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2021年4月28日水曜日

ぬくみ 1 主旨を捉える

 年度の最初はイレギュラーな形で「羅生門」の再読をしてみたが、ここからはレギュラーなサイクルで教科書や「ちくま評論選」を読む。

 一つ目は教科書の「第2部」の冒頭に収録されている鷲田清一の「ぬくみ」だ。

 鷲田清一の名に覚えがなければならない。

 可能な限り、前に読んだ文章は作者名とともに覚えておいた方が良い。次に読む時に、前に読んだことがある筆者の文章だと思えるだけで、なにほどか受け入れる態勢ができる。内容を覚えてあればなお良い。似たようなことを言っている可能性がある。内山節はどの文章でも大抵同じようなことを言っている。

 鷲田清一は入試でも再頻出の文筆家だから、ああ、あの人か、と思うだけでいくらか有利になることは間違いない。

 ところでどこで?


 昨年度第4回の一斉テストに出題した、「ある」と「いる」をキーワードにした文章2本のうちの一つ、「ある」には、相手を「所有」するという意味合いがあり、「いる」には相手に対する「問安」の姿勢があるという文章の筆者である。出題は早稲田大学。読みにくい文章だったはずだ。


 さて「ぬくみ」もまた、決して読みやすい文章ではない。だが一方で難しいことを言ってはいない、とも思う。なんだか焦点が定まらない文章だ。

 これは、この文章が明確な対比に基づいて論が進んでいないことと、明確な「問い」が立てられていないことによる。

 逆に言えば対比が明確だったり、「問い」が明確だったりすると、立論の枠組みが捉えやすいということでもある(それはすなわち簡単だということにはならないが)。

 だから、ぼんやりした印象の文章には、こちらから対比を探したり、問いを立てたりすることが有効なのである。


 ところが、さらに「ぬくみ」では対比を探すことも問いを立てることも容易ではない。対比も問いも、明確には語られない。

 となると、この文章が何を言っているかを捉え、そこから遡ってそれが何に対比されているのか、どんな問いに答えているのか、と考えるしかない。


 そこでもう一つのメソッドは「要約」だ。

 条件をつけよう。単文の一文、5文節以内。

 シンプルな形にするのは核心部分を捉えるためであり、それだけ頭が整理される。情報量が少ないと使い回すのに便利だ。


 こういう時はまず主語を決める、というのが迷ったときの一つの方法だ。

 大抵は主語が想起されているときには、述語も同時に想起されている。何らかの述語で受けられそうだという見込みがあるから主語として有効だろうと見当がつくからだ。

 主語と述語が決まったら、そこに最低限必要な補語(形容句や目的語、条件節など)を補う。


 皆、だいたい同じ文になるんだろうと予想して聞いてみると、意外なほどバリエーションに富んだ文になった。そしてそれぞれ、本文の主旨を的確に捉えているように感じる。

 厳密に言えばその要約文の適否についての評価に差をつけることもできるのかもしれないが、要約の要諦は、要約する、という頭の働きにあるのであって、要約文の適否は二の次だ。よほど見当外れでない限り、それぞれ良い、といった反応をしておいた。いや、実際にどれも的確だったのだ。


 授業者の想定していた文も紹介する。

現代の人々はつながりを求めている。

 ほぼこれと同じ文を考えている人は勿論いた。だからといって唯一の「正解」だというわけではない。

 たとえばここから対比問いを立てることもできないわけではない。

 「つながりを求めている」というのは、「つながりがない」ということを言っているのだから「つながりがある/ない」という対比になっているのだとはいえる。

 だがこの文章は殊更に「つながりがある」状態を対比に用いて、「つながりがない」状態を明らかにしようとはしていない。「ある/ない」の対比はあまりに自明な対比であって、あらためて論ずるようなことではないからだ。

 では問いは?

 上の要約が答えになるような問いなのだから「現代の人々はどうなのか?」といったところだろう。

 だがこれも立ててみればあまりに自明で、答えから無