ラベル メソッド の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル メソッド の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021年3月2日火曜日

最後の読み比べ 1 方法論

 「『である』ことと『する』こと」と「南の貧困/北の貧困」をひとまず読み終えた。

 今年度の最後は、重量感のあるこの二つの評論をつなぐ論理を見つけ出す。


 授業者自身がこれをやろうと思いついたきっかけは、昨年の終わり頃、偶然の機会があって内山節の「不均等な時間」を読んだことによる。特別にこれらを結びつける発想をすることがないほどに時期が離れていれば、それぞれはバラバラな問題を論ずる文章としてしか読まれなかったかもしれない。実際、2年前に2学年を受け持って「『である』ことと『する』こと」と「南の貧困/北の貧困」を授業で読んだときは、それぞれに「『市民』のイメージ」や「『贅沢』のすすめ」との読み比べはしたが、「である」と「貧困」を結びつける発想はなかった。

 だが今回、この後で授業で読む「『である』ことと『する』こと」と「南の貧困/北の貧困」を想起しやすい状態で「不均等な時間」を読んでみると、それぞれに共通する論旨を読み取れることに気づいた。ならば内山節を介して、すべてを大きな問題圏の裡にあるものとして捉え直せるのではないか?


 これまでの授業での読み比べ同様、まずは全体の感触として、それぞれの論旨がどのような位置関係にあるのかを掴む。そのうえで、どうしてそのような読解が成り立つのかを、それぞれの文章の一節と一節を対応させつつ語っていく。

 また、「『である』ことと『する』こと」と「『市民』のイメージ」「市民社会化する家族」を読み比べたときには、後2者を「である/する」という対比を使って読み解いたのだった。この方法は今回も使える。「不均等な時間」と「この村が日本で一番」を、「である/する」図式で読むのだ。

 そして内山節を介して「南の貧困/北の貧困」もあらためて「である/する」図式に落とし込む。


 だがこのような方法を漫然と実行するだけでは時間がかかりすぎる。本当は方法自体も模索させ、試行錯誤させたいのだが、その時間は残念ながら残されていない。

 ここまで繰り返し実行してきた考え方、読み方のメソッドは今回もまた有効だ。無意識に使えることこそ本当に技術が身についた状態だとはいえ、とりあえずは意識的に使うことを心がける。「問いを立てる」「対比」「抽象と具体の往復」など、1年間で実践してきたメソッドを思い起こそう。これらのテクニックを駆使して考えを進めていく。

 これらの考え方は、自分が考える上でも、班の議論のプラットホームとしても有効だ。あてもなく漫然とテキストをなぞってみたり、噛み合わない感想をポツリポツリと言い合うだけでなく、方法論を意識して思考や議論の方向性を明確にする。

  •  それぞれの文章の対比を確認しよう。
  •  それぞれの文章が「問題」としてとりあげているのは何か?
  •  上の「問題」は具体的にはどのような事態として現われているか?

 こうした、同じ型に沿ってそれぞれの論から要素を抽出して並べてみる。


2020年9月1日火曜日

ロゴスと言葉 1 -問いを立てる

 夏休み明け、第2回の定期考査前まで7~8時限、言語論を読む
 まずは教科書の「ロゴスと言葉」だ。

 「言語論を読む」と言い、「まずは」と言う。
 つまり最初からいくつかの文章を読むつもりなのだ。
 国語の授業は、教科書の文章を「教える」ものではない、と繰り返し書いて(言って)きた。「ロゴスと言葉」を「教える」つもりはもちろんない。みんなも「ロゴスと言葉」を理解することが目的だ、などと考えてはいけない(だがもちろん理解しなくてはならない。その都度、授業の場面場面では理解しようとしなくてはならない。ここらあたりの理屈は→)。
 今回の7~8回の授業も、どんな教材文を扱っても常に共通した目的であるところの「国語力増強」のためにせっせと文章を読んだり話し合ったりする。だがそれは「ロゴスと言葉」という文章を理解することが目的ではない。それは手段であり一過程だ。
 と同時に、いくつかの文章を読むことで、現代の言語学の基本的な考え方を理解することも目論んでもいる。それはそれで有益な知識であり認識である。
 だがそれは、一つの文章を詳細に解説されることで達成されるというようなものではなく、同じ考え方に基づいた文章を複数読み比べる方が、はるかに身につくものなのだ。
 「ロゴスと言葉」もそうした言語学の基本的な考え方の、一つの表れとして読む。

 まずは「ロゴスと言葉」を読む。
 授業ではまず「この文章は何を言っているか?」と聞いた。教科書を閉じておいて、隣の人に、この文章の内容を話しなさい…。
 これができることは、記憶力が高いということではない。
 何が書いてあったかを頭にとどめておくためには、理解と要約が必要である。画像のように字面を記憶したり、音声レコーダーのように文章を暗唱したりすることができる特殊能力者も世の中にはいるのだろうが、普通は理解していないことは覚えられない。だから情報を圧縮する過程で理解が促される。
 そしてそれを他人に伝えるときにはもう一度、圧縮した情報を解凍して、表現しなおさなければならない。
 つまり情報の圧縮解凍とは、国語における理解表現にあたる。
 その文章の内容を、テキストを見ずに他人に説明できる長さと適切さは、そのままその人の「国語力」を表わしていると言っていい。細かく、適切に伝えられる人ほど、国語力が高い。
 文章の内容を他人に伝えるというのは、最も簡便で最も効果的な国語科学習である。実際に他人がいなかったら、頭の中で思い返すだけでもいい。読み終わったらテキストを伏せる、というのがミソである。

 次は、読解のためのメソッドを使おう。
 まず「問いを立てる」である。この文章が考察している問題を疑問形で表わす。
 どのような「問い」が全体を最も包括的に捉えるのに有効かを考えるだけで、文章の読解に向けての考察は大きく前進する。適切な問いが立ったら、それだけで頭がスッキリする感覚が実感できるはずである。
 どのような問いが適切か?
そう考えてみるだけで有益だ。
 そしてこの文章について授業者は、これがとりわけ考えるのに手間のかかる作業とは思っておらず、答えるのがそれほど難しいとは想定していなかった。
 ところが授業ではここに思いの外、手こずった人も多かったのだった。
 授業では、誰が指名されるか、どのような順番で指名されるかによって展開に大きく変わるから、指名された一人目が的確な「答え」を出してしまえば、その問いの難しさは明らかにはならない。ところが多くのクラスで、この問いの適切な「答え」が出るまでには、案外に何人かを指名することになってしまったのだった。
 みんなが立てた問いは、部分的すぎたり、「答えがYes-Noになる問い」だったり、問いよりもむしろ答えであるべき内容に無理矢理疑問形を付け加えたものだったりした。
 たとえば「ロゴスとは何か?」という問いを立てた者は多かった。おそらく詳細な読解をしていない現状で、「ロゴスって結局何のこと?」というような疑問がもやもやと胸にあるのだろうという感じはわかる。
 だが、この文章はそれを明らかにしようとしているだろうか?(ちなみにこういうのが「答えがYes-Noになる問い」である。文末の疑問形は反語だ。「いや、していない」という否定が続くことが最初から含意されている)。
 題名の「ロゴスと言葉」を手がかりに問いを立てるとしても、次の二つの問いのどちらが適切かは考えればすぐわかるはずである。

  • 「ロゴス」とはどのようなものか?
  • 「言葉」とはどのようなものか?

 この文章は「ロゴス」という聞き慣れない言葉を読者に向けて解説したり、その概念について筆者自身が考察したりすることが、全体の目的になっているだろうか(いや、なっていない)。そもそも「ロゴス」という言葉は最初のうちしか出てこない。「ロゴスとは何か?」という問いが適切であるかどうかは、考えればすぐわかるはずである。
 「ロゴス」は「言葉」のはたらきを説明するための切り口の一つとして用いられているのであって、いわばこの評論にとっての手段である。目的ではない。
 それよりも「言葉とはどのようなものか?」という問いは、この文章全体を貫く問題意識であり、各部分、そして結論がそれぞれこの問いに対する「答え」を提示しようとし続けていることは、そう思って全体を思い返してみればすぐに実感されるはずだ。
 この、そう思って全体を見直してみたときスッキリ感を実感してほしい。

 さて、大きな問題意識は明確になった。だが今すぐに「言葉とはどのようなものか」が適切に説明できるわけではなかろう。部分的には答えられる、本文のフレーズをそのまま引用することはできる、が、それどういうこと? とさらに突っ込まれたらそれ以上に説明をすることはできない、というのが現状だろう。
 さらに読解を続ける。

2020年6月16日火曜日

ミロのヴィーナス2 -対比を考える

 初回の授業はまだ続いている。

 ではこの文章はどのような「対比」で論が立っているか。
 それぞれに思い浮かべた「対比」があるはずである。だがここにもう一つの問いを付け加えてからグループワークだ。

  • 先の問い「腕のないミロのヴィーナスはなぜ魅惑的か?」に、すでに二つの「対比」要素が潜在している、それぞれ何か?

