2021年10月27日水曜日

舞姫 8 論点整理

 この場面の考察を「なぜそこにいたか」という問いに収斂させるのは、体を売るように要求されているというエリスの窮境を漠然と捉えるだけでなく、この場面がエリスにとってどのような状況なのかを、より具体的に捉えることを目的としている。

 時間経過の目盛りをさらに密にして、「その時」を捉える。

 主人公との出会いが、エリスにとってどのような意味をもっていたのかをリアルに想像するためである。


 いくつかのストーリーの類型を提示した。

○なぜ路上にいたか?

  • a.母親から逃げ出してきて
  • b.助けを求めて
  • c.身を売る相手を探して
  • d.どこかに行く途中で
  • e.どこかから帰ってきて

 上記のような各ストーリーの背景に、以下のような想定の相違がある。


○「身体を売る」相手

  • シヤウムベルヒ
  • 特定の誰か
  • 不特定の誰か

○場所の意味

  • 教会の前
  • 家の前

 少なくともこの三つの視点それぞれについて自分がどのような見解を持っているかを自覚し、その整合性を担保する必要がある。

 例えばcを支持する場合、相手は「不特定」だということだ。その場合、場所の意味は「教会の前」か「家の前」か?

 「客」を探すのに教会の前であることを不審に思うかもしれない。だがそれを積極的に支持する評釈書もある。一方で家の前で「客」を探すのも不審だ。

 この場合、探すのは別のしかるべき場所-繁華街の裏通りとか-で、そこに行くよう指示されていたのに行けずに「家の前」の「教会の前」で泣いていたのかもしれない。それはcとdを合わせたストーリーだ。「場所」も両方を兼ね備えた意味合いとなる。


 さらに、本文から考慮すべきポイントを指摘して共有した。

D.母親の態度

E.エリスの衣服への言及

F.室内の描写

 これらが意味するものを整合的に組み合わせ、鷗外が想定している筋書きを明らかにする。

 どのようなストーリーのどのような時点に豊太郎が遭遇し、それによってストーリーはどのように変化したのか?


 主人公との出会ったときのエリスは、どのような状況だったのか?

 議論を続けていくと、d「どこかに行く途中で」を拡張した筋書きに支持が集まっていく。だが最初の段階ではクラスによっては一人も支持していなかった。「どこ」の確定と、なぜ行かずに止まっているかを説明しなければならないというハードルがあるからだろうか。

 さて、どのようなストーリーか?

 相手がシャウムベルヒなら彼の家でも劇場でも、「特定の」相手ならばその指定する場所へ、「不特定の」相手ならば、それを探すのに適当な場所へ、それぞれ行くことを命ぜられて家を出されたものの、足が止まって泣いている、というシナリオである。

 家を出てから間がなければ、家へ戻るのは予定通りに向かっていないということなのだから、母親は当然それを許さない。予定外の東洋人を閉め出して娘を叱るのももっともだ。

 一方豊太郎を招き入れる母親の態度が豹変したのは、豊太郎からの資金援助が期待できるという娘の説得に母親が納得したからだ。

 このストーリーには一定の整合性が認められる。それでもまだ「相手」の特定はできていない。


2021年10月26日火曜日

舞姫 7 母親の豹変・衣服・花束

 路上で泣いているエリスに主人公が出会う場面は、どのようなストーリーの、どのような時点か? 出会う時点までにどのような出来事があり、この後、どのような展開になる予定だったのか?

 さしあたって「体を売ることになる相手」と「場所の意味」という観点から、ストーリーの背後にある想定のバリエーションを提示した。

 だがそれでも実はまだ組み合わせによっていくつかの整合性のあるストーリーが描けるということが確認されたに過ぎない。

 その中でどれを選ぶか、どのような読解が適切なのか、鷗外はどのようなストーリーを想定しているか、といった判断は、本文との整合性に拠る。

 本文の記述は、どのストーリーと不整合であり、どのストーリーを支持しているか。


 次の記述内容は既に考察に組み込まれ、班で検討の俎上に上っていただろうか?

エリスの母は、豊太郎を伴って戻ったエリスに対し、なぜ豊太郎を外において扉を閉めたか。また、次に扉が開いて豊太郎を招き入れる時に態度が豹変したのはなぜか。その間、部屋の中でエリスと母が交わした「言い争うごとき」会話とはどのような内容か。

 この記述はどのようなストーリーを支持しているか?


 母親の態度が豹変したのは、この東洋人から資金的援助が得られるというエリスの主張を受け容れたからだということはわかる。「言い争うごと」き話の内容はエリスによる説得だろう。

 だが最初にドアを「あららかに」開け、「待ち兼ねしごとく」「激しく」閉め、豊太郎を閉め出したのはなぜか?


