2021年3月5日金曜日

最後の読み比べ 6 発表

 今年度の授業の終わりにあたって、こうした読み比べによる考察を、班毎に発表してもらうことにした。

 高校入試の休みの間に読んで考えてこいとは言ったものの、とりあえず内山の文章を読むだけで授業に臨んだ者も多かったに違いない(もちろん読んですらこなかった者もいたろうが)。

 残り2時限でこの課題だから、1時限で発表準備、2時限目に発表、という想定だったが、結論としては無理があった。最初のクラスでこれをやったところ、発表の準備として1時限ではあまりに時間が足りず、生煮えのまま発表に入って情報量に乏しかったり詰まってしまったり。

 後に続くクラスでは、最初の1時限に誘導する部分を多く取り(今回のシリーズの3回目までの記事にあたる)、2時限目にも準備に時間をとってから2班ほどの発表が精一杯だった。

 最大で4時間とれたクラスでは、3時限目の半分まで準備にとり、3時限の終わりにようやく最初の班の発表となったが、これでも長すぎることはないという感じだった。そこまでの準備に、目一杯活発な議論が続いたのだった。


 今年度は、最初の休校があって、時間が少ないという焦りと、このブログ記事の執筆が授業者にとっての授業準備になっているせいで、総じてすべての授業が高密度だったが、その中で、まとまった文章を書かせることと、まとまった発表をさせることができなかったのが心残りだった。

 もちろん常に授業は議論発表の連続だった。毎時間、疲れるほどに頭を使ったはずだ。

 だが、準備に1時限以上の時間を費やすようなまとまった発表は実施する機会を逸してきた。


 学習とは「わかる」ことが目的ではない、と最初から言ってきた。わかったことが、何らかの形で活かされるのでなければ、「わかる」こと自体は自閉的な営みに過ぎない。「わか」った後に何ができるかが問われるのだ。「学力」が「生きる力」と措定されているのはそういうことだ。

 だから入力から考察を経て変形された情報は出力されなければならない。

 それもまた明らかに国語の学力だ。


 発表は「4つの文章を読んで、それなりに理解はしているが、繋げて考えることはしていない東葛生」を対象とした国語の授業のように、と設定した。

 つまり黒板に図示しながら語っていく。いわゆるプレゼンテーションである。


 どのような図を画くか。

 必ずしも完結したものでなくとも構わない。話の補助として、聴覚情報を視覚情報で補うのが目的だ。

 認識の構造は本当は4次元的なものだ。論理は3次元どころか、時間軸さえ飛び越えて連結する。

 それを2次元に投影したものが「図」だ。

 取り上げるべき情報を選んで、それを平面上に配置し、その関係を線などで示す。どこかを繋げ、どこかを区切り…。

 それをさらに1次元にしたものが「話」や「文章」だ。本当は4次元的な認識を時間軸に沿って並べていく。ジャングルジムを一筆書きするようなものである。あるいは複雑な建物の中を道案内するようなものだ。話し手・書き手は、聴き手・読み手に建物の構造を把握させる案内人だ。

 だからその出発点やら経路やら終点やらは、無限の可能性がある。同じところを何度も通ってしまったり、遂に通れないまま終わってしまう部分が残ったり、つながっていないところを跳躍したりして、聴き手・読み手を迷わせるような「話」「文章」もあるだろう。

 案内のための地図が、黒板に画く図である。

 その図を示しながら、皆をどんな認識に案内してくれるだろうか。


 さて、授業者なりに案内したのが前回までの4,5回の記事だ。

 これは「対比」「問いを立てる」「抽象と具体の往復」というメソッドを意識した一つの方法である。唯一の「正解」などではない。

 だから全ての班に発表してもらうことはできなかったのが残念だ。皆の議論の様子はとても活発で、レベルの高いやりとりをしていたように思う。

 籤にあたった班の発表もそれぞれ的確で、1年の集大成にふさわしい思考の成果を示していた。

 そして全ての班の発表は聞けなかったとはいえ、準備の段階でそれぞれの班の中で発表の流れを追いながら語りおろすことが、それぞれの班にとっての「まとまった発表」になっていたと思う。

 とはいえ、時間が足りなかったことはやはり心残りなので、せめて、みんなが用意してあった「図」だけでも紹介したい。

 これらはどれも板書を書き写したものなどではないことに価値がある。こうした図は、それを構想し、構築することだけに価値があるのであり、誰かが作ったものを見たり書き写したりすることにはほとんど価値がないのだ。授業者の板書も、皆の思考の共有基盤(プラットホーム)として機能することを意図しており、決して「まとめ」ではない。

