2021年2月17日水曜日

南の貧困/北の貧困 5 浪費/消費

 「『贅沢』のすすめ」の最も重要な対比が「浪費/消費」であることは明白だ。

 一方「南の貧困/北の貧困」においてこれに対応する対比は「本来的な必要/新しい必要」である。

 この対比も、一旦それについて考え始めると自明のように思えてしまうが、自分で探そうとすると案外に見つからない者も多かった。

 「本来的」も「新しい」も、文中に何度も使われながら、明らかに並んで登場するのは153頁の「本来的な必要であれ新しい必要であれ」という箇所だけだ。

 この書き方は「並列」ではあるが「対立」ではない。「対比」は多くの場合「対立」だが、頻度は少ないものの「類比」や「並列」の場合もある。


 これら二つの対比はどのような意味で対応しているのか?


 授業で「浪費/消費」の違いは何かと問うと、「限界がある/ない」の違いだと答える者がどのクラスでも多かったが、それは副次的な結果だ。まず國分功一郎はどのような意味で「浪費/消費」という使い分けをしているかを捉えなければならない。

 どのような意味で「浪費/消費」を使っているか?


 「浪費/消費」を分けるのは「物/観念や意味」という対比である。

 「浪費」=「物」の享受はやがて満足をもたらすから「限界がある」が、「消費」=「観念や意味」の享受は満足をもたらさず「延々と繰り返される」=「限界がない」。

 これを「本来的な必要/新しい必要」という対比と重ねてみる。

 「本来的な必要」とは「物」への欲望だ。食べたい・着たい…。

 「新しい必要」とは「観念や意味」への欲望だ。それは「必要から離陸した欲望」だ。だから「延々と繰り返される」=「限界がない」=「常に新しく更新される」。


 そこではどのような意味で「幾重にも間接化され」ているのか?

 ひとまずは「観念や意味」が間に挟まっている、とも言える。

 さらに我々が「消費」する「観念や意味」はどのようにして生まれるのか?

 ここは、先に「流通経路」について想像したように、具体的に想像できることが文章の解釈に必要だ。抽象的な言い回しは、それに該当する具体例を思い浮かべられなければ「わかった」と思えない。


 國分功一郎が「消費」を説明するために挙げているのは「グルメブーム」の中で食事をするという例だ。

 ここで「観念や意味」を生んでいるのは?

 「宣伝」である。これをさらに抽象化して言うと?

 口コミやSNS、インターネット、テレビや雑誌などのマスメディアなどである。これらを総称して「メディア」と呼ぼう。「メディア」とは「媒体」という意味だ。つまり媒介する=間に挟まっているものである。

 単なる「物」はメディアを通じて「観念や意味」を身にまとう。我々が必要とする=欲望するのは、そのような「物」である。


 「貨幣」が挟まるとことと「観念」が挟まることを並列してみるように、「流通経路」と同じ程度の抽象度として「メディア」という概念を想起することはきわめて重要である。

 上に、具体例を思い浮かべられることが「わかった」と思えるために必要だと書いたが、さらに具体例を想起したうえで、そこから抽象的な把握をすることが「わかる」ということである。抽象化のためには具体例がいくつも想起されていなければならない。

 具体と抽象の往還ができれば「わかった」と思える。


 さらに、「メディアを通して間接化される」という事態をさらに抽象化してみよう。

 メディアの向こうにいるのは「他者」である。誰かがそれを美味しいと言っていたのだ。誰かが「いいね」をクリックしていたのだ。誰かがそれを推していたのだ。

 メディアによって付加される「観念や意味」は常に「他者の欲望」である。欲しいのは私に必要な物ではなく、誰かが必要としている物だ。誰かが欲しがっているから、それは私にとって欲しい物になるのである。

 我々の「必要」は「他者」によって「間接化」されている。


 我々の「必要」は、狩猟採集的「直接的充足」から見ると、これでもかというほど「間接化」されている。

 「貨幣」「流通経路」「観念や意味」「メディア」「他者」…。


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