 次の描写は何を意味しているか? これらの描写からはどのような推論が可能か?

(エリスの)着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず。

 小説の中に書かれていることには必ず意味がある、というのは小説読解にとっての大前提だ。人工的に創造される虚構は、作者がそう書かなければ存在しない。全ての断片は、書かれる意味がなければ書かれない。

 Eのエリスの服装についての描写は単に、豊太郎及び読者に、エリスに対する好印象を抱かせる目的で言及されているだけかもしれない。

 だが一方でこの言及もまた、ここでのストーリーを構成する断片かもしれない。それによって支持されるのはどのようなストーリーか?


(部屋は)中央なる机には美しき氈(かも)を掛けて、上には書物一、二巻と写真帳とを並べ、陶瓶にはここに似合わしからぬ価高き花束を生けたり。

 この描写の中で、とりわけ注意を引くのは花束の存在だ。

 花束だけならば、その前のテーブルクロスや書物などとともに、豊太郎の目に映る室内描写の一つとして看過できたかもしれない。だが「ここに似合わしからぬ価高き」という形容は、この花束の存在について、意識的な解釈を読者に要求している。これを無視することはできない。

 この花束はなぜここに置かれているのか?


 死者に手向ける花ではないかと推測する者もいる。

 ここでは部屋の構造を確認しておこう。父親の遺体が寝かされているのは、入って正面の一室である。一方、花束の置かれているのは、左手の   かまど  のそばの戸を入った一室である。それぞれ別な部屋である。

 花束を死者に手向けられたものであると解釈させるには、それらを別の部屋にすることの必然性がわからない。したがって、これは死者に手向けられたものではなく、「体を売る」という状況と結びつけて考えるしかない。

 そして、その出所を問うならば、エリス家が用意したか、誰かから贈られたか、しかない。

 エリス家が用意したものだとすると、それによってストーリーは限定される。それはどのように帰結するか?

 一方、贈られたものだとすると、それは体を売ることになる相手から贈られたものであることを示しているのだと考えるしかない。だがそこから「なぜそこにいたか」に答えるには、まだ明らかになっていない道筋がある。


2021年10月25日月曜日

舞姫 6 なぜ「そこ」にいたか

 エリスが、身体を売らねばならない窮境に陥っていることを、いくつかの記述を結びつけて推測した。だがそこから「なぜそこにいたか」に答えるにはさらに何段階もの推論と説明の手順が必要だ。

 「金がないから身体を売らねばならない」というのは言わば中くらいの抽象度の状況把握で、「その時そこにいた」というのはさらに細かい状況の把握を必要とする。つまり前後に延長されるストーリーを具体的に想像し、この場面がその中のどの時点かを特定しようというのだ。


 さて、「そこにいた」事情とはなんだろうか?

 授業で出てきたアイデアを分類する。

a.母親から逃げ出してきて

b.助けを求めて

c.身を売る相手を探して

d.どこかに行く途中で

e.どこかから帰ってきて

 こういった諸説は、その要素を明らかにして相違点を明確にする。

 たとえば前の二つは、自ら外に出た、後の三つは、命ぜられて外に出た、という違いがあるといえる。

 さらにaでは明確な目的はなくとりあえず、bでは目的が自覚的、などといった違いがある。

 deでは当然「どこ」が問題になる。そしてなぜその途中で止まっているのかも。


 最初にみんなが考えているストーリーは、実はこのようにばらけている。

 だがそのことを意識しないで、認識の食い違ったまま話し合っているのに、それに気づかない、ということがおそらく起こっていたはずだ。

 だから話し合いの際は、安易に頷かないで、自分の思い描いているストーリーと、誰かが語るストーリーの違いを意識しながら聞きなさい、と注意した。なるべく解釈のバリエーションを保持したまま議論の俎上にのせたいからだ。

 上記のようなバリエーションは、話し合いの中で検討されただろうか?