 様子を見ていると、各班で誰かが気づくようだ。
 「ある/ない」「腕以外(鼻・眼…)/腕」である。

 「ある/ない」の対比はこの文章全体を貫く対比だ。以前書いた「ラベル(見出し)」となる対比である。
 「ミロのヴィーナス」は全体が大きく三つに分けられている。このうち、いわゆる大段落でいえば、一つ目の段落は「ある/ない」の対比に基づいて論じられている。「ない」ことがミロのヴィーナスの魅力の源泉なのだ、という主旨はここで既に結論まで述べられてしまう。
 そして「腕以外/腕」の対比に基づいているのが三段落だ。欠落しているのが腕であることの意味が論じられる。
 では二段落はどのような対比によって立論されているか?
 これはなかなか難しく、面白い問いである。

 二段落はミロのヴィーナスの復元案に対する筆者の見解が展開されている段落だ。この考察はどのような対比によって立論されてるか?
 文中には対比要素が、それとわかるようには並んで出てこない。対比の片方があるから、それが何と対比されるかを考える、というのがヒント。

 この問題提起をするところまでが1回目の授業だ。クラスによって多少のばらつきはあるものの、おおよその進度は揃えた。
 以下は続く2回目の授業だ。

 実は二段落にも、あからさまな対比表現や対義語がないわけではない。まずはそれを挙げるよう指示する。次の二つの対比を文中から指摘できる。

  • (の変化)/(の変化)
  • 限定されてあるところのなんらかの/おびただしい夢をはらんでいる

 対比項目を関連させる便宜のため、対比の記述では左に否定的項目、右に肯定的項目を置く(黒板では縦書きなので上下に並べる)。
 後者は明白に全体の対比「ある/ない」の対比。既に「空白の意味」との対応を指摘する展開でも取り上げられていた表現だ。
 「量/質」の対比は「量の変化ではなくて、質の変化である」という文型によって示されている。「AではなくB」という文型は「A/B」という対比を表わす典型的な文型だから、常に注意しておく。Aを対比として取り上げることでBを明確にしようとしているのだ。
 だが「量/質」の対比がどのようなものかを納得するのは難しい。「部分」の解釈に踏み込む必要がある。
 そもそも次の一節は考察に値する「部分」として取り上げたいところでもあった。
ここで問題となっていることは、表現における量の変化ではなくて、質の変化であるからだ。表現の次元そのものが既に異なってしまっている時、対象への愛と呼んでもいい感動が、どうして他の対象へさかのぼったりすることができるだろうか?
 取り上げるべき「部分」は一、三段落にもいっぱいあるので、ここは二段落の対比を捉えるために、この「部分」だけここで取り上げて考察してしまう。

  • 「量の変化」「質の変化」とはそれぞれ何か?

 いったんはグループワークにしてみると、この「部分」の説明の難しさが実感できるはずだ。

 そもそも、「変化」とは何か? 何に伴う「変化」なのか?
 ほんの確認程度である。
 だが解釈は二通りある。一つは復元に伴う「変化」、つまり「ない→ある」「量/質」それぞれにもたらす変化のことである。もう一つはそもそもの欠落によって生じた「ある→ない」の変化のことである。文脈上はどちらとも確定しがたく、筆者もどちらかを限定して指しているとも思われない。「ある/ない」を比較してその差を「変化」と言っているだけだとすれば、別に方向は問題ではないからだ。
 以下は説明の便宜上、復元に伴う「ない→ある」の変化の場合で説明する。
 腕の復元はどのような「量/質の変化」をもたらすか?

 何の「量」、何の「質」なのか?
 石膏か大理石の重「量」? 体積?
 だがこれでは「質」には対応しない。いや、とりあえず「量」がこうであることだけを認めることはできないか? それもだめだ。復元案は「量の変化」を良しとする立場である。それは重量や体積の増加を良しとしているわけではない。
 「量の変化/質の変化」に「表現における」という形容がついていることと、「有」に「それがどんなにすばらしいものであろうとも」という形容がついていることがヒントだ。
 「表現における量」とあるから「表現の量」? だがそんな怪しげな日本語のまま放置せずに、明確にするため言い換えよう。

  • 「表現における『  』の量/質」の『  』に入る語は何か?

 「情報」「美しさ」「感動」などが挙がればよい(平均してどのクラスもこれらが挙がる)。これらの言葉を代入して「量の変化/質の変化」を説明する。

 復元は、表現における「情報」「美しさ」「感動」の「量の変化」をもたらす。復元前には「量」的には0なのだから、基本的には増加である。それは「素晴らしい」場合には肯定的要素の増加だ。
 だが同時に「質」にも変容をもたらす。筆者的にはこちらが「問題」だというのだから、平たく言えば「無」から「有」に変化することで、「情報」「美しさ」「感動」は「量」的に増え(「すばらしい」場合には)、「質」的に低下するのである。
 「量」は多寡(多いか少ないか)で言えるので簡単だ。問題は「質」の変化である。「質の低下」をどのように形容するか?
 「有」の「情報」は、そこにあるその腕が持っている情報である。
 一方「無」が「情報」を持っているとは奇妙な表現だが、筆者の言う「多様な可能性の夢」「おびただしい夢」とはつまり、自分の中に探り当てられ、そこから湧き出てきた「情報」である。あるいはそうした情報を引き出す情報の空虚としての「情報」である(逆説的な表現!)。そして当然「有」になれば、そうした「質」の「情報」は失われるのである。
 こうした「質」に対比的な形容を加えてみよう。例えば、「ある」ことの「情報」「美しさ」は固定的であり、「ない」ことの「情報」「美しさ」は自由である。
 文中から形容を探すなら、「ない」ことの「美しさ」は「神秘的」だが、「ある」ことのそれは現世的(?)である。
 D組のK君からは、「ある」ことの「美しさ」は見る側が「受動的」に受け止めるものだが、「ない」ことの「美しさ」は見る側が「能動的」に見出すものだ、という表現が提案された。見事な対比である。
 こうした「情報」「美しさ」「感動」の性質の差が「表現の次元」と表現されている。「量」よりも「質」の方が高次元だというのである(平たく言えば)。

 「量の変化ではなくて、質の変化である」とか「表現の次元」とかいう尤もらしい言い方で、しかし言っていることは読者にもなんとなく伝わる、という一節を、分析して述べれば上記のようになる。
 もちろんこんな表現は詩人らしい含みのある言い回しだなあとでも思って読み流せば良いのだ。一読者としては。
 だが国語の学習だと思ってこんなふうに考えていくと、思いの外すっきりと腑に落ちるような感じがするのも悪くないはずだ。

 さて、回り道をしたが、もともと二段落から読み取りたい対比はこれではない。だが同時に「量の変化/質の変化」は直截的に「ある/ない」に対応しているとも言い難く、むしろこれから捉えようとする対比に連なっているのだった。

 上の二つのようにあからさまではない対比要素を探す。もう一方が文中にないが、おそらく対比の一方ではないかと思われる表現を挙げる。
 文中から対比要素として挙げるべき語は「抽象語」「具体例」「形容」である、といった復習もしておく。
 ここからは皆が挙げてくる対比要素によってクラス毎に展開が変わる。
 考えあぐねるようなら、文中の具体的な言葉ではなく、二段落がどういう考え方・主張・姿勢・立場の対立かを考えよう。言葉を文中に探すよりも、全体を大づかみにする思考だ。

 二段落の対比とは基本的に「復元を企図する立場/復元を拒否する立場」の対立である。これは一段落には出てきていない対立要素だ。
 復元すれば腕は「ある」ことになるのだから、これも大きく言えば「ある/ない」の対比に連なるとはいえる。また、復元は「量の変化」を良しとすることであり、復元を拒否することは「質の変化」を拒否することだ。両辺が何に注目しているかでいえば、「量/質」もまたこの対比に連なる。
 こうした立場の違いが、二段落ではどのようなものとして論じられているか?

