エリスが、身体を売らねばならない窮境に陥っていることを、いくつかの記述を結びつけて推測した。だがそこから「なぜそこにいたか」に答えるにはさらに何段階もの推論と説明の手順が必要だ。
「金がないから身体を売らねばならない」というのは言わば中くらいの抽象度の状況把握で、「その時そこにいた」というのはさらに細かい状況の把握を必要とする。つまり前後に延長されるストーリーを具体的に想像し、この場面がその中のどの時点かを特定しようというのだ。
さて、「そこにいた」事情とはなんだろうか?
授業で出てきたアイデアを分類する。
a.母親から逃げ出してきて
b.助けを求めて
c.身を売る相手を探して
d.どこかに行く途中で
e.どこかから帰ってきて
こういった諸説は、その要素を明らかにして相違点を明確にする。
たとえば前の二つは、自ら外に出た、後の三つは、命ぜられて外に出た、という違いがあるといえる。
さらにaでは明確な目的はなくとりあえず、bでは目的が自覚的、などといった違いがある。
deでは当然「どこ」が問題になる。そしてなぜその途中で止まっているのかも。
最初にみんなが考えているストーリーは、実はこのようにばらけている。
だがそのことを意識しないで、認識の食い違ったまま話し合っているのに、それに気づかない、ということがおそらく起こっていたはずだ。
だから話し合いの際は、安易に頷かないで、自分の思い描いているストーリーと、誰かが語るストーリーの違いを意識しながら聞きなさい、と注意した。なるべく解釈のバリエーションを保持したまま議論の俎上にのせたいからだ。
上記のようなバリエーションは、話し合いの中で検討されただろうか?
こうしたストーリーの違いは、その背後に、想定の相違を秘めている。
たとえば、「身体を売る」ことになる直接の相手は誰か?
これは必ずしも一致していないはずだ。
さしあたって解釈の可能性は次の三つ。
まず、シヤウムベルヒ自身か、それ以外の誰かか。さらに、シヤウムベルヒ以外の誰かだとしても、その相手があらかじめ特定されているか不特定か、という可能性で二つに分岐するから、都合三つの可能性が考えられる。
そしてこれら三つの解釈は、皆の中で潜在的に分裂しているのだが、必ずしもその相違が議論の中で浮上してくるとは限らない。お互いに違った想定で違ったストーリーを語っているのだが、それに気づくことがないかもしれないのだ。
世に出回っている「舞姫」評釈書では、三つとも目にすることができる。
たとえばある評釈書では「身勝手なる言い掛け」を、〈シヤウムベルヒが、エリスに金銭の援助をする代わりに情人になれといっていること。〉と解説している。
別の評釈書では〈葬儀費用を作るために、シヤウムベルヒの紹介する客を取るようにという要求。〉と解説している。
あるいはエリスが立っていたのは「客」を探していたのだという解説もある。当然相手は「不特定」だ。
だが、寡聞にしてこれらの解釈の相違が論争の種になっているという話はきかない。
これらいわば「愛人強要説」と「売春強要説」は、どちらも両論併記ではなく、どちから一方のみが前提され、それ以外の解釈の可能性については言及されない。
自分の中に形成された解釈は、必ずしも別の解釈の可能性との比較の上で選ばれたわけではなく、単にそれを思いついてしまったというだけのことなのだ。
そして論者の間でも見解が分かれるように、これらの三つの解釈をどれかに決定する明確な根拠は容易には見つからない。
ともあれ「そこにいた」事情を考えていく中で、「相手」についての想定も必要かもしれない。心に留め置く。
また、「そこ」とはどこか?
端的には「寺院(ユダヤ教の教会)の前」である。
では、この教会はどこにあるか?
エリスが住んでいるアパートの「筋向かい」なのである。とすると単に「家の前」という意味かもしれない。
重要なのは「教会の前」であることか? 「家の前」であることか。?
それはa~eの議論にどう影響するか?
上で言えばbは「教会の前」であることに意味があると考えているはずだ。無意味な路上ではなく、教会に「助けを求め」たのだ。だが扉は閉ざされていた。だからそこで泣いていたのだ。
またdeは「家の前」で止まっていたといっていることになる。
aはどちらとも言い難い。「逃げた」というだけなら「家の前」だし、「逃げて」「助けを求めた」というなら「教会の前」であることに意味があるかもしれない。
cは?
まずはいくつかの観点で、それぞれに整合的なストーリーが描けそうだという発想の拡張につとめる。収束はその後だ。
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