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2021年12月21日火曜日

舞姫 31 比較読解「檸檬」5 謎を解く

 「檸檬」と「舞姫」に見出せる対比構造を表わす抽象語を考えてみた。

    外面/内面

    社会/個人

    公的/私的

    秩序/混沌

    中心/周縁

    する/である

    近代/非近代

    西欧/日本

    均質/感性


 これらの対立に基づいて読むことの妥当性を考えることが、すなわち「檸檬」や「舞姫」を読むことだ。上のどれかが「正解」などということもなく、ましてそうした「正解」を教わることに意味があるわけではない。

 妥当性は作品の読解によって保証される。読解に資するものであればいい。

 こうした構図に基づいて引き続き、最初に提示した「檸檬」の謎を解こう。


 画集を積み上げて檸檬を置くという行為は何を意味するか?

 柄谷の論が参考になる。画集が象徴しているのは、外国から輸入された、公的に価値を認められた秩序体系だ。本来は秩序を破壊する力を持っているはずの芸術を、規格化された体裁に収めて年代順かアルファベット順に並べることで秩序に馴致させたものが画集である。またこうした全集に収録されることでそれらは権威づけられ、収録されていない作品・作者群との間に中心(権威)/周縁という秩序を構成する。

 主人公は、こうした秩序体系において価値を認められている画集本来の価値を無効化して、あたかも積み木のように用い、その秩序を壊して「ゴチャゴチャに積み上げ」る。

 そして、公的なヒエラルキーを逆転して、その頂上に檸檬を置く。それはつまり先ほどの構図の、下の領域による、上の領域の価値の転倒である。


 だが、いっときヒエラルキーの逆転に満悦したとしても、狂態の後で再び画集を元通りに棚に戻したのでは、秩序は回復してしまう。

 その時主人公の頭に第二のアイデアが浮かぶ。秩序を回復することなく、檸檬爆弾によって秩序を丸善諸共破壊してしまう、というだめ押しである。

 つまり「檸檬」という物語は、右の領域による、左の領域の秩序の破壊という欲望を形象化しているのだ。(ということで下の写真も、東大京大の赤本青本の上に絵本を置いて、てっぺんに檸檬を乗せるところにヒエラルキーの逆転の意図を読み取ってほしい)


 このまま物語の結末も解釈できるだろうか?

 「舞姫」が左から右へ移行して最終的に左へ帰還する物語であるのと対照的に、「山月記」は右に(虎の世界に)行って終わる物語だった。では「檸檬」は?

 授業で聞いてみると、最後の一文を、そのまま右側に留まっていると解釈する者が多かったが、檸檬爆弾など所詮妄想に過ぎないのだから、結局は左側に戻るしかないと考える少数派がいないわけではなかった。授業者にはアイデアのない例の「現在」を、「舞姫」における、手記を書いている豊太郎と同じ位置にいるものと考え、回想という体裁で語る共通点から、「檸檬」もまた秩序に戻るしかない「舞姫」と同じ結末を意味しているという解釈を語ってくれたのはB組のWさんだった。

 最後の一文の解釈は、「京極を下がる」という行為における「京極」とか「下がる」を手がかりに考えるより、明らかに「活動写真の看板画が奇態な趣で街を彩っている」という描写・形容に重点がある。これをどのようなイメージで捉えるべきか?

 授業者のイメージでは、「活動写真の看板画」の印象は「あの安っぽい絵の具で赤や紫や黄や青や、さまざまの縞模様をもった花火」や、画集を積み上げた「そのたびに赤くなったり青くなったり」する「奇怪な幻想的な城」に近いように思える。活動写真=映画の虚構性も、「想像・錯覚」に浸る主人公の精神状態に近しい。

 それが「奇体な趣で街を彩っている」のは、檸檬による爆破によって下の領域(たとえば「混沌・周縁」)が上の領域(「秩序・中心」)に溢れ出している、といったイメージではないだろうか。「活動写真」という虚構の世界を現実に重ねる「想像・錯覚」が、この一文のイメージなのではないか。

 とすれば結末において主人公はどちらの領域にいるのか、という問題ではなく、二つの領域の境が融け出して、全てが混沌に陥っている街を、主人公は悠然と闊歩しているのかもしれない。


 一昨年の授業で以上の解釈を語った時に、それは『Joker』だ、と言った生徒がいた。ちょうどその映画を劇場で観ていた授業者は、そう言われて、はたと思い当たってしまった。なるほど。

 アメコミ・ヒーロー、『バットマン』のレギュラーのヴィラン(悪役)であるジョーカーの誕生を描いた同映画では、社会の周縁にいる弱者である主人公が、思いがけず悪のヒーローとして暴徒に祭り上げられる。まさしく周縁が中央に反逆し、混沌が秩序を破壊せんとする物語なのだ。

 ゴッサムシティが暴動に包まれるクライマックスと「檸檬」の結末が奇妙に重なって見える。

 『Joker』では、しかしその暴動が実はジョーカーの妄想なのかもしれないという不確かさで描かれているのだが、「檸檬」の結末の「奇体な」イメージもまた、主人公の妄想の中だけなのかもしれない。そのあやういバランスもまた似ている。

 それだけではなく、ビジュアルイメージとしても奇妙な類似がある。

 CMでは階段でジョーカーが踊るシーンが使われているが、軽い仰瞰で捉えた階段を「檸檬」の画集の山に見立てると、檸檬がジョーカーなのだ。(0:20過ぎ)


 もうひとつ。暴動の中で、ジョーカーがパトカーの上で踊るシーンがある。(2:40あたりから)


 パトカーとは当然「秩序」の象徴であり、破壊されたパトカーの上にジョーカーが立つというのは、比喩とさえ言えないほどあからさまにヒエラルキーの逆転を意味する。とすればパトカーは乱雑に積み上げられた画集であり、その上に乗るジョーカーこそ檸檬なのだった。


 豊太郎が法律の勉強より文学や歴史にうつつをぬかし、官長を軽んじたり同郷の留学生を疎んじたりしてエリスと関わった結果、官職を罷免されるにいたる乱心も、「檸檬」の「私」が丸善で見せた狂態と同様に考えることでその意味がはっきりする。豊太郎もまたジョーカーと化したわけだ。

 日本にとっての近代化とは西欧化にほかならない。そうした近代的体制の中でエリートとしての地位にいた豊太郎はいわば、漱石の言うところの「外発的」な文化に酔っていたのだといえる。だがそれがいつしか「宿酔」として豊太郎をそうした価値から遠ざける。その時惹かれていくのがクロステル巷であり、エリスだ。

 「西欧/日本」という対立は「相沢・天方/エリス」という対立と転倒しているように見える。だが相沢や天方大臣は「西欧」的な体制の中心に属している。一方のエリスはドイツ社会における貧困層として、いわば「中心/周縁」における「周縁」に属している。エリスは日本人の豊太郎にとって異人であるとともに、ドイツ社会からも周縁化された存在だという二重性を帯びている。

 そういえば同様に、下の領域にあると考えられる檸檬が、よりによってカリフォルニア産だというのも理屈に合わない。だが果物屋も、「にぎやかな通り」である「寺町通り」にありながら「もともと片方は暗い二条通りに接している街角になっているので店頭の周囲だけが妙に暗い」のだ。

 そうしてみると、檸檬もエリスも、単に下の領域に属しているとだけ単純化して捉えるべきではなく、二つの領域をまたぐトリックスター的な機能を帯びているというべきかもしれない。

トリックスター (英: trickster) とは、神話や物語の中で、神や自然界の秩序を破り、物語を展開する者である。往々にしていたずら好きとして描かれる。善と悪、破壊と生産、賢者と愚者など、異なる二面性を持つのが特徴である。(「Wikipedeia」)

 トリックスターは「中心/周縁」を横断することで秩序を破壊するのだ。道化師=ジョーカーが典型的なトリックスターだというのは偶然だができすぎている。


 基本構造は同様に捉えられる二つの物語は、しかし最終的には違った展開を見せる。「檸檬」においては下の領域にある檸檬が上の領域にある丸善・画集を破壊して終わるのだが(もちろんそれは主人公の想像においてのみだが)、「舞姫」では逆に、上の領域にある相沢が、下の領域にあるエリスを、いわば「破壊」して終わるのである。

 こうした結末の違いを、まだ近代化の途上にあった明治に書かれた「舞姫」と、文化の爛熟期を迎えた大正末期に書かれた「檸檬」の違いとして説明するのはいささか牽強付会になるだろうか。

 また「舞姫」の結末における悲劇の意味については、次の「羅生門」との読み比べにおいて、「通過儀礼」という概念を通して再考する。


舞姫 30 比較読解「檸檬」4 解読

 さて、そもそもここまでの考察の発想には元ネタがある。前田愛「ベルリン1888―『舞姫』」と、柄谷行人「梶井基次郎と『資本論』」だ(かなり短縮したものをプリントした。元の形に近いものをTeamsにアップしてある)

 授業者の「舞姫」および「檸檬」の読みの端緒は、これらの論に拠っている。

太田豊太郎がエリスと出会うクロステル街は、ウンテル・デン・リンデンとはまったく異質な空間として意味づけられている。ウンテル・デン・リンデンの大通りが、へだたりとひろがりをもったモニュメンタルな空間であるとすれば、こちらは内側へ内側へととぐろを巻いてまわりこむエロティックな空間である。

前田愛「ベルリン1888―『舞姫』」

非常に単純化していうと、『檸檬』で梶井が〝爆破〟しようとしているのは、「交換価値」によって、あるいは「概念」(意味されるもの)によって体系づけられている世界である。

柄谷行人「梶井基次郎と『資本論』」

 前田論は「舞姫」を空間的な対比構造によって読み解いている。実は先に「山月記」との比較の際にも用いたこうした対比構造は、前田論から借りた。

 そこに柄谷の「檸檬」論を結びつける。

 これらの論から、「舞姫」と「檸檬」についてどのような読みが可能か?


 たとえば最初に共有した「檸檬」の謎のうち、物語の冒頭から主人公を「始終おさえつけてい」る「不吉な塊」について考えてみる。

 これを「青春期にありがちな漠然とした鬱屈」だとか、「頽廃した生活がもたらした倦怠」などと説明してはならない(いずれも教員向けの評釈書からの引用)。あるいは芥川の「ぼんやりとした不安」などと同一視してはならない。

 これらは冒頭の「えたいの知れない」に惑わされて考えることを放棄し、その後で「酒を飲んだあと」の 宿酔 ふつかよい に相当し」ていると書いてあるのを無視している。

 では「酒を飲む」という比喩は何を意味するか?


