある(それより遠くなってしまうと「その」という指示が曖昧になってしまう。だからちょっと遠い「幻想的」と「感性的」といった目立つ対比を指していると考えることはできない)。

 ABを指しているのだと捉え、Cをいわば括弧に括っておくのが「内と外」という解釈だ。一方「その」に近いBCを指していると捉えるのが「外と外」という解釈だ。

 どちらの解釈も、文脈上は成立する。


 クラスによっては①と②以外に③を主張する者が現われる。

 指示していると見なせる候補が三つあるのだから、組合わせは3通りだ。

 残る組合わせはACである。つまりA「なじんでいる円の内側」とC「地図でわかっている円の外側」が「結びつかない」というのだ。

 なるほど。


 それぞれの指示内容に応じて「実質的に結びつかない」のニュアンスが変わる。

  ①「内と外」では「繋がらない・連続しない」といったニュアンス。

  ②「外と外」では「重ならない・一致しない」といったニュアンス。

  ③「内と外」では?


 後に続く文脈はどうなっているか?

 続く「歩いたことがなければ、場所を実質的に感じることはできないのである」はBが「よくわからない」と言っていることを受けた説明だ。したがってABの組合わせでもBCの組合わせでも、後に続く文脈は成立する。

 ACの組合わせでは「歩いたことがなければ」Cの「わかる」がAの「なじんでいる」にはならない、と言っていることになる。


 これ以外にも考えられないわけではない。

AB

BC

 これらは一体どういう解釈だと考えればいいか?


 ①から⑤まで、それぞれに可能な解釈ではある。

 果たしてどう考えるのが妥当なのか? 柄谷行人は何と何を指して「その二つ」が「結びつかない」と言っているのか?


場所と経験 1 「その二つ」

 精読は先に「場所と経験」から行う。こちらで「枠組み」の見当をつけてから「無常ということ」に戻る。これは「である/する」のように、枠組みとして汎用性のある、シンプルで使いやすい用語が、「無常ということ」よりも「場所と経験」の方から抽出できるからだ。


 枠組みの抽出のために行うのはテキスト内情報の構造化だ。

 お馴染みの対比図づくりである。

 だか今回はこの前に、興味深い「部分」の読解から始める。


 取り上げるのは三段落の中頃の次の一節だ。

私は東京で計六回引っ越したが、どの土地も住んだ家の周囲数百メートルにしかなじみがない。それより先はよくわからないのだ。むろん地図を見ればわかるし、頭ではわかっている。だが、その二つはすこしも実質的に結びつかない。歩いたことがなければ、場所を実質的に感じることはできないのである。

 この中の「その二つ」とは何と何を指しているか?


 こういう時には頭の中で考えるだけでなく、必ず書かなければならない。

 単純な指示内容を問うているだけなのに、ここは複数の解釈ができる。皆の意見は一致していない。

 だが曖昧に考えたまま話し合いに入って主張の強い人の意見を聞くと、最初からそう考えていたかのように記憶を修正してしまうことが起こるかもしれないのだ(無意識の認知的修正=合理化!)。

 皆はそれぞれ、どう答えをまとめただろうか?


 黒板に円を描く。

 「その二つ」とは、円の「内と外」か? 「外と外」か?


 人数比はクラスによるが、皆の意見は必ずそれぞれに分かれる。それだけではなく「いずれでもない」という立場を主張する者もいる。


 かつてこの文章を収録していた二社の教科書の解説書は、それぞれ次のように説明している。

① 住んだ家の周囲数百メートル以内の感性的になじみがある場所と、それより先の地図では理解できるが、よくわからない場所。

② 家の周囲数百メートルから先の「感性的」に「よくわからない」空間と、地図上で理解した知識(地図を見て頭で理解している地理)。

 ①は「内と外」、②は「外と外」である。

 なんと、それなりに文章が読めるはずの人たちが、違った説明をしているのだ。

 こういうことは、大学入試の選択問題でさえ起こる。出版社・予備校によって、提示される正解が分かれる。


 さて、どう考えたらいいか?


