4.授業の意義
国語の授業はどんな存在意義が期待される場なのでしょう。
上記の趣旨からすれば少なくとも、受身で臨む授業には、ほとんど意義はありません(そういう意味では、ほとんどの塾や予備校の授業は、現代文については意味がないと私は思っています。ただしいわゆる「コツ」のようなノウハウは有益な場合もあるでしょう。また他人の優れたプレーを見ることは自分のプレーの上達のために有効になることがあります。スポーツや音楽演奏や芝居の演技など、いずれも、自分がプレーすることを常に想定して、演者のプレーに自分を重ねようとする姿勢があれば意味あるものともなりえます。そういう意味で「授業を受ける」ことが「全く」意味がないとはいいません。「ほとんど」です)。
国語の授業とは、何かを「教わる」場ではありません。授業者の立場から言えば「教える」つもりはない、ということです。国語、特に現代文には、教えるべき学習内容というものがほとんどないからです。
それよりも、実技である国語の授業とは、みんなで集まって、独りではできないトレーニングを行う場です。
要約は、スポーツにおける筋トレや柔軟体操や走り込みや、それぞれの競技の基礎練習にあたります。こうした自主練でもできる基礎練習でも、他人と一緒にやる方が効果的です。
単純にその方が楽しいとか励みになるということもあります。地道な筋トレや走り込みを続けるには強い克己心が必要になります。みんなでやれば、みんなについていくことでそれなりにトレーニングを続けることができます。参加者の姿勢次第では、そこに楽しさすら生まれます。
それだけではありません。技術が対人スキルである場合は、そもそも他人の存在が練習には欠かせません。楽器の練習には合奏を、対戦スポーツは試合の一場面を想定した対人練習をしなければ、充分に有効な練習にはなりません。
国語という実技も、それがコミュニケーションの手段である以上、複数人の合同トレーニングでしか練習できない部分が確実にあります。授業という場は、そうした対人トレーニングの場なのです。隣の席の人の言うことが理解できるか、自分の話は相手を納得させているか、実技としての国語の力が試され、磨かれる場です。
自主トレによる基礎練習は間違いなく必要であり有効ですが、チーム練習は、自主トレだけでは身につけられない技術を向上させる場なのです。
したがって何より、積極的な参加こそが求められます。みんなのプレーに混ざって自分もプレーすることで、対人プレーの技術は上達します。コート外でベンチに座って他人のプレーを眺めているだけでは、うまくはなりません。
そういう意味で、国語学習は本質的に「アクティブラーニング」でなければなりません(単なる最近の流行ではなく!)。国語の授業における話し合いや発表は、それ自体が必須の学習行為なのです(だというのに、それを避けねばならないコロナ対策! いつまで続くことやら)。
以上、国語の学習の基本的イメージと練習方法の関係について述べてきました。
ですが実は(ここまで長々と語っておきながら)、授業はそれだけのものではない、とも思っています。
授業で、あるテキストを読み込み、そこに見出される問題に周囲のみんなと立ち向かっていった先には、ある劇的な認識の変容が訪れることがあると、私は経験上知っています。
それはクラスの皆に対する、隣の誰かに対する、テキストの向こうに広がる「世界」に対する、認識の変容です。それは授業という場にとどまらず(もちろん大学入試という一過程にとどまらず)、その先の、大げさに言えば人生に影響を及ぼす認識の変容でさえありえます。
そうした場としての授業とは、独りで文章を要約しているだけでは、そしてそこでそれなりにそこに書いてあることが「わかった」と思えているだけでは得られない、読解の、表現の、思考の、テキストの、人間の深淵を覗き見ることになる「体験」でありうると信じています。
授業とは自ら参加する意志によってはじめて成立する「体験」なのです。
コロナウィルス感染予防の措置がいつまで続くかわかりませんが、こうした状況が一刻も早く終息し、また有意義で楽しい国語学習としての授業をみんなと「体験」することができる日を待ち望んでいます。
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