 構造把握に基づいて考えれば、それが「生活がまだ蝕まれていなかった以前」、「蓄音機」で「美しい音楽」を聴いたり、「丸善」に出入りして「オードコロン・香水瓶」を見るのに小一時間も費やしていたことに該当するのだとわかる。

 やがて〈酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやってくる〉。ある量までは美味しいと思って飲んでいた酒が、そのうちに肝臓で分解しきれなくなって体が受けつけなくなる。そうした宿酔の状態が、丸善に対する現在の主人公が感じている「嫌悪」である。

 そんなときに一杯の清涼な水を欲するように、主人公は「裏通り」にあるあれこれ〈みすぼらしくて美しいものに強くひきつけられ〉〈慰め〉られる。


 「不吉な塊」が「宿酔」であることが一般的に考慮されないのは、冒頭でそう表現されても、その時点ではこの作品の構造が見えてはいないし、「酒」に相当する丸善でさえ2頁程読み進んでからでないと登場しないのだから、故のないことではない。

 語り手の言う「えたいの知れない」を言葉通りに受けとって思考停止してしまうのだ。


 とすれば豊太郎にとって、〈模糊たる功名の念と、検束に慣れたる勉強力とを持ちて〉勇んで公務に取り組んだり、ベルリンの大都会の景物に目を奪われたりすることが「飲酒」に該当しており、やがて「宿酔」になった豊太郎は〈歴史文学に心を寄せ〉、クロステル巷で〈心の恍惚となりてしばしたたず〉んだりするのである。

 「山月記」との比較では、豊太郎もまた虎になったのだ、という認識が導き出されたときにあらたな「舞姫」の把握が実感されたのだが、「檸檬」との比較によって今度は、豊太郎もまた「宿酔」になっていた=「不吉な塊」を胸に抱えていたのだ、という認識に至ったことになる。


 だがこの「不吉な塊」は「嫌悪」をもたらすだけでなく「焦燥」とも表現される。かつて主人公を酔わせ、今や「我慢がならなくなった」世界は、ただそこから逃げ出せばいいというものでなく、そこから脱落した者に焦燥感を与えるべくすがりついてもくるのである。

 両者を一時酔わせ、やがて宿酔に追いやる〈酒〉とは何か?

 二つの領域の対立はどのようなものか?


     以前/その頃

    東大生/落魄れた

美しい詩・音楽/想像・錯覚

    表通り/裏通り

     丸善/果物屋

     画集/檸檬


   (以前)/3年経って

   エリート/免官

     法律/歴史・文学

  ウンテル…/クロステル巷

カイゼルホウフ/エリスの家

 相沢・天方伯/エリス


 つまり「檸檬」と「舞姫」は、左右の対立をめぐる物語だ。豊太郎は左の世界から右の世界に移行し、結局は左の世界に戻っていく。

 「檸檬」の主人公もまた左から右へ移行するのだが、その結末はどうなっていると考えればいいのだろう?


 対立がどのようなものであるかを把握するために、両辺を表わす対比的な形容をいくつか挙げてみよう。

 新しい/古い

 明るい/暗い

  広い/狭い

真っ直ぐ/いりくんだ

 これらの形容が冠せられるのは、どんな概念・理念・価値か?

 この問いは無論、難題だ。だがこういう「正解」のない問いに対して、互いにあれこれ答えを提示してみて、それに授業参加者全員で検討しあうことこそが授業の意義だ。

 多くのクラスで「理想/現実」が挙がった。だが、左右が逆転した「現実/理想」も挙がったのは面白かった。どちらにあてはめようとしてもそれぞれに肯ける面と、腑に落ちない面とがある。

 他にいくつか候補を挙げてみる。

    外面/内面

    社会/個人

    公的/私的

    秩序/混沌

    中心/周縁


 いくつかのクラスで発想されたのは「する/である」の対比だ(最初に思いついたのはG組のK君)。

 すなわち次のような対比が挙げられるのだ。

近代/非近代

  確かに、明治という、近代化のただなかにあって豊太郎を「エリート」たらしめているものは、「公的社会秩序」における有用性=「する」価値だ。つまり豊太郎は「役に立つ」のである。そうであることに疲れた主人公たちが、あらためて自分にとっての「である」価値に目覚めているということだということか。

 日本にとっての近代化とは、西欧文化の流入だ。そういえば丸善に並んでいるきらびやかな品々はどれも舶来品だし、「美しい詩」は、おそらく和歌などではなく翻訳詩であり、蓄音機で聴く音楽は西洋のクラシック音楽なのだろう。つまり「近代/非近代」という対比は次の対比でもある。

西欧/日本

 また、柄谷の言葉を借りれば、左は「『交換価値』によって、あるいは『概念』(意味されるもの)によって体系づけられている世界」なのだから、それを次のような対比としてみるのは無理な飛躍はない。

    均質な空間/感性的な空間(「場所と経験」より)


 こうした対比に基づいて、「檸檬」と「舞姫」を読み解こう。


2021年7月21日水曜日

身ぶりの消失

 「近代/非近代」という対立構造で文章を読む練習として、2011年センター試験出題の鷲田清一「身ぶりの消失」を読む。鷲田清一は去年のテストや、今年度に入ってからも「ぬくみ」で読んできた。


 だが対比のラベルは「近代/非近代」では抽象度が高すぎて、いろいろな要素が入りすぎる。

 「する/である」も、シンプルなのは良いがやはり多くの要素、複数の面があって使いにくい。丸山真男は単純な近代批判をしているだけではない。丸山の近代批判的論旨が現われているのは「過近代」的問題を扱った部分だ。

 使いやすい対比は「均質な/感性的な」だ。ここに「幻想的」を加えてもいい。ただ用語が、言葉の意味合いから直ちに捉えられるというわけではないので、柄谷の論の主旨が適切に把握されている必要がある。とりわけ「幻想」が把握しにくいことは確認した。

 その上で、この対比構造は様々な文章を読解する上で強力な手がかりになる。スケッチや撮影の構図を決める時のグリッド線のようなものだ。


 さて、どう読解するか?

 読解という行為自体を自分の判断で行うべきではある。「わかる」に向けて何をどう考えるか、それ自体が問題だ。

 その一つの方法として、また授業における考察の交換の便を図るため、こちらで分析の方向を指定した。文中の具体例の対比を確認し、それぞれが「均質/感性」図式にあてはまることを読み取ろう、というものだ。

 この文章内での具体例の対比は大きく言って3組半ある。

 半?

 挙げてみればわかる。


 まず一つ目は次の対比。

バリアフリーの空間/古い木造民家を使用したグループホーム

 実際には文中にこうした形で切り取れる表現が並んでいないので、こちらでこれらを対比として取り立てないと、こうした対比構造が見えてこない。

 この対比が、どのようにして「均質/感性」という対比の構図に対応すると考えられるのか?


 直ちに指摘できるのは「バリアフリーの空間」が「抽象的な空間」と表現されていることだ。「場所と経験」の中で「均質な空間」で経験することは「抽象的なもの」だと表現されていた。

 これに対して「木造民家」の方が「感性的」だというために、どんな表現を取り上げれば良いか?

 「木造民家」でのふるまいは「からだで憶えている」という表現がとりあげるには適切だ。「抽象的」が「頭でわかっている」ということだと考えれば、対比は明確。

 だがすんなり腑に落ちにくいのは「抽象的な空間」に「人体の運動に合わせた」という形容がついていることだ。対比の両辺に「からだ=体」が出てきてしまう。どういうことか?


 これも「人体の運動に合わせた」と対比的な要素を右辺に設定しよう。これもまた明示されていないので、こちらが文中から読み取って対置する。

 どこのクラスでも、「物や他者との関係」が対比的な要素として挙げられた。これが「人体の運動に合わせた」と対比的であるとすると、その時イメージされる「人体」とは、文中の言葉で言えば「単独の」「孤立」した人体だということになる。

 つまり「バリアフリー」とは「単独の人体の運動」にとって「自由」だということだ。とすると、むしろ「物や他者との関係」を「からだで憶えている」ような場所=感性的な空間では、人はむしろ制約がある=不自由だということになる。


 二つ目に挙げられる対比は「遊園地/原っぱ」である。

 これは「特定の行為のための空間/行為と行為をつなぐものそれ自体をデザインする」という対比として語られる。「ではなく」で対比が明示されているから、ここは見つけなければならない。「あらかじめ/創っていく」という対比もみつかる。

 さて、「行為と行為をつなぐものそれ自体をデザインする」は「物や他者との関係」の変奏であることを見てとることが可能だ。

 だが「特定の行為のための」がなぜ「抽象的」と結びつくのか?


 三つ目の具体例対比は「ホワイトキューブ/工場」である。

 ここには「抽象的/物質的で具体的」という明確な対比が読み取れるから、「均質/感性」の対比に対応させることは容易だ。

 だがやはり腑に落ちにくいのは、「工場」が「明確な特性」をもっている、と言っていることだ。左辺に「特定の行為のための」があり、右辺に「明確な特性」がある。紛らわしい。


 三つ半とは、左辺に置かれるべき「現在の住宅」が、一つ目の「木造民家」と対比的だからである。

 ここでは「現在の住宅」の「目的によって仕切られてしまった」という説明が、「遊園地」の「特定の行為のための」の変奏であることが見てとれる。


 ここまで以下の三つ半の対比が「均質/感性」の対比に対応することを確認してきた。

バリアフリーの空間/古い木造民家

      遊園地/原っぱ

 ホワイトキューブ/工場

    現在の住宅/古い木造民家


 だが「工場」は「使用規則・行動基準」が「キャンセルされている」と語られているのに「木造民家」は「キャンセルされていない」という。

 また、上で確認したとおり、「木造家屋」は「不自由」だが、「原っぱ・工場」は「自由」だ。

 同じ右辺なのにこうした不整合をどう考えたらいいのか?


 ここがこの文章の最大の考察しどころなのだが、簡単に結論を言おう。

 「特定の行為のための」は「目的によって仕切る」であり、それこそが「使用規則・行動基準」である。これらがなぜ左辺「均質な空間」の特性なのか?

 このことは「場所と経験」を参照するとわかりやすい。

 柄谷は均質な空間で経験したことは「たんに経験したような気になっているに過ぎないので、だからこそ意味づけが性急に要求される。」と述べる。

 この「意味づけ」こそ「特定の行為のため」であり、「目的によって」であり、「使用規則・行動基準」である。

 つまり「抽象的」な「バリアフリー」の空間こそが「意味づけ」を要請するのである。無限定な「自由」は、逆に制約=不自由を自ら必要としてしまうという逆説的な事態に陥るのだ。ここが「場所と経験」が他の文章の読解に有効活用できる最も重要な点だ。

 逆に「物質的で具体的」な空間=「感性的な空間」では、人はその「手がかり」を元に行為を「創っていく」。それこそが、その空間が「感性的」に把握されているということだ。そこでは「意味づけ」は不必要な制約だ。それがない「原っぱ・工場」こそ「自由」である。

 左辺の「バリアフリー」の「フリー」と右辺の「自由」の違いは、このように理解される。


 では右辺の「使用規則・行動基準」とは何か?