2021年6月7日月曜日

「無常ということ」と「場所と経験」

 第1回の定期考査から第2回の定期考査まで、またいくつかの評論を数珠つなぎに読み比べていく。そしてその数珠は、ここまでの「自己論」ともまた無縁ではない(そして尚且つそれは後期に読む「舞姫」にもつながってくる!)。


 まずは教科書所収の、小林秀雄「無常ということ」を読む。

 さほど長くはない。といって長い文章の一部というわけではなく、これだけで完結している。

 戦時下の1942年に書かれ、長らく高校教科書に載り続けてきた文章で、授業者もまた高校時代にこれを教科書で読んだ。いわゆる「人口に膾炙(かいしゃ)した」文章である。


 とりあえず読む。

 おそらく、何のことやらわからないと感じるはずだ。

 少なくとも高校生の時の授業者はそう感じていたし、後に教壇に立ってこの文章を扱うようになっても、相変わらずよくわからない、と感じ続けていた。今も考えるたびに、こうかも、と思ったり、やはりよくわからない、と思い直したりし続けている。

 2013年のセンター試験の大問1に小林秀雄の文章が出題され、国語の平均点が過去最低になった。あまりに「わからない」文章を出題したことで世間からの批判も多かった。


 そもそも「完全な理解」などありえないのだし、「完全な無理解」もない(とりあえず日本語としては読める)。

 そうはいっても実際に「わかる」とか「わからない」とかいう感覚はある。その手応えを素朴に言えば、やはりこの文章は、高校の教科書などで読む文章としては相対的に「わからない」と感じる部類の文章に違いない。


 「わかる」とは、入ってきた情報が既存の認識構造に位置付けられるときに起こる感覚だ、というのが授業者の定義だ。

 予めある枠組み・型に、今わかろうとする情報をはめこむ。それに成功すると「わかった」という感覚がおとずれる。

 それは感覚だから、他人からはその位置付け・はめこみが不適切だと思われても、本人は「わかった」と感ずることもある。いわゆる勘違い・誤解だ。

 また、それは「わからない」状態に対する相対的な変化によって起こる感覚でしかない。「完全な理解」などないのだ。

 だから、「わかる」ことは必ずしも「正しい」ことを意味しない。充分であることも意味しない。

 ともあれ我々は、とりあえずは「わかる」ためにテキストを読む。その際、認識構造・枠組み・型が豊富に用意されていることと、情報の整理によってその型にはめこむ技術の総合力が、いわゆる読解力だということになる。


 小林秀雄の文章は総じてどれもわかりにくい。これは上の「型」が、にわかには見当つかないことと、文章中の情報の整理が困難なことによる。

 まず文章内の論理が追えない。あちこちに飛躍があって、どうつながっているのか、どういう関係になっているのかが掴めない。

 同時に、それを位置付けるべき枠組みが見当たらない。

 それは当然かもしれない。小林秀雄に言わせれば、既に読者がわかっていることを言っても意味はないのだから、自分が言っていることは読者が初めて出会うような認識なのだ、ということかもしれない。そうならば「わからない」のは当然だ。

 だが上にも言ったとおり「完全な理解」がないように「完全な無理解」もない。わかるとかわからないというのは程度問題であり、それはそこにかける思考の時間によって変化する相対的な感覚だ。

 可能な範囲で情報の整理を進め、同時にこの文章が位置付けられるべき枠組みが何なのかを探る。

 この、情報の整理と枠組みへの位置付けは相補的に機能するもので、それはよく言っている「全体」と「部分」の理解が相補的であることと類比的・相似形だ(ここでもそのモデルは入れ子状のフラクタル図形的イメージ)。

 文章内の情報の整理は毎度の「対比」などのテクニックを駆使して行う。

 そして枠組みを充実させるのが、読み比べである。


 授業者にとって、長らく「わからない」と感じられていた「無常ということ」が、いささかなりと「わかった」と感じられたのは、授業で別の、ある文章を読んでいた時だ。不意に、ここで言っていることは小林が「無常ということ」で言っていることと同じだ、と思ったのだった。そのいわゆる「腑に落ちた」感覚は、鮮烈な体験として記憶されている。

 その文章が柄谷行人の「場所と経験」である。


 戦前戦後を通じて小林秀雄が思想界に対して強い影響力をもっていたように、1980年代における柄谷行人はカリスマだった。後に東大総長となる蓮実重彦とともに、何か「別格」的な扱いだった。