 こうしたストーリーの違いは、その背後に、想定の相違を秘めている。

 たとえば、「身体を売る」ことになる直接の相手は誰か

 これは必ずしも一致していないはずだ。

 さしあたって解釈の可能性は次の三つ。

 まず、シヤウムベルヒ自身か、それ以外の誰かか。さらに、シヤウムベルヒ以外の誰かだとしても、その相手があらかじめ特定されている不特定か、という可能性で二つに分岐するから、都合三つの可能性が考えられる。

 そしてこれら三つの解釈は、皆の中で潜在的に分裂しているのだが、必ずしもその相違が議論の中で浮上してくるとは限らない。お互いに違った想定で違ったストーリーを語っているのだが、それに気づくことがないかもしれないのだ。

 世に出回っている「舞姫」評釈書では、三つとも目にすることができる。

 たとえばある評釈書では「身勝手なる言い掛け」を、〈シヤウムベルヒが、エリスに金銭の援助をする代わりに情人になれといっていること。〉と解説している。

 別の評釈書では〈葬儀費用を作るために、シヤウムベルヒの紹介するを取るようにという要求。〉と解説している。

 あるいはエリスが立っていたのは「客」を探していたのだという解説もある。当然相手は「不特定」だ。

 だが、寡聞にしてこれらの解釈の相違が論争の種になっているという話はきかない。

 これらいわば「愛人強要説」「売春強要説」は、どちらも両論併記ではなく、どちから一方のみが前提され、それ以外の解釈の可能性については言及されない。

 自分の中に形成された解釈は、必ずしも別の解釈の可能性との比較の上で選ばれたわけではなく、単にそれを思いついてしまったというだけのことなのだ。

 そして論者の間でも見解が分かれるように、これらの三つの解釈をどれかに決定する明確な根拠は容易には見つからない。

 ともあれ「そこにいた」事情を考えていく中で、「相手」についての想定も必要かもしれない。心に留め置く。


 また、「そこ」とはどこか?

 端的には「寺院(ユダヤ教の教会)の前」である。

 では、この教会はどこにあるか?

 エリスが住んでいるアパートの「筋向かい」なのである。とすると単に「家の前」という意味かもしれない。

 重要なのは「教会の前」であることか? 「家の前」であることか。?

 それはa~eの議論にどう影響するか?

 

 上で言えばbは「教会の前」であることに意味があると考えているはずだ。無意味な路上ではなく、教会に「助けを求め」たのだ。だが扉は閉ざされていた。だからそこで泣いていたのだ。

 またdeは「家の前」で止まっていたといっていることになる。

 aはどちらとも言い難い。「逃げた」というだけなら「家の前」だし、「逃げて」「助けを求めた」というなら「教会の前」であることに意味があるかもしれない。

 cは?


 まずはいくつかの観点で、それぞれに整合的なストーリーが描けそうだという発想の拡張につとめる。収束はその後だ。

2021年10月21日木曜日

舞姫 5 エリスはなぜ泣いていたか

 「4章」で、ようやくヒロインたる「舞姫」=エリスが登場する。

 この、語り手=豊太郎とエリスの出会いの場面について考察する。


 豊太郎とエリスとの出会いに続いて、交際が始まってからしばらく、4~6章までの6頁ほどを読み進めたら、戻って考察したいのは次の問題である。

 エリスはなぜそこで泣いていたか?

 この場面でエリスの置かれた状況を的確に捉えることは、この後のエリスと豊太郎の関係を捉える上で重要であるばかりか、それ自体、考察することに手応えのある問題でもある。


 この問いは、例によって二つの問いを含んでいる。

  • エリスはなぜ泣いていたか?
  • なぜ「そこ」にいたのか?

 「泣いていた」事情と「そこにいた」事情は、むろん強く関係はしているが、それぞれに各々の説明が必要な事情だ。


 先に解釈が進んで、班員に合意が形成されるのは「なぜ泣いていたか」だ。

 本文のどこからどんな情報を読み取れば、エリスが泣いていた事情が推測できるか?

 推測の根拠となるのは次の三カ所である。

A(317-318頁)
「君は善き人なりと見ゆ。彼のごとく酷くはあらじ。またわが母のごとく。」/「我を救ひたまへ、君。わが恥なき人とならんを。母はわが彼のことばに従はねばとて、我を打ちき。父は死にたり。明日は葬らではかなはぬに、家に一銭の貯へだになし。」
B(319ー320頁)
「明日に迫るは父の葬り、頼みに思ひしシヤウムベルヒ、君は彼を知らでやおはさん。彼はヴイクトリア座の座頭なり。彼が抱 へとなりしより、はや二年なれば、事なく我らを助けんと思ひしに、人の憂ひに付け込みて、身勝手なる言ひ掛けせんとは。我を救ひたまへ、君。金をば薄き給金を割きて返し参らせん。よしやわが身は食らはずとも。それもならずば母のことばに。」
C(321頁)
はかなきは舞姫の身の上なり。薄き給金にてつながれ、昼の温習、夜の舞台と厳しく使はれ、芝居の化粧部屋に入りてこそ紅粉をも粧ひ、美しき衣をもまとへ、場外にては独り身の衣食も足らずがちなれば、親はらからを養ふ者はその辛苦いかにぞや。されば彼らの仲間にて、賤しき限りなる業に堕ちぬはまれなりとぞ言ふなる。エリスがこれを逃れしは、おとなしき性質と、剛気ある父の守護とによりてなり。

