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2021年3月5日金曜日

最後の読み比べ 6 発表

 今年度の授業の終わりにあたって、こうした読み比べによる考察を、班毎に発表してもらうことにした。

 高校入試の休みの間に読んで考えてこいとは言ったものの、とりあえず内山の文章を読むだけで授業に臨んだ者も多かったに違いない(もちろん読んですらこなかった者もいたろうが)。

 残り2時限でこの課題だから、1時限で発表準備、2時限目に発表、という想定だったが、結論としては無理があった。最初のクラスでこれをやったところ、発表の準備として1時限ではあまりに時間が足りず、生煮えのまま発表に入って情報量に乏しかったり詰まってしまったり。

 後に続くクラスでは、最初の1時限に誘導する部分を多く取り(今回のシリーズの3回目までの記事にあたる)、2時限目にも準備に時間をとってから2班ほどの発表が精一杯だった。

 最大で4時間とれたクラスでは、3時限目の半分まで準備にとり、3時限の終わりにようやく最初の班の発表となったが、これでも長すぎることはないという感じだった。そこまでの準備に、目一杯活発な議論が続いたのだった。


 今年度は、最初の休校があって、時間が少ないという焦りと、このブログ記事の執筆が授業者にとっての授業準備になっているせいで、総じてすべての授業が高密度だったが、その中で、まとまった文章を書かせることと、まとまった発表をさせることができなかったのが心残りだった。

 もちろん常に授業は議論発表の連続だった。毎時間、疲れるほどに頭を使ったはずだ。

 だが、準備に1時限以上の時間を費やすようなまとまった発表は実施する機会を逸してきた。


 学習とは「わかる」ことが目的ではない、と最初から言ってきた。わかったことが、何らかの形で活かされるのでなければ、「わかる」こと自体は自閉的な営みに過ぎない。「わか」った後に何ができるかが問われるのだ。「学力」が「生きる力」と措定されているのはそういうことだ。

 だから入力から考察を経て変形された情報は出力されなければならない。

 それもまた明らかに国語の学力だ。


 発表は「4つの文章を読んで、それなりに理解はしているが、繋げて考えることはしていない東葛生」を対象とした国語の授業のように、と設定した。

 つまり黒板に図示しながら語っていく。いわゆるプレゼンテーションである。


 どのような図を画くか。

 必ずしも完結したものでなくとも構わない。話の補助として、聴覚情報を視覚情報で補うのが目的だ。

 認識の構造は本当は4次元的なものだ。論理は3次元どころか、時間軸さえ飛び越えて連結する。

 それを2次元に投影したものが「図」だ。

 取り上げるべき情報を選んで、それを平面上に配置し、その関係を線などで示す。どこかを繋げ、どこかを区切り…。

 それをさらに1次元にしたものが「話」や「文章」だ。本当は4次元的な認識を時間軸に沿って並べていく。ジャングルジムを一筆書きするようなものである。あるいは複雑な建物の中を道案内するようなものだ。話し手・書き手は、聴き手・読み手に建物の構造を把握させる案内人だ。

 だからその出発点やら経路やら終点やらは、無限の可能性がある。同じところを何度も通ってしまったり、遂に通れないまま終わってしまう部分が残ったり、つながっていないところを跳躍したりして、聴き手・読み手を迷わせるような「話」「文章」もあるだろう。

 案内のための地図が、黒板に画く図である。

 その図を示しながら、皆をどんな認識に案内してくれるだろうか。


 さて、授業者なりに案内したのが前回までの4,5回の記事だ。

 これは「対比」「問いを立てる」「抽象と具体の往復」というメソッドを意識した一つの方法である。唯一の「正解」などではない。

 だから全ての班に発表してもらうことはできなかったのが残念だ。皆の議論の様子はとても活発で、レベルの高いやりとりをしていたように思う。

 籤にあたった班の発表もそれぞれ的確で、1年の集大成にふさわしい思考の成果を示していた。

 そして全ての班の発表は聞けなかったとはいえ、準備の段階でそれぞれの班の中で発表の流れを追いながら語りおろすことが、それぞれの班にとっての「まとまった発表」になっていたと思う。

 とはいえ、時間が足りなかったことはやはり心残りなので、せめて、みんなが用意してあった「図」だけでも紹介したい。

 これらはどれも板書を書き写したものなどではないことに価値がある。こうした図は、それを構想し、構築することだけに価値があるのであり、誰かが作ったものを見たり書き写したりすることにはほとんど価値がないのだ。授業者の板書も、皆の思考の共有基盤(プラットホーム)として機能することを意図しており、決して「まとめ」ではない。

 これらはそれぞれの作者の(班の)思考の過程を表わしている。

 



 A組N君の構想図。
 対比軸に沿って上下に振り分けた項目を横に並べていくという構図は授業者の想定に近いものだった。ここまでのブログ記事の文章にも近い。
 それに対し以下の図は、四つの文章の読み比べという設定を平面図に表わすのに、平面を四分割して各象限にそれぞれの文章の項目を割り振るというレイアウト。
 いずれも真ん中に共通する要素を置いて全体を一括したうえで、それぞれの文章で、それがどう語られているかを一望できるように配置している。

B組のOさんN君Iさん。的確な項目をシンプルに書き出してある。

B組のI君。カラフルなレイアウト図が目を引く。さらに、二つの文章間の共通領域をそれぞれ書けるようにレイアウトしていることで詳細な読解が可能になっている。

 その他、情報量の豊富さや項目の整理、見やすさの点で目を引いた図を挙げる。 

G組Oさん

A組Tさん


A組I君


D組Eさん


D組S君


G組O君


G組Mさん

 これらはそれぞれの班が発表用に準備したメモなので、「まとめ」としては上の図では不本意なところがあるかもしれないし、上記に引用した以外の班も、それぞれに工夫をした図を作成していたとは思う。本当はこれらの図を元にして、発表の際に肉付けしながら語りおろすところがそれぞれの班の腕の見せ所だったはずだ。
 実際にC組YさんR君のように、発表にあわせて書き加えていくことで情報量を充実させていく、図の生成過程を見せるのも有益だった。
 もう一つ、A組K君。
 構想の段階から、黒板に画く図、発表の骨子まで、タブレットを使って複数枚のメモを作成して発表の準備をしている。見事です。
メモ①

メモ②

板書①

板書②

板書③

発表要旨①

発表要旨②


 来年度もまたこうした「まとまった発表」の機会も、そして、「まとまった文章を書く」機会も作りたいと思う。
 だが特別そういう機会でなくとも、毎時間毎回の課題において、常に発表できる(書ける)だけのまとまりを、ひとりひとりが目指して考察を進めてほしい。

 学習の目的は「わかる」ことではない。「使う」「伝える」ことだ。

2020年12月29日火曜日

国語に正解はない?