 これは「物や他者との関係」によって決まっている「からだで憶えている」ふるまいのことだ。これが「感性的な空間」の「歩いたことがあるから場所を実質的に感ずる」に通ずることはわかる。

 だがそれだけではなく、ここには「幻想的」な意味合いも含まれている。

 柄谷の言う「幻想的」とは「感性的=物質的」に対する「非物質的=観念的」という意味合い以上に、「感性」=個人/「幻想」=共同体という要素が重要であることは以前解説した。「木造民家」におけるふるまいを決定しているのは「物」でもあるが、「他者」でもあるのである。「和室の居間で立ったままでいることは『不自然』である」という一節は、「幻想的」の意味合いを説明するために柄谷が言及した「タブー」と同じく、そうした感受性が共同体の習慣に根ざしていることを表わしている。

 そしてこれが後半で語られる「文化」にも通じることを読み取ってほしい。「文化」とはまさしく、共同体の成員に共有された「幻想」でもある。


 このように「均質/感性/幻想」という三項対立は、多くの文章の問題を読解する上で強力な枠組みとして参照が可能である。

 だが現実の空間が、こうした「均質な/感性的・幻想的」という構図のどちらであるかを論ずることは生産的ではない。

 例えば学校という空間はどちらか?

 現実にはどちらの要素も含んでしまう。「学校」という空間は間違いなく近代において設立した「均質な空間」である。だが、現実の学校は、そこに生活する子供たちにとって「感性的」であり、「幻想的」でもある(まさに幻想的な空間としての「校長室」があるように)。

 つまりこの対比は、世界観の対比であり、それをどのようなものと見なすかという考え方の枠組みの対比なのである。

 そのような、考えるための補助線として強力な武器となる対比なのだ。

2021年5月27日木曜日

情報流

 最後に用意した「情報流」は充分な時間がとれなかった。「内閉化する『個性』」と「情報流」にそれぞれ1時限を使えたクラスが一つだけあったが、どちらの考察も1時限を使ってさえ、まだまだ深めることができそうだという手応えだった。

 これまでの読み比べ同様、切り口によって、さまざまな分析が可能だ。

 ただ、西垣通の「情報流」の比較は、ここまでの3編とは違った難しさがある。抽象度の違うところに土俵を設定する必要があるのだ。

 ここまでの鷲田、斎藤、平野、土井は、言わば「自分」論だ。主観的な自己意識の様相について、その背景からの分析を述べている。

 それに対し、「情報流」は言わば「人間」論であり、その図地一体となった「社会」論である。「人間」についてのある見方が提示されていて、上の諸氏の論は、それらの見方の内部で、それらの人々が「自分」をどう捉えているかという主観が問題にされている、と言える。

 どのような「人間」観が提示されているか?


 対比構造は明確だ。

孤立した個人/情報流の一部

 ここに時間軸を持ち込んで、三層の対比図を画く。

 プレモダン/ モダン  /ポストモダン

共同体の一部/孤立した個人/情報流の一部


 この、近代(モダン)的「個人」観が、鷲田の言う「自由な個人」であり、斎藤・平野・土井らの言う「本当の自分」の幻想につながってくる。

 それに対して西垣の描く「個人」は、「情報システム」の一部だ。そこでは「個人」は、周囲の世界の構造の中に置いて捉えられ、「個」と「群」が入れ子状のフラクタル図形的イメージで描かれている。身体精神社会も、それぞれ「情報流」のアナロジーで捉えられている。

 とすれば、「情報流」の考え方による「個人」は、平野の言う「分人」や、土井の言う「社会的個性指向」につながってくる。

 つまりみんな「近代」的人間観に対する反省や批判としてそれぞれの論を構築していると言っていいのである。


 一方「『である』ことと『する』こと」は、特に前半部の「非近代」批判においては、正しい「近代」を目指すべきだと言っている。それは自律した個人が集まって作る社会のイメージだ。丸山にとって「近代」はまだ明るく輝く未来だったのだ。

 それは「『市民』のイメージ」にも共通している。アメリカの陪審員制度をモデルに日野啓三が描きだす「市民」は、西垣の言う「神の理性を分有する」「個人」である。新興国アメリカをモデルにすれば、近代もまだまだ新鮮な理想と見える。

 そこに「自由や責任」が生ずる。そしてそれは同時に「つながっていたい」という寂しさをも生む。


 一見したところ無関係に見えるそれぞれの論が、「近代」を接点としてあらたな相貌を見せる。


内閉化する「個性」

 土井隆義の「内閉化する『個性』」を読む。

 土井氏は筑波大教授の社会学者で、2016年のセンター試験に「キャラ化する/される子どもたち」が出題された。どこかで聞いたような題名だ。

 2018年には、河合塾と筑波大学の「オーサービジット事業」で本校を訪れた

 ここでも取り上げられている著書の一節が本文で、慶應大学の入試に出題された文章でもある。


 分析のために対比をとる。

 対比らしき記述が登場するのは30行を過ぎてからの次の記述。

現代の若者たちは、自分をとりまく人間関係や自分自身を変えていくことで得られるものをではなく、生まれもったはずの素朴な自分のすがたを、そのまま自らの個性とみなす傾向にあります。彼らにとっての個性とは、人間関係の関数としてではなく、固有の実在として感受されているのです。

 ここにみられる2度の「ではなく」が対比を表わしているのは意識すべきだ。

  固有の実在/人間関係の関数

 文中の出現順を入れ替えたのには訳がある。

 対比に付けるラベルとしては、言葉が揃っていた方が整理しやすいので、探していけば次の用語が見つかる。

内閉的個性指向/社会的個性指向

ここに、文中からあれこれの言葉を抜き出して配置する。

     身体/言葉

  内発的衝動/社会関係

刹那的・断片化/持続性・統合性

 そしてこの文章では、今までの文章と共通する「キャラ」「本当の自分」という言葉が、左辺に配せられる。


 さて、この左と右の配置は、ここまで読んできた文章との対応を見易くするために敢えて文中の登場順を入れ替えてある。

  固有の実在/人間関係の関数

といった対比を「である/する」と対応させると、斎藤の次の対比が同じ向きで並ぶことになる。

      必然/偶然

     固有性/匿名性

  キャラクター/キャラ

   記述不可能/可能

 「固有」が左辺にくるという対応が認められるし、斎藤の「キャラ」は土井の言う「人間関係の関数」によって成立していることも一致する。

 右辺では「言葉」が人格の「持続性・統合性」を保障するのだが、これは斎藤の「キャラ」は「記述」することで自己同一性を維持する、という認識に対応する。

 その上で土井は右辺を肯定的に評価し、斎藤の描く右辺的若者像は悲劇的な色合いを帯びている。

 「偶然」や「匿名」も土井の論との対応がよくわからないが、無理矢理言えば、「社会関係の関数」で個性が決まるということは、そうした自己は入れ替え可能な「匿名性」を帯びたものと捉えることができるかもしれないし、そうした認識の背景には「全てが偶然教」の信仰があるということも、全くできないわけではないかもしれない(曖昧な言いよう!)。

 まあ、二人の対比軸が同一のものだという保証はないので、こうした齟齬はやむをえまい。


 平野の論ではどうか?

内閉的個性指向/社会的個性指向

 を連想させるのは「キャラ/分人」の対比だ。「キャラ」は「インタラクティブでない」し、「分人」は人間関係によって生ずる。

 その上で、生まれついた「固有の存在」を「本当の自分」と見なす左辺的認識を否定して、「分人」こそ自分の「個性」だという右辺的人間観を提示しているという点で、平野の論と土井の論は一致している。


 上記のような分析は別に「正解」というわけではない。

 「分人」も上のように言えば右辺だが、「断片化」した「寄せ木細工」のような自己イメージは、複数の「分人」の集合を「自分」と考えるイメージに近いように見える。「断片化」は左辺だ。

 そもそも「分人」は「キャラ」と対比されているわけではなく「個人」との対比だ(そしてこの「個人」が問題になるのが次の「情報流」との読み比べだ)。

 それぞれの論の対比軸が揃っているわけではないから、分析の切り口によって、それぞれの論はさまざまに分析できる。


2021年5月14日金曜日

「キャラ」化する若者たち 2 対比図を作る

 鷲田の言う

若者は他人とのつながりを求めている。

と、斎藤の言う

若者は「キャラ」化している。

は、共通した認識を示しているのだろうか? また、それを「である/する」図式で語ることは可能だろうか?


 例えばこれらの文を「つなげる」ことはできる。言い換えたり、「つまり」「なぜなら」などの関係を示したりすれば、両者は容易につながる。

 だがそれが「つなげる」ことを目的とした恣意的な変形でないと、なぜ言えるのか? 関係づけることが自己目的化した短絡かもしれないではないか。

 一方で、それぞれの文章の論理をそれぞれの文章中の言葉で語ったら、それらは別々でしかない。表われた外見は違っている。確かに。

 だがそれらは本当に、単に関係のない別々の認識を示しているだけなのだろうか? 同一の構造の、別の断面を示している可能性はないのだろうか?


 例えば、上の二つの文の背景は、それぞれの筆者にどう把握されているか?

 それぞれの文を「症状」として見たとき、その「病因」はどのように語られているか?


 「ぬくみ」については、「『である』ことと『する』こと」との比較によって、その背景について、ある程度把握している。問題は今回読む斎藤だ。

 斎藤は「『キャラ』化する若者たち」で、若者たちが「キャラ化」するのはなぜだと論じているか?


 問題を構造化しておくと考えが整理され、語り合うためにも便利だ。

 ということで「『キャラ』化する若者たち」の対比をとろう。

 最初の2頁の見開きから、目立つ対比的キーワードを3組探そう。

 さらに、その対比軸にそって、いずれかの領域を特徴付ける形容や条件を挙げる。いつもの対比図作りだ。


 まずは3組。

    必然/偶然

   固有性/匿名性

キャラクター/キャラ


 これは文脈の論理から、いわば機械的に抽出できるはずだ。できなければならない。

 ここにさらにこの対比を特徴付ける形容を加えていく。一方に特徴的な形容が文中から見つかったら、もう一方は対義的に補う。

取り替えきかない/きく

   記述不可能/可能

   世界が一つ/複数

 これ以外に「運命/確率的」というのが対比的ではないかとの意見が各クラスで出た。離れたところにある二つの言葉なので、これを対にして挙げた者は論理の把握力が強い。これらは言葉の意味的にはまるで対義的な言葉ではないが、確かに文中では対比的な意味合いで配されている。

 一方「根拠がない/ある」と「信仰」も候補に挙がった。これらは冒頭で左辺を特徴付けるように読める。しかし次頁まで読むと、「いずれの信仰にも根拠がない」と言っているので、左辺/右辺によらないのだと読むべきだろう。

 もう一つ、気がつく者が少ないが、取り上げたかった言葉がある。各クラスでこれを挙げた者は誇って良い。

 幸福/不幸

である。

 本文では「必然」を信じられるのは「幸福」だと言っている。つまり右辺は「不幸」なのだ。


 さて、みんな薄々気づいているだろうが、この対比図は、「である/する」の対比だと理解することができる。

 とすれば「ぬくみ」の対比図とも、向きを揃えて並べることができるということになる。

 コンテキスト/自由な個人

このままの自分/資格・条件


 対比図を整理したら、鷲田と斎藤の認識が共通していることを語るのも大分楽になったはずだ。

 「このままの自分」は「『である』ことと『する』こと」の「かけがえのない個体性」との共通性を確認した。これはこのまま「取り替えのきかない固有性」と同じだと見なせる。

 「自由な個人」が「全てが『偶然』教」とどう共通しているのかは、にわかには語れない。が、そこに通じるものがあることは感じ取れるだろうか?

