2021年2月17日水曜日

南の貧困/北の貧困 6 常に更新されてゆく水準

 「幾重にも間接化された充足」について考察するために、國分功一郎「『贅沢』のすすめ」を援用して、何が間に挟まっているのかを考察した。

 我々と「物」との間を、「メディア」を通して「他者」の欲望が乱反射した「観念や意味」=「情報」が隔てている。

 「幾重にも間接化された」のイメージとしてこれが適切だと考えられるのは、見田がこの前後の文脈の中で「情報消費社会」という言葉を再三使っているからだ。「貨幣」が間に入るというのは南の国でもそうだし、「流通経路」の重層化による「間接化」が問題だとしたら、おそらく「資本主義社会」「市場経済社会」という言葉を使っているはずだ。「必要から離陸した欲望を相関項とする」という表現も、「物」が我々の手に届くまでの物理的な「間接化」のことよりも、「メディア」による「情報」の付加を意味していると考えられる。


 さて、これで何が明らかになったのか?

 「幾重にも間接化されている」からどうだというのか?

 このブログではそれを疑問として明示したが、自分で文章を読んでそれを意識するのはなかなかに難しい。

 どんな問いだったか?


 「北の貧困」の考察を始めるところで掲げた疑問は「なぜ北の国の必要の地平=水準は高いのか?(10倍あっても足りないのか?)」だ。答えは出ただろうか?

 つまり「幾重にも間接化され」ているから「高い」のだ。間に入るものが少ない方が安いであろうことは道理だ。

 「貨幣」が間に入ることについては南の国々でももはや「貨幣への疎外」によって同様の状態になっている。それより「10倍」であることの理由を今は問うているのだ。

 もちろん「資本主義社会・市場経済社会」も地平=水準を高く「つり上げ」るには違いない。「流通経路」が「重層化」すれば、それだけ中間搾取がはたらいて、コスト分が価格に反映する。そもそも「資本主義」は利益を生み出すために地平=水準を「常に新しく更新」する。

 では「情報消費社会」において、なぜ地平=水準は「常に新しく更新されてゆく」のか?


 「消費」は「観念や意味」を消費しているのだ、というのが國分功一郎の定義だ。

 ここに丸山圭三郎「ロゴスと言葉」を応用しよう(「懐かしい」とか「忘れた」言うな。今年度のことだ)。

 「意味」とは何か?

 「ロゴスと言葉」において、言葉の意味とは、まずは「カテゴリー」のことだと説明されていた。だがそれではまだここに応用できない。

 「カテゴリー」は何によって生ずるか?

 「分節化」による。近づいた。では「分節化」とは何か?

 「ロゴスと言葉」の結論は、言葉の意味とはカテゴリーであり、カテゴリーとはそれとそれ以外のものを分節すること、つまり差異化によって生ずる、というものである(「Water/non-water」という差異化)。

 つまり「差違」が「意味」を生むのだ。

 「情報」とは「差違」である。デジタル情報とはonとoff、1と0の違いだ。

 このことは國分功一郎が述べている何の例と対応しているか?


 「モデルチェンジ」と「個性」だ。前のモデルとは違うこと、他人と違うこと、いずれも、差違が享受すべき意味=価値を生んでいるのである。

 とすれば、「必要の地平」は「常に更新されてゆく」しかない。更新という差異化こそが「意味」を作り出すからだ。差異化されないものは単なる「物」でしかない。それは「本来的な必要」の対象だ。


 こうして、「幾重にも間接化された」必要の地平=水準は「常に更新されてゆく」。だから北の国で生きていくためには南の国の10倍の金が要る。

 「本来的な必要/新しい必要」という対比はこのことをいうための対比だ。


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