 「なぜ泣いていたか」として語られるべき事情を推測するための情報として、この3カ所はいずれも欠かせない。3カ所が揃ってはじめて充分な事情が推測できる。

 まずAから、父親が死んだこと、エリスの家庭が貧しく葬儀さえ出せないでいることはただちにわかる。

 次にBから、座長に経済的援助を申し込んだところ「(座長が)人の憂ひに付け込みて、身勝手なる言ひ掛け(=提案・要求)」をしたとある。さらにAの「彼のごとく酷くはあらじ。またわが母のごとく」「母は我が彼の言葉に従はねばとて、我を打ちき。」から、母が座頭と結託してエリスにそれを強いていることがわかる。そして「言い掛け」は「酷」いものなのだ。

 さらにAの「恥なき人とならん」とCの「賤しき限りなる業に堕ちぬはまれなり」「エリスがこれを逃れしは、おとなしき性質と、剛気ある父の守護とによりてなり。」から、「言い掛け」の内容が推測できる。

 このABC三カ所は必ず出揃わなければならない。三つ全てを総合して初めてこのような推論が可能になる。どこが論拠なのかを自覚しなくても推論結果を語ることはできるかもしれないが、重要なのは結論ではなく根拠と推論の過程だ。


 これで「なぜ泣いていたか」が一応は把握できた。シヤウムベルヒが葬儀の費用を出す代わりにエリスに体を売るよう強要し、嫌がると母親が殴るのである。酷い話だ。ヒロインはこのように追い詰められた状況で物語に登場するのである。

 これでエリスの置かれた状況の把握はできたと考えていいだろうか?

 これ以上の推測はできないか?


2021年10月19日火曜日

舞姫 4 執筆の契機

 「舞姫」が「石炭をばはや積み果てつ。」という一文で始まることを、どう納得することができるか?


 さて

船の燃料となる石炭の積み込み作業が終わった

とは何を意味しているか?

出航が間近だ

ということだ。「間近」とはいつのことか?

明朝

であろう。なぜか?

「今宵は夜ごとにここに集ひ来る骨牌仲間もホテルに宿りて、舟に残れるは余一人のみなれば。」とあるからだ。

 だから何だというのか?


 上は「…とすると?」という自問自答に基づく思考によって考えを推し進めている。

 一方で、思考は方向を定めずに展開するばかりではなく、到達点を仮設してその間を架橋するようにも展開する。

 この授業展開は、先述の読み進める際の区切りの一つ目、教科書の2頁ほど、形式段落で三段落「いで、その概略を文に綴りてみん。」までの千字弱(以下「第一章」)を読んだ段階で実施している。

 だから「舞姫」全体を読了した上での解釈は発想できないが、一方でこれは第一章の内容全体を参照する必要のある問題でもある。この情報がどういう意味を持つかを、納得できる論理の中に位置付けるには、第一章が読者に伝えている情報の中においてこの一文が持っている意味を捉える必要がある。

 第一章で最終的に読者が把握しなければならない情報は何か?


 第一章の終わりは「ああ、いかにしてかこの恨みを銷せん。(略)今宵は辺りに人もなし、(略)いで、その概略を文に綴りてみん。」である。これは「要約」の時に確認した、この段落の要点の一つだ。

 つまり語り手はある「恨み」を消そうとして文章を書こうとしているのである。

 だが筆は進まない。「買ひし冊子もまだ白紙のままなる」に、二十日あまりが経過している。

 こうした状況把握が、上の思考と双方から呼び合い出会う。


 物語が始まるにあたって、筆者は「書きたい、だが書けない」状況にある。

 これが一章の終わりで「さあ、書こう」に決着するための いとぐち が冒頭の一文なのである。

 この両者を架橋する論理をどのように想定すればいいか?


 一文目に続く二文目には「静か」とあり、三文目に「舟に残れるは余一人のみ」とある。この情報は一章の終わりで「今宵は辺りに人もなし。」と繰り返される。

 つまり燃料の積み込み終了は文章を書き出すのに恰好な状況を必然的に作り出しているのである。

 どういうことか?

 作業が終わったから「静か」になったのだろう、と考えることはできる。だが「一人のみ」は?