 「国語に正解はない」という言説をしばしば目にすることがある。「解釈は人それぞれ」などともいう。
 こういうことを門外漢が言う分には罪がないのだが、しばしば国語教師がそういうことを言うこともあり、経験上そういう人は国語教師として誠実か不誠実かどちらかだ。

 国語のテストの問題に正解はあるか?
 しばしば大学入試の問題にも、その正解をめぐって批判が寄せられることがある。多くの場合はその出題の妥当性、解答の限定力の弱さをめぐる批判だが、極端な場合は選択問題でさえ、どれが正解かをめぐって意見の相違がある(そこでは作問者でさえ特権的な立場ではいられない)。
 確かに国語という教科は、そうした問題となる「問題」を完全に払拭することはできない。そういう意味で確かに「国語に正解はない」。
 だがテストにはマルバツがつく。つけねばならない。

 とはいえ「国語に正解はない」「解釈は人それぞれ」という言説は、多くの場合テストに対してではなく、授業を対象にして使われる。さらに言えばそれは評論よりも文学作品を対象にした(とりわけを扱った)授業に対して使われることが多い。
 そうしたときに上記の様な言説が不誠実に発せられていると思うのは、しばしば「正解はない」「人それぞれ」と言うことが、厳密な解釈をしない口実として使われているからだ。
 そういう教師こそ、一方でテストでは、躊躇なくバツをつける。それは「国語に正解はない」という言説と一見相反するようにみえる。
 だが国語に正解はないと言いつのることと、予定された正解以外の答えにあっさりとバツをつけることとは、実は論理的に同じことだ。どちらも厳密な解釈をしようと努力しないという姿勢の表れなのだ。

 だがもちろん「国語に正解はない」し、「解釈は人それぞれ」だ。
 そもそも国語の「正解」って何だ?
 国語の「正解」とは多数決で決まるような、最大公約数的な解釈だ。投票権があるのは「国語力が高い」と想定されている人ばかりだとはいえ、多数決なのだから、少数の反対意見はいつだって残る。それを指して「解釈は人それぞれ」ということもできる。

 一方で、テストが正解不正解を振り分けることを目的とするなら、「正解」を定めないわけにはいかない。
 だからテストで問うことができるのはとても単純なことだ。少数の反対意見が残ったりしないような(可能な限り、ではある)。
 だから文学作品、とりわけ詩の作品としての解釈などテストで出題できない。「正解」など定めようもないし、定めることよりも、解釈は人それぞれであることの方が面白い。
 だからといって「解釈は人それぞれ」でいいのか?

 一般に「国語に正解はない」「解釈は人それぞれ」といった言い方で表されていることには、次の3点の要素が混ざっている。

  1. テクスト(=言説)は意味を一つに限定できない(テクストには多義性がある)。
  2. 読解という現象はテクストと読み手の間で起こる。
  3. 人の好みは人それぞれ。

 テクストは多義性をもっている。
 例えば、アンデルセン童話「醜いアヒルの子」の題名は、二つの意味に解釈できる。「醜い」という形容が「アヒル」に係っているか、「子」に係っているか、どちらと見做すかによって、このテクストは意味を変える。
 主人公であるアヒルの雛は他のアヒルの子供たちと違って一羽だけ醜いのかもしれない。
 だが、醜いお母さんアヒルから生まれた雛が主人公ならば、彼はたぶん可愛いのだろう。
 さらに「醜いアヒル」という係り方に限定してみても、その親アヒルが醜いと言っているだけなのか、アヒルという鳥は一般的に醜いと言っているのかは決定できない。
 「醜いアヒルの子」という言表は、それ自身が複数の異なった意味を発生させてしまい、彼が可愛いのか醜いのか(アヒルが一般的に醜いのか否か)を確定させない。
 もちろんテクストの意味は文脈の中で確定されることがある。テクスト内情報相互がそれぞれの「文脈」として互いを有意味化する。だからこの童話の題名が意味するところは、内容と合わせて考えればどちらか判断できる。彼は雛のうちは他のアヒルの雛よりも醜かったのだ。そして美しい白鳥の成鳥になったのだ。
 そうした、文脈の中で意味を捉えようとする思考を「読解」というのである。

 それでもテクストの意味はどこまでも確定しきれるわけではない。関連項目が増えれば、多義性一方で収束し他方で拡大する。消滅はしない。
 加えて、そもそも「読解」するときの「文脈」はテクスト内情報だけに限らず、読み手自身の持っている情報をも含む。どんな人がいつ読むかで、テクストはその意味を変える(1年の教科書に載っていた角田光代の「旅する本」は、それが劇的に展開する物語だ)。
 つまりテクストの「意味」は、テクストの中に元々あるのではなく、読者の中で、その都度作られるものなのだ(ここで「『である』ことと『する』こと」のプディングの味の喩えを思い出そう。プディングの味はプディングに内在するのではなく、食べる時にその都度作られる)。
 だから読解とは必ず一回性の、個別的なものだ。
 これは「読者論」「受容理論」として知られた考え方だ(皆が読んだはずの『寝ながら学べる構造主義』にロラン・バルトの思想として紹介されていたのではなかろうか)。