 例えば次の語が文中から挙げられる。
  • 真の原形/?
  •  客観的/?
  •  実証的/?
  •    ?/芸術
 これらが揃って皆から提出されるとは限らない。「客観的」「実証的」は粘れば誰かが発見するが、「芸術」はこちらで挙げてしまって皆に考えてもらう。
 これらの対比を補おう。「?」にはどんな表現が補完できるか?
 「真の原形/?」は「限定されてあるところのなんらかの有/おびただしい夢をはらんでいる無」の言い換えだ。
 こうした「ある=原形」を復元する試みが、例えば「客観的」「実証的」に行われるのが復元作業である。
 「客観」の対義語として「主観」を想起することは容易。
 「実証的」の対義語ははっきりしない。「理論的」「思弁的」などの語が対義的に用いられる場合がある。「形而下的な現象に基づく」に対する「形而上的な思弁に基づく」の意味である。だがここでの「実証的」を「客観的」に合わせて解釈するならば、対義語は「主観的」の意味合いに近い、「感覚的」「直感的」くらいでいい。文脈上は「実証的に、また想像的に」とあるのを対比として捉えてもいい。その場合「想像的」も候補とする。
 復元案は「真の原形」を「客観的」「実証的」によみがえらせようとする試みである。それが「どんなにすばらしいものであろうとも」これを拒否するのが筆者の立場だ。
 とすれば筆者は「おびただしい夢」をいかに見るか。すなわち「主観的」「感覚的」「想像的」にである。
 そしてそうした立場を表わすのが「芸術」である。
 「まさに、芸術というものの名において(真の原形を否定したいと思う)」という一節はこれもまた考察したい「部分」ではある。これもこの「対比」の流れで考察してしまう。
 上の展開で既に「芸術」が挙がっていれば良い。だが対比要素としてまだ挙がっていなければ、「主観的」「感覚的」に「おびただしい夢」を見ることを支持する立場を表わす言葉を文中から挙げよ、と訊けば、「芸術」が挙がる。
 それに対して問う。
  • 「芸術」は何の対比か?
 「客観的」「実証的」な復元を目指そうとする立場として、例えば「考古学」が挙がれば良い。「~術」に揃えるなら「学術」も考えられる。
 なかなか挙がらない場合は「 ~学」「~術」とヒントを出せばそのうち考えつく(「歴史学」「科学」なども挙がる。悪くない。復元チームにはそういうメンバーももちろんいよう。炭素同位体による年代測定も行われるかもしれない。芸術家だってメンバーにはいてもいい)。

 先の対比を、上の考察にしたがって補完してみよう。

  •      ある/ない
  • 復元を企図する/復元を拒否する
  •    真の原形/おびただしい夢
  •       量/質
  •     客観的/主観的
  •     実証的/感覚的・想像的
  •  考古学・学術/芸術

 左辺を対照として、筆者が右辺の立場の支持を表明するのが二段落だ。

 同一軸上に連なる対比要素を挙げたら、最終的に左辺、また右辺で通して見直すことが重要だ。これらの対比要素をひとつながりの文として書き下すのである。
客観的・実証的原形を復元しようとする考古学的手続きは「量」の増加を良しとする立場であり、一方筆者は、主観的な想像によってを見ることができるヴィーナスの美しさの「質」の変容を、芸術の立場から拒否する。
 こうした書き下しは難易度が高い。だがこうして通観したときの腑に落ちる感触は是非味わってほしい。

2020年6月12日金曜日

ミロのヴィーナス1 -全体を捉える

 ブログ開設以来ここまで、休校中の特別措置ということで全体に語りかけるという体裁をとろうと、慣れない敬体で書いてきたが、ここからは授業の進行と並行して、授業の記録及び考察の整理のためにという、私的な目的が強くなるので、通常運転の常体に変える。
 もちろん公開はしているので誰でも読める。欠席者や、授業時には個人的に考え事をしていてボーッとしていたとかいう事情で授業内容を振り返りたい人など、積極的に読んでほしい人もいる。とはいえ、まあそういう人よりも、読むとしたら授業中にも積極的だった人だろうとも思う。
 さらに、こちらがクラスによって言い忘れたりしていることもなるべく書いておく。
 また、別のクラスで提出されたアイデアの交換にもなるはずだという期待もある。

 休校明けの最初の教材は「ミロのヴィーナス」。
 休校中に「ホンモノのおカネの作り方」「少年という名のメカ」と、評論→小説の順に扱ってきて、この後で定番の「ミロのヴィーナス」か「山月記」かという選択だったので、同じパターンを踏襲して、評論→小説にしようとしただけだ(ということでこの次は「山月記」)。
 だが始めてみると、ここまでのブログでの読解で使ってきたメソッドが意外と使えることに気づいて、「ミロのヴィーナス」を取り上げた偶然を幸運だと思わされる。

 読解のための作法は、文章の全体を見ることと部分を見ることを交互に関連させながら、それぞれの考察結果を互いにそれぞれの考察に活かすように進めていく、というのが常套手段だ。
 この文章は何を言っているんだろう? と、文章全体に意識を向けるか、ここの一節は何を言っているんだろう? と部分的な表現に意識を向けるか。
 ここでいう「全体」というのはその文章の主旨や、論の構成、そこで論じられている問題の社会的な背景などを指す。
 「部分」というのは、局所的に読みが滞ったり靄がかかったような印象があって、一読して腑に落ちるとは言い難い一節のことだ。
 「ミロのヴィーナス」という文章は「全体」と「部分」、どちらが難しいか?
 そう問えば誰もが思い当たる。「全体」よりも「部分」の方が圧倒的に手こずるはずである。「全体」として何を言っているかは一読してわかる。共感できるとは言い難いが、とりあえず主旨は読み取れる。
 そこでまず「全体」を問う(註)。導入にまず易しいところから入る。

 とはいえいま言ったとおり、この文章の主旨はあまりに明らかである。それを20字以内で簡潔に表現せよ、などという問いも悪くないが、その前に少々ひねる。教科書に収録されている「空白の意味」(原研哉)を読み比べるのである。
 二つの文章を読み比べて、次の2点について考えをまとめるように指示する。

  • 二つの文章で対応する表現
  • 二つの文章に共通する主旨

 ここからは初のグループワークだ。「主旨」は上記の通り簡単だが、「対応する表現」はさまざまな箇所を挙げうるから、それぞれの見つけたところを交換する。
 班での検討の後は発表だが、とにかくあちこちが挙がる。クラスによって様々な箇所が発見される。
 「可能性」は共通して文中に登場して「対応」する語である。
 「対応」のわかりにくいものは応答によって明らかにする。皆の言う引用が長いと、どこが「対応」しているかわかりにくい。
 例えば

  • 「ミロの…」  おびただしい夢をはらんでいる
  • 「空白の意味」 未来に充実した中身が満たされるべき機前の可能性

 が対応している、というような意見が出される。ぼんやりと、そうだとは思える。だがどこがどう「対応」しているのか?
 そこで、短く切って、何と何が「対応」しているかを明らかにする。
 「おびただしい夢」「機前の可能性」が、「夢をはらんでいる」「未来に充実した中身が満たされるべき」が対応しているとすれば「」は? 「空白」「」である。さらに「ミロの…」では他に「欠落」「失われた」があり、「空白の意味」では「省略」の語がある。
  • 「ミロの…」  存在すべき無数の美しい腕への暗示
  • 「空白の意味」 空っぽの器に~何かが入る「予兆」
が挙がった時にはこちらがハッとしせられた。「暗示」と「予兆」!

 また、皆から挙がらなかったもので、こちらから一方を挙げて考えさせたものもあった。
 「空白」の「イメージ」に対応する語を「ミロの…」から挙げよ、という問いは難易度のちょうど良い問いのはずだ。
 「イメージ」の日本語訳としてしばしば用いられる、などとヒントを出しながら、候補をどんどん挙げるよう指示すると、「想像」「夢」など、悪くない対応語が挙がり、誰かが「心象」にたどりつく。
 この問いはむしろ、最初のクラスで「イメージ」「心象」の対応を指摘した生徒がいたので、後のクラスではこちらから問いかけたのだった。

 さて「主旨」は「ない方がかえって想像させるので良い」くらいの捉え方で良い。数人にきくと、結局は趣旨は同じだが、それぞれに違った表現で語られるところが面白い。
 すぐに既習のメソッド二つを応用する。「問いと答え」「対比」だ。これもグループワークである。

  • 全体を捉える「問いと答え」はどう表現できるか?