 ここは少々の推察を必要とする。おそらく船の長旅では、寄港の最後の晩はみな おか で過ごすのが習いなのだ。だから船客だけでなく最小限の船員を除く乗員のほとんどが下船しているということなのだ。

 だから、単に今「静か」になったということではない。夜はいつでも「静か」だろう。だからここは作業が終わったから「静か」になったと言っているのではなく、皆が舟を下りてしまっている今晩のうちは「静か」なのだ。

 こうして情報は関連させることで「意味」を生ずる。


 それだけではない。「明日には出航する」という状況はさらに、書き出すことへの必然性を用意する「意味」を持っている。

 少々誘導する。

 この港はどこにあるか?

 →「セイゴン」とある。

 どこの国か?

 → 脚註でベトナムとわかる。

 直前の寄港地はどこか?

 → 「ブリンヂイシイ」だ。同じくこれはイタリアである。

 ここまでにどれほどの日時がかかっているか?

 → 「二十日あまり」とある。

 そもそもどこから旅立ったのか?

 → 留学先のドイツだ。スイスに言及しているので陸路でイタリアに向かい、そこから船に乗ったのだろう。

 どこへ向かうのか?

 → 日本だ。

 そしておそらくここは日本に向かう最後の寄港地であろう。「五年前のことなりしが(略)このセイゴンの港まで来しころは」の一節は、日本を出て最初の寄港地がセイゴンだったことを示していると思われるし、ヨーロッパ―アジアの位置からしても、そう解釈するのが自然である。

 この地理関係から何が言えるか?


 日記を買ったのは「途に上りし時」だ。つまりドイツ出発時だ。

 つまり、日記を買ったものの書けないまま一ヶ月ほどが経って、今ベトナムにいて、ここを出ると日本まではそれほど猶予はないのである。

 この文章がある「恨み」(=悔恨)を消すために書かれるのだとすると、それは日本に着くまでに書かれることが望ましい。日本ではその「恨み」を飲み込んで新しい生活が始まるからである。

 「明日には出航する」という状況は、ためらったまま手をこまねいている語り手に焦燥感を与えて、書き出す契機を与えているのである。


 「なぜ冒頭にこの一文が置かれているか。」という問いに対して授業者が用意している答えはつまりこういうことだ。

 セイゴンの港で燃料の積み込みが終わった夜という状況設定は、語り手が、書けずにいる手記を書き出すにあたって、書き出さねばならないという動機に切迫感を与え、かつ書くのに都合の良い状況を作ることで書き出すことに誘導しているのである。

 そして語り手が書こうとしている手記こそ、この「舞姫」という小説そのものである。

 つまりこの冒頭の一文は、そこから始まる小説がまさに存在を始めるための契機に必然性を与えているのである。

 冒頭に置かれることがまことに腑に落ちる一文である。

2021年10月12日火曜日

舞姫 3 冒頭で提示される情報

 「舞姫」冒頭の一文「石炭をばはや積み果てつ。」の意味を考える。


 班で検討しているうち、まずは「何のことか」についての了解が共有されるはずだ。本当はその妥当性は「なぜ」まで結びついて初めて納得されるのだが、そこまで一息に届く前に、とりあえず「何のことか」についての見当がつくのである。「石炭ストーブ」よりも可能性のありそうな解釈が。

 さて、何のことか? 答えは次の通り。

船の燃料となる石炭の積み込み作業が終わったということ

 話し合いの過程では「そういうことなの?」などという声があちこちで聞こえるから、授業者同様、全員が直ちにそうした解釈にたどり着いているわけではないのだ。確かに情報としてはこの一文ではまったく不充分だから、推測によって補う必要がある。


 「石炭をば」の「をば」は、現代語では、対象を示す格助詞「を」と題目を示す係助詞「は」が付いたものだから、「石炭をば積み果てつ」は「石炭積み終えた」であるとともに「石炭積み終わった」というニュアンスでもある。

 「石炭を」だと、誰が? ということになるから主語が省略されていることになり、その主語に語り手を補ってしまう誤解も生じる余地がある。

 実際に、石炭が蒸気船の燃料のことだと解釈した上でなお、語り手がそれをしたのだと考える者はいる。それらしい誤解の声が聞こえてくるのは、省略された主語が語り手であると想定する、という基本作法を守ったのは授業者だけではないということなのだろう。

 だが語り手の「余(=私)」=豊太郎は乗客だから、作業自体は船員と港湾作業員がやったのだと考えていい。

 そして、「をば」を「は」と考えれば必ずしも主語を欠いているとも言えない。「石炭もう積み終わった。」のだ。

 同時に、「船は」という主語(題目語)が隠れているとも言える。つまり「船石炭もう積み終えたところだ」という意味で考えてもいい。二文目も「中等室の卓のほとり」「熾熱灯の光晴れがましきも」と、実は主語が語り手ではない。