 ただその文章は、文章の外部に対する参照事項が多く、同時に小林秀雄の文章に通ずるわからなさがあって、高校の教科書には載りにくいし、大学入試にも出題されにくい。正解・不正解が言えないからだ。ただ、時々「わかった」と思えたときの爽快感と、全体として「何だかこの人はすごいことを言っている」感がカリスマ性の源泉だった。

 「場所と経験」は、全体として文章の外部に対する参照事項が少なく、短く完結した、高校生にも読めなくはない、と感じられる文章であり、柄谷にしては数少ない、教科書に収録された文章だ。

 だが同時に、議論が抽象的に過ぎて結局のところ何が言いたいのかはわかりにくい文章でもある。

 この言い方は正確ではない。「わかりにくい」と感じていたわけではないのだ。ただ、振り返れば「それがどうした」という感じでもあったのだ。「わかった」という感じがおとずれた後になってみると。

 その感じは、「無常ということ」が「わかった」と感じたのと同時だった。

 つまり二つの文章は、互いに相手を、それぞれを理解させるための「枠組み」だったのだ。

 それは同時にまた、よりも大きな「枠組み」として、それ以外の文章を理解することに有効な「枠組み」でもある。


2021年6月6日日曜日

自律という虚構 -論述問題

 まとまった文章を書かせたい、と去年から言っていた。読み進めたい文章が目白押しで、なかなかタイミングがとれなかったが、今回思い切ってここに挿入する。

 第1回定期考査の大問3に出題した小坂井敏晶の文章は、1年の「国語総合」の教科書にも収録されていたので、みんなは初めて出会うわけではない。その、1年の時に読んだはずの「自律という虚構」から今回の論述問題を設定した。考査の問題は早稲田の入試問題であり、こちらは中央大法学部で出題された文章だ。

 どちらも、「近代的個人=自律した理性的主体」という考え方をひっくり返している点で、今年度これまでに読んできた「自己」論の流れを受けている。とりわけ西垣通の「情報流」や、考査大問2の同じく西垣の「個人とは何か」との相似は濃厚に感じられる。


 本文は、小坂井の専門の社会心理学の実験を例に、「合理化」という機制を用いて「自律した理性的主体」などという「個人」観が虚構であることが述べられている。

 設問①は、一つ目の実験から、人間が認知的整合性を維持するために行う「合理化」の論理を読み取り、それを二つ目の実験に応用する問題。

 「正解」が一つに定まるので、オリジナリティや発想のユニークさより、考察・論述の正確性・論理性が問われるタイプの論述問題だ。


 二つの実験に共通するのは、望まないことをさせられるというシチュエーションだ。

実験1 反対意見を書かされる

実験2 バッタを食べさせられる

 実験1では、被験者に渡される金銭的報酬が多い場合と少ない場合にそれぞれ、どういう論理で修正が起こりやすいと予想されるかが述べられた後で、実際には、少ない場合の方が修正されやすいという結果が示される。

 同じ論理を、バッタを食べる実験2における、味の印象の修正にそのまま応用する。

実験1  報酬が   多い←→少ない

実験2 実験者がA優しい人←→B嫌な人

 上のような対応関係をメモとして書き出せば、結論は明白。こういう図式化は大事だ。

 説明のための論述も、実験1についての説明を使って、対応する部分を実験2に置き換えればいいということに気づけば勝ちだ。

 ABが正しく選択されたうえで、説明の論理の的確さ・明晰さを評価しよう。

 Aを選んでいたら基本的には致命的だが、そこまでの説明が正しくて、AかBかの部分が、純粋にケアレスミスだと見なせるようならそれなりに評価してもいい。

 また「合理化」の機制について正しく理解したうえで、Aであることを充分に論理づけていると見なせれば、3点以下でそれなりに評価しても良い。

 逆にBを選んでも、その説明が不適切ならば不可とする。

 以下、解答例。


 「中略」部分の原文はこう。

 好きな人のためならかなりの犠牲を払うことも厭わないが、嫌な人のためには何の努力もしたくないのが人情。バッタを食べるのは気味の悪い経験だけれども、優しい実験者の頼みならば、彼に喜んでもらえるならば、努力のしがいもある。反対に、嫌いな人のためであれば、どうしてまずいものを無理して食べなければならないのか、なぜこんな人のために苦労するのか、理解に苦しむ。したがって、嫌悪感を覚える実験者に請われてバッタを食べた場合のほうが、好意を持つ実験者に依頼されて食べた場合に比べて矛盾が大きい。とすれば、バッタを味見したという事実は動かせない以上、矛盾を緩和するためには結局、バッタが思っていたほどまずくはなかったと思い込むほかはない。したがって、意地悪な実験者の条件の方がバッタの味の印象が向上する(という予想が立てられる。そして実験結果は実際そのとおりになっている。)