 また、「キャラ」と「資格・条件」が対応していることには容易に気づくが、それをどう変形していくと両者の共通性が示せるか?


2021年4月28日水曜日

ぬくみ 3 近代という問題

 具体的な手がかりとして、まず「『である』ことと『する』こと」と「ぬくみ」に共通する「近代」という言葉がどのような意味で使われているかを確認する。


 「『である』ことと『する』こと」における「近代」はもう充分馴染んでいるだろうか。

 165頁や169頁下段の記述から、「である」価値・論理から「する」価値・論理への移行を意味していると捉えられる。

 一方「ぬくみ」では次のように言っている。

「近代化」という形で、人々は社会のさまざまなくびき、「封建的」と言われたくびきから身をもぎ離して、自分が誰であるかを自分で証明できる、あるいは証明しなければならない社会を作り上げてきた。少なくとも理念としては、身分にも家業にも親族関係にも階級にも性にも民族にも囚われない「自由な個人」によって構成される社会を目指して、である。「自由な個人」とは、彼/彼女が帰属する社会的コンテクストから自由な個人ということだ。

 「近代(化)」を共通項としてこれら二つの文脈を重ねてみる。

 何が言えるか?


 「封建的」な社会が「である」社会であることは「『である』ことと『する』こと」で述べられている。つまりそこにある「血縁・地縁」などの「くびき」「社会的コンテクスト」は丸山の言う「である」論理である。

 鷲田はそこから「身をもぎ離」すことが「近代化」だという。

 丸山の「『である』ことと…」の「近代化」は上記の通り「である」から「する」への移行なのだから、丸山と鷲田、二人の言う「近代」は一致していると見なせる。

 「身分にも家業にも親族関係にも階級にも性にも民族にも」という羅列は見事に「である」論理を列挙していて、それらに「囚われない『自由な個人』」とはつまり「する」論理にしたがって動く存在だということだ。

 「自由」が「する」論理に基づくことは「『である』ことと『する』こと」でも述べられている。つまり「自分が誰であるかを自分で証明しなければならない」とは「不断の検証・行使」が必要だということだ。


 さらに、「ぬくみ」から「する」論理・価値を表わす言葉を探そう。何か?

 勘の良い者はすぐに指摘した。「資格」や「条件」である。

 「である」論理から解放された「自由な個人」はむしろ「寂しい」。人々は「資格」や「条件」といった「する」価値を示し続けなくては社会に存在し続けることができない。それに疲れた人々は、むしろ「このままの」自分(223頁)=「である」価値を認めてほしいと思っている。


 整理してみよう。

である/する

 左辺から右辺への移行が近代化である。

    封建社会/近代社会

 血縁・地縁、身分・性・民族/個人

 社会的コンテキスト/個人

 これらは一対一対応になっているわけではない。大体左辺か右辺かが示されている、というくらいだ。

 さてこうして「する」化=近代化が生み出すのは、大規模にシステム化された社会だ。

 そこでは、個人は「資格」「条件」が求められる。

    /システム化

    /資格・条件

 これらはなぜ「する」論理なのか?

 説明のために「する」価値・論理の言い換えのバリエーションから適宜選ぶ。

 たとえば「機能」「業績」「実用の基準」「効率」などが想起されれば良い。

 「システム化」された社会は「実用の基準」に基づいて「効率」的に運用される「する」論理で動いているし、「資格」はそうした社会で個人が持つ「機能」のことだ。

 そうした「不断の検証」に疲れた人々は「このままの」自分を認めてもらうことを欲する。これは「『である』ことと『する』こと」の「それ自体」「かけがえのない個体性」などと対応される。

 「このままの」自分/

      それ自体/

かけがえのない個体性/


 「ぬくみ」は単独では対比が見えにくく、それが趣旨を理解しにくい原因のひとつなのだが、こうして「である/する」図式を援用することによって、鷲田の捉えている現代社会のあり方が対比構図にはまってくると、その主張が明瞭になる。


ぬくみ 1 主旨を捉える

 年度の最初はイレギュラーな形で「羅生門」の再読をしてみたが、ここからはレギュラーなサイクルで教科書や「ちくま評論選」を読む。

 一つ目は教科書の「第2部」の冒頭に収録されている鷲田清一の「ぬくみ」だ。

 鷲田清一の名に覚えがなければならない。

 可能な限り、前に読んだ文章は作者名とともに覚えておいた方が良い。次に読む時に、前に読んだことがある筆者の文章だと思えるだけで、なにほどか受け入れる態勢ができる。内容を覚えてあればなお良い。似たようなことを言っている可能性がある。内山節はどの文章でも大抵同じようなことを言っている。

 鷲田清一は入試でも再頻出の文筆家だから、ああ、あの人か、と思うだけでいくらか有利になることは間違いない。

 ところでどこで?


 昨年度第4回の一斉テストに出題した、「ある」と「いる」をキーワードにした文章2本のうちの一つ、「ある」には、相手を「所有」するという意味合いがあり、「いる」には相手に対する「問安」の姿勢があるという文章の筆者である。出題は早稲田大学。読みにくい文章だったはずだ。


 さて「ぬくみ」もまた、決して読みやすい文章ではない。だが一方で難しいことを言ってはいない、とも思う。なんだか焦点が定まらない文章だ。

 これは、この文章が明確な対比に基づいて論が進んでいないことと、明確な「問い」が立てられていないことによる。

 逆に言えば対比が明確だったり、「問い」が明確だったりすると、立論の枠組みが捉えやすいということでもある(それはすなわち簡単だということにはならないが)。

 だから、ぼんやりした印象の文章には、こちらから対比を探したり、問いを立てたりすることが有効なのである。


 ところが、さらに「ぬくみ」では対比を探すことも問いを立てることも容易ではない。対比も問いも、明確には語られない。

 となると、この文章が何を言っているかを捉え、そこから遡ってそれが何に対比されているのか、どんな問いに答えているのか、と考えるしかない。


 そこでもう一つのメソッドは「要約」だ。

 条件をつけよう。単文の一文、5文節以内。

 シンプルな形にするのは核心部分を捉えるためであり、それだけ頭が整理される。情報量が少ないと使い回すのに便利だ。


 こういう時はまず主語を決める、というのが迷ったときの一つの方法だ。

 大抵は主語が想起されているときには、述語も同時に想起されている。何らかの述語で受けられそうだという見込みがあるから主語として有効だろうと見当がつくからだ。

 主語と述語が決まったら、そこに最低限必要な補語(形容句や目的語、条件節など)を補う。


 皆、だいたい同じ文になるんだろうと予想して聞いてみると、意外なほどバリエーションに富んだ文になった。そしてそれぞれ、本文の主旨を的確に捉えているように感じる。

 厳密に言えばその要約文の適否についての評価に差をつけることもできるのかもしれないが、要約の要諦は、要約する、という頭の働きにあるのであって、要約文の適否は二の次だ。よほど見当外れでない限り、それぞれ良い、といった反応をしておいた。いや、実際にどれも的確だったのだ。


 授業者の想定していた文も紹介する。

現代の人々はつながりを求めている。

 ほぼこれと同じ文を考えている人は勿論いた。だからといって唯一の「正解」だというわけではない。

 たとえばここから対比問いを立てることもできないわけではない。

 「つながりを求めている」というのは、「つながりがない」ということを言っているのだから「つながりがある/ない」という対比になっているのだとはいえる。

 だがこの文章は殊更に「つながりがある」状態を対比に用いて、「つながりがない」状態を明らかにしようとはしていない。「ある/ない」の対比はあまりに自明な対比であって、あらためて論ずるようなことではないからだ。

 では問いは?

 上の要約が答えになるような問いなのだから「現代の人々はどうなのか?」といったところだろう。

 だがこれも立ててみればあまりに自明で、答えから無理矢理立てた問いに過ぎない。


 当然「現代人はなぜつながりを求めているのか?」と問いたくなる。だが、この文章から、この問いに対する明確な答えを抽出することには、少々のハードルがある。

 あるいは「つながりを求めているとどうなるのか?」といった問題意識も見てとれる。とりあえず「つながりを求めている」という現状を指摘した上で、それがどのような問題につながるかを考察しているのだ。だがこれもまた明確な答えを抽出するのは容易ではない。

 とはいえ、どちらも鷲田にはその問題意識はあるはずだ。それを読み取るためにはまた別の問題設定が授業には必要である。


2021年3月5日金曜日

最後の読み比べ 6 発表

 今年度の授業の終わりにあたって、こうした読み比べによる考察を、班毎に発表してもらうことにした。

 高校入試の休みの間に読んで考えてこいとは言ったものの、とりあえず内山の文章を読むだけで授業に臨んだ者も多かったに違いない(もちろん読んですらこなかった者もいたろうが)。

 残り2時限でこの課題だから、1時限で発表準備、2時限目に発表、という想定だったが、結論としては無理があった。最初のクラスでこれをやったところ、発表の準備として1時限ではあまりに時間が足りず、生煮えのまま発表に入って情報量に乏しかったり詰まってしまったり。

 後に続くクラスでは、最初の1時限に誘導する部分を多く取り(今回のシリーズの3回目までの記事にあたる)、2時限目にも準備に時間をとってから2班ほどの発表が精一杯だった。

 最大で4時間とれたクラスでは、3時限目の半分まで準備にとり、3時限の終わりにようやく最初の班の発表となったが、これでも長すぎることはないという感じだった。そこまでの準備に、目一杯活発な議論が続いたのだった。


 今年度は、最初の休校があって、時間が少ないという焦りと、このブログ記事の執筆が授業者にとっての授業準備になっているせいで、総じてすべての授業が高密度だったが、その中で、まとまった文章を書かせることと、まとまった発表をさせることができなかったのが心残りだった。

 もちろん常に授業は議論発表の連続だった。毎時間、疲れるほどに頭を使ったはずだ。

 だが、準備に1時限以上の時間を費やすようなまとまった発表は実施する機会を逸してきた。


 学習とは「わかる」ことが目的ではない、と最初から言ってきた。わかったことが、何らかの形で活かされるのでなければ、「わかる」こと自体は自閉的な営みに過ぎない。「わか」った後に何ができるかが問われるのだ。「学力」が「生きる力」と措定されているのはそういうことだ。

 だから入力から考察を経て変形された情報は出力されなければならない。

 それもまた明らかに国語の学力だ。


 発表は「4つの文章を読んで、それなりに理解はしているが、繋げて考えることはしていない東葛生」を対象とした国語の授業のように、と設定した。

 つまり黒板に図示しながら語っていく。いわゆるプレゼンテーションである。


 どのような図を画くか。

 必ずしも完結したものでなくとも構わない。話の補助として、聴覚情報を視覚情報で補うのが目的だ。

 認識の構造は本当は4次元的なものだ。論理は3次元どころか、時間軸さえ飛び越えて連結する。

 それを2次元に投影したものが「図」だ。

 取り上げるべき情報を選んで、それを平面上に配置し、その関係を線などで示す。どこかを繋げ、どこかを区切り…。

 それをさらに1次元にしたものが「話」や「文章」だ。本当は4次元的な認識を時間軸に沿って並べていく。ジャングルジムを一筆書きするようなものである。あるいは複雑な建物の中を道案内するようなものだ。話し手・書き手は、聴き手・読み手に建物の構造を把握させる案内人だ。