 「解釈は人それぞれ」という言い方には、こうした1と2の考え方が曖昧に混ざっている。それは否定すべくもなく正しいが、だからといってそれでいいのか?
 この言葉は、多くの場合使い方が間違っている。授業とは、そもそも「人それぞれ」であるような解釈を持ち寄って検討し、そこに合意を作ろうとする場なのだ(もちろん「正解」を教える場でなどあるわけがない)。「解釈は人それぞれ」だから統一しなくていい、ではなく、「解釈は人それぞれ」だから合意を形成しよう、であるはずだ。
 だが「解釈は人それぞれ」という言説は、往々にして合意をはかる努力を怠る方向にはたらいている(中国や韓国との間で度々揉める歴史解釈の問題もそうだ)。
 そして「国語に正解はない」と言うことは、テクストの意味の多義性、もっといえば可能性を本気で探ろうとはしない姿勢に結びつく。

 だが「人それぞれ」でいいのは「解釈」ではなく「好み」なのだ。
 好みこそは「人それぞれ」であっていい。あるしかない。
 厳密な解釈の上でそれでも残る多義性については、それぞれの読者が好みで選べばいい。


 我々は、みんなが集まった授業という場において、こうした、テクストの多義性に潜む可能性最大限探ることと、それらの妥当性についての合意を形成することを目指しているのである。だから本授業者の提示する読解は「正解」ではないし、それに異論を提起することは、本当に有益だ。
 もちろん少数意見が残ってもいい。ましてそれぞれの好みの違いはそれぞれであっていいに決まっている。
 だがそれぞれの好みは、それぞれの解釈の妥当性を厳密に探ろうとした果てにしか本当には尊重されない。それぞれの解釈の違い放置することは、尊重ではなく軽視だ。

 だから議論が1,2,3のどの局面に関わるものなのかを意識しつつ、多様性を認めることと合意を形成することを同様に目指すべきなのだ。
 そうした姿勢を指して「国語に正解はない」「解釈は人それぞれ」というのなら、それは国語教師として誠実だと思う。


2020年5月28日木曜日

少年という名のメカ 6 -この小説をどう読むか

 3回のプレ講座が終了しました。
 3回とも、とても楽しく、充実した時間でした。そしてとても疲れました。
 疲れたのはいつもと勝手が違うことに緊張があったせいで、慣れれば普段の授業と変わらなくなるのでしょう。おそらく。
 そして、楽しさや充実感は、これまでの普段の授業でいつも感じてきたことです。
 この楽しさや充実感を感ずるには、「当事者になる」必要があります。授業者である私はもちろん、カメラやマイクをオンにして対話に加わってくれた人は、そうした「当事者」としての充実感を得たはずだと信じています。
 今後の教室での授業では、単純に受講者全体の人数が減り、全員の姿が互いに見えていて、少人数でのグループワークが行われ、と、みんながそれぞれ「当事者」になる条件が増えます。
 その時さらに充実するかどうかは、みんなのそれぞれの参加への姿勢次第です。

 さて、前半組の講座では第2回で「解決」してしまった問題について、まず確認しましょう。
 この小説は、「反『少年』」たる「メカ少年」の設定によって、逆に「少年」という存在を浮き彫りにしていると考えられます。
 またこの小説は、既存の様々なメディアで提供される、ファンタジーやSF的な「物語」の特徴を備えています。その、いかにも、といった手触りはあまりにあからさまです。
 そういった「物語」的世界における「少年」とは何を象徴しているのでしょうか?
 S君・Mさんはこれを 「物語」における「主人公」 と表現しました。
 それを受けてYさん・H君は、この小説は、「物語」における「主人公」というのは、実際にいたら、周囲の人にとってはとても迷惑な存在だという皮肉を言っている小説だ、と解釈しきってみせました。
 つまりこの小説は、「メカ少年」という設定によって逆説的に「少年」というものの存在を浮き彫りにすることを通して、「物語」における「主人公」というものについて逆説的に語っていると言えます。
 逆説的?
 紛らわしい。「メカ少年」を描くことが「少年」を描いていることになるのだ、という事態がまず「逆説的」です。そしてもう一つ、重要なことはここで描き出される「少年」が「逆説的」な存在なのです。
 どういう意味で?
 「逆説」を説明するにはまず「通説」です。「主人公」は肯定的に捉えられるべき存在だ、というのが「通説」です。自由だったり特別だったり勇敢だったりして、人々から愛されたり憧れられたり感謝されたりする存在としての「主人公」像に対して、ここで描かれる「少年」は、その身勝手さが人々に迷惑をかけ、傷つけます。「通説」に反する、そのような「主人公」像が、それもまた真実でありそうだと思わせるところが「逆説」的なのです(以上、「逆説」についての復習)。

 さて、最初にこの講座のテーマとして掲げたのは、この小説をどう読んだら良いのか? でした。
 この問いの問題意識がそもそもわかりにくいはずです。といってこれをどういう問題なのかと説明するのは得策ではありません。実際に読んでみて、それがどのような読み方なのか、と振り返る方がいいはずだ、と考えました。

 最初に考察したのは、序盤の会話の分析を通して、小説中の情報を読者がどのように受け取っているか、その思考や感情の流れを、スローモーションのように振り返ってシミュレートしてみることでした(第1回講座)。
 もちろん実際にみんながそのように考えたり感じたりしていたわけではありません。あくまでシミュレーションですから、言われてみればそんなふうに考えたり感じたりすることはありえる、と思えればいいのです。

 次に、我々が小説を読みながら予期している「世界観」が、末尾の一文によって変更されることで構築される、新たな「世界観」の可能性について考察しました。
 少年という名のメカの目的を知り、特許制度や経済活動の存在する世界の広がりに思いを馳せ、メカの作り手や買い手を想像する…。
 しかし実はこのような考察は、おそらく上に掲げた授業の目的にはたどり着きません(思いがけない形でたどり着くかもしれませんが、少なくともこちらはそれを想定していません)。これはあえてみんなの思考をミスリード(誤誘導)したのです。
 このような読解は、なぜ「この小説をどのように読んだら良いか?」にたどり着かない(だろうと想定される)のでしょうか?

