2021年3月5日金曜日

最後の読み比べ 5 近代化という問題

 次に、それぞれの文章で何が「問題」なのかをみていく。その際、前項で確認した対比が、どのようにしてその「問題」を生んでいるかを確認する。


  • 「である」ことと「する」こと

 「する」化がもたらす「過近代」的問題とは、休日が却って忙しい日になっているとかいう問題も挙がってはいるが、大きな問題は文化=学問・芸術に好ましくない影響があることだ。この「影響」は、あまり具体例としては挙がっていない。研究者の評価が論文ので(ではなく)決まってしまうことくらいだ。
 だが文化が「する」論理=「大衆的な効果と卑近な『実用』の基準」で評価されることは明らかに文化の衰退を招きそうな予感はある。「である」価値の軽視は文化にとって重要な「蓄積」にも悪影響があるだろう。

  • 不均等な時間
 「均等な時間」=「する」時間の浸透によって、「労働時間の作り出す経済価値がすべて」になると、そこに生きる人々のそれまでの共同体や自然との「すべての関係が崩れ去ってしまう」。そうなると人々は「自分たちの存在の形がな」くなることになる。
 つまり「時間に管理される」ことは、自然と、そこに生きる人々にとって「暴力」なのである。
 「時間に管理される」と、「経済価値を生まなくなった時間には、別の意味が付与されなければならなくなるだろう。その意味とは、充実した生活かもしれないし、休息や余暇かもしれない。」というくだりは、上の「『である』ことと『する』こと」の「休日」のくだりに完全に対応している。
 そして「時間に管理される」とは、授業でも確認した「疎外」の概念「自分たちの作りだしたものに逆に支配され、本来の人間らしさを失う」状態を言っているのだということも多くの者が気づいたはずだ。

  • この村が日本で一番
 上の「疎外」の問題が、この文章でも言及されている。
グローバル化という形で拡大していく市場経済は、人間自体に対して深刻な問題を投げかけているのである。だからこのような時代には、「自己実現」とか「自分探し」、「個の確立」といった疎外された意識が次々に出てくる。だれもが、自分の確実な存在を見つけ出せないのである。
 ローカル=「我らが世界」では、「自分を見つけ出すことができる」。それがグローバル化によって、すべてを経済価値で測る「する」論理が支配するようになると、「自分」が「自分」であるという「かけがえのない個体性」は見失われてしまう。
 そうした「疎外」状況だからこそ、逆に「自分探し」に駆り立てられる。

  • 南の貧困/北の貧困
 問題は単なる貧困ではない。貧困を生み出す前提となる「貨幣への疎外」が問題だと見田はいっている。
 「貨幣への疎外」が「する」化であることは前項で確認済み。
 「問題」はその時に「人々の生がその中に根を下ろしてきた自然を解体し、共同体を解体し、あるいは自然から引き離され、共同体から引き離される」ことだ。
 これはそのまま上の内山の「自分たちの存在の形がなくなる」ことに等しい。
 「南の貧困/北の貧困」ではこれを「見えない幸福の次元」「測定できない幸福の次元」を失う、と表現している。「測定できない」つまり「する」原理=機能・効率で量ることができない「幸福」こそ、「である」価値をもったものである。

 ではこれらに共通する「問題」を抽象化して言ってみよう。
近代化に伴う「である」価値の喪失
 これならば4つの文章に適用できる。
 「近代化」はそれぞれ次のように変奏している。
  • 「である」→ 「する」化
  • 「不均等」→ 時間の合理化
  • 「この村」→ グローバル化
  • 「南の貧困」→ 市場経済化=「貨幣への疎外」

 そこで失われる「である」価値とは何か?
  • 「である」→ 文化
  • 「不均等」→ 自然・共同体
  • 「この村」→ 自然・共同体
  • 「南の貧困」→ 自然・共同体

 そして内山の文章では「自然・共同体」との関係の喪失は「自分の存在」を危うくするという視点が重視されている。喪失するのは「自己」である。「疎外」とはそのような状態を指している。
 「『である』ことと『する』こと」でもこの「自己」の問題に言及している。
「教養においては、しかるべき手段、しかるべき方法を用いて果たすべき機能が問題なのではなくて、自分について知ること、自分と社会との関係や自然との関係について、自覚をもつこと、これが問題なのだ。」教養のかけがえのない個体性が、彼のすることではなくて、彼があるところに、あるという自覚をもとうとするところに軸をおいていることを強調しています。
 「する」化によって失われるのは「教養」であり、「教養」が失われることは「かけがえのない個体性」をもった「自分」が失われることだ。そしてここでも「自分」という存在は社会や自然との関係において「自覚」されている。
 文化・教養、自然・共同体、そして自己。
 ここに「市民社会化する家族」から「家族」を加えてもいい。
 これらはどれも「する」論理で切り棄ててはならない「それ自体」=「である」価値を持ったものである。
 近代化はそうした「である」価値をもった存在を危うくするのである。

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