 だからその出発点やら経路やら終点やらは、無限の可能性がある。同じところを何度も通ってしまったり、遂に通れないまま終わってしまう部分が残ったり、つながっていないところを跳躍したりして、聴き手・読み手を迷わせるような「話」「文章」もあるだろう。

 案内のための地図が、黒板に画く図である。

 その図を示しながら、皆をどんな認識に案内してくれるだろうか。


 さて、授業者なりに案内したのが前回までの4,5回の記事だ。

 これは「対比」「問いを立てる」「抽象と具体の往復」というメソッドを意識した一つの方法である。唯一の「正解」などではない。

 だから全ての班に発表してもらうことはできなかったのが残念だ。皆の議論の様子はとても活発で、レベルの高いやりとりをしていたように思う。

 籤にあたった班の発表もそれぞれ的確で、1年の集大成にふさわしい思考の成果を示していた。

 そして全ての班の発表は聞けなかったとはいえ、準備の段階でそれぞれの班の中で発表の流れを追いながら語りおろすことが、それぞれの班にとっての「まとまった発表」になっていたと思う。

 とはいえ、時間が足りなかったことはやはり心残りなので、せめて、みんなが用意してあった「図」だけでも紹介したい。

 これらはどれも板書を書き写したものなどではないことに価値がある。こうした図は、それを構想し、構築することだけに価値があるのであり、誰かが作ったものを見たり書き写したりすることにはほとんど価値がないのだ。授業者の板書も、皆の思考の共有基盤(プラットホーム)として機能することを意図しており、決して「まとめ」ではない。

 これらはそれぞれの作者の(班の)思考の過程を表わしている。

 



 A組N君の構想図。
 対比軸に沿って上下に振り分けた項目を横に並べていくという構図は授業者の想定に近いものだった。ここまでのブログ記事の文章にも近い。
 それに対し以下の図は、四つの文章の読み比べという設定を平面図に表わすのに、平面を四分割して各象限にそれぞれの文章の項目を割り振るというレイアウト。
 いずれも真ん中に共通する要素を置いて全体を一括したうえで、それぞれの文章で、それがどう語られているかを一望できるように配置している。

B組のOさんN君Iさん。的確な項目をシンプルに書き出してある。

B組のI君。カラフルなレイアウト図が目を引く。さらに、二つの文章間の共通領域をそれぞれ書けるようにレイアウトしていることで詳細な読解が可能になっている。

 その他、情報量の豊富さや項目の整理、見やすさの点で目を引いた図を挙げる。 

G組Oさん

A組Tさん


A組I君


D組Eさん


D組S君


G組O君


G組Mさん

 これらはそれぞれの班が発表用に準備したメモなので、「まとめ」としては上の図では不本意なところがあるかもしれないし、上記に引用した以外の班も、それぞれに工夫をした図を作成していたとは思う。本当はこれらの図を元にして、発表の際に肉付けしながら語りおろすところがそれぞれの班の腕の見せ所だったはずだ。
 実際にC組YさんR君のように、発表にあわせて書き加えていくことで情報量を充実させていく、図の生成過程を見せるのも有益だった。
 もう一つ、A組K君。
 構想の段階から、黒板に画く図、発表の骨子まで、タブレットを使って複数枚のメモを作成して発表の準備をしている。見事です。
メモ①

メモ②

板書①

板書②

板書③

発表要旨①

発表要旨②


 来年度もまたこうした「まとまった発表」の機会も、そして、「まとまった文章を書く」機会も作りたいと思う。
 だが特別そういう機会でなくとも、毎時間毎回の課題において、常に発表できる(書ける)だけのまとまりを、ひとりひとりが目指して考察を進めてほしい。

 学習の目的は「わかる」ことではない。「使う」「伝える」ことだ。

最後の読み比べ 4 対比の変奏

 それぞれの文章の対比を並べ、それらがどんなふうに整合するかを見ていこう。

 全体を通観するためのラベルは「である/する」だ。これと軸を共有できる対比を挙げる際は、左辺に「である」、右辺に「する」を並べる。そして、なぜそれが「である」なのか、「する」なのかは、「である/する」の言い換えのバリエーションから適宜表現を選んで対応させる。


 まずは「不均等な時間」。

 既に前の記事で「上野村/隣村」「伝統的な農業/農業経営・商品の生産としての農業」という対比を挙げてある。
 さらに誘導した「時間」を使った対比は何か?
 文中から表現を探す前に、そもそも題名の「不均等な時間」という言葉は、直接には文中にない。だが「ホンモノのおカネ」が「ニセガネ」を、「メカ少年」が「少年」を潜在的な対比として含み持っているように、「不均等な時間」は「均等な時間」と対比されることが前提されている。
 不均等な時間/均等な時間
 こういう、包括的でシンプルな表現がラベルには便利だ。
 この対比を本文中の表現を使って言い換えると?
 伝統的な時間/近代社会が作り出した時間
  自然の時間/合理的な時間
 循環する時間/時計の刻む時間
 いずれも、明確な対比として文中に置かれているわけではないが、様々な言い換えのバリエーションとして左右に振り分けておく。

 これらがなぜ「である/する」の対比と重なるのか?
 「伝統/近代」はそのまま「である/する」の対比であることは確認済み。
 また「合理的」も、「する」論理が「機能・効用・効率」重視であることからすれば当然言い換えとして認めていい。何にとって「合理的」かといえば経済価値を生むための「合理性」だが、経済といえば「する」論理が活かされるべき「部面」だったはずだ。
 これが「均等な時間」となぜ対応するかといえば、工場生産においては、時間を「均等な」ものとみなして管理することがコスト計算を可能にしたり、生産性の向上につなげたりすることができるようになるからだ。つまり「均等な時間」とは「機能・効率」=「する」論理なのである。

 一方の「不均等な時間」がなぜ「である」なのか?
 「不均等な時間」とは、時間の流れには濃淡や遅速があるということだ。そこで起こることや為すことはもともと一定していない。それが「自然な時間」の流れ方だ。
 「である」とは「地縁・血縁」にせよ「身分」にせよそのままの「自然」の状態を言っている。「自然」の時間は「不均等」であり、そうした時間はそれぞれの「かけがえのない個体性」をもった、交換不可能なものだ(この「交換可能/不可能」という対比は「この村」の方からの前借り)。

 次に「この村が日本で一番」の対比、「ローカル/グローバル」という対比がなぜ「である/する」なのか?
 「ローカル」は「この地域に生まれた自然や歴史、文化、コミューンとともに、自分もまた存在している」という意識である。「である」であることに疑問はない。
 それが「グローバル」化することはなぜ「する」化なのか?
 グローバル化とは「市場経済を舞台にして、すべてものを交換可能なものへと変えていく」ことだ。「経済」が「する」論理なのは確認済みとして「交換可能」であることはなぜ「する」論理に則っているのか?
 「する」論理とは、「機能」や「業績」を重視するということだ。逆にいえば、同じ「機能」「業績」を備えていれば、それが誰であるかを問わないということだ。
 「グローバル化」とは、世界中が「均等な」基準によって「交換可能」になることなのだ。
 「する」化=「グローバル化」=基準の均等化=時間の合理化=「交換可能」化は、人間をもまた交換可能にする。時給計算は人間の価値を時間によって均等に量るということだ。

 さていよいよ「南の貧困/北の貧困」だ。
 「貧困にならない/貧困になる」という対比は「金がある/金がない」という対比ではない。それは「貨幣からの疎外」を問題にしているのであって、それより問題なのは「貨幣へ疎外されていない/貨幣へ疎外されている」という対比である。
 これが「である/する」という対比とどう対応するのか?

 「貨幣への疎外」とは本文中で次のように説明されている。
貨幣を媒介としてしか豊かさを手に入れることのできない生活の形式の中に人々が投げ込まれる時、つまり人々の生がその中に根を下ろしてきた自然を解体し、共同体を解体し、あるいは自然から引き離され、共同体から引き離される時、貨幣が人々と自然の果実や他者の仕事の成果とを媒介する唯一の方法となり、所得が人々の豊かさと貧困、幸福と不幸の尺度として立ち現れる。
 ここに述べられている事態は、内山が述べている事態とまるで同じである。
たとえば
  • 上野村の人々にとっては、夕方の釣りも、春の山菜採りも、秋の茸狩りも、村人としての営みの流れの中にある。(…)ところが時計の刻む時間が価値を生む世界に身を置いた瞬間から、そのすべての関係が崩れ去ってしまうだろう。
  • 時計の時間が価値を生む社会への転換が、山村の暮らしや人々の意識のすべてを変えてしまうことを知っているからであろう。少なくともそこに自分たちの存在の形がないことを、村人たちは知っている。(「不均等」)
 まずはただちに両者に共通する「自然・共同体」が「である」価値を持ったものであることが確認できる。
 そこから「貨幣へ疎外される」ことがなぜ「する」化なのか?

 「貨幣への疎外」とは「貨幣」が豊かさの基準になることだ。そして内山が述べているのはそれを「時間」に置き換えただけだ。
 この置き換えが可能なのは、そのように置き換えられる「時間」とは「時計の時間が価値を生む」ような、そのまま貨幣への換算が可能な時間だからだ。商品の「コスト」計算や労働者の「賃金」計算は、時間を金額に換算することによって成り立つ。逆に言えば、そのように換算が可能な「時間」こそ「均等な時間」である。
 貨幣とは、その額面によって得られるものが決まっているということだから、つまり「機能・効用・効率」だ。何の? 「幸福と不幸の尺度」である。貨幣は「幸福」を手にできるという「機能」を持っている。どれほどの「幸福」が手にできるかという「効用」を表わしている。
 したがって「貨幣への疎外」もまた「する」化なのである。

 通観してみよう。

       である/する
かけがえのない個体性/機能・効用
    不均等な時間/均等な時間
     自然の時間/合理的な時間
        伝統/近代
      ローカル/グローバル
     交換不可能/交換可能
 見えない幸福の次元/貨幣へ疎外されている

 こうして通観してみると、4つの文章はすべて共通する対比軸に沿って対置された対比に基づいて論じられていることがわかる。
 ではこれらによって語られる「問題」とは何か?

2021年3月2日火曜日

最後の読み比べ 3 「問題」

 それぞれの文章では何が「問題」とされているか?

 「問題」という言葉は「question・theme」の意味と「problem・matter」の意味を含んでいる。この二つはどのような関係か?

