「舞姫」全編を、2頁ほどで区切って章立てし、各章を3文で要約しながら読み進める。
だが最も難しいのは最初の章段だ。物語が動き始めてしまえばずっと楽になるのだが、最初はまず物語の世界設定の把握に難渋する。
例えば冒頭の2頁程でいうと、次のような要約が考えられる。
- 筆者は港に停留した船の中でこれ(日記)を書いている。
- ドイツから日本に向かっている船である。
- 筆者にはある「恨み」があり、それが筆がすすまない原因でありながらも、それこそを消そうとして筆を執っている。
もちろん要約に正解はないから、これ以外の内容を含む3文になってもいい。
とはいえ、この章の要約は難しい。上のような要約をすらすらと思いつくのは相当な国語力の持ち主だ。三つのトピックとして何を選ぶか。特に、三つ目の内容は容易には出てこないだろう。要約として思いつくかどうか以前に、そうであることを読み取るのが難しいかもしれない。
だがこれは重要な要件でもある。
ここで「日記」と呼ばれているものが「舞姫」という小説自体であり、つまりここまでは「舞姫」という小説を支える基本設定が述べられているのである。その中で三つ目は、いわば執筆動機だ。その重要性は論を俟たない。
さて、読み進めながら、そこまでの時点で考察すべき問題については、随時考察をしていく、と述べた。
その最初のテーマは、「石炭をばはや積み果てつ。」という冒頭の一文である。
この冒頭の一文は何のことを言っているか?
なぜ冒頭にこの一文が置かれているか?
実はこの問いは、もともと授業者が生徒から質問されたものだ。問われて初めてこの一文が何を意味しているかについて、自分がまるで考えていなかったことに気づいた。それまでに何度も「舞姫」を読んだことがあったばかりでなく、複数学年で授業をしたことさえあったのに、である。
といって、まったく意味がわからないと感じるのであればそれはそれで読者の注意を引く必然性が生ずるから、授業者とてそれなりの「意味」を受け取っていたには違いない。わかっている「つもり」になっていたのだ。
「意味」というのは、口語訳、ということではない。口語訳は「石炭はもう積み終えた。」ほどにしておく。文末の「た」は過去ではなく完了だ。
問題はこれがどのような事態を示しているか、だ。
授業者はこの一文から、船室に石炭ストーブがあって、燃料として各室に割り当てられている石炭を置き場所に積み上げるか、すべてストーブに入れてしまったというような状況をイメージしていた。もちろん「積む」という動詞が「ストーブに入れる」というような意味に解釈できるかどうかは知らず、そこは当時の言い回しとして現代語との違いがあるのかも、などと自らを誤魔化し、つまり曖昧なままその解釈を放置していたのだ。
今となっては馬鹿馬鹿しいこうした解釈がなぜ成立したかについては自分なりに推測できる。
まず、冒頭の一文で述語となる「積み果てつ」に含まれる「積む」という行為の主語を語り手であると想定するからである。省略された主語が「私」=語り手であると想定するのは自然だ。
それだけではない。解釈とは基本的に文脈において生ずる意味を捉える思考だ。冒頭の一文に続くのは「中等室の卓のほとりはいと静かにて、熾熱灯の光の晴れがましきも徒なり。」という船室の描写である。だから石炭を積み終えるという事態も、船室で生じた出来事、つまり語り手のいる場所で為した何事かの行為であろうと考えたのだ。
石炭ストーブの燃料を棚に積んだ(もしくは、全てくべてしまった)から何だというのか?
それはつまり、やがてそれが燃え尽きた後の寒さが予感されている、ということなのだろう、というのが漠然とした理解だった。
だが生徒の問いを前にしてあらためて考えたときに、そうではない、と気づくのは、それでは「意味」が充分にはわからないからだ。この「意味」とは、もっと広い「文脈」におけるそれだ。
問いの「何のことか」と「なぜ冒頭にこの一文が置かれているか」は、この「文脈の中で生ずる意味」についての考察を要求している。「何のことか」についての仮説は「なぜ冒頭にこの一文が置かれているか」まで結びついたときに納得に変わる。「船室の石炭ストーブ」解釈は、その文脈を見出せないことによって挫折する。
これら二つの問いは、去年の「こころ」でいえば、上野公園の散歩の晩のKの謎めいた言動について、次の二つの問いに分けて考えたことに似ている。
- Kは何のために「私」に声をかけたか?
- このエピソードは何を意味しているか?
また、今年で言えば「羅生門」における次の二つの問いにも。
- 下人はなぜ引剥ぎをしたか?
- この小説は何を主題とするか?
階層の異なる二つの疑問は相補的である。互いがそれぞれ相手を支えるようにして整合的な論理を組み上げたときに、腑に落ちるように納得されるはずである。
果たして「舞姫」冒頭の一文は何を意味しているか?
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