 さて、多くの者が正解にたどり着くのは、わざわざこの文の意味を考察させたからであるとも言える。そこに「意味」を見出そうとする思考が、文脈を意識させる。そしてそれによっておそらく上の答えが、さらに「なぜ冒頭にこの一文が置かれているか。」という問いの答えにつながりそうだという予想を感じているからだろう(と、自分で自然には辿り着かなかった授業者は負け惜しみで言う)。

 だが予感された論理を実際にたどるのは、それほど易しくはない。

 問いというのは往々にしてその求める思考の範囲が曖昧なものだが、「なぜ」という問いもまた、限界がない。理由らしきことを言ってみても、それについてさらに「なぜ」という問いを発することができるからだ(子供のように。あるいは哲学者のように)。「なぜ」という問いは、問う側が納得してそれ以上の答えを制止することによって、元々求めていたものを示すしかないのである。

 「なぜ冒頭にこの一文が置かれているか。」という問いも、その問いの意図しているところが何なのか、どこに向かうべきか、どこに決着すべきかはわからない。

 そこでさらに問いを言い換える。

 「船の燃料となる石炭の積み込み作業が終わった」から何だと作者は言いたいのか?

 あるいは、この情報はどの情報と結びつけるとどういう「意味」を生むか?


 研究書や解説書を見ると、この一文について従来語られてきたのは次の2点。

  1. 船室から船内の様子を描写する聴覚的な表現である。
  2. 文末の「積み果てつ」の完了が、この先に語られるエリス=「舞姫」との物語が全て終わってしまった過去として語られることを象徴している。


 これらは面白い「鑑賞」でもあるが、同時に恣意的な解釈だとも思う。だからこうした解釈を思いつくことには価値があるが、みんなでこれを目指して考察することはできない。

 例えば1は、語り手が自分の船室に閉じこもっているという解釈を採ったときのみ意味をもつ。騒がしかった積み込み作業の音が止んだことで、「積み果て」たことを知ったというのだ。

 だが語り手が手記を書き出すに船内を歩き回って、作業の終了を「視た」ことがありえない、と断ずることはできない。夕方、作業が終わったのを見届けて船室に戻り、手記を書き始めたのかもしれない。

 もちろん、船室に閉じこもっているのだと解釈する方が、この時の語り手の心情にふさわしいという「解釈」はそれなりに説得力がある。だがそれが、書き始める時点までのどれくらいからの時間を意味しているかは明らかではない。トランプ仲間は毎晩語り手の元を訪れているのだし、食堂に行くくらいのことはあったろうから、そこから2~3時間ほど部屋にいたら、それをも「閉じこもっている」と言うべきだろうか。

 2について言えば、まず冒頭を読む読者にはわかりようのないことだ。既に「舞姫」全文を読み、振り返って冒頭の一文を目にしたときにそのような感慨を抱くのは読者の自由である。だがそれが、この一文がここに置かれるべき理由を示しているわけではない。文末の完了形が問題なのではなく、「石炭を積み終える」ことが、なぜ示される必要があるのかを考えようとしているのだから。


 冒頭の一文は、なぜここに置かれたのか? その意味する情報によって、読者にどのような解釈を迫っているのか?


2021年10月11日月曜日

舞姫 2 石炭を積み終える

 「舞姫」全編を、2頁ほどで区切って章立てし、各章を3文で要約しながら読み進める。

 だが最も難しいのは最初の章段だ。物語が動き始めてしまえばずっと楽になるのだが、最初はまず物語の世界設定の把握に難渋する。


 例えば冒頭の2頁程でいうと、次のような要約が考えられる。

  1.  筆者は港に停留した船の中でこれ(日記)を書いている。
  2.  ドイツから日本に向かっている船である。
  3.  筆者にはある「恨み」があり、それが筆がすすまない原因でありながらも、それこそを消そうとして筆を執っている。

 もちろん要約に正解はないから、これ以外の内容を含む3文になってもいい。

 とはいえ、この章の要約は難しい。上のような要約をすらすらと思いつくのは相当な国語力の持ち主だ。三つのトピックとして何を選ぶか。特に、三つ目の内容は容易には出てこないだろう。要約として思いつくかどうか以前に、そうであることを読み取るのが難しいかもしれない。

 だがこれは重要な要件でもある。

 ここで「日記」と呼ばれているものが「舞姫」という小説自体であり、つまりここまでは「舞姫」という小説を支える基本設定が述べられているのである。その中で三つ目は、いわば執筆動機だ。その重要性は論を俟たない。


 さて、読み進めながら、そこまでの時点で考察すべき問題については、随時考察をしていく、と述べた。

 その最初のテーマは、「石炭をばはや積み果てつ。」という冒頭の一文である。

 この冒頭の一文は何のことを言っているか?