 これらはそれぞれの作者の(班の)思考の過程を表わしている。

 



 A組N君の構想図。
 対比軸に沿って上下に振り分けた項目を横に並べていくという構図は授業者の想定に近いものだった。ここまでのブログ記事の文章にも近い。
 それに対し以下の図は、四つの文章の読み比べという設定を平面図に表わすのに、平面を四分割して各象限にそれぞれの文章の項目を割り振るというレイアウト。
 いずれも真ん中に共通する要素を置いて全体を一括したうえで、それぞれの文章で、それがどう語られているかを一望できるように配置している。

B組のOさんN君Iさん。的確な項目をシンプルに書き出してある。

B組のI君。カラフルなレイアウト図が目を引く。さらに、二つの文章間の共通領域をそれぞれ書けるようにレイアウトしていることで詳細な読解が可能になっている。

 その他、情報量の豊富さや項目の整理、見やすさの点で目を引いた図を挙げる。 

G組Oさん

A組Tさん


A組I君


D組Eさん


D組S君


G組O君


G組Mさん

 これらはそれぞれの班が発表用に準備したメモなので、「まとめ」としては上の図では不本意なところがあるかもしれないし、上記に引用した以外の班も、それぞれに工夫をした図を作成していたとは思う。本当はこれらの図を元にして、発表の際に肉付けしながら語りおろすところがそれぞれの班の腕の見せ所だったはずだ。
 実際にC組YさんR君のように、発表にあわせて書き加えていくことで情報量を充実させていく、図の生成過程を見せるのも有益だった。
 もう一つ、A組K君。
 構想の段階から、黒板に画く図、発表の骨子まで、タブレットを使って複数枚のメモを作成して発表の準備をしている。見事です。
メモ①

メモ②

板書①

板書②

板書③

発表要旨①

発表要旨②


 来年度もまたこうした「まとまった発表」の機会も、そして、「まとまった文章を書く」機会も作りたいと思う。
 だが特別そういう機会でなくとも、毎時間毎回の課題において、常に発表できる(書ける)だけのまとまりを、ひとりひとりが目指して考察を進めてほしい。

 学習の目的は「わかる」ことではない。「使う」「伝える」ことだ。

最後の読み比べ 5 近代化という問題

 次に、それぞれの文章で何が「問題」なのかをみていく。その際、前項で確認した対比が、どのようにしてその「問題」を生んでいるかを確認する。


  • 「である」ことと「する」こと

 「する」化がもたらす「過近代」的問題とは、休日が却って忙しい日になっているとかいう問題も挙がってはいるが、大きな問題は文化=学問・芸術に好ましくない影響があることだ。この「影響」は、あまり具体例としては挙がっていない。研究者の評価が論文ので(ではなく)決まってしまうことくらいだ。
 だが文化が「する」論理=「大衆的な効果と卑近な『実用』の基準」で評価されることは明らかに文化の衰退を招きそうな予感はある。「である」価値の軽視は文化にとって重要な「蓄積」にも悪影響があるだろう。

  • 不均等な時間
 「均等な時間」=「する」時間の浸透によって、「労働時間の作り出す経済価値がすべて」になると、そこに生きる人々のそれまでの共同体や自然との「すべての関係が崩れ去ってしまう」。そうなると人々は「自分たちの存在の形がな」くなることになる。
 つまり「時間に管理される」ことは、自然と、そこに生きる人々にとって「暴力」なのである。
 「時間に管理される」と、「経済価値を生まなくなった時間には、別の意味が付与されなければならなくなるだろう。その意味とは、充実した生活かもしれないし、休息や余暇かもしれない。」というくだりは、上の「『である』ことと『する』こと」の「休日」のくだりに完全に対応している。
 そして「時間に管理される」とは、授業でも確認した「疎外」の概念「自分たちの作りだしたものに逆に支配され、本来の人間らしさを失う」状態を言っているのだということも多くの者が気づいたはずだ。