 「問い」の形そのままの表現は文中にはない。上の「主旨」が「答え」になるように「問い」を設定するのである。
 抽象的な表現で、本質的な問題を問おうとする者もいる。それよりも「ミロのヴィーナス」という言葉を「問い」に入れて表現してみよう。
 例えば「ヴィーナスは腕があった方が良いか、ない方が良いか?」という問いは、前に触れた「イエスorノーで答えられる問い」と同じように、益が少ない。二択のどちらかを本気で検討しているような文章ならいいが、この場合は結論は明らかだからだ。
 「ミロのヴィーナスはなぜ魅惑的か?」はシンプルで良い。ただ注意が必要だ。「腕がないから。」が答えになりかねない。
 もちろん「腕がないことによって、さまざまな想像の可能性がひろがるから」という「答え」なら良い。
 「問い」の方に「腕がない」を入れてもいい。

  • 問い 腕のないミロのヴィーナスはなぜ魅惑的か?

 これなら先ほどの「主旨」がそのまま「答え」になる。

  • 答え ないことでかえってそれを想像させるから。

 こうした考察は、結論を聞いてしまえばあまりに当たり前で、そりゃそうだという以上の発見はないだろうが、問題は生徒一人一人がそれを形にすることには、それぞれにいくらかのハードルはあるということである。
 それなりに考える必要があるということは学習の機会になるということだ。これを聞いて「わかる」ことが学習なのではなく、これを自分で形にすることが学習なのだ。

 ここまでは難易度がそれほど高くないことから、お互いのコミュニケーションの機会として、年度初めにはちょうど良かった。
 だが2回目以降はどんどんハードルが上がる。


 文章を前から読み進めていくようなタイプの授業では、段落毎に「部分」を検討しつつその段落の内容をまとめ、最後の段落まで読んでから「全体」をまとめることが多いだろうが、筆者の授業では基本的に、前から順に内容を「まとめる」といった手順をふむことがない。最初から、考えるに値すると思われる問いを提示する。
 むろん、前の段落から順に「まとめる」ことが「考えるに値する問い」であるならばそうすることもある。それはつまりこちらが「まとめる」のではなく、皆に「まとめ」を問うということだ。
 みんなからすれば、こちらの「まとめ」を聞くまで待つのではなく、必ず自分で「まとめ」ようとしなければならないということだ。

2020年5月27日水曜日

少年という名のメカ 5 -対比・大きな問い

 「小説」を「物語」としてではなく「小説」として読むためには、メタな視点が必要です。
 そこで、予告の通り、「対比」と「問い」を上げてもらいました。

 「対比」については、たちまち複数の同じ回答が上がってしまったのですが、それはその通り、そうです、こちらの想定通りです。
対比 メカ少年/少年
  この対比から導き出される「問い」もまた、やはり想定通りに上がりました。
問い 「少年」とは何か?
この「対比」と「問い」の関係は、「ホンモノのおカネの作り方」と相似形です。
対比  メカ少年/少年
問い  「少年」とはどのようなものか?
       
対比  ニセガネ/ホンモノのおカネ
問い  「ホンモノのおカネ」とはどのようなものか?
「ホンモノのおカネの作り方」では、ニセガネ作りたちの失敗を通して、「ホンモノのおカネ」とは何かを考えているのだ、と整理できたのでした。同じように「少年という名のメカ」では、メカ少年の存在を通して「少年」という存在を浮き彫りにしているのだ、と考えることができるのです。
 メカ少年は、いわば「反『少年』」です。「アンチ『少年』」です。
 メカ少年の振る舞いは「…したりはしなかった。」と否定形で語られます。それはすなわち、逆にそれをする者としての「少年」の姿を彷彿させるのです。
 「少年」は主(あるじ)によって、おかみさんによって、少女によって、物語の語り手によって、様々に語られます。それはいわゆる「あるある」の楽しさに満ちています。「あるある」ネタは漫才などのギャグのパターンとしても最も有力な様式の一つです。この、いちいち思い当たる羅列がこの小説の面白さのひとつです。

 このように浮かび上がる「少年」とは一体なんでしょうか?

 …と問いかけたところ、後半でS君が「これは『少年』ではなく『少年らしさ』を表しているのではないか」と言ってくれました。前半でもM君が最初から「問い」を「少年らしいとは何なのか?」と表現しています。
 確かに問題は「少年らしさ」です。「少年」はどうやら個体ではなく、「あるある」というのはそもそも複数の個体の共通属性です。それらに見られる典型・ステレオタイプが問題なのです。

 こういうとき、小説の読解においては、こうした「らしさ」としての「少年」をどのような言葉で捉えるでしょうか? という問いに対してはA君が「象徴」という言葉を上げてくれました。Yさんも「『少年』と『メカ』はそれぞれ何を象徴しているのか?」という言葉で「問い」を表現していました。
 そうです。問題は「『少年』とは何の象徴か?」と表現されます。

 少々脇道に逸れると、授業者は「メカ少年」は「反」であることによって「少年」を浮かび上がらせるだけだと捉えていたのですが、「メカ」の象徴性についても問うているYさんの問いに、別のYさんの見解を接続させると、この設定は「この世界で様々なものが自然から機械に移行していく様子と通ずる」と捉えることができます。
 なるほど。人々の心のケアも、機械化された商品、テクノロジーの進歩によって解決しようとする、我々の世界が「象徴」されているのだ、という捉え方は、この小説の「読み方」として、ひとつ腑に落ちる解釈です。

 閑話休題。「少年」です。
 象徴とは、それをそのものではなく、別の何かであると見なす、という約束のことです。「何か」は基本的に抽象概念です。
 ある文脈において、鳩は鳥ではなく「平和」を、天皇はある個人ではなく「日本国」を表していると見なす、という約束が了解されているとき、鳩や天皇は「象徴」です。
 「少年」は何の象徴でしょうか?

 先ほどの「特許出願中。」についての考察において、たびたび、そこまでの「世界観」は「物語」的だ、という語られ方がされてきました。
 これは読者誰もがすぐに感ずることです(感ずることを言葉にして表現できるということが重要なのですが)。
 どのような「物語」と言えばいいのでしょうか?
 メディアの種類で言えば、ゲーム(RPG)、アニメ、小説(ラノベ)、マンガ…。
 ジャンルで言えばファンタジー、SF…。
 様々な設定や描写が、老夫婦や少女のいる世界が、これらのメディアによって語られるこれらのジャンルの「物語」であることを示しています。村の入口にある家にいて、「…じゃ。」という口調で語る、パイプを咥えた老人はどうみてもゲームにおける「村人」です。「エプロンで手をふきふき出てきたおかみさん」「悲しそうな目をした少女」などという形容もステロタイプです。「戦闘機らしき乗り物」などという形容は、その設定の大雑把さを皮肉っているようにも見えます。

 そのように作られる「物語」的世界における「少年」とは何を象徴しているでしょうか?

 さて、後半組では、話はここで終了だったのですが、前半組ではこの問いに対してS君の的確な答えが提示され、それを受けてYさんがあまりに見事にこの小説を解釈しきってしまいました。
 まさかそのタイミングでそのようにこの問題が「解決」してしまうとは思わなかったので、びっくりしました。

 明日、プレ講座も残り1回、後半組ではこの「解決」とその先へ向けて、前半組でももう一つの「解決」へ向けて考察を進めたいと思います。

2020年5月16日土曜日

少年という名のメカ 2 プレ講座の準備2

 前回、プレ講座「準備1」では「少年という名のメカ」という小説を教材として取り上げ、「小説の読み方」を考える、と予告しました。
 しかし「どう読んだら良いのか」などという問いは抽象的すぎて、みなさんにとっては考えるための手掛かりがほとんどないはずです。

 たとえば評論読解のためのメソッドは、小説読解にも使えるでしょうか?
 たとえば問い答えのセットを考える」は?
 おそらく直ちに思いつくであろう「問い」、

  • 「少年という名のメカ」の正体は何か?
  • 「少年という名のメカ」はなぜ作られたか? 目的は何か?