 「向上する」までで343字だが、ABの略称を使えばもう少し字数は少なくなる。

 使う言葉もあれこれ入れ替えて書き直してみよう。

 良い人のために嫌なことを我慢することに比べ、嫌な人のために嫌なことをしたというのは納得しがたい事実だ。バッタを食べるのは気が進まなかったが、Aならば、優しい実験者のために我慢したのだという納得ができる。一方Bの場合、そんな嫌な人のために、嫌なことを我慢したのだいうことになり、認知的不整合は相対的に大きくなる。そこで「我慢」したわけではないのだ、バッタは思ったよりまずくはなかったのだと、バッタの味の印象の方を修正して、認知的整合の回復を図るのである。したがって、Bの方がバッタの味の印象が向上する

 これで250字。


 設問②は①よりも解答の自由度が高いが、それでも書き手の独自性が問われるわけではない。本文の的確な理解と、明晰な論述が問われている点では①同様に、ある種の「正解」の方向性は決まっている。

 「合理化」を説明するのだが、当然「合理的」との対比を明確にすることが有効な手段であることを意識すべき。

 「原因と結果とが転倒している」を明らかにするように、という条件が難しく感じられたかもしれないが、実はそこを使わずに「合理的」と「合理化」の違いを説明しようとすると、同語反復的な、もやもやした説明になってしまう。合理的というのは理に適っている状態で、合理化というのは理に適った状態にしようとすることだ、などという。そりゃあそうだが、だから何だ?的な。

 最大のポイントは「原因」と「結果」がそれぞれ前の文中の何を指しているかを見極めることだ。

 原因→結果

 意志→行為

 上記の対応が「合理的」な状態。

 だが実際は逆の

 結果←原因

 意志←行為

 であるのを転倒させて、上の「合理的」な状態であると思い込む。そのような転倒を「合理化」と言っているのである。

 ここでも図示が有効。

 さらに設問は「合理化」とは何かを説明せよ、と言っているので、記述が、それを明らかにする方向に収斂しているかどうかも評価する。

 また条件として「実験などの具体例を用いずに」とあることにも注意。


 解答例1 (307字)

 ここでいう「合理的」とは、理性に基づいた「意志決定」が為され、それに基づいて「行為」を遂行している状態である。つまり「意志」が「原因」であり、「行為」が「結果」である

 だが実は、我々は外部からの影響によってまず「行為」し、それを理由づけるもっともらしい「合理的」な「意志決定」の過程を後から捏造しているのだ。とりわけその行為に何か矛盾が生じた場合、矛盾を解消しようと、意志決定過程についての認識に無意識に修正を加えてしまう。つまり「行為」こそ「原因」であり、「意志」はその「結果」なのである。だが、自律の感覚を保つため、因果関係を上記のように逆転して認識する。そのような転倒を、ここでは「合理化」といっている。

 

 解答例2 (239字)

 我々は合理的な「意志決定」に基づいて「行為」を為していると思い込んでいる。つまり「意志」が「原因」であり、「行為」が「結果」である。これが本文でいう「合理的」な行動モデルである。

 だが実は人間はまず何かをしてしまい、その理由を後から考える。つまり「行為」が「原因」で、その「結果」として「意志」による決定の過程が後から捏造されているのである。したがってここでいう「合理化」とは、記憶の中で「意志」による決定過程を修正して「合理的」に見えるように因果関係を転倒させることである。



 授業1回でやるには難しすぎる設問だ。時間が足りないだけでなく設問そのものが難しい。

 ただ、間に10分間の相談時間を設けたことで、「正解」を共有することはできるから、そこから後の各自の論述力が問われるように、と課題設定した。

 この10分間をいかに有効に使うか。問われるのは読解力や論述力、論理的思考力だけでなく、口頭での情報交換力、いわゆるコミュニケーション能力でもある。


 また、他人の論述を評価するという行為は、自分の論述を客観視することにもつながる、貴重な機会だったと思う。