  • この村が日本で一番
 上の「疎外」の問題が、この文章でも言及されている。
グローバル化という形で拡大していく市場経済は、人間自体に対して深刻な問題を投げかけているのである。だからこのような時代には、「自己実現」とか「自分探し」、「個の確立」といった疎外された意識が次々に出てくる。だれもが、自分の確実な存在を見つけ出せないのである。
 ローカル=「我らが世界」では、「自分を見つけ出すことができる」。それがグローバル化によって、すべてを経済価値で測る「する」論理が支配するようになると、「自分」が「自分」であるという「かけがえのない個体性」は見失われてしまう。
 そうした「疎外」状況だからこそ、逆に「自分探し」に駆り立てられる。

  • 南の貧困/北の貧困
 問題は単なる貧困ではない。貧困を生み出す前提となる「貨幣への疎外」が問題だと見田はいっている。
 「貨幣への疎外」が「する」化であることは前項で確認済み。
 「問題」はその時に「人々の生がその中に根を下ろしてきた自然を解体し、共同体を解体し、あるいは自然から引き離され、共同体から引き離される」ことだ。
 これはそのまま上の内山の「自分たちの存在の形がなくなる」ことに等しい。
 「南の貧困/北の貧困」ではこれを「見えない幸福の次元」「測定できない幸福の次元」を失う、と表現している。「測定できない」つまり「する」原理=機能・効率で量ることができない「幸福」こそ、「である」価値をもったものである。

 ではこれらに共通する「問題」を抽象化して言ってみよう。
近代化に伴う「である」価値の喪失
 これならば4つの文章に適用できる。
 「近代化」はそれぞれ次のように変奏している。
  • 「である」→ 「する」化
  • 「不均等」→ 時間の合理化
  • 「この村」→ グローバル化
  • 「南の貧困」→ 市場経済化=「貨幣への疎外」

 そこで失われる「である」価値とは何か?
  • 「である」→ 文化
  • 「不均等」→ 自然・共同体
  • 「この村」→ 自然・共同体
  • 「南の貧困」→ 自然・共同体

 そして内山の文章では「自然・共同体」との関係の喪失は「自分の存在」を危うくするという視点が重視されている。喪失するのは「自己」である。「疎外」とはそのような状態を指している。
 「『である』ことと『する』こと」でもこの「自己」の問題に言及している。
「教養においては、しかるべき手段、しかるべき方法を用いて果たすべき機能が問題なのではなくて、自分について知ること、自分と社会との関係や自然との関係について、自覚をもつこと、これが問題なのだ。」教養のかけがえのない個体性が、彼のすることではなくて、彼があるところに、あるという自覚をもとうとするところに軸をおいていることを強調しています。
 「する」化によって失われるのは「教養」であり、「教養」が失われることは「かけがえのない個体性」をもった「自分」が失われることだ。そしてここでも「自分」という存在は社会や自然との関係において「自覚」されている。
 文化・教養、自然・共同体、そして自己。
 ここに「市民社会化する家族」から「家族」を加えてもいい。
 これらはどれも「する」論理で切り棄ててはならない「それ自体」=「である」価値を持ったものである。
 近代化はそうした「である」価値をもった存在を危うくするのである。

最後の読み比べ 4 対比の変奏

 それぞれの文章の対比を並べ、それらがどんなふうに整合するかを見ていこう。

 全体を通観するためのラベルは「である/する」だ。これと軸を共有できる対比を挙げる際は、左辺に「である」、右辺に「する」を並べる。そして、なぜそれが「である」なのか、「する」なのかは、「である/する」の言い換えのバリエーションから適宜表現を選んで対応させる。


 まずは「不均等な時間」。

 既に前の記事で「上野村/隣村」「伝統的な農業/農業経営・商品の生産としての農業」という対比を挙げてある。
 さらに誘導した「時間」を使った対比は何か?
 文中から表現を探す前に、そもそも題名の「不均等な時間」という言葉は、直接には文中にない。だが「ホンモノのおカネ」が「ニセガネ」を、「メカ少年」が「少年」を潜在的な対比として含み持っているように、「不均等な時間」は「均等な時間」と対比されることが前提されている。
 不均等な時間/均等な時間
 こういう、包括的でシンプルな表現がラベルには便利だ。
 この対比を本文中の表現を使って言い換えると?
 伝統的な時間/近代社会が作り出した時間
  自然の時間/合理的な時間
 循環する時間/時計の刻む時間
 いずれも、明確な対比として文中に置かれているわけではないが、様々な言い換えのバリエーションとして左右に振り分けておく。