 比較対象に、一昨年の授業で生徒が語った解釈を紹介しました。
 コンピュータ・プログラムが稼働し続けていると、不要なデータやバグが蓄積されていくことがあります。あるいはウイルスと呼ばれるソフトがプログラムの一部を書き換えてその機能に不都合を与えたりします。それに対して修正プログラムとかワクチン・プログラムなどと呼ばれるプログラムを走らせることで、バグをリセットすることがあります。
 この小説で描かれているのは、そうしたコンピュータの内部で展開しているプログラムの振る舞いを擬人化・具象化して描いているのだ、というのです。「少年」によって傷ついた心が「バグ」で、メカ少年がワクチン・プログラムです。
 面白い思いつきです。

 また、第2回講座で前半組から出された解釈を前回紹介しました。
 人々の心のケアも、テクノロジーの進歩によって解決しようとし、かつそれを商品」化する、我々の社会が「象徴」されているのだ、という捉え方です。

 そして上に示した解釈です。

 さらに、もう一つの読み方の可能性についても示唆しました。
 「反少年」としてのメカ少年によって明らかにされる「少年」は、確かに「『物語』の主人公」的な姿に見えます。ファンタジーの主人公「あるある」です。
 それだけでしょうか?
「無邪気に振る舞い、わしらを散々幸せな気持ちにさせておきながら、ある日…目の前から消えちまう。…その後はとんと音沙汰なしだ。絵葉書一つ寄越したためしがない。」「唇の端にスープをつけたままにして、わたしの母性にアピール(する)」「服を泥だらけにしたり、ボタンを弾き飛ばしたり(する)」「肉体的にも、精神的にも成長(する)」…。
これらの描写も単に「ファンタジー物語の主人公」としての「少年」を描いたものなのでしょうか?
 S君・Tさんがすぐに気づいたように、これらの描写から浮かび上がる「少年」は「親の目から見た子供」です。ここに表現されるのは、自分に向ける親の愛情に満ちた眼差しにも、そして子供が手を離れてしまう親の淋しさにも無頓着な子供の姿です。
 また、少女は「少年」について次のように語ります。
彼じゃなくて、彼のサポートについたわたしの方が怪我をするの。わたしが少年を守るはめになるの。…わたしが怪我をするたび、ものすごく謝ってくるんだけど、それだけなの。根本的に変わらないし、もうなんか疲れちゃった。
ここで語られる「彼」は、Yさんが言うように、まるで「女性から見た男性」のように見えないでしょうか。恋人である男の身勝手さに振り回されながらも離れられない女。
 老夫婦の語る「少年」は幼い子供で、少女の語る「少年」はむしろ「青年」と言っていい年齢にも感じられます。
 ここにはどちらも、相手に対する愛情と、それ故に相手の自由奔放さに傷ついてしまう心情が描かれています。つまり「少年」に対する「大嫌い」は「大好き」の裏返し、「可愛さあまって憎さ百倍」なのです。
 これは、たとえ読者が親世代でなくとも、恋愛経験が乏しくとも、ありそうだと感じられるように意図的に描いていると言えないでしょうか。

 整理します。

1.我々が小説を読みながら予期している「世界観」が、「特許出願中。」という末尾の一文によって変更されることで新たに構築される「世界観」の可能性について考察を深める。

2.「あるコンピュータ・プログラムが稼働し続けることによって蓄積されていくバグをリセットするワクチン・プログラムを、稼働中のプログラムの中に走らせている」という世界を擬人化・具象化して描いている、と解釈する。

3.全てがテクノロジーの進歩によって機械化されていく「現実」が象徴されている、と解釈する。

4.「物語」の主人公というのは、本当にいたら周囲の人々にとっては意外と迷惑なものだ、という逆説を皮肉として描いている、と解釈する。

5.老夫婦の語る「少年」は「親にとっての子供」を象徴し、少女の語る「少年」は「女性にとっての恋人の男性」を象徴していると考え、その愛憎半ばする心情を描いている、と解釈する。

 これら5つの読み方は、どのようにこの小説を読んでいることになるのでしょうか?

 ここからはそれぞれの講座で、この5つをどのように分類したり分析したりすることが可能か話し合ってもらいました。この話し合いはどちらもとても有益でした。
 ここはやはりグループワークで、全員が自分の分析について語るべき問題です。
 ここには特に固定的な「正解」があるわけではありません。もちろんその分析の妥当性は検討されるべきです。しかしさまざまな観点からさまざまな分析が可能です。
 もちろん1~5の中から正解を選ぶ必要もありません。どれも認めた上で、それらの違い、関係を考えるのです。

 例えば「作者の意図」について考えるかどうかで分類できるのでは? というアイデアがどちらの講座でも出ました。
 確かに「作者」を視野に入れることで、作品から距離をおいて、その小説世界を俯瞰することが可能になります。物語の世界に入り込んでしまえば、その外側にいる作者の姿は見えなくなってしまいます。
 そのような傾向が最も顕著なのは1でしょう。
 1の方向に考察を進めるのはミスリードだと上で述べたのは、1は、あくまで物語の「世界」の内にとどまって、そこを探索するような考察だからです。そのような探索は、第2回講座でやったように、それなりに楽しくなることもあります。また、小中学校の国語の時間にありがちな「この時の登場人物の気持ちを考えてみましょう」的な授業は、基本的にこの層に視点を限定しています。
 とはいえ、1~5のどれもが、それぞれに作者の意図を同時に捉えることも可能ではあります。1のような読み方でも、そのように世界を構築し、そのように物語を展開し、そのように人物を描く作者の意図を考えることはありえます。小中学校の国語の時間でも「気持ち」発問とともに、「作者は何を言いたかったでしょうか」などとよく訊かれたはずです。