 なぜ冒頭にこの一文が置かれているか?


 実はこの問いは、もともと授業者が生徒から質問されたものだ。問われて初めてこの一文が何を意味しているかについて、自分がまるで考えていなかったことに気づいた。それまでに何度も「舞姫」を読んだことがあったばかりでなく、複数学年で授業をしたことさえあったのに、である。

 といって、まったく意味がわからないと感じるのであればそれはそれで読者の注意を引く必然性が生ずるから、授業者とてそれなりの「意味」を受け取っていたには違いない。わかっている「つもり」になっていたのだ。

 「意味」というのは、口語訳、ということではない。口語訳は「石炭はもう積み終えた。」ほどにしておく。文末の「た」は過去ではなく完了だ。

 問題はこれがどのような事態を示しているか、だ。

 授業者はこの一文から、船室に石炭ストーブがあって、燃料として各室に割り当てられている石炭を置き場所に積み上げるか、すべてストーブに入れてしまったというような状況をイメージしていた。もちろん「積む」という動詞が「ストーブに入れる」というような意味に解釈できるかどうかは知らず、そこは当時の言い回しとして現代語との違いがあるのかも、などと自らを誤魔化し、つまり曖昧なままその解釈を放置していたのだ。

 今となっては馬鹿馬鹿しいこうした解釈がなぜ成立したかについては自分なりに推測できる。

 まず、冒頭の一文で述語となる「積み果てつ」に含まれる「積む」という行為の主語を語り手であると想定するからである。省略された主語が「私」=語り手であると想定するのは自然だ。

 それだけではない。解釈とは基本的に文脈において生ずる意味を捉える思考だ。冒頭の一文に続くのは「中等室の卓のほとりはいと静かにて、熾熱灯の光の晴れがましきも徒なり。」という船室の描写である。だから石炭を積み終えるという事態も、船室で生じた出来事、つまり語り手のいる場所で為した何事かの行為であろうと考えたのだ。


 石炭ストーブの燃料を棚に積んだ(もしくは、全てくべてしまった)から何だというのか?

 それはつまり、やがてそれが燃え尽きた後の寒さが予感されている、ということなのだろう、というのが漠然とした理解だった。

 だが生徒の問いを前にしてあらためて考えたときに、そうではない、と気づくのは、それでは「意味」が充分にはわからないからだ。この「意味」とは、もっと広い「文脈」におけるそれだ。

 問いの「何のことか」と「なぜ冒頭にこの一文が置かれているか」は、この「文脈の中で生ずる意味」についての考察を要求している。「何のことか」についての仮説は「なぜ冒頭にこの一文が置かれているか」まで結びついたときに納得に変わる。「船室の石炭ストーブ」解釈は、その文脈を見出せないことによって挫折する。


 これら二つの問いは、去年の「こころ」でいえば、上野公園の散歩の晩のKの謎めいた言動について、次の二つの問いに分けて考えたことに似ている。

  • Kは何のために「私」に声をかけたか?
  • このエピソードは何を意味しているか?

 また、今年で言えば「羅生門」における次の二つの問いにも。

  • 下人はなぜ引剥ぎをしたか?
  • この小説は何を主題とするか?

 階層の異なる二つの疑問は相補的である。互いがそれぞれ相手を支えるようにして整合的な論理を組み上げたときに、腑に落ちるように納得されるはずである。


 果たして「舞姫」冒頭の一文は何を意味しているか?


2021年10月1日金曜日

舞姫 1 読み進める

 後期は、今年度最後の授業までかけて森鷗外の「舞姫」を読む。

 漱石の「こころ」も、同じくらいの時間をかけて読んだ。あの難問群の数々を考察するためには、それだけの時間が必要だったのだ。そうした考察を積み重ねて、最後に見えてきた光景が、最初の時とはどれほど違ったものになったか、みんな覚えていると思う。
 「舞姫」もまた、考えれば考えるほどに問題が発見されるはずの、同様に濃密なテキストではある。だが、その扱いは「こころ」とは些か異なる。
 授業前に全文通読を指示した「こころ」と違って、「舞姫」は授業中に全文に目を通す。
 ほぼ現在の口語と変わらない「こころ」と違って、それより四半世紀近く前に書かれた「舞姫」は、擬古文と呼ばれる文語文で書かれている。
 当時、言文一致運動は試行の直中にあり、鷗外もまた言文一致体=口語による文章も書いていたが「舞姫」は試行中の口語文ではなく、歴史のある文語の規則に従って書かれている。
 仮名遣いこそ現代仮名遣いにあらためたものが教科書に載っているのだが、この長さの文語文をすらすらと読み進めて内容を把握するのは、正直キツいはずだ。
 そこで、授業中に全文を通読する
 勿論、自主的に時間を設けてあらかじめ通読してから授業に臨むのは結構なことだ。だが全体としては授業中に冒頭から順に本文を読み進めて、途中、そこで考察すべき問題をその時点で考察する。全体を読んでいる前提で、本文の順にとらわれずに考察すべき問題を全体の中から取り上げた「こころ」とは、読解の手順が随分違う。