 これらがなぜ「である/する」の対比と重なるのか?
 「伝統/近代」はそのまま「である/する」の対比であることは確認済み。
 また「合理的」も、「する」論理が「機能・効用・効率」重視であることからすれば当然言い換えとして認めていい。何にとって「合理的」かといえば経済価値を生むための「合理性」だが、経済といえば「する」論理が活かされるべき「部面」だったはずだ。
 これが「均等な時間」となぜ対応するかといえば、工場生産においては、時間を「均等な」ものとみなして管理することがコスト計算を可能にしたり、生産性の向上につなげたりすることができるようになるからだ。つまり「均等な時間」とは「機能・効率」=「する」論理なのである。

 一方の「不均等な時間」がなぜ「である」なのか?
 「不均等な時間」とは、時間の流れには濃淡や遅速があるということだ。そこで起こることや為すことはもともと一定していない。それが「自然な時間」の流れ方だ。
 「である」とは「地縁・血縁」にせよ「身分」にせよそのままの「自然」の状態を言っている。「自然」の時間は「不均等」であり、そうした時間はそれぞれの「かけがえのない個体性」をもった、交換不可能なものだ(この「交換可能/不可能」という対比は「この村」の方からの前借り)。

 次に「この村が日本で一番」の対比、「ローカル/グローバル」という対比がなぜ「である/する」なのか?
 「ローカル」は「この地域に生まれた自然や歴史、文化、コミューンとともに、自分もまた存在している」という意識である。「である」であることに疑問はない。
 それが「グローバル」化することはなぜ「する」化なのか?
 グローバル化とは「市場経済を舞台にして、すべてものを交換可能なものへと変えていく」ことだ。「経済」が「する」論理なのは確認済みとして「交換可能」であることはなぜ「する」論理に則っているのか?
 「する」論理とは、「機能」や「業績」を重視するということだ。逆にいえば、同じ「機能」「業績」を備えていれば、それが誰であるかを問わないということだ。
 「グローバル化」とは、世界中が「均等な」基準によって「交換可能」になることなのだ。
 「する」化=「グローバル化」=基準の均等化=時間の合理化=「交換可能」化は、人間をもまた交換可能にする。時給計算は人間の価値を時間によって均等に量るということだ。

 さていよいよ「南の貧困/北の貧困」だ。
 「貧困にならない/貧困になる」という対比は「金がある/金がない」という対比ではない。それは「貨幣からの疎外」を問題にしているのであって、それより問題なのは「貨幣へ疎外されていない/貨幣へ疎外されている」という対比である。
 これが「である/する」という対比とどう対応するのか?

 「貨幣への疎外」とは本文中で次のように説明されている。
貨幣を媒介としてしか豊かさを手に入れることのできない生活の形式の中に人々が投げ込まれる時、つまり人々の生がその中に根を下ろしてきた自然を解体し、共同体を解体し、あるいは自然から引き離され、共同体から引き離される時、貨幣が人々と自然の果実や他者の仕事の成果とを媒介する唯一の方法となり、所得が人々の豊かさと貧困、幸福と不幸の尺度として立ち現れる。
 ここに述べられている事態は、内山が述べている事態とまるで同じである。
たとえば
  • 上野村の人々にとっては、夕方の釣りも、春の山菜採りも、秋の茸狩りも、村人としての営みの流れの中にある。(…)ところが時計の刻む時間が価値を生む世界に身を置いた瞬間から、そのすべての関係が崩れ去ってしまうだろう。
  • 時計の時間が価値を生む社会への転換が、山村の暮らしや人々の意識のすべてを変えてしまうことを知っているからであろう。少なくともそこに自分たちの存在の形がないことを、村人たちは知っている。(「不均等」)
 まずはただちに両者に共通する「自然・共同体」が「である」価値を持ったものであることが確認できる。
 そこから「貨幣へ疎外される」ことがなぜ「する」化なのか?

 「貨幣への疎外」とは「貨幣」が豊かさの基準になることだ。そして内山が述べているのはそれを「時間」に置き換えただけだ。
 この置き換えが可能なのは、そのように置き換えられる「時間」とは「時計の時間が価値を生む」ような、そのまま貨幣への換算が可能な時間だからだ。商品の「コスト」計算や労働者の「賃金」計算は、時間を金額に換算することによって成り立つ。逆に言えば、そのように換算が可能な「時間」こそ「均等な時間」である。
 貨幣とは、その額面によって得られるものが決まっているということだから、つまり「機能・効用・効率」だ。何の? 「幸福と不幸の尺度」である。貨幣は「幸福」を手にできるという「機能」を持っている。どれほどの「幸福」が手にできるかという「効用」を表わしている。
 したがって「貨幣への疎外」もまた「する」化なのである。

 通観してみよう。

       である/する
かけがえのない個体性/機能・効用
    不均等な時間/均等な時間
     自然の時間/合理的な時間
        伝統/近代
      ローカル/グローバル
     交換不可能/交換可能
 見えない幸福の次元/貨幣へ疎外されている

 こうして通観してみると、4つの文章はすべて共通する対比軸に沿って対置された対比に基づいて論じられていることがわかる。
 ではこれらによって語られる「問題」とは何か?