 とりあえず1に比べて2~5が、作品の物語の層から離れて、小説を俯瞰しようとする視点に立っている、というのは確かです。
 その上で2~5をさらに分類するなら、紹介した2,3と、講座中で意図的に展開した4,5のような読み方の違いはあると言えます。
 2,3の解釈は、作品世界全体の構造を、別の何かと重ね合わせることができるのでは、という仮説です。どちらも授業者自身の解釈ではないので検討が不十分ですが、本当にそうだと言うためには、作品の細部や構造自体から、ある特徴を抽出し、それが、重ね合わせようとする対象の特徴と意図的な一致を図っているかどうかを検討する必要があります。
 それを丁寧に行うまでは、これはあくまで思いつきです。面白い、そうかもしれない、とは思うものの、腑に落ちる、という感覚には至りません。まだ。
 一方、4,5の解釈は、小説の細部の特徴から、意図的に方向付けられた小説の「感触」を確認し、それをある作者の意図として想定できないか、と考えています。
 読者が感じるはずの手触りを表現し、確かにそういう感じがする、という読者間の合意のもとに、それが合理性を持つような作者の意図を想定してみよう、と考えているのです。

 小説と何を重ねるか、という点から、別の分類をしてみましょう。
 3と5は、小説内世界と、我々の住む「現実」が重ねられています。
 2と4は、小説内世界と、それぞれ別のバーチャルな世界が重ねられています。
 2のコンピュータ・プログラムの振る舞いは、もちろん現実の物理現象ではありますが、それは我々にとってのリアルではなく、やはりバーチャルな世界でもあります。
 4は、様々なメディアで我々に伝えられる「物語」と小説が重ねられています。しかも、その二つを同じ層で並べているのではなく、「物語」の上の層から俯瞰する視点に小説は立っています。
 その意味で、4の解釈に立つのなら、この小説はメタ「物語」だと言えます。「物語」のパロディなのです。
 そのとき、そうした諸々の「物語」を作っている作者達や、そうした「物語」を享受している我々自身が相対化されます。

 まだまだ分析は可能でしょう。別の分類もありえます。
 とりあえず今回の3回の講座で考察できたのはここまでです。

 後から思いついたことを少々付け加えます。
 H君の言った、この小説の中心はやはり「少年」ではなく、メカ少年が人々を癒やすことの方にあるのではないかと思う、という言葉が引っかかっていたのですが、そこから思いついたことがあります。
 この小説は、過剰なサービスは、そのうちに人を疲れさせるようになり、その時、むしろ何もサービスしないことが癒やしになる、という逆説を表しているのではないか、という思いつきはどうでしょう。「レンタルなんもしない人」が話題になっていることなどをふと連想しました。
 さらに言えば、サービスに疲れた人に対して、さらに何もしないことをもサービスとして提供するという堂々巡りを皮肉っているとか、そうした商魂たくましい様子を戯画化している、などとも言えます。
 そしてこのような社会批判としてみるならば、この論理はこの先授業で読む予定の「南の貧困/北の貧困」とも重なってくる可能性さえあります(まあ今の時点では何のことかわからないでしょうけれど)。
 この解釈は上の3の解釈と同系統の、小説世界を我々の現実と重ねる解釈の一つです。
 この解釈を通番で解釈6とすると、みんなが自由に発言する機会が充分に確保されていたら、いったいいくつの解釈がみんなの目の前に並べられていただろうと考えると、愉しくもなり惜しくもなります。

 「少年という名のメカ」という作品を題材に、その作品世界に分け入りつつ、小説を読むという行為、「小説の読み方」自体をも考察対象にしてきました。
 ブログ開設初期に、教材の読解は、学力向上のためのトレーニングではあるが、それだけではない、ある種の掛け替えのない「体験」なのだ、と書きました。
 特定の文章の解釈を結果として「知る」ことなど、学力向上のためのトレーニングにさえなりません。
 読解は主体的な「行為」です。それだけが実技科目としての国語の学力向上に益するのです。
 だがさらにそれが、一人ではなかなか遭遇することのできないひとつの「体験」として参加者それぞれに感じられることを期待して3回の講座を進めてきました。
 授業者自身には、間違いなく毎回がそれぞれの1回性の出来事の「体験」でした(既に一昨年から長い時間を考察に費やしてきたにもかかわらず!!)。
 そしてこれはどうしたって一人ではできないことなのです。

2020年4月13日月曜日

要約の実演

 2年生、3年生ともに、課題の「要約」、最初の二つくらいは既にやってみたでしょうか。まだ一つ? 「文系と理系の壁はあるか」だけ? 「三つの動詞」すらまだやってない?
 練習は、コンスタントにやることが大切です。週に2回がめやすです。

 前回の予告どおり「国語の学習とは」を要約してみます。
 全体の論旨を把握した上で、要約文を書き下ろす、というやり方もあります。ですがこの方法は、全体の論旨を把握するにせよ、要約文を書き下ろすにせよ、ハードルの高いやり方です(今回は自分の文章ですからやれないことはないのですが)。
 それよりも本文の順番に沿って、キーセンテンスを抜き出す方が簡便です。まずはこのやりかたで要約の一段階をやってみましょう。この段階では4回分の記事の見出しをそのまま付けておきます。

要約1


1.国語の学習の目的

 国語の学習の目的は「国語力」を高めることです。「国語力」とは「聞く」「話す」「読む」「書く」力です。「できる」ようになることを目指しているという意味で、国語という教科は実技科目です。一方で、一般的な授業では「教材」の文章の内容を理解することが学習の目的であるかのような了解が、授業者/生徒に共有されています。a「国語力を高めること」b「ある文章の内容を理解すること」これら二つの関係はどうなっているでしょう?