 そもそも何事かを「problem・matter」だと感じ、その事について考えようとするから評論など書かれるのだ。だから基本的には、それらの「problem・matter」がどのようにして発生するのかとか、どのように解決を図るかといったあたりが「question・theme」となっているのだと考えられる。

 以下、二つの「問題」を混在させて語っていく。どちらかは文脈に応じて判断されたい。


  • 「である」ことと「する」こと

 この文章における問題を端的に表わす一語は?

 「倒錯」の一語が想起されてほしい。

 「倒錯」は二つに分けられる。どちらかが問題か?

 「非近代」と「過近代」だ。感触として「非近代」ではなく「過近代」の方が、ここで共通する問題圏にあるのだと、とりあえずは捉えられるだろうか。

 「過近代」というのはどのような状態をいうのだったか?

 それが他の文章とどのように重なるのか?


  • 不均等な時間

 何が問題かはわかりにくい。

 だが読み進めていくとかろうじて「すべての関係が崩れ去ってしまう」「時間に管理される」「自分たちの存在の形がない」「暴力」など、否定的イメージの表現がみつかる。これらの問題がどのようにして生じたのか? というのが問題だ。


  • この村が日本で一番

 こちらも「関係を見失う」などといった、「不均等な時間」と共通する問題が語られている。そこに「自然が荒れていく」といった問題も付加されている。

 さて問題は、こうした問題が今度は「ローカル/グローバル」という対比から、どのように導き出されるか、だ。


  • 南の貧困/北の貧困

 ここでの問題は言うまでもなく「貧困」だ。

 だが前述の通り、単に「貧困」といった場合、「貨幣からの疎外」を条件として結果的に成立する事態なので、あくまでここでは「貨幣への疎外」を問題として捉えなければならない。

 そして「南の貧困」と「北の貧困」は同じコンセプトで語られているが、今回の読み比べにおいては「南の貧困」の方が使える。授業では難解な表現が集中した「北の貧困」について考察するのに時間をかけたから印象に残っているようで、皆の話し合いを聞いているとそちらばかりが言及されているのだが、「北の貧困」とは「情報消費社会」における問題であり、内山が問題にしているのは「市場経済社会」だから、今回の近代化の問題に対応させるには「南の貧困」の方が適切だ。

 「『である』ことと『する』こと」も70年以上前の講演なので、やはりすぐれて現代的問題である「北の貧困」の、あの難解な議論に惑わされない方が良い。

 南の貧困という問題はどのようにして生ずるのか?


 これら「問題(problem・matter)」を全体としてどのように一括して表現したらよいか?

 そして、それらの「問題」が起こる機制を、それぞれの文章の対比から説明してみよう。これが「問題(question・theme)」である。


最後の読み比べ 2 対比

 まずはそれぞれの文章の主要な対比を明確にしよう。


  • 「である」ことと「する」こと

 全編対比によって論が進んでいる文章だ。とりあえずラベルは言うまでもなく「である/する」だが、言い換えのバリエーションも十数語は既に挙がっている。以下の対応に最適な語をここから選んだり、必要に応じて変形したりする。


  • 不均等な時間

 明らかな具体例として「上野村/隣村」という対比がある。これがどのような対比かも、比較的すぐにわかる。それを「伝統的な農業/農業経営・商品の生産としての農業」などと抽出するのにはもう一つ、ハードルがないわけではないが、できないことでもなかろう。

 だが文中に頻出する重要なキーワードは明らかに「時間」だ。これがどのような対比を形成するか?

 それは上の対比とどう対応しているか?


  • この村が日本で一番

 対比はわかりにくい。対比がわかりにくいことが内山節の文章のわかりにくさだ。それでも読み進めていくと「ローカル/グローバル」という対比が見つかる。

 これはどのような対比なのか?


  • 南の貧困/北の貧困

 対比は題名に示されているように「南/北」だろうか? もちろん違う。「南/北」は類比・並列であって、上の三つの文章の対比のように「対立」ではない。重ねることはできない。「本来的な必要/新しい必要」「必要/需要」などの既に授業で考察した対比も、結論から言えば、上の問題とは重ならない。もちろん「相対/絶対」でも「主観/客観」でもない。これらはそれぞれ別な問題を論ずる上で設定された対比である。

 今回の比較読みで問題にしたい対比は「貧困にならない/貧困になる」である。

 これは言われてみれば当然だろう。この文章全体の「問い」は「なぜ貧困は生ずるのか?」だったのだから。だが、盲点に入っている可能性が高い。本文中では目立つ形で対比的には表現されていないからだ。

 これはどのような対比なのか?


 これは「富裕/貧困」という対比ではない。

 「貧困」は「二重の疎外」によって起こる。どちらの「疎外」が問題なのか?

 もちろん「貨幣への疎外」だ。「富裕/貧困」という対比は「貨幣からの疎外」を問題としている。「への疎外」が起こっているか否かが対比されるべきなのだ。


 実は上の四つの文章の対比は左右の向きを揃えてある。

 それぞれの対比がどのように同じ「問題」を論ずるための対比なのかを考えることでとりあえず思考は進む。

最後の読み比べ 1 方法論

 「『である』ことと『する』こと」と「南の貧困/北の貧困」をひとまず読み終えた。

 今年度の最後は、重量感のあるこの二つの評論をつなぐ論理を見つけ出す。


 授業者自身がこれをやろうと思いついたきっかけは、昨年の終わり頃、偶然の機会があって内山節の「不均等な時間」を読んだことによる。特別にこれらを結びつける発想をすることがないほどに時期が離れていれば、それぞれはバラバラな問題を論ずる文章としてしか読まれなかったかもしれない。実際、2年前に2学年を受け持って「『である』ことと『する』こと」と「南の貧困/北の貧困」を授業で読んだときは、それぞれに「『市民』のイメージ」や「『贅沢』のすすめ」との読み比べはしたが、「である」と「貧困」を結びつける発想はなかった。

 だが今回、この後で授業で読む「『である』ことと『する』こと」と「南の貧困/北の貧困」を想起しやすい状態で「不均等な時間」を読んでみると、それぞれに共通する論旨を読み取れることに気づいた。ならば内山節を介して、すべてを大きな問題圏の裡にあるものとして捉え直せるのではないか?


 これまでの授業での読み比べ同様、まずは全体の感触として、それぞれの論旨がどのような位置関係にあるのかを掴む。そのうえで、どうしてそのような読解が成り立つのかを、それぞれの文章の一節と一節を対応させつつ語っていく。

 また、「『である』ことと『する』こと」と「『市民』のイメージ」「市民社会化する家族」を読み比べたときには、後2者を「である/する」という対比を使って読み解いたのだった。この方法は今回も使える。「不均等な時間」と「この村が日本で一番」を、「である/する」図式で読むのだ。

 そして内山節を介して「南の貧困/北の貧困」もあらためて「である/する」図式に落とし込む。


 だがこのような方法を漫然と実行するだけでは時間がかかりすぎる。本当は方法自体も模索させ、試行錯誤させたいのだが、その時間は残念ながら残されていない。

 ここまで繰り返し実行してきた考え方、読み方のメソッドは今回もまた有効だ。無意識に使えることこそ本当に技術が身についた状態だとはいえ、とりあえずは意識的に使うことを心がける。「問いを立てる」「対比」「抽象と具体の往復」など、1年間で実践してきたメソッドを思い起こそう。これらのテクニックを駆使して考えを進めていく。

 これらの考え方は、自分が考える上でも、班の議論のプラットホームとしても有効だ。あてもなく漫然とテキストをなぞってみたり、噛み合わない感想をポツリポツリと言い合うだけでなく、方法論を意識して思考や議論の方向性を明確にする。

  •  それぞれの文章の対比を確認しよう。
  •  それぞれの文章が「問題」としてとりあげているのは何か?
  •  上の「問題」は具体的にはどのような事態として現われているか?

 こうした、同じ型に沿ってそれぞれの論から要素を抽出して並べてみる。


2021年2月22日月曜日

南の貧困/北の貧困 8 対応/相関

 「必要/需要」という対比によって明らかにしようとしているのは何か?


 この文章は、大きく言えば「貧困はなぜ起こるのか?」について述べている。だから「本来的な必要/新しい必要」という対比によって明らかにしたいことも、そのまま展開していけばそこに辿り着く。そのための一つの前提を導くための対比である。それは確認したのだった。

 同様に「必要/需要」も、やがて貧困が起こる機制(=仕組み)に辿り着く。

 そのための論理の筋道を見つけることがここでの目標だ。


 そして「言いたいこと」の最後は「だから貧困が起こる」であるはずだ。その事を忘れず、そこまでの論理展開をたどらなければならない。

  どうすればいいか?

 まず、問題の二文を、「システムは」を主語とする「~ではなく、」型の一文に言い換えてみよう。

本来的な必要であれ新しい必要であれ、既に見たように現代の情報消費社会は、人間に何が必要かということに対応するシステムではない。「マーケット(市場)」として存在する「需要」にしか相関することがない。

            ↓

現代の情報消費社会のシステムは、人間の「必要」に対応するのではなく、市場の「需要」にしか相関していない。


 これは単なる構文の変換操作だが、こうした操作を、潜在的にであれ、論理操作において自然に行えることが、解釈の助けになる。

 「対応していない」はその後の文脈で何と言い換えられているか?

 「関知しない」である。

 システムは「需要」に「相関」する。だが「必要」には「関知しない」のである。


 「だから?」と問いながら小さな結論を確認していくことで論理展開を進めていく考察方法もある。

 一方で、結論から迎えにいくこともできる。論理は、両方から接点を探っていくのが有効だ。

 「だから貧困が起こる」という結論にいたる直前の論理展開と思われるのは、本文のどこか?

 「~関知するところではないという落差の中に『北の貧困』は構成されている。」というくだりだ。

 「関知しない」は「落差」を生み、それが「北の貧困」を生んでいるのだ。


 「落差」とは何と何の「差」?

 こう聞くと、「本来的な必要/新しい必要」だとか「必要/需要」だとか考えたくなるのは授業の展開上尤もではあるが、論理的ではない。「金持ちと貧乏」という珍妙な答えも各クラスで出てきた。貧乏は既に「貧困」なのであって、金持ちと貧乏の落差によって貧困になるのではない。金持ちとの落差によって貧乏なのだとしたら、それは「相対的」ということだ。

 何と何の間に「落差」があると「貧困」になるか?

 小学生でもわかる、と言うと皆、素直に考える。

 「必要なお金」と「持っているお金」の「落差」である。

 次の一節は、それを言っているのだ。

システムがそれ自体の運動の中で、ますます複雑に重層化され、ますます増大する貨幣量によってしか充足されることのできない必要を生成し設定しながら、必要に対応することはシステムにとって原理的に関知するところではないという落差

 前半は「必要なお金」の水準が高いことを言っている。これは前の「本来的な必要/新しい必要」の対比から得られた結論だ。

 「ながら」は並行の助詞ではなく逆接の接続助詞。「必要は高い水準に設定されるけれども」の意味。

 そして後半「必要に対応することはシステムにとって原理的に関知するところではない」は「持っているお金」がどうだと言っているのか?