2021年3月2日火曜日

最後の読み比べ 3 「問題」

 それぞれの文章では何が「問題」とされているか?

 「問題」という言葉は「question・theme」の意味と「problem・matter」の意味を含んでいる。この二つはどのような関係か?

 そもそも何事かを「problem・matter」だと感じ、その事について考えようとするから評論など書かれるのだ。だから基本的には、それらの「problem・matter」がどのようにして発生するのかとか、どのように解決を図るかといったあたりが「question・theme」となっているのだと考えられる。

 以下、二つの「問題」を混在させて語っていく。どちらかは文脈に応じて判断されたい。


  • 「である」ことと「する」こと

 この文章における問題を端的に表わす一語は?

 「倒錯」の一語が想起されてほしい。

 「倒錯」は二つに分けられる。どちらかが問題か?

 「非近代」と「過近代」だ。感触として「非近代」ではなく「過近代」の方が、ここで共通する問題圏にあるのだと、とりあえずは捉えられるだろうか。

 「過近代」というのはどのような状態をいうのだったか?

 それが他の文章とどのように重なるのか?


  • 不均等な時間

 何が問題かはわかりにくい。

 だが読み進めていくとかろうじて「すべての関係が崩れ去ってしまう」「時間に管理される」「自分たちの存在の形がない」「暴力」など、否定的イメージの表現がみつかる。これらの問題がどのようにして生じたのか? というのが問題だ。


  • この村が日本で一番

 こちらも「関係を見失う」などといった、「不均等な時間」と共通する問題が語られている。そこに「自然が荒れていく」といった問題も付加されている。

 さて問題は、こうした問題が今度は「ローカル/グローバル」という対比から、どのように導き出されるか、だ。


  • 南の貧困/北の貧困

 ここでの問題は言うまでもなく「貧困」だ。

 だが前述の通り、単に「貧困」といった場合、「貨幣からの疎外」を条件として結果的に成立する事態なので、あくまでここでは「貨幣への疎外」を問題として捉えなければならない。

 そして「南の貧困」と「北の貧困」は同じコンセプトで語られているが、今回の読み比べにおいては「南の貧困」の方が使える。授業では難解な表現が集中した「北の貧困」について考察するのに時間をかけたから印象に残っているようで、皆の話し合いを聞いているとそちらばかりが言及されているのだが、「北の貧困」とは「情報消費社会」における問題であり、内山が問題にしているのは「市場経済社会」だから、今回の近代化の問題に対応させるには「南の貧困」の方が適切だ。

 「『である』ことと『する』こと」も70年以上前の講演なので、やはりすぐれて現代的問題である「北の貧困」の、あの難解な議論に惑わされない方が良い。

 南の貧困という問題はどのようにして生ずるのか?


 これら「問題(problem・matter)」を全体としてどのように一括して表現したらよいか?

 そして、それらの「問題」が起こる機制を、それぞれの文章の対比から説明してみよう。これが「問題(question・theme)」である。


最後の読み比べ 2 対比

 まずはそれぞれの文章の主要な対比を明確にしよう。


  • 「である」ことと「する」こと

 全編対比によって論が進んでいる文章だ。とりあえずラベルは言うまでもなく「である/する」だが、言い換えのバリエーションも十数語は既に挙がっている。以下の対応に最適な語をここから選んだり、必要に応じて変形したりする。


  • 不均等な時間

 明らかな具体例として「上野村/隣村」という対比がある。これがどのような対比かも、比較的すぐにわかる。それを「伝統的な農業/農業経営・商品の生産としての農業」などと抽出するのにはもう一つ、ハードルがないわけではないが、できないことでもなかろう。

 だが文中に頻出する重要なキーワードは明らかに「時間」だ。これがどのような対比を形成するか?

 それは上の対比とどう対応しているか?