 といって、細かい意味を解説していくとなると、ほとんど古文の授業のようになってしまいかねない。文語文法に正確に則って書かれた「舞姫」は、むしろ文語助動詞現古異義語禁止の副詞係り結びの逆接用法など、古文の学習教材として恰好な素材とさえ言ってもいい(一橋出題の近代文読解の練習にもなる)。
 だがそれには「舞姫」は長すぎる。ここはあくまで小説読解の教材として「舞姫」を扱いたい。授業者による解説を最小限にしつつ、できるだけ早く内容把握を促し、考察したい問題に焦点を絞りたい。
 そこで、次のような手順で本文を読み進める。

  1. 予め授業者の方で「舞姫」全体を14の章に分割しておく。各章は内容的に切りのいい、2頁程度の長さ。
  2. 授業者が口語訳を朗読する。みんなは朗読を聴きながら本文を目で追って、文語と口語を対応させる。
  3. 1章分2頁程度の口語訳を読み終えたら、その章の内容を3文の箇条書きで要約する。

 3の「要約」は、なるべく簡潔な、単文にする。「単文」というのは、主語述語の組合わせが一つだけの文のことだ。主語述語に、必要な形容や目的語などを加えて、5文節くらいにまとめる。あるいはノートで1行くらいの見当にしておく。
 これを三つ、3文で各章を要約する。本文2頁をノートに3~4行。

 これはつまり、その2頁ほどの内容から、重要と思われるトピックを三つ選べ、という課題だ。
 「物語の展開」「状況説明」「登場人物の行動」「心理」などの小説を構成する要素のうち、その2頁ほどの長さの文章中で押さえておくべき要素は何と何かを判断し、三つを選んで文にする。
 むろん「三つ」という限定は少なすぎると感ずる。だが、とにかく、優先順位の高いトピックを三つ選ぶ。その優先順位を勘案しようとすることが、その該当部分の全体を捉えようという思考になる。だから要約文としての完成度は必ずしも高くなくて良い。言い足りないままでも良い。

 要約文は、頭の中で考えるだけでなく、必ず書く。3行×14章=42行、大学ノートは1頁に40行近く罫線が引かれているから、充分な余白を設けて、後から書き込みができるようにしても、最終的にノート2頁くらいで、「舞姫」全文を要約することになる。

 各章の要約を始めたら、みんなが3文を書き終わらないうちに誰かを指名して1文ずつ発表させる。的確な3文が並んだら、3人が発表して終わりだ。押さえておきたい内容が出揃わなかったら4人目、5人目を指名する。
 発表を待って自分の要約を書くのではなく、発表と並行して書き進め、3文が出揃うまでに自分も書き終えるようにする。
 2~3頁につき、このサイクルを15分程度で繰り返すと、1時限で3回、7~8頁読み進めることになる。そうして「舞姫」を読み終えるのに、正味4時限程度を要する。
 だが先述の通り、全文を通読してから読解するのではなく、読み進めながら、その時点で考えるべきことを考えていく。例によって「部分的な読解」だ。
 いくつかの場面でこうした読解/考察をはさんでいくと、最終的に全編を読み終えるまでに10時限くらいかかる。

 それからやっと「舞姫」という小説全体を考察する。

 授業で読み進めている部分より先を自主的に読み進めるのは、むろんかまわない。
 むしろ、授業時に口語訳を聴くときに初めて本文を見るのは勿体ない。先に自分で原文を読んでおいた方が学習になるのはもちろんだ。なるべく速度を上げて文語文に目を通し、かつ的確に意味を把握する訓練は、多いほど良い。
 そこで、せめて各授業の前の休み時間には、授業で読んだところの続きに目を通しておく習慣を作ってほしい。
 5分でいい。その姿勢が、授業の学習効果を高める。

 ずっしりと手応えのあるこの文学史上に残る記念碑的作品を、長い時間をかけて読み進めていった先に、今度はどんな光景がひろがるか。
 みんなで一緒にそれを見たい。