2.「目的」と「手段」の関係

 本来の目的を見失って、手段に過ぎなかったものを目的のように錯覚してしまうことを「自己目的化」と言います。「文章を理解する」ことは国語学習において、しばしば自己目的化されがちです。b「ある文章の内容を理解する」は、a「国語力を高める」という「目的」のための「手段」に過ぎません。自分で文章を理解しようとすることによってのみ、国語力は高まります。

3.要約というトレーニング

 この、国語力を高める練習として最も簡便でかつ有効だと推奨するのが、文章を要約する、というトレーニングです。要約には国語力を高める練習として必要な要素の多くが詰まっています。要約という練習を繰り返すことで、国語力は確実に高まります。

4.授業の意義

 国語の授業とは、何かを教わる場ではありません。みんなで集まって、独りではできないトレーニングを行う場です。自主トレによる基礎練習は間違いなく必要であり有効ですが、チーム練習は、自主トレだけでは身につけられない技術を向上させる場なのです。
 ですが授業はそれだけのものではない、とも思っています。それはテキストの向こうに広がる「世界」に対する認識の変容になる「体験」でありうると信じています。

 上の文章は、基本的に原文の順番で、なるべく本文そのままを抜き出してつなげています。
 ですが完全な抜き出しだけでは、うまく文章がつながるとは限りません。上の例はたまたま、まあまあうまくいっているだけですし、細かいところでは前後のつながりに合わせて書き直している部分もあります(それでも充分に自然な文章にはなっていません)。
 しかもまだ700字以上もあり、目標の200字、100字には遠く及びません。ですがまあ字数の見当がついてきた、とも言えます。これを3分の1よりもう少し短くすると200字なのだな、ということがわかりました。
 そしてこの段階で全体の構成がおおよそわかってきました(自分で書いておいて今更ですが)。ここまでくると書き下ろすこともできます。

要約2


  1. 国語の学習の目的は国語を使う力を高めることだ。
  2. 授業における「ある文章の内容を理解する」という学習も、この目的のための手段である。これを自己目的化することなく、手段として能動的に取り組むべきである。
  3. またこの目的のために有効なのが、総合的な国語力が必要とされる、文章の要約である。
  4. 一方、国語の授業とは、対人スキルである国語力を高めるために、みんなで集まってトレーニングを行う場である。また授業はそれ以上に「世界」に対する認識の変容になる「体験」でありうる。


 これで200字強です。

 こうやって書き下ろそうとすると、この文章がいくつかの方向性をもっていることがわかってきます(またしても、自分で書いておいて今更ですが)。次のような方向性です。

  • 課題として提示した「要約」という学習の有効性を説きたい。
  • 様々な行為における「自己目的化」の罠について注意を喚起したい。
  • 学習における「授業」の意義を再考したい。

 こうした複数の要素を100字に収めるのは難しい。「自己目的化」のくだりは言いたいという動機の結構強い部分なのですが、これ以上短くするためにここを省いてみましょう。

要約3

 文章の要約は、総合的な国語力が必要とされ、国語の学習の目的である、国語を使う力を高めるために有効である。また授業は、対人スキルである国語力を高めるだけでなく、認識の変容をもたらす重要な場である(97字)

 ところでこれを見て、こんなに短くなるのなら、そもそも長々書く必要はあったのか、と、ちらっとでも思った人はいるでしょうか。
 元の文章の趣旨は元の文章を読み、例えばそれを要約しようとすることによって理解されるのであって、要約を読んでもその趣旨が伝わるわけではありません。
 文章の趣旨というのは必ずしも結論のことではなく、そう考える論理過程全体のことです。結論のみ示しても言いたいことが伝わるわけではないのです。
 逆に要約されて抽出された結論を見ても、その文章の趣旨が伝わるわけではありません。要約するという思考を通してのみはじめてその趣旨を理解することができるのです。

2020年4月9日木曜日

国語の学習とは4 -授業の意義

4.授業の意義


 国語の授業はどんな存在意義が期待される場なのでしょう。
 上記の趣旨からすれば少なくとも、受身で臨む授業には、ほとんど意義はありません(そういう意味では、ほとんどの塾や予備校の授業は、現代文については意味がないと私は思っています。ただしいわゆる「コツ」のようなノウハウは有益な場合もあるでしょう。また他人の優れたプレーを見ることは自分のプレーの上達のために有効になることがあります。スポーツや音楽演奏や芝居の演技など、いずれも、自分がプレーすることを常に想定して、演者のプレーに自分を重ねようとする姿勢があれば意味あるものともなりえます。そういう意味で「授業を受ける」ことが「全く」意味がないとはいいません。「ほとんど」です)。

 国語の授業とは、何かを「教わる」場ではありません。授業者の立場から言えば「教える」つもりはない、ということです。国語、特に現代文には、教えるべき学習内容というものがほとんどないからです。
 それよりも、実技である国語の授業とは、みんなで集まって、独りではできないトレーニングを行う場です。
 要約は、スポーツにおける筋トレや柔軟体操や走り込みや、それぞれの競技の基礎練習にあたります。こうした自主練でもできる基礎練習でも、他人と一緒にやる方が効果的です。
 単純にその方が楽しいとか励みになるということもあります。地道な筋トレや走り込みを続けるには強い克己心が必要になります。みんなでやれば、みんなについていくことでそれなりにトレーニングを続けることができます。参加者の姿勢次第では、そこに楽しさすら生まれます。

 それだけではありません。技術が対人スキルである場合は、そもそも他人の存在が練習には欠かせません。楽器の練習には合奏を、対戦スポーツは試合の一場面を想定した対人練習をしなければ、充分に有効な練習にはなりません。
 国語という実技も、それがコミュニケーションの手段である以上、複数人の合同トレーニングでしか練習できない部分が確実にあります。授業という場は、そうした対人トレーニングの場なのです。隣の席の人の言うことが理解できるか、自分の話は相手を納得させているか、実技としての国語の力が試され、磨かれる場です。
 自主トレによる基礎練習は間違いなく必要であり有効ですが、チーム練習は、自主トレだけでは身につけられない技術を向上させる場なのです。