  • この村が日本で一番

 対比はわかりにくい。対比がわかりにくいことが内山節の文章のわかりにくさだ。それでも読み進めていくと「ローカル/グローバル」という対比が見つかる。

 これはどのような対比なのか?


  • 南の貧困/北の貧困

 対比は題名に示されているように「南/北」だろうか? もちろん違う。「南/北」は類比・並列であって、上の三つの文章の対比のように「対立」ではない。重ねることはできない。「本来的な必要/新しい必要」「必要/需要」などの既に授業で考察した対比も、結論から言えば、上の問題とは重ならない。もちろん「相対/絶対」でも「主観/客観」でもない。これらはそれぞれ別な問題を論ずる上で設定された対比である。

 今回の比較読みで問題にしたい対比は「貧困にならない/貧困になる」である。

 これは言われてみれば当然だろう。この文章全体の「問い」は「なぜ貧困は生ずるのか?」だったのだから。だが、盲点に入っている可能性が高い。本文中では目立つ形で対比的には表現されていないからだ。

 これはどのような対比なのか?


 これは「富裕/貧困」という対比ではない。

 「貧困」は「二重の疎外」によって起こる。どちらの「疎外」が問題なのか?

 もちろん「貨幣への疎外」だ。「富裕/貧困」という対比は「貨幣からの疎外」を問題としている。「への疎外」が起こっているか否かが対比されるべきなのだ。


 実は上の四つの文章の対比は左右の向きを揃えてある。

 それぞれの対比がどのように同じ「問題」を論ずるための対比なのかを考えることでとりあえず思考は進む。

最後の読み比べ 1 方法論

 「『である』ことと『する』こと」と「南の貧困/北の貧困」をひとまず読み終えた。

 今年度の最後は、重量感のあるこの二つの評論をつなぐ論理を見つけ出す。


 授業者自身がこれをやろうと思いついたきっかけは、昨年の終わり頃、偶然の機会があって内山節の「不均等な時間」を読んだことによる。特別にこれらを結びつける発想をすることがないほどに時期が離れていれば、それぞれはバラバラな問題を論ずる文章としてしか読まれなかったかもしれない。実際、2年前に2学年を受け持って「『である』ことと『する』こと」と「南の貧困/北の貧困」を授業で読んだときは、それぞれに「『市民』のイメージ」や「『贅沢』のすすめ」との読み比べはしたが、「である」と「貧困」を結びつける発想はなかった。

 だが今回、この後で授業で読む「『である』ことと『する』こと」と「南の貧困/北の貧困」を想起しやすい状態で「不均等な時間」を読んでみると、それぞれに共通する論旨を読み取れることに気づいた。ならば内山節を介して、すべてを大きな問題圏の裡にあるものとして捉え直せるのではないか?


 これまでの授業での読み比べ同様、まずは全体の感触として、それぞれの論旨がどのような位置関係にあるのかを掴む。そのうえで、どうしてそのような読解が成り立つのかを、それぞれの文章の一節と一節を対応させつつ語っていく。

 また、「『である』ことと『する』こと」と「『市民』のイメージ」「市民社会化する家族」を読み比べたときには、後2者を「である/する」という対比を使って読み解いたのだった。この方法は今回も使える。「不均等な時間」と「この村が日本で一番」を、「である/する」図式で読むのだ。

 そして内山節を介して「南の貧困/北の貧困」もあらためて「である/する」図式に落とし込む。


 だがこのような方法を漫然と実行するだけでは時間がかかりすぎる。本当は方法自体も模索させ、試行錯誤させたいのだが、その時間は残念ながら残されていない。

 ここまで繰り返し実行してきた考え方、読み方のメソッドは今回もまた有効だ。無意識に使えることこそ本当に技術が身についた状態だとはいえ、とりあえずは意識的に使うことを心がける。「問いを立てる」「対比」「抽象と具体の往復」など、1年間で実践してきたメソッドを思い起こそう。これらのテクニックを駆使して考えを進めていく。

 これらの考え方は、自分が考える上でも、班の議論のプラットホームとしても有効だ。あてもなく漫然とテキストをなぞってみたり、噛み合わない感想をポツリポツリと言い合うだけでなく、方法論を意識して思考や議論の方向性を明確にする。

  •  それぞれの文章の対比を確認しよう。
  •  それぞれの文章が「問題」としてとりあげているのは何か?
  •  上の「問題」は具体的にはどのような事態として現われているか?

 こうした、同じ型に沿ってそれぞれの論から要素を抽出して並べてみる。