「『である』ことと『する』こと」と「南の貧困/北の貧困」をひとまず読み終えた。
今年度の最後は、重量感のあるこの二つの評論をつなぐ論理を見つけ出す。
授業者自身がこれをやろうと思いついたきっかけは、昨年の終わり頃、偶然の機会があって内山節の「不均等な時間」を読んだことによる。特別にこれらを結びつける発想をすることがないほどに時期が離れていれば、それぞれはバラバラな問題を論ずる文章としてしか読まれなかったかもしれない。実際、2年前に2学年を受け持って「『である』ことと『する』こと」と「南の貧困/北の貧困」を授業で読んだときは、それぞれに「『市民』のイメージ」や「『贅沢』のすすめ」との読み比べはしたが、「である」と「貧困」を結びつける発想はなかった。
だが今回、この後で授業で読む「『である』ことと『する』こと」と「南の貧困/北の貧困」を想起しやすい状態で「不均等な時間」を読んでみると、それぞれに共通する論旨を読み取れることに気づいた。ならば内山節を介して、すべてを大きな問題圏の裡にあるものとして捉え直せるのではないか?
これまでの授業での読み比べ同様、まずは全体の感触として、それぞれの論旨がどのような位置関係にあるのかを掴む。そのうえで、どうしてそのような読解が成り立つのかを、それぞれの文章の一節と一節を対応させつつ語っていく。
また、「『である』ことと『する』こと」と「『市民』のイメージ」「市民社会化する家族」を読み比べたときには、後2者を「である/する」という対比を使って読み解いたのだった。この方法は今回も使える。「不均等な時間」と「この村が日本で一番」を、「である/する」図式で読むのだ。
そして内山節を介して「南の貧困/北の貧困」もあらためて「である/する」図式に落とし込む。
だがこのような方法を漫然と実行するだけでは時間がかかりすぎる。本当は方法自体も模索させ、試行錯誤させたいのだが、その時間は残念ながら残されていない。
ここまで繰り返し実行してきた考え方、読み方のメソッドは今回もまた有効だ。無意識に使えることこそ本当に技術が身についた状態だとはいえ、とりあえずは意識的に使うことを心がける。「問いを立てる」「対比」「抽象と具体の往復」など、1年間で実践してきたメソッドを思い起こそう。これらのテクニックを駆使して考えを進めていく。
これらの考え方は、自分が考える上でも、班の議論のプラットホームとしても有効だ。あてもなく漫然とテキストをなぞってみたり、噛み合わない感想をポツリポツリと言い合うだけでなく、方法論を意識して思考や議論の方向性を明確にする。
- それぞれの文章の対比を確認しよう。
- それぞれの文章が「問題」としてとりあげているのは何か?
- 上の「問題」は具体的にはどのような事態として現われているか?
こうした、同じ型に沿ってそれぞれの論から要素を抽出して並べてみる。
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