 などはもちろん重要な謎として物語をひっぱっていますが、この「答え」は小説中で明かされています。それを読んだ上で「だから何?」と感じているわけです。

  • 「主」や「おかみさん」「少女」はどのような気持ちだったのか?

 などという「問い」もむろんどうでもいい。

 これらの「問い」が有効に働かないのは抽象度の設定が不適切だからです。
 「この小説をどう読むか?」という問いは抽象度の階層が高い問いであり、そのレベルを問題にするには、問いの抽象度を上げる必要があります。
 といって「この小説をどう読むか?」はそもそも高すぎて焦点が絞られず、手が出ない。つまり上の「どうでもいい」問いよりも抽象度を上げ、なおかつ考えるべき焦点の定まった問いを設定する必要があるのです。
 うーん、これでもまだ難しいでしょうねぇ。「問い」を考えることは「答え」を考えることより難しいことが多いのです。やはり。
 とりあえず、ポイントは「問いの抽象度です。

 では「対比」は?
 実はすぐ目の前に明らさまな対比があります。明白なので、考えてみればすぐに思いつくかもしれません。思いつかないとすれば盲点に入っているだけです。言われてみれば「ああ、そうか」なはずです。
 この対比は上の「問いと答え」にも関わります。「ホンモノのおカネの作り方」でも、重要な対比がそのまま中心的な「問いと答え」に密接に関わっていました。同じように「少年という名のメカ」はどのような対比によって、何について語っているのでしょうか?

 最初は評論読解のためのメソッドは、今回の小説読解には使えないだろうな、と予想して、使えないことを書くつもりでいたのですが、上のように考えているうちに、それなりに使えるような気がしてきました。
 よし、この方向でも考察を展開していきます。

 さて、当初の思惑としては、「ホンモノのおカネの作り方」でもやった「部分的な表現を考える」でいくつもりでした。
 どこ?
 言うまでもないでしょう。末尾の一文「特許出願中。」です。
 何これ?
 誰もが素朴にそう思うはずです。
 だからといってもちろんこれもまた「~とは何か?」では埒が開きません。「逆説」「ホンモノの形而上学」で考えたように、問いを組み直す必要があるのです。

 頭の体操に、最初に取り上げようと思っていたのは34頁の「主」とメカの、おかしなやりとりです。これについてはこちらから「問い」を提示します。

  • このやりとりの「おかしさ(奇妙さ、変さ)」はどこから生じているか?
  • このやりとりからどのようなことがわかるか?

 これらの問いの「答え」を考えてください。

 上で提示したいくつもの問題は、いずれも事前に考えてほしい事柄です。授業時に初めて考えるのでは、3時間で想定した内容を扱うことはできそうにないからです。
 そして授業ではこれらを「教える」わけではありません。そのように「教える」内容に価値があるわけではないからです(もちろん最終的にはこちらの考えは明らかにしますが)。

 そして可能な限り自分なりの「答え」を書き出しておいてください。ノートにではなくテキストエディタやワープロで、テキストファイルにしておいてください。授業における「発言」を、チャットへのテキスト入力で代替しようと考えています。その時には、手元のテキストのコピペで済むのが効率的です。
 もちろんその時に思いついたら、音声で答えてくれてもかまいません。

 考えるべき優先順位は、上に述べた項目の後の方ほど高いと考えてください。つまり、

  1. 34頁の会話
  2. 特許出願中
  3. 対比
  4. 問いと答え

 の順に「答え」を考えておいてください。

2020年4月25日土曜日

ホンモノのおカネの作り方 9 -対話3「対比を探す」

 前回に続いて対話の試み。
 さらにこの生徒は「対比を探す」にも、応えてくれています。

【具体例】
  ニセの二分判金⇔預かり手形
【形容・性質】
  ホンモノに似ている⇔ホンモノには似ても似つかない
【抽象語】
  ホンモノの形而上学⇔逆説

 既に自分でも考えてあったみなさん、どうでしょう? 一致していますか?
 この中で「抽象語」に挙げられた対比「ホンモノの形而上学/逆説」は、私には全く予想外でした。そして、初見では「要約」同様、この対比に強い違和感を感じました。そしてなおかつ、考えてみて、この生徒がこれを対比として挙げた理由が納得されてきました。

 本当はこの後は皆さん同士の対話を経てから続けたいところなのですが、この機を逃すのは惜しいので、もう少し続けて、私自身の考察を明らかにします。

 私の想定していた「抽象語」の対比は「ニセガネ/ホンモノのおカネ」でした(そりゃそうだろ、とツッコんでほしいところです)。
 これは「水の東西」の「自然/人工」に比べ抽象度は低いのですが、「具体例」の「砂土原藩の二分判金/両替屋の預り手形」よりは抽象的です。もともと「抽象語」「具体例」「形容・性質」という分類は前回述べたように厳密なものではありません。発想の手がかりに分類を示しているだけで、何がどれであってもかまいません。
 この文章が「ニセガネ/ホンモノのおカネ」を対比した文章であることはすぐに読み取れます。そこでまずこれを「ラベル」として置き、この対比に他の対比を揃えようと考えていました。
 そしてそこに「ホンモノの形而上学/逆説」という対比は、全く発想していませんでした。
 「形而上学」と「逆説」は、言葉自体はまったく対義語でもなんでもありません。とはいえ文中の「対比」が、一般的な対義語であるとは限りません。筆者がその文中で対比的に使っている言葉を「対比」として取り上げるのです。この文中で「形而上学」と「逆説」が対比的であればいいのです。どうでしょう?
 そう思って本文を読んでみると、次の一節が見つかります。

すなわち、ホンモノの「代わり」がそれに「代わって」それ自身ホンモノになってしまうというこの逆説の作用こそ、太古から現在までホンモノのおカネというものを作り続けてきたのである。だが、あのニセガネ作りたちを支配していたのは、この逆説とは逆の、ホンモノのおカネがホンモノであるのはそれがホンモノの金銀からできているからであるという「ホンモノの形而上学」であった。(52~53頁)

 ここでは「だが」「逆の」によって、「逆説」と「ホンモノの形而上学」が対比されているではありませんか!
 「砂土原藩の二分判金/両替屋の預り手形」と向きを揃えるならばまさしく「ホンモノの形而上学/逆説」という対比が成り立っているわけです。「ニセガネ/ホンモノのおカネ」ともあわせて、この三つの対比を合成してみましょう。

 「ホンモノの形而上学」に支配された砂土原藩の二分判金はあくまでニセガネでしかない。
 /逆説の作用によって両替屋の預り手形ホンモノのおカネになった。

 見事な対比です。
 こうして対義語として通常並ぶことのない「形而上学」と「逆説」は対比的に使われていることがわかったのですが、私が最初に感じた違和感は、それはそれでやはり故あってのものなのです。どういうことでしょう?

 ここからは「授業6」の考察に踏み込んでいかざるをえません。「形而上学」「逆説」とは何か、です。

 「形而上学」と「逆説」には、それぞれの対義概念があります。
 「形而上」の対義語は「形而下」です(ただし「形而下学」という言い方はほとんどしませんが)。
 「逆説」には通常使われる直接の対義語がありません(「逆接」ならば、その対義語は「順接」です。「逆」と「逆」は別の言葉です)。ですが対義概念を考えることはできます。前述の『現代文単語』の「逆説」の説明文中から「逆説」の対義語を探してみましょう(授業なら「探して」と言って、探させるところですが、それができずにこちらでこの後言ってしまうしかないのが残念です。自分で探すこと自体が国語の学習なのであって、この後に述べる認識は既に価値が半減しているからです)。
 「逆説」のここでの対義語は「通説(一般的な見解)」です(辞書によっては「逆説」の対義語に「真説」を挙げています)。

 「形而上学/形而下学」と「逆説/通説」がそれぞれの対義概念の組合わせです。
 違和感のわけはこれです。「形而上学/形而下学」と「逆説/通説」というそれぞれの対比は、それぞれ違った対立要素によって「対比」されているのであって、「形而上学/逆説」という対比は、斜(はす)向かいのようにズレた、関係のないものを接続したような印象があるのです。

 それでも、この文章において「形而上学/逆説」という対比が成り立つなら、つまり「形而上学=通説/形而下学=逆説」という対比も成り立つということになるのでしょうか。
 と、ここまで考えてみて、私にも、なるほど確かにこの文章においては、このような論理が成り立っているのだ、とはじめて気づきました。
 いやはや、なんのことやら、という感じでしょう?
 やはりこれを説明するには「ホンモノの形而上学」とは何か、「逆説」とは何か、を説明しなければならず、これはこれで長い説明になります。
 以下次回。

ホンモノのおカネの作り方 8 -対話2「問いを立てる」

 引き続き、反応を返してくれた生徒の考察をもとに「対話」を試みます。
 この生徒はさらに続けてこのようにも言っています。

この文章全体が「ホンモノのおカネとはどのようなものか?」という問いに答えようとしていると考えて要約したのですが、そもそも問いの方向性が間違っているということでしょうか?

