2021年2月15日月曜日

南の貧困/北の貧困 3 「必要」の新しい地平

 「南の貧困/北の貧困」の主旨はこれで捉えられた。「貨幣への疎外」にこそ本論の中心がある。

「南の貧困」をめぐる思考は、この第一次の引き離し、GNPへの疎外をまず視界に照準しなければならない。

 これは国際関係・貧困・途上国支援などの問題を考える上できわめて重要な視点で、例えば小論文などを書く際にも有用な視点だ(平たく言えば「使える」)。


 応用してみよう。

けれども「南の貧困」や南の「開発」を語る多くの言説は、実際上、このあたりまえのことを理論の基礎として立脚していないので、認識として的を失するだけでなく、政策としても方向を過つものとなる。

 ここでいう「過ち」とはどのようなものか? どのような「方向」へ「過つ」のか? 方向を過った「政策」とはどのようなものか?


 「二重の疎外」を「理論の基礎として立脚していない」というのだから、つまり最初に「貨幣への疎外」があることを視野に入れず、「貨幣からの疎外」に対する施策しか考えていないということだ。

 具体的には?

 金がないことが問題なのだと考えるから、手っ取り早いのは財政支援であり、長期的にみても発想しやすいのは開発である。たとえそれがSDG’s的な理念に則っていようとも、それは対症療法的な対策であり、却って「貨幣への疎外」を強めることになるかもしれない。「目に見えない幸福の次元を失う」悲劇は拡大する。


 じゃあどうすべきかは、言わば社会科(現代社会・政治経済)の分野で、国語科的には、まずは文脈をこのように把握することが必要だ。


 「全体」は捉えた。となれば次は「部分」である。

 「貧困」のコンセプトは「南」の国々でも「北」の国々でも同じように「二重の疎外」だという(152頁下段)。

 すると、北の国の人々も、お金を持っていなければ貧乏なのは当然として、その前に「貨幣の疎外=貨幣を必要とする生活に投げ込まれる」という事態が起きているということになる。

 当然だ。北の国の人々も、お金がなければ生きていけない。

 ただし南の国と違うのは次のような事態である。

東京やニューヨークでは、巴馬瑤族の一〇倍の所得があっても実際に「生きていけない」。これは隣人との比較や不平等一般の問題ではなく、絶対的な必要を充足することができないということである。つまりその生きている社会の中で「普通に生きる」ことができない。これは羨望とか顕示といった心理的な問題ではなく、この社会のシステムによって強いられる客観性であり、構造の定義する「必要」の新しい地平の絶対性である。

 いきなり言い回しが難しくなる。無用に難しい。

 だが少なくとも、「~ではなく」で示される対比が2回使われているのは意識すべきだ。

  1. 隣人との比較や不平等一般の問題/絶対的な必要を充足することができない
  2. 羨望とか顕示といった心理的な問題/社会のシステムによって強いられる客観性・構造の定義する「必要」の新しい地平の絶対性

 まず1は、後項の「絶対的」に対比されているのだから、前項の「隣人との比較・不平等の問題」とは「相対的」な問題ということになる。

 2でも後項で「客観性・絶対性」とあるから、前項「心理的な問題」は「主観性・相対性の問題」だと捉えられる。「羨望(うらやましいなあ)」も「顕示(どうだうらやましいだろう)」も「心理的」であり、それはすなわち「主観的」で、かつ他人との比較の問題だから「相対的」なのだ。

 心理的=主観的/客観的

     相対的/絶対的

 つまり、北の国で生きるための「必要」は、主観的・相対的にではなく、客観的・絶対的に高い「地平」に設定されているというのだ。

 この「地平」にまたも目が眩んでしまう。が、続く文章中に言い換えがある。

 何か?

 「水準」である。これがわかれば、つまり北の国で生きるには高い金が要る、と言っているに過ぎないことがわかる。

 それだけのことを言うのにああした言い回しをしてしまうのは、別に見田が意地悪であるとか衒学的だとかいうのではなく、恐らく天然なのだ。


 貧困は、まずこの「必要」の水準をシステムが決め(貨幣への疎外)、それに貨幣が足りない場合(貨幣からの疎外)に起こるのだから、北の国の貧困も、やはり「二重の疎外」によるのだという趣旨はわかる。

 問題は、なぜ北の国の「必要」の地平=水準は高いのか、だ。

 単に物価が高いということか?

 152頁下段からの「北の国」編では、この問題を解説した部分に、さらに一層の難解な言い回しが登場して、読者に目眩を起こさせる。

現代の情報消費社会のシステムは、ますます高度の商品化された物資とサービスに依存することを、この社会の「正常」な成員の条件として強いることを通して、本来的な必要の幾重にも間接化された充足の様式の上に、必要の常に新しく更新されてゆく水準を設定してしまう。

 このような一節を読んで、すんなりと頭に入る人がいるという想定がどうかしている。見田宗介にしてみれば、半ばは美意識でもあろうし、やさしくわかりやすい文章を書くのが面倒だということでもあろうが。

 さてどうするか?

 ひたすら力押しでゴリゴリ考えていくという手もある。もちろんここだけを見ていないで、前後を参照しつつ、だ。

 だが、ここは國分功一郎の「『贅沢』のすすめ」を参考にして考えを駆動しよう。

 どうしたらいいか?


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