「舞姫」が「石炭をばはや積み果てつ。」という一文で始まることを、どう納得することができるか?
さて
船の燃料となる石炭の積み込み作業が終わった
とは何を意味しているか?
出航が間近だ
ということだ。「間近」とはいつのことか?
明朝
であろう。なぜか?
「今宵は夜ごとにここに集ひ来る骨牌仲間もホテルに宿りて、舟に残れるは余一人のみなれば。」とあるからだ。
だから何だというのか?
上は「…とすると?」という自問自答に基づく思考によって考えを推し進めている。
一方で、思考は方向を定めずに展開するばかりではなく、到達点を仮設してその間を架橋するようにも展開する。
この授業展開は、先述の読み進める際の区切りの一つ目、教科書の2頁ほど、形式段落で三段落「いで、その概略を文に綴りてみん。」までの千字弱(以下「第一章」)を読んだ段階で実施している。
だから「舞姫」全体を読了した上での解釈は発想できないが、一方でこれは第一章の内容全体を参照する必要のある問題でもある。この情報がどういう意味を持つかを、納得できる論理の中に位置付けるには、第一章が読者に伝えている情報の中においてこの一文が持っている意味を捉える必要がある。
第一章で最終的に読者が把握しなければならない情報は何か?
第一章の終わりは「ああ、いかにしてかこの恨みを銷せん。(略)今宵は辺りに人もなし、(略)いで、その概略を文に綴りてみん。」である。これは「要約」の時に確認した、この段落の要点の一つだ。
つまり語り手はある「恨み」を消そうとして文章を書こうとしているのである。
だが筆は進まない。「買ひし冊子もまだ白紙のままなる」に、二十日あまりが経過している。
こうした状況把握が、上の思考と双方から呼び合い出会う。
物語が始まるにあたって、筆者は「書きたい、だが書けない」状況にある。
これが一章の終わりで「さあ、書こう」に決着するための
この両者を架橋する論理をどのように想定すればいいか?
一文目に続く二文目には「静か」とあり、三文目に「舟に残れるは余一人のみ」とある。この情報は一章の終わりで「今宵は辺りに人もなし。」と繰り返される。
つまり燃料の積み込み終了は文章を書き出すのに恰好な状況を必然的に作り出しているのである。
どういうことか?
作業が終わったから「静か」になったのだろう、と考えることはできる。だが「一人のみ」は?
ここは少々の推察を必要とする。おそらく船の長旅では、寄港の最後の晩はみな
だから、単に今「静か」になったということではない。夜はいつでも「静か」だろう。だからここは作業が終わったから「静か」になったと言っているのではなく、皆が舟を下りてしまっている今晩のうちは「静か」なのだ。
こうして情報は関連させることで「意味」を生ずる。
それだけではない。「明日には出航する」という状況はさらに、書き出すことへの必然性を用意する「意味」を持っている。
少々誘導する。
この港はどこにあるか?
→「セイゴン」とある。
どこの国か?
→ 脚註でベトナムとわかる。
直前の寄港地はどこか?
→ 「ブリンヂイシイ」だ。同じくこれはイタリアである。
ここまでにどれほどの日時がかかっているか?
→ 「二十日あまり」とある。
そもそもどこから旅立ったのか?
→ 留学先のドイツだ。スイスに言及しているので陸路でイタリアに向かい、そこから船に乗ったのだろう。
どこへ向かうのか?
→ 日本だ。
そしておそらくここは日本に向かう最後の寄港地であろう。「五年前のことなりしが(略)このセイゴンの港まで来しころは」の一節は、日本を出て最初の寄港地がセイゴンだったことを示していると思われるし、ヨーロッパ―アジアの位置からしても、そう解釈するのが自然である。
この地理関係から何が言えるか?
日記を買ったのは「途に上りし時」だ。つまりドイツ出発時だ。
つまり、日記を買ったものの書けないまま一ヶ月ほどが経って、今ベトナムにいて、ここを出ると日本まではそれほど猶予はないのである。
この文章がある「恨み」(=悔恨)を消すために書かれるのだとすると、それは日本に着くまでに書かれることが望ましい。日本ではその「恨み」を飲み込んで新しい生活が始まるからである。
「明日には出航する」という状況は、ためらったまま手をこまねいている語り手に焦燥感を与えて、書き出す契機を与えているのである。
「なぜ冒頭にこの一文が置かれているか。」という問いに対して授業者が用意している答えはつまりこういうことだ。
セイゴンの港で燃料の積み込みが終わった夜という状況設定は、語り手が、書けずにいる手記を書き出すにあたって、書き出さねばならないという動機に切迫感を与え、かつ書くのに都合の良い状況を作ることで書き出すことに誘導しているのである。
そして語り手が書こうとしている手記こそ、この「舞姫」という小説そのものである。
つまりこの冒頭の一文は、そこから始まる小説がまさに存在を始めるための契機に必然性を与えているのである。
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