 いや、これは正しい。とても。
 実は「授業4」回で「どうしたらホンモノのおカネを作れるか?」という問いはイマイチだ、ではどういう問いを立てるべきか、というお題を出したときに、みんなに考えついてほしかったのは、まさしくこれです。
 「どうしたら作れるか?」より「どのようなものか?」の方がいい。前回書いた通り「作り方」は本質的な問題ではないのです。「どのようなものか?」を論じるために二つの具体例をもってその成り立ちを説明していこうとして紹介したニセガネ作りたちの失敗例から、「作り方」を問うというレトリックを惹句として発想した、といったところでしょう。
 問題は確かに「ホンモノのおカネとはどのようなものか?」です。文章は間違いなくこの問いに答えようとしています。

 にもかかわらずなお、この問いは最終的に有効なわけではありません。
 この「問い」の「答え」は前回、要約で参照した引用部分に既にあります。

問い ホンモノのおカネとはどのようなものか?
答え その時々の「代わり」のおカネに対するその時々のホンモノでしかなく、それ自身もかつてはホンモノのおカネに対する単なる「代わり」にすぎなかったもの

 ここまで「わかった」上で、なおも「腑に落ちない」のではないでしょうか。
 書き送ってくれたあなた、あなたは必要な論旨の整理も理解もできています。その上でなお、これで本当に「わかった」と思えているのかどうかを自問してください。自問する間もなくまだ「腑に落ちない」と感じているとしたら、さらに有効な「問い」を立ててください。
 もちろん本講座の受講者全員も。

p.s.
 上記「答え」について、この生徒はさらに返信で、これがどういうことなのかという本人の解釈を書き送ってくれました。上の「答え」は単に本文から対応する部分を抜き出しただけですが、それをさらに解釈することによって、この「問い」に対して筆者が考えている、より本質的な「答え」が、抽象度の高い形で表現されていました。
 なるほど、この人はそのようにこの文章を読んだのか! 確かにこれは「腑に落ちて」いる!
 前回の「要約」があのように表現されていることも、それで納得されます。
 とても面白い問題です。次回紹介します。

P.P.S.
 「次回」取り上げられなかったので。
 この人はこの時点で、この文章は「『ホンモノのおカネは変化していく流動的なものであり、絶対的なホンモノのおカネは存在しない』ということを言いたいのだと思います。」と書いていました。このシリーズの最終回「授業14」で書いたことを、既に的確に表現していたわけです。

2020年4月21日火曜日

ホンモノのおカネの作り方 5 -対比を探す1

メソッド2

対比を探す1


 前回の課題、考えてみましたか?
 「どうしたらホンモノのおカネを作れるか?」が問いとして不適切だというのはどういう意味かわかりましたか?
 といって「どうして不適切か」を直接考えることはできません。適切な問いを立ててみようとして、その候補を考えているうちに、この表現の不適切さ、夾雑物(きょうざつぶつ)が意識されてくるはずです。

 問題は「作り方」という部分です。なぜこれが夾雑物なのでしょうか?
 筆者は本当は「作り方」など問題にはしていないからです。本気で作りたいとも、読者に作らせたいとも思ってはいません。これは偽金作りたちの陥った誤謬(ごびゅう)をエピソードとして取り上げるにあたって考えついたレトリックなのです。
 問題は「作り方」ではありません。では何でしょう?

 種明かしをする前に、予告した二つのメソッドのうちの二つ目を紹介します。
 それは文章中から対比を探す、という思考法です。
 2年生は昨年「水の東西」でこの読解方法を練習したはずです。

 対比は人間の思考の基本的な様式に基づいています。
 何かについて考えるということは、その「何か」を、「何か」とは別のものと比較するということです。そうでない思考というものは原理的にありえません(いや、私がとりあえず思いつかないだけかもしれませんが。あったら教えてください)。
 例えば「人間とはどのような存在か?」を考えてみてください(文章から目を逸らして、一瞬でも)。
 「人間なるもの」として、いくつかの属性を思い浮かべることができます。それらは必ず「人間でないもの」が備えておらず、「人間」が備えている属性です。「人間でないもの」もその属性をもっていたら、その属性が「人間」を表わすことになりません。論理的に。
 例えば「命がある」などと言ってしまうと、犬にも微生物にも命はありますから、「人間」とは犬だ、微生物だ、ということになります。
 授業ならばここでみなさんが思い浮かべた属性を発表してもらうところですが、残念ながらこちらで例を挙げます。例えば「理性を持っている」などという属性を思い浮かべた人はいるでしょうか?
 一方で「感情をもっている」という属性を思い浮かべた人もいるはずです。「理性を持っている」と「感情をもっている」の二つは反対の方向性をもつ性質のように見えます。なぜこんなことが起こるのでしょうか?
 私の経験では、みなさんの思い浮かべた属性は何種類かに分類できます。「人間」を、何との対比にようて捉えたか、によって。
 たとえばこんな分類です。

  • 人間/動物
  • 人間/機械(ロボット・アンドロイド・AI…)
  • (現実の)人間/理念としての「人間」

 例えば「理性を持っている」ことを人間の属性として思い浮かべた人は「人間/動物」という対比で「人間」を考え、「感情をもっている」と思い浮かべた人は「人間/機械」という対比で「人間」を考えたわけです。あるいは理念としての「人間」の対比であれば「人間とは不完全なものだ」といったところでしょうか。
 みなさんの考えた「人間なるもの」は上のどれかの対比によって捉えられたものであるはずです(西欧人にこの問いを投げると、そこには「神」との対比によって捉えられた「人間」が浮上してきます。そのように考えた西欧的な思考の持ち主はいたでしょうか)。
 上の「命がある」という属性はもちろん「人間」にもあてはまります。ただそれは「人間」が「生物/無生物」という対比における「生物」に含まれる、という意味であって、「人間」という概念の外延を輪郭づけるものではないわけです(必要条件ではあるが十分条件ではない、というか)。

 「そうでないもの」は、思考する人自身にとっても潜在的かも知れません。したがって文章になったときに、その対比が明示されているとは限りません。その明示の程度は様々で、よくよく考えないと何が対比要素なのかわからない文章もあります。
 このメソッドは後者のような傾向の強い文章ほど有効性を発揮します。当然です。対比が明示されているということは筆者がそれだけ整理して論を進めていて、かつそれを読者に親切に説こうとしているということです。つまりそれだけ最初から「わかりやすい」文章なのです。となるとメソッドの効果が実感に乏しい。
 一方、対比要素が何かわかりにくいということは、筆者自身が論理の未整理なまま書き進めているということであるか、読者に対して不親切だということです。こういう文章ほど「対比を探す」という思考法が有効なものになりうるわけです。

 「水の東西」は前者の例で、題名に既に対比が示されているばかりか、あちこちで対比が明示されています。したがって、このメソッドの効果が実感しにくい文章です(つまりメソッドなど使わなくてもわかる、という。高校1年生用の練習だからそれでいいのですが)。
 振り返ってみましょう。
 題名に明示された対比は「東/西」です。「/」はその前後が対比項目であることを示します。「対」「vs」の意味です。この文章は「水」を題材に「東洋」と「西洋」を対比しているわけです。
 対比軸の見当がついたら、文中の「具体例」「形容・性質」「抽象語」などの対比を片っ端から挙げて、軸の両辺に向きを揃えて振り分けます。