 対比されている対立項目を結論に結びつけるには、先ほどの一文の語順を変えると良い。

現代の情報消費社会システムは、人間の「必要」に対応するのではなく、市場の「需要」にしか相関していない。

 よりも

現代の情報消費社会システムは、市場の「需要」に相関するだけで、人間の「必要」に対応していない。

 という方がわかりやすい。

 この「対応していない」が「対応は関知していない」に言い換えられるわけだ。

 これは「保障しない」くらいのニュアンスだと考えればいい。

 人間の「必要」を保障しない…。

 「保障」は「保証・補償」との同音異義が問題になりやすいが、基本的には「障害から保護する=困らないように守る」という意味だ。つまり、必要を満たすだけの「持っているお金」を供給することなど「保障しない=関知しない=対応しない」のである。


 システムは「必要」を満たすため高いお金が要るよう「地平」をつり上げる。だがそのお金の供給は保障してくれない。

 これはまさしく「貨幣への疎外」の上に「貨幣からの疎外」があるということだ。

 「北の貧困」もまた「二重の疎外」に拠るのである。

 

2021年2月18日木曜日

南の貧困/北の貧困 7 必要/需要

 情報消費社会における「必要」の地平は、差異化によって「常に更新されてゆく」。北の国で生きていくためには南の国の10倍の金が要る。

 「本来的な必要/新しい必要」という対比はこのことをいうための対比だった。

 だが「『贅沢』のすすめ」の「浪費/消費」の対比に対応する対比を「南の貧困/北の貧困」から探した折に、「本来的な必要/新しい必要」ではなく、その隣の行の「必要/需要」を挙げた者も多かった。

 ではこの対比は何を意味しているのか?


 付せられた形容が手がかりにはなる。

 「人間に(とっての)必要/マーケットとして存在する需要」だ。

 だがその言葉の意味を説明していくだけでは、その意味が「わかった」とは思えないはずだ。「人間にとっての必要」と「マーケットとしての需要」という表現は、それなりに「わかる」。わからないほど難解な表現ではない。だが両者を対比的に並べることによって何を言いたいのかを捉えないと、この部分が「わかった」とは思えないのだ。

 対比を用いるのは、何かを明確にしたいからだ。だから「必要/需要」という対比が何を明らかにするための対比なのかを考える。

 だがにわかにはその意図は読めない。


 これは「本来的な必要/新しい必要」の変奏だろうか?

 あるいは「主観・相対/客観・絶対」の?


 「主観・相対/客観・絶対」という対比は「新しい必要」の「地平」の高さが「客観・絶対」的であることをいうための対比だ。「本来的な必要」が「主観・相対」的なわけでもないから、上の二つの対比軸は全く別の位相にある。

 「必要/需要」という対比はまたさらに別の対比軸に沿って配置されている。

本来的な必要であれ新しい必要であれ、既に見たように現代の情報消費社会は、人間に何が必要かということに対応するシステムではない。「マーケット(市場)」として存在する「需要」にしか相関することがない。

 上の文では「本来的な必要/新しい必要」という対比は「であれ」で接続する「並列」だ。だがそこまでの論は、やはりこれを「対立」と見なすことで進んできたのだ。

 そのうえで、この一節は、語順を変えて「既に見たように現代の情報消費社会は、本来的な必要であれ新しい必要であれ、人間にとっての『必要』に対応するシステムではない。マーケットとして存在する『需要』にしか相関することがない。」と並べ替えてしまえば明らかなように、「本来的な必要/新しい必要」が「人間にとっての必要」とまとめられているのである。その上で、それと「需要」が対比されているのである。


 そしてさらに「必要/需要」は「ではない」で挟まれているのだから、明らかな「対立」的対比項目だ。

 では「必要/需要」という対比によって何を明らかにしたいか?


2021年2月17日水曜日

南の貧困/北の貧困 6 常に更新されてゆく水準

 「幾重にも間接化された充足」について考察するために、國分功一郎「『贅沢』のすすめ」を援用して、何が間に挟まっているのかを考察した。

 我々と「物」との間を、「メディア」を通して「他者」の欲望が乱反射した「観念や意味」=「情報」が隔てている。

 「幾重にも間接化された」のイメージとしてこれが適切だと考えられるのは、見田がこの前後の文脈の中で「情報消費社会」という言葉を再三使っているからだ。「貨幣」が間に入るというのは南の国でもそうだし、「流通経路」の重層化による「間接化」が問題だとしたら、おそらく「資本主義社会」「市場経済社会」という言葉を使っているはずだ。「必要から離陸した欲望を相関項とする」という表現も、「物」が我々の手に届くまでの物理的な「間接化」のことよりも、「メディア」による「情報」の付加を意味していると考えられる。


 さて、これで何が明らかになったのか?

 「幾重にも間接化されている」からどうだというのか?

 このブログではそれを疑問として明示したが、自分で文章を読んでそれを意識するのはなかなかに難しい。

 どんな問いだったか?


 「北の貧困」の考察を始めるところで掲げた疑問は「なぜ北の国の必要の地平=水準は高いのか?(10倍あっても足りないのか?)」だ。答えは出ただろうか?

 つまり「幾重にも間接化され」ているから「高い」のだ。間に入るものが少ない方が安いであろうことは道理だ。

 「貨幣」が間に入ることについては南の国々でももはや「貨幣への疎外」によって同様の状態になっている。それより「10倍」であることの理由を今は問うているのだ。

 もちろん「資本主義社会・市場経済社会」も地平=水準を高く「つり上げ」るには違いない。「流通経路」が「重層化」すれば、それだけ中間搾取がはたらいて、コスト分が価格に反映する。そもそも「資本主義」は利益を生み出すために地平=水準を「常に新しく更新」する。

 では「情報消費社会」において、なぜ地平=水準は「常に新しく更新されてゆく」のか?


 「消費」は「観念や意味」を消費しているのだ、というのが國分功一郎の定義だ。

 ここに丸山圭三郎「ロゴスと言葉」を応用しよう(「懐かしい」とか「忘れた」言うな。今年度のことだ)。

 「意味」とは何か?

 「ロゴスと言葉」において、言葉の意味とは、まずは「カテゴリー」のことだと説明されていた。だがそれではまだここに応用できない。

 「カテゴリー」は何によって生ずるか?

 「分節化」による。近づいた。では「分節化」とは何か?

 「ロゴスと言葉」の結論は、言葉の意味とはカテゴリーであり、カテゴリーとはそれとそれ以外のものを分節すること、つまり差異化によって生ずる、というものである(「Water/non-water」という差異化)。

 つまり「差違」が「意味」を生むのだ。

 「情報」とは「差違」である。デジタル情報とはonとoff、1と0の違いだ。

 このことは國分功一郎が述べている何の例と対応しているか?


 「モデルチェンジ」と「個性」だ。前のモデルとは違うこと、他人と違うこと、いずれも、差違が享受すべき意味=価値を生んでいるのである。

 とすれば、「必要の地平」は「常に更新されてゆく」しかない。更新という差異化こそが「意味」を作り出すからだ。差異化されないものは単なる「物」でしかない。それは「本来的な必要」の対象だ。


 こうして、「幾重にも間接化された」必要の地平=水準は「常に更新されてゆく」。だから北の国で生きていくためには南の国の10倍の金が要る。

 「本来的な必要/新しい必要」という対比はこのことをいうための対比だ。


南の貧困/北の貧困 5 浪費/消費

 「『贅沢』のすすめ」の最も重要な対比が「浪費/消費」であることは明白だ。

 一方「南の貧困/北の貧困」においてこれに対応する対比は「本来的な必要/新しい必要」である。

 この対比も、一旦それについて考え始めると自明のように思えてしまうが、自分で探そうとすると案外に見つからない者も多かった。

 「本来的」も「新しい」も、文中に何度も使われながら、明らかに並んで登場するのは153頁の「本来的な必要であれ新しい必要であれ」という箇所だけだ。

 この書き方は「並列」ではあるが「対立」ではない。「対比」は多くの場合「対立」だが、頻度は少ないものの「類比」や「並列」の場合もある。


 これら二つの対比はどのような意味で対応しているのか?


 授業で「浪費/消費」の違いは何かと問うと、「限界がある/ない」の違いだと答える者がどのクラスでも多かったが、それは副次的な結果だ。まず國分功一郎はどのような意味で「浪費/消費」という使い分けをしているかを捉えなければならない。

 どのような意味で「浪費/消費」を使っているか?


 「浪費/消費」を分けるのは「物/観念や意味」という対比である。

 「浪費」=「物」の享受はやがて満足をもたらすから「限界がある」が、「消費」=「観念や意味」の享受は満足をもたらさず「延々と繰り返される」=「限界がない」。

 これを「本来的な必要/新しい必要」という対比と重ねてみる。

 「本来的な必要」とは「物」への欲望だ。食べたい・着たい…。

 「新しい必要」とは「観念や意味」への欲望だ。それは「必要から離陸した欲望」だ。だから「延々と繰り返される」=「限界がない」=「常に新しく更新される」。


 そこではどのような意味で「幾重にも間接化され」ているのか?

 ひとまずは「観念や意味」が間に挟まっている、とも言える。

 さらに我々が「消費」する「観念や意味」はどのようにして生まれるのか?

 ここは、先に「流通経路」について想像したように、具体的に想像できることが文章の解釈に必要だ。抽象的な言い回しは、それに該当する具体例を思い浮かべられなければ「わかった」と思えない。


 國分功一郎が「消費」を説明するために挙げているのは「グルメブーム」の中で食事をするという例だ。

 ここで「観念や意味」を生んでいるのは?

 「宣伝」である。これをさらに抽象化して言うと?

 口コミやSNS、インターネット、テレビや雑誌などのマスメディアなどである。これらを総称して「メディア」と呼ぼう。「メディア」とは「媒体」という意味だ。つまり媒介する=間に挟まっているものである。

 単なる「物」はメディアを通じて「観念や意味」を身にまとう。我々が必要とする=欲望するのは、そのような「物」である。


 「貨幣」が挟まるとことと「観念」が挟まることを並列してみるように、「流通経路」と同じ程度の抽象度として「メディア」という概念を想起することはきわめて重要である。

 上に、具体例を思い浮かべられることが「わかった」と思えるために必要だと書いたが、さらに具体例を想起したうえで、そこから抽象的な把握をすることが「わかる」ということである。抽象化のためには具体例がいくつも想起されていなければならない。

 具体と抽象の往還ができれば「わかった」と思える。


 さらに、「メディアを通して間接化される」という事態をさらに抽象化してみよう。

 メディアの向こうにいるのは「他者」である。誰かがそれを美味しいと言っていたのだ。誰かが「いいね」をクリックしていたのだ。誰かがそれを推していたのだ。

 メディアによって付加される「観念や意味」は常に「他者の欲望」である。欲しいのは私に必要な物ではなく、誰かが必要としている物だ。誰かが欲しがっているから、それは私にとって欲しい物になるのである。

 我々の「必要」は「他者」によって「間接化」されている。


 我々の「必要」は、狩猟採集的「直接的充足」から見ると、これでもかというほど「間接化」されている。

 「貨幣」「流通経路」「観念や意味」「メディア」「他者」…。


2021年2月16日火曜日

南の貧困/北の貧困 4 幾重にも間接化された充足

 厄介な「部分」を、まずはゴリゴリと解釈していこう。

現代の情報消費社会のシステムは、ますます高度の商品化された物資とサービスに依存することを、この社会の「正常」な成員の条件として強いることを通して、本来的な必要の幾重にも間接化された充足の様式の上に、必要の常に新しく更新されてゆく水準を設定してしまう。


 上の前半は北の国における「貨幣への疎外」だ。そのまま「貨幣への疎外を通して」と読み替えることができる。「依存する」「強いる」は「疎外」の「支配される」「本来のあり方を失った」感じを表わしている。

 問題は後半「本来的な必要の幾重にも間接化された充足の様式の上に」だ。ここがすんなりと腑に落ちると感ずる読者は多くないはずだ。


 まず「様式」や「の上に」が鬱陶しいが、後回しにする。

 「充足」という名詞も、上記の「疎外」同様に解釈の妨げになるので、「必要は幾重にも間接化されて充足する」と、動詞化して考える。

 「間接化」は「直接」を対比的に想定する。「直接充足される」こととの対比で「間接的に充足される」という事態を想像しよう。

 「必要」が「直接充足される」状態?