 したがって何より、積極的な参加こそが求められます。みんなのプレーに混ざって自分もプレーすることで、対人プレーの技術は上達します。コート外でベンチに座って他人のプレーを眺めているだけでは、うまくはなりません。
 そういう意味で、国語学習は本質的に「アクティブラーニング」でなければなりません(単なる最近の流行ではなく!)。国語の授業における話し合いや発表は、それ自体が必須の学習行為なのです(だというのに、それを避けねばならないコロナ対策! いつまで続くことやら)。

 以上、国語の学習の基本的イメージと練習方法の関係について述べてきました。
 ですが実は(ここまで長々と語っておきながら)、授業はそれだけのものではない、とも思っています。
 授業で、あるテキストを読み込み、そこに見出される問題に周囲のみんなと立ち向かっていった先には、ある劇的な認識の変容が訪れることがあると、私は経験上知っています。
 それはクラスの皆に対する、隣の誰かに対する、テキストの向こうに広がる「世界」に対する、認識の変容です。それは授業という場にとどまらず(もちろん大学入試という一過程にとどまらず)、その先の、大げさに言えば人生に影響を及ぼす認識の変容でさえありえます。
 そうした場としての授業とは、独りで文章を要約しているだけでは、そしてそこでそれなりにそこに書いてあることが「わかった」と思えているだけでは得られない、読解の、表現の、思考の、テキストの、人間の深淵を覗き見ることになる「体験」でありうると信じています。
 授業とは自ら参加する意志によってはじめて成立する「体験」なのです。

 コロナウィルス感染予防の措置がいつまで続くかわかりませんが、こうした状況が一刻も早く終息し、また有意義で楽しい国語学習としての授業をみんなと「体験」することができる日を待ち望んでいます。

国語の学習とは3 -要約の有効性

3.要約というトレーニング


 教科書はトレーニングにおけるバーベルなどと同じで、バーベルが上がることを自己目的化してはならない。
 だが同時に、トレーニングにおいてバーベルは持ち上げようとしなくてはならない。バーベルが持ち上がることは最終目的ではないが、自分でそれをしようとしないかぎり、トレーニングは成立しない。つまりバーベルを上げることは、やはり当面の目的であり、かつそれは上位目的のための手段に過ぎないのです。
 このことを理解する必要があります。国語学習では、文章の内容を理解することは目的ではないが、にもかかわらず理解しようとする姿勢がトレーニングを成立させるのです。
 というより単に「わかろう」とすれば必ず学習になります。バーベルは、持ち上げようと力を入れさえすれば、持ち上がらなくともトレーニングになります。つまり負荷をかけてそれに抗えば、既にトレーニングは成立しているのです。だから現状で持ち上がらない(=わからない)としても、それをしようとするかぎり、トレーニングとしては有益なのです(そもそも練習は「できない」ことを繰り返すことです。スポーツでも楽器の練習などでも)。
 そのことを信じないと地道な練習は続けられません。地力とはそのような練習の積み重ねによってゆっくりと身についていくものであり、練習は(やり方によって程度の差こそあれ)必ず有効なのです(「練習は裏切らない」とは成功者のよく言う経験則です)。

 この、国語力を高める練習として最も簡便でかつ有効だと推奨するのが、文章を要約する、というトレーニングです。
 バーベルを上げようという意志と上がったという成果の関係は明白です。が、文章を理解しようとすることと理解できたという成果の関係は、必ずしも明白ではありません。どうなれば「わかった」ということになるか、それ自体は目に見える形にはなっていないのです。
 要約は、それをしようとし、実際にできたことが目に見える形になります。時間がかかったり、あまり適切でなかったとしても、要約文を書くことはできます。
 文章を要約する過程では、言語を用いたさまざまな思考が必要になります。文章の枝葉や幹を見分け、文章中の各部分を相互に関係づけることで有意味化し、文章全体の構造を把握したうえで、そのエッセンスをすっきりとわかりやすい文章にまとめる。国語力を高める練習として必要な要素の多くが一連の過程に詰まっています。
 要約とは、「文章を理解する」という当面の目的のための一つの手段であり、ひいては「国語力を高める」という目的のための一つの有効な手段なのです。

 何事によらず練習とは、繰り返さなければ効果を得られません。要約という練習を繰り返すことで、国語力は確実に高まります。

 では、授業の意義はどこにあるのでしょう?

国語の学習とは2 -自己目的化の弊

2.「目的」と「手段」の関係


再掲します。
a・国語力を高めること
b・ある文章の内容を理解すること
「ある文章の内容を理解すること」は、先に述べた「できる」ようになるための「練習」にあたります。つまりbはaという目的を達するための手段である、ということになります。この「目的」と「手段」を意識することは重要です。というのは、人はしばしば本来の目的を忘れて、手段(今まさに行っていること)が目的であるように錯覚してしまうからです。
 この、本来の目的を見失って、手段に過ぎなかったものを目的のように錯覚してしまうことを「自己目的化」と言います(註)。

 例えば「バーベルを上げる」という行為は「筋力を高める」という目的の為の手段です。「筋力を高める」ことは、「競技力を高める」「美しいボディラインを手に入れる」「健康な生活を送る」等の上位目的のための手段です。もちろんこれらの「目的」も、それより上位の「目的」を設定すれば、そのための「手段」と見なすことができます。「目的」と「手段」はこうした階層構造になっています。

 b「ある文章の内容を理解する」は、a「国語力を高める」という目的のための手段に過ぎません。これはちょうど上の例のb「バーベルを上げる」=手段、a「筋力を高める」=目的と同じ関係にあります。

 a「国語力を高める」=目的  b「ある文章の内容を理解する」=手段
 a「筋力を高める」=目的   b「バーベルを上げる」=手段

 つまり教科書などのテキストは筋トレにおけるバーベルです。バーベルの存在意義は、筋肉に負荷をかけることです。テキストは脳味噌に負荷をかけるためにあります。

 バーベルを上げることを自己目的化する人はあまりいないでしょう。そこではそれが筋力を高めるための手段であることは意識されているはずです。
 それなのに「文章を理解する」ことはしばしば自己目的化されがちです。
 他人がバーベルを上げる様子を眺めていても、自分の筋力が高まるわけではありません。同様に、誰かに教えてもらって、ある文章の内容が理解されても、それで自分の国語力が高まるわけではありません。ですから、授業で先生が「わかりやすい」説明をすることによって、その文章が「理解できた」と思えたからといって、自分の国語力が高まっているとは限りません。それは介助者がバーベルの重さをほとんど支えてくれて持ち上げたようなものかもしれないわけです。そしてバーベルが持ち上がること自体が目的ではないのです。
 この自己目的化はしばしば我々教員自身にも起こっていて、ともすると国語教員は、生徒に文章を理解させることを「目的」として授業を行ってしまいます。「わかりやすい」授業とは、生徒に替わって自分でバーベルを上げて見せてしまっている授業かもしれません。先生がバーベルを上げているのを見て、生徒は「わかった」と言っているだけかもしれません。