  •    東/西(抽象語)←ラベル
  •  鹿威し/噴水(具体例)
  •  流れる/噴き上げる(形容・性質)
  •  時間的/空間的(形容・性質)
  • 見えない/目に見える(形容・性質)
  •   自然/人工・造型(抽象語)

 これらの対比のうち、どれかを対比軸のラベル(見出し)として選んでおきます。この場合は「東/西」が題名にもあるので、すぐに選べます。
 ですが必ずしも最初に決める必要はありません。いくつかの対比項目を挙げながら、どこかの時点で、どれか適当なものを便宜的にラベルとして代表させるのです。
 対比の種類は別に上記三つのどれかに分類しなければならないというわけではありません。例えば「~的」という言葉が対比的に使われている時には、それは「形容・性質」でもあり「抽象語」でもあります。

 こうした対比の抽出には何の効用があるのでしょうか? 上に述べた通りです。対比の整理とは、文章の構造を把握することであり、筆者の思考を整理することです。これをやることでボンヤリしていた論理が明瞭になるという実感があるはずです。
 上に述べた通り「水の東西」ではこの実感は薄いのですが、それでも例えば上の対比の左辺だけをつなげて、この文章を次のように表現することができます。
東洋では、鹿威しにみられるように、自然に流れる水を目で見ることなく耳で捉え、そこに流れる時間を味わう。

 さて「ホンモノのおカネの作り方」には、どのような対比が潜んでいるでしょうか?
 さしあたって「具体例」「形容・性質」「抽象語」にあたる対比をそれぞれ一つずつ、三組探してください。

2020年4月20日月曜日

ホンモノのおカネの作り方 4 -問いを立てる3

メソッド1

問いを立てる3


 読解するためのメソッド「問いを立てる」、「ホンモノのおカネの作り方」について、考えてみましたか?
 と、その前に要約はしてあるでしょうか。
 「要約」「問いを立てる」、現代文探究で紹介する「読み比べる」、いずれも、読解するためのメソッドです。ブログでは、実際に授業で取り上げたかもしれない教科書の文章を教材として、その有効性を明らかにしていくつもりですが、何よりもこれらのメソッドは、みなさんが自分で実行し、自らの国語力向上を図るために紹介し、その実行を求めるものです。
 そしてメソッドとは「知っている」だけで有効なのではなく、繰り返し実行して身につけることによって有用な技術になるものです。
 実行してください。繰り返し。ルーチンとして。

 さて、既に「ホンモノのおカネの作り方」の要約をしたことを前提に話を進めましょう。
 「要約の実演」の中で、本文の順番に要約していく方法を提案しました。この方法で要約してみましょう。

A ホンモノのおカネを作るには、ホンモノのおカネに似せようとしなければいい。佐土原藩のニセの二分判金はホンモノに似せようとした、あくまで「ニセガネ」に過ぎないが、両替屋の天王寺屋や鴻池屋の発行する「手形」はホンモノには似ていないが、後にホンモノのおカネのように実際の支払い手段として流通するようになった。ホンモノの「代わり」がそれ自身ホンモノになってしまうという逆説の作用が、ホンモノのおカネを作る。(198字)

 要約に使うキーセンテンスを選ぶ際には、具体例の挙がっている文よりも、抽象的な表現の文を選ぶ方が、短く結論を示すことができます。この文章の場合は佐土原藩のニセガネ作りと天王寺屋や鴻池屋の発行する「預かり手形」のエピソードが具体例にあたります。これらを取り上げずに要約文を作ることもできます。

B ニセガネ作りたちを支配していた、ホンモノのおカネがホンモノなのはホンモノの金銀からできているからだという「ホンモノの形而上学」ではなく、本来のホンモノのおカネに「代わって」それ自身がホンモノのおカネになってしまうという「逆説」が、太古から現在までホンモノのおカネというものを作り続けてきた。本来のホンモノのおカネに似せるのではなく、ホンモノに代わってしまうことがホンモノのおカネを作る極意なのである。(200字)

 ABどちらが正解ということもありません。
 砂土原藩のニセガネ作りのエピソードも、両替屋の預かり手形のエピソードも、本文中では多くの紙幅を費やして語られており、その例示自体にも情報としての重要性はあります。抽象度を高めた下の要約より、具体例を含んだ上の要約の方がわかりやすい(情報が読み手に伝わる)とも言えます。

 ですが、100字に要約するとなるとさすがに具体例と抽象的表現の両立が難しくなります。下の要約abはどちらが「わかりやすい」でしょうか。

a ホンモノに似せようとした佐土原藩のニセの二分判金はついにはホンモノにはなりえず、両替屋の手形はホンモノには似ていないからこそ、後にホンモノの「代わり」として流通するいわば「ホンモノのおカネ」になった。(100字)

b 本来のホンモノのおカネに「代わって」それ自身がホンモノのおカネになってしまうという「逆説」、つまりホンモノのおカネに似せるのではなく、ホンモノに代わってしまうことがホンモノのおカネを作る極意である。(99字)

 具体例を含む要約aの方がわかりやすいけれど、だから何なんだ? と言いたくなる舌足らずさも感じます。一方の下の抽象的な要約bは、これだけでは何を言っているかわからない(原文を読んで理解している人にしかわからない)文だろうと思います。

 ともあれ要約は、要約しようという思考がトレーニングなので、その結果がどのような形になっても有益です。もちろん、上の要約を自分の要約と比べてみる、などという思考も。

 さて、こうして何種類かの要約をしてみると、そこには既に「問い(問題)」と「答え(結論)」が潜在していることに気づきます。
 どのような「問い」でしょうか?
 おそらくみなさんは次のような「問い」を立てただろうと思います(そうではない、という人はちょっと待っていてください。ひとまずは想定される多数派からとりあげます)。

どうしたらホンモノのおカネを作れるか(ホンモノのおカネの作り方の極意とはか)?

 この問いは題名の「ホンモノのおカネの作り方」に、既に潜在しています。「文系と理系の壁はあるか」でもそうですが、題名は主題の在処を示していますから、そこにその文章が提起する問題が潜在しているのは当然です。
 そしてこの「問い」の適切さは、「答え」との対応関係から判定されます。「答え」はなんでしょう?
 次のような「答え」を想定しているはずです。

ホンモノのおカネに似せるのではなく、ホンモノに似ていない、ホンモノの「代わり」を作ればいい。

 これらの問いと答えの組み合わせは、既に要約文中にも見て取れます。「要約する」ことも、「問いを立てる」ことも、読むための思考法=メソッドですから、それを通して形になる読み=理解に共通性があるのは当然です。このような要約をしたということは、この文章を、このような「問い」に対してこのように「答え」ている文章であると理解したということなのです。

 さて、このように要約され、このように問いを立てられたなら、この文章に対する理解は「正解」です。この文章はまさにそう言っています。
 にもかかわらず、みなさんの実感は「腑に落ちない…」といったところだろうと思います。
 例えば大学入試問題のような問いは、基本的には本文中の論理の対応を問うているはずなので、上のような論理の整理ができれば答えられます。ですが、そのように「答えがわかる」ことと、その文章が「わかる」と感じられることは、必ずしもイコールではないのです。

 この文章を「わかる」ためには、別の問いの立て方が必要です。
 そもそも、筆者岩井克人にとっても、この文章で説きたいことを「どうしたらホンモノのおカネを作れるか?」と表現するのは少々不適切なはずです。この問いの形は、わざと奇を衒(てら)ってこの文章を面白くしようというレトリック(修辞)に引っ張られて、文章が本当に問題にしていることを見えにくくしています。この文章がわかりにくいのはそのせいだとも言えます。

 この文章では何が問題になっているのでしょうか?
 再び、上記とは違った「問い」を立て、その「答え」を文中から探してください。

2020年4月15日水曜日

ホンモノのおカネの作り方 3 -問いを立てる2

メソッド1 問いを立てる2


 「問い」は立てられましたか?