 例えば狩猟採集生活。

 狩猟採集によって食べ物を手にすることに比べ、間に何が挟まるというのか?

 まずはいうまでもなく貨幣だ。お金を出さなければ「充足」されない。

 だがまだ「幾重にも」がわからない。


 想像してみよう。山の中の木から林檎をもいで食べる。これが「直接的な充足」だとする。それに対して、現代の消費社会で実際に我々がそれを口にするまでにどのような経路が想定されるか?

 まず、我々は八百屋であれスーパーであれ、小売業者から林檎を買う。その前に配送業者が店舗に品物を運んでくる。農協からかもしれないし仲買業者からかもしれないし、巨大商社かもしれない。農家から我々の手元に林檎が届くまでに、既に様々な売り買いを経ているし、その間には配送業者も介在している。

 さらに林檎を育てるためには、様々な農機具や農薬・肥料などが必要となる。

 我々が林檎を食べるまでには、「幾重にも」生産流通システムが介在して「間接化され」ているのである。

 工業製品はさらに複雑だ。原料→部品→製品→商品と、「幾重にも間接化されて」初めて我々の手に届く。


 これで「物価が高い」理由は説明されただろうか?

 間違ってはいない。だがそれが「常に新しく更新されてゆく」理由についてはまだ不十分である。

 どう考えたらいいか?


 ここで國分功一郎の出番だ。

 冬休みの宿題では、「『贅沢』のすすめ」と「南の貧困/北の貧困」の何頁が関連するか? と問うたが、実はこれは152頁でも153頁でも良い。この辺り一帯を考えるのに参考になるのである。

 対応を見るためには共通の語を手がかりにするのが常套手段だが、もう一つ、今回は対比の考え方を用いる。

 「『贅沢』のすすめ」の最も重要な対比は何か?

 「南の貧困/北の貧困」のこの部分の対比は何か?


2021年2月15日月曜日

南の貧困/北の貧困 3 「必要」の新しい地平

 「南の貧困/北の貧困」の主旨はこれで捉えられた。「貨幣への疎外」にこそ本論の中心がある。

「南の貧困」をめぐる思考は、この第一次の引き離し、GNPへの疎外をまず視界に照準しなければならない。

 これは国際関係・貧困・途上国支援などの問題を考える上できわめて重要な視点で、例えば小論文などを書く際にも有用な視点だ(平たく言えば「使える」)。


 応用してみよう。

けれども「南の貧困」や南の「開発」を語る多くの言説は、実際上、このあたりまえのことを理論の基礎として立脚していないので、認識として的を失するだけでなく、政策としても方向を過つものとなる。

 ここでいう「過ち」とはどのようなものか? どのような「方向」へ「過つ」のか? 方向を過った「政策」とはどのようなものか?


 「二重の疎外」を「理論の基礎として立脚していない」というのだから、つまり最初に「貨幣への疎外」があることを視野に入れず、「貨幣からの疎外」に対する施策しか考えていないということだ。

 具体的には?

 金がないことが問題なのだと考えるから、手っ取り早いのは財政支援であり、長期的にみても発想しやすいのは開発である。たとえそれがSDG’s的な理念に則っていようとも、それは対症療法的な対策であり、却って「貨幣への疎外」を強めることになるかもしれない。「目に見えない幸福の次元を失う」悲劇は拡大する。


 じゃあどうすべきかは、言わば社会科(現代社会・政治経済)の分野で、国語科的には、まずは文脈をこのように把握することが必要だ。


 「全体」は捉えた。となれば次は「部分」である。

 「貧困」のコンセプトは「南」の国々でも「北」の国々でも同じように「二重の疎外」だという(152頁下段)。

 すると、北の国の人々も、お金を持っていなければ貧乏なのは当然として、その前に「貨幣の疎外=貨幣を必要とする生活に投げ込まれる」という事態が起きているということになる。

 当然だ。北の国の人々も、お金がなければ生きていけない。

 ただし南の国と違うのは次のような事態である。

東京やニューヨークでは、巴馬瑤族の一〇倍の所得があっても実際に「生きていけない」。これは隣人との比較や不平等一般の問題ではなく、絶対的な必要を充足することができないということである。つまりその生きている社会の中で「普通に生きる」ことができない。これは羨望とか顕示といった心理的な問題ではなく、この社会のシステムによって強いられる客観性であり、構造の定義する「必要」の新しい地平の絶対性である。

 いきなり言い回しが難しくなる。無用に難しい。

 だが少なくとも、「~ではなく」で示される対比が2回使われているのは意識すべきだ。

  1. 隣人との比較や不平等一般の問題/絶対的な必要を充足することができない
  2. 羨望とか顕示といった心理的な問題/社会のシステムによって強いられる客観性・構造の定義する「必要」の新しい地平の絶対性

 まず1は、後項の「絶対的」に対比されているのだから、前項の「隣人との比較・不平等の問題」とは「相対的」な問題ということになる。

 2でも後項で「客観性・絶対性」とあるから、前項「心理的な問題」は「主観性・相対性の問題」だと捉えられる。「羨望(うらやましいなあ)」も「顕示(どうだうらやましいだろう)」も「心理的」であり、それはすなわち「主観的」で、かつ他人との比較の問題だから「相対的」なのだ。

 心理的=主観的/客観的

     相対的/絶対的

 つまり、北の国で生きるための「必要」は、主観的・相対的にではなく、客観的・絶対的に高い「地平」に設定されているというのだ。

 この「地平」にまたも目が眩んでしまう。が、続く文章中に言い換えがある。

 何か?

 「水準」である。これがわかれば、つまり北の国で生きるには高い金が要る、と言っているに過ぎないことがわかる。

 それだけのことを言うのにああした言い回しをしてしまうのは、別に見田が意地悪であるとか衒学的だとかいうのではなく、恐らく天然なのだ。


 貧困は、まずこの「必要」の水準をシステムが決め(貨幣への疎外)、それに貨幣が足りない場合(貨幣からの疎外)に起こるのだから、北の国の貧困も、やはり「二重の疎外」によるのだという趣旨はわかる。

 問題は、なぜ北の国の「必要」の地平=水準は高いのか、だ。

 単に物価が高いということか?

 152頁下段からの「北の国」編では、この問題を解説した部分に、さらに一層の難解な言い回しが登場して、読者に目眩を起こさせる。

現代の情報消費社会のシステムは、ますます高度の商品化された物資とサービスに依存することを、この社会の「正常」な成員の条件として強いることを通して、本来的な必要の幾重にも間接化された充足の様式の上に、必要の常に新しく更新されてゆく水準を設定してしまう。

 このような一節を読んで、すんなりと頭に入る人がいるという想定がどうかしている。見田宗介にしてみれば、半ばは美意識でもあろうし、やさしくわかりやすい文章を書くのが面倒だということでもあろうが。

 さてどうするか?

 ひたすら力押しでゴリゴリ考えていくという手もある。もちろんここだけを見ていないで、前後を参照しつつ、だ。

 だが、ここは國分功一郎の「『贅沢』のすすめ」を参考にして考えを駆動しよう。

 どうしたらいいか?


2021年2月8日月曜日

「である」ことと「する」こと 11 使い回す

 「『である』ことと『する』こと」を読み進めたら日野啓三「『市民』のイメージ」と読み比べることは予告しておいた。

 さらにここに今村仁司「市民社会化する家族」を加えて、三つの文章の論旨の関係を考えてみよう。


 三つを一度に視野に収めるために必要な高さまで視点を持っていって、全体を俯瞰しなければならない。一つ一つの文章はその分、圧縮してその論旨を捉えておく。

 その上で、関係づけるために、接点として使える共通項を見つける。

 後から加えた二つの文章の共通点は題名に明らかだ。「市民」である。

 だがそれは直接的には「『である』ことと『する』こと」には登場しない。

 他には?

 例えば「『である』ことと『する』こと」と「市民社会化する家族」には、最も重要な用語が共通している。何か? またそれは「『市民』のイメージ」には適用できないか? 


 こんなふうにして共通項を接点とするつながりを探っていくのは有効だが、全体を俯瞰するための方略についての見通しもあわせて考えていきたい。


 「『である』ことと『する』こと」という講演における丸山の主張は確認した。それはそれで現代の問題にも適用して考えていけばいい。

 だがこれを文章として読んだ我々が、政治に対して行動を起こすとまでいかなくても、またそうした行動の指針としてのみ丸山の主張が有効なのでもなく、ここから得た認識はもっと汎用性のある考え方として、これを活かすこともできる。

 どういう考え方?

私たちはこういう二つの図式を想定することによって、そこから具体的な国の政治・経済その他さまざまの社会的領域での「民主化」の実質的な進展の程度とか、制度と思考習慣とのギャップとかいった事柄を測定する一つの基準を得ることができます。

 「である/する」図式は考え方・判断の「基準」になる、というのだ。

 これは例えば「『市民』のイメージ」「市民社会化する家族」で述べられている事柄を「である/する」図式を適用して考えることができるということだ。そして「さまざまの社会的領域での『民主化』の実質的な進展の程度とか、制度と思考習慣とのギャップとかいった事柄を測定する」ことが可能になるということだ。


 「『である』ことと『する』こと」を前後半に分けるときに、まず直感的に「前半は『する』推しで、後半は『である』推しだなぁ」と思えることが重要なように、三つの文章の関係を把握しようとしたときに、まず「『市民』のイメージ」は「する」推しで、「市民社会化する家族」は「である」推しだ、と把握されなければならない。

 これは「『市民』のイメージ」が「非近代的」で、「市民社会化する家族」が「過近代的」だということをそのまま意味しはしない。後者はそのとおりなのだが、前者は誤っている。どういうことか?

 これも必要に応じて説明ができなければならないが、まずは、そうだ、と思えることが必要だ。