 自分でバーベルを上げようとすることによってのみ、自分の筋力は高まります。
 同様に、自分で文章を理解しようとすることによってのみ、国語力は高まります。


註 自己目的化

 例えばお金儲けをすることは、それによって何か欲しいものを手に入れるためでしょう。この場合「金儲け=手段」「欲しいものを手に入れる=目的」ですが、しばしば金儲けはそれ自身が目的であるかのように錯覚されてしまいます。個人ではそんなことはない、と感じるかもしれませんが、企業が利益を増やすことはしばしば自己目的化しがちです。本当は利益を増やすことは、社員を幸せにする(株主も幸せにする、社会に貢献する…)ことを目的とすべきはずですが、利益の増大が自己目的化して、そのために社員の不幸せを招くような本末転倒が起こりがちです。

 例えば最近話題になっている「ブラック校則」なども、いわば自己目的化のオバケのようなものです。社会や生徒のためにあったはずの「校則」が、それ自身を守ることを目的として社会から乖離し、生徒を傷つけるという本末転倒も、やはり自己目的化の病理です。

 勉強という行為も自己目的化しがちです。
 勉強することの「目的」を大学進学と考えることは、とりあえずは間違っていません。ですが大学に進学することは、そこでの経験を生かして人生を豊かなものにすることが目的のはずです。つまり勉強することは、上位の「目的」である大学進学のための「手段」であり、大学進学はさらに上位の「目的」である「豊かな人生」のための「手段」です。
 「目的」と「手段」はこうした階層構造になっています(さらに、「勉強」という手段は、そもそも直接に「豊かな人生」という目的のための手段でもあります)。

 このことを意識しないと、我々はとりあえず今やっていることを自己目的化しがちで、ただノートに何かを書き写したり、その時々の小テストで良い点数をとって満足してしまったりします(プリントの穴埋めなどは最も自己目的化しやすい行為です)。
 それが本当に大学進学に有効な学力向上につながっているかを考えることが必要です。
 また、その大学に行くことが、どのような意味で「豊かな人生=目的」につながっているかも考えなければなりません。

 そうした「目的」を見据えた上で、今取り組んでいることにどのような意味があるかを考えることが大切です。

国語の学習とは1 -学習の目的

1.国語の学習の目的


 休校中の学習として「教科書及び副読本所収の文章を要約する」という課題を出しました。このことについて補足し、かつ、今のところいつ始まるかわからない授業についてガイダンスします。

 文章の要約というのは、現代文の学習方法として、最も包括的・総合的で確実に効果的な方法です。場合によっては、学校や予備校の授業を受けることよりよほど有益だとさえ言えます。ですが、そこにはやはり限界もあります。
 要約という行為がなぜ有効なのか? では授業にはどのような意義がありうるのか?
 それを理解するには、「現代文」という教科がどのような教科なのか、その特性を理解する必要があります。

 国語の学習の目的は「国語力」を高めることです。当たり前です。とくに疑問はないですね。
 「国語力」とは何でしょう?
 具体的な場面で分類するならば「聞く」「話す」「読む」「書く」力、ということになります。
 そしてそれらの行為に通底する「言葉を使って考える」力です(「数式を使って考える」「イメージを使って考える」「感情を使って考える」? などの「考え方」もあるはずです。それらの「思考」がどのようなものかを直接言うことはできません。言葉で言う時には「言葉を使って考える」ことに翻訳されてしまいますから。「言葉を使って考える」は、そのような思考形態の一つであり、多くの動物にはできない、それゆえ人類の進歩を可能にした、重要な技術です)。
 これらの「力」は、日本語を使って日々生活しているみなさんには、もちろん既にそれなりに備わっています。このことが、国語(特に現代文分野)の学習の必要性に対する一般的な根強い疑問になっているはずです。国語なんて、やらなくてもできる人はできるし、やってもできるようにはならない、それなのになぜ国語の勉強が必要なんだ、まして授業なんて…。
 ですが、現状で走ることができている人でも、毎日走る練習を繰り返せば、今よりも早く走れるようになります。同様に、現状でそれなりに言葉を使うことができている人でも、練習次第では今以上に有効に使うことができるようになるはずです。国語の学習はそれを目指しています。
 練習によって何かが今以上に「できる」ようになることを目指しているという意味で、国語という教科は実技科目です。その分野における知識の習得が学習の多くの部分を占めている社会科や理科と違って、国語にはそのような習得すべき知識がわずかしかありません。「実技科目」というのはそのように「できる」ことを目指している科目だ、という意味です(これは一般的に勉強が「わかる」という言い方で表現されていることと対比的です。国語は何かが「わかる」ことを目指してはいないのです)。

 一方で、休校にならなければ、みなさんはこのような課題の指示を受けることなく、授業を受けていたはずです。授業という場では何が行われているのでしょう?

 一般的な授業では「教材」として、ある文章を読むのですが、そこではしばしば、その文章の内容を理解することが学習の目的であるかのような了解が、授業者/生徒に共有されていると思います。
a・国語力を高めること
b・ある文章の内容を理解すること
これら二つの関係はどうなっているでしょう? (授業ならばここで間を取って考えさせ、誰かを指名して答えてもらうところですが…)