 この「問い」の立て方には、やはりそれなりの制約やコツがあります。

 まず、イエスorノーで答えられる問いを立ててもあまり意味がありません。
 例えばコロナ感染対策のための休業補償を政府がしていないことを批判しようとしている文章(新聞コラムのようなもの)があるとして、その文章の冒頭あたりに「政府は休業補償をしなくていいのだろうか?」という「問い」の形をした一文が置かれていたとしましょう。これを今回の趣旨に合う「問い」として取り立てることには意味がありません。その「答え」が「よくない」であることは明らかだからです。イエスorノーで答えられる問いというのは、ほとんど反語のようなもので、その一文で意味が完結しているのです。
 この文章の場合、テーマはたぶん「なぜ休業補償が必要か?」といったあたりになるでしょう。「答え」は、「休業した店の人が困るから。」でしょうか? 間違ってはいませんが、わざわざ文章が書かれるとしたらそんな結論は当たり前すぎて書かれる必要はありません。おそらく「休業補償しないと、その後の日本経済全体の落ち込みを回復させるために必要な経済対策の方が多額になるおそれがあるから。」くらいの言い方をしたいか、「休業補償してでも休業させないと感染防止効果が十分保障されないから。」といった主張をすると予想されます。
 つまりこの文章での問題は「良いか悪いか?」ではなく、「なぜ悪いか(理由・根拠)?」なわけです。
 したがって、この「問い」は、「何が」「なぜ」「どのように」のように疑問詞が入った問いの形にします。主張・結論の表現に合わせて適切な疑問詞を選んでください。

 また、理解に資する「問い」と「答え」は、文章全体を包含するような組み合わせにすることが重要です。もちろん文章には部分的な、例えば段落内で完結する「問い」と「答え」の組合わせもあります。階層化された様々なレベルの「問題」と「結論」が構造化されて全体を構成しています。それらは必要に応じて考えるとして、まずは全体を捉えられる「問い」と「答え」を考えるというのが、この思考法を有益なものにするコツです。

 ところで、要約課題で最初に取り組んだはずの「文系と理系の壁はあるか」は、題名がいきなり「問い」の形です。この「問い」はどうでしょうか?
 もちろんこの問いはあまり有効ではありません。「ない。」という結論は読まなくとも予想できます。上記の「反語のような問い」に他なりません。「壁がある」ことは一般的な常識であり、わざわざ文章が書かれるとしたら、常識に反することを言いたいはずだと予想できるからです。
 この文章の最後の段落にはなぜ物書きが、理系だから、文系だから、専門家だから、専門家じゃないから、と自分の視野を狭めるような枷をはめねばならないのか。という、疑問詞の入った疑問形終わりの一文もあります。これは?
 残念ながらこれもまた、「なぜ」という疑問詞で始まっているにもかかわらず、「いや、枷をはめなくてよい。」という主張に続く反語のようなものです。
 でもこれをちょっと変形すると、有効な「問い」の形になります。たとえば「なぜ文系と理系の壁がない方が良いのか?」としてみましょう。この「答え」は?
 上の一文中からも一つの「答え」が抽出できます。視野を狭めることになるから。です。また、文章全体の最後の一文から抽出するならもったいないから。」「(理系も文系も)同じ人間の営みだから。あたりも抽出できます。つなげて言えば、この文章は「理系も文系も同じ人間の営みなのだから、視野を狭めるような枷をはめて区別するのはもったいない。」というような主張をしているということになります。
 これで全体の「問い」と「答え」が対応しましたが、しかしまあこの文章ではこれで、なるほど! みたいな「認識の変容」がおとずれるというわけでもありません。この文章は最初からそれほどわかりにくいことを論じている文章ではないからです。上のような「答え」も、それはまあそうだろうけど、という感じでしょう。
 というわけでこの文章を授業で取り上げることはなかったでしょうけれど、実際に授業で上のようなやりとりをしてみれば、それはそれでちょっとした頭の体操にはなるはずです。「問い」を立ててごらん、その「答え」を文中から探してごらん、そう言ってしばし考えさせ、隣の人と「答え」合わせをさせてみる。国語の学習としてはそれなりに有益で、かつ楽しいはずです。
 そしてこの「答え」を、最後から二段落目から次のように探すことができた人がいたら、大いに誉めていたでしょう(誰かが次のように回答し、それに対し「やるねぇ! 素晴らしい!」などと応える、授業の、そういう瞬間はとても楽しい)。
 「(科学の)成果を享受するのは私たちなのだから、私たちには技術を理解してその社会的な影響を考え、最終的な選択を行う責任がある」から

 ところで、この文章で扱っているテーマについては題名に疑問詞を付しただけの「なぜ文系と理系の壁はあるのか」という問いも想定できます。この「問い」はどうでしょう?
 でもこれはさっき無益だと却下した「なぜ物書きが、理系だから、文系だから、専門家だから、専門家じゃないから、と自分の視野を狭めるような枷をはめねばならないのか。」とほとんど同じように見えます。じゃあ取り上げる価値はないのでしょうか。
 いいえ、両者は同じではありません。文中に書かれたこの問いは、「自分の視野を狭めるような枷」と、最初から否定的な形容がつけられているため、「枷をはめてはならない(壁があってはならない)」という結論が見え透いていて、それを本気で論じようとはしていないことが予想されます。そして実際にその予想どおり、この文章では「なぜ壁があるか」を論じているのではなく、「壁がない方が良い」という前提をそのまま結論づけているのです。
 もちろん上の例と同じように「なぜあるのか」は「いや、ありはしない」という反語を意味することもあります。ですが「文系と理系の壁」問題の場合、「なぜ壁があるか」は、まず壁があることが前提ですから、その当たり前の前提に疑問を投げかける根本的な問題提起になるはずです(その分、当たり前の結論ならば書かれる意味のない文章になるおそれもあります)。
 また「何が壁をつくっているのか」という言い方でも、同じように根本的な問題提起になりえます。
 ですがその答えをこの文中から探すことはできません。これらの「問い」は、この文章の読解から派生した哲学的な「問い」であり、考える価値のある問題ではありますが、少なくともこの文章はそのような根本的な問題に踏み込んだ考察を行っている文章ではありません。したがってとりあえず国語の授業としての文章の読解からは、はみだしているわけです。

 さて、取り上げるつもりのなかった「文系と…」について思いがけず長々と論じてしまいました。次回こそ「ホンモノのおカネの作り方」を読むための「問い」を立ててみましょう。


p.s

 念のため。
 読解のための教材として授業で取り上げるにはそれほど意義がない、と言っているのであって、この文章を読む意義がない、と言っているわけではありません。
 「文系と理系の壁はあるか」を読む意義は、その主張を理解することよりも、筆者がそう主張するために取り上げた筆者の実体験を知ることにあります。そしていくらかは、わかってはいるとはいえ陥りがちな我々の思い込み、前提(文中の「枷」)をあらためて自覚することにあります。
 読解のための「教材としての価値」は、読解に負荷をかけることにあるのであって、「その文章を読む価値」とは違うわけです。

2020年4月14日火曜日

ホンモノのおカネの作り方 2 -問いを立てる1

メソッド1 問いを立てる1


 オススメの評論読解メソッドの一つは、この文章はどんな問いに答えようとしているか、と考えてみることです。
 この文章が主張しているのは、そもそもどんな問いに対する答えなのか? この「問い」を、「~か?」という疑問形で表現してみましょう。

 この「問い」は、稀に文中に直接書かれている場合もありますが、そういうのが見つかることは多くはありません。
 教科書所収の文章や入試で出題される文章は、長い文章の途中一部分の抜粋であることも多いということもあります。今読んでいる文章より前に、著書の中では問題が明示されていたのかもしれません。
 あるいは書き手は自分が何を書きたいかを、あらかじめ明確には自覚していないということもあります。書きながら考えているわけです。「評論」という括りの文章にも「論文」寄りのものと「随筆」寄りのものとあり、「論文」では問いが明示されることが作法ですが、「随筆」ではそのような決まった型がありません。
 そういうわけで、この「問い」は読者が自分で設定します。
 どうやって?
 結論から遡って、それはどのような問いに答えているのか、と考えてみるのです。
 この文章はつまりこういうことを言っているのだな…、ということはそもそも何について論じているかというと…と考えてみます。その「何について論じているか」という「問い」を「~か?」の形で表現するのです。
 といって「結論」が明らかであるとも限りません。今回の文章でも、結局何が言いたいかわからない、と言っているわけですから。
 というわけで、この「問題」と「結論」は、どちらが先にはっきりするとも限らず、その対応がしっくりいくかという感触を点検しながら、徐々に明確にしていきます。両側から攻めて、合致を探る、というのがこの思考法のイメージです。

 「ホンモノのおカネの作り方」は、どのような問いについて論じているのでしょうか?
 この文章が提起している「問題」を「~か?」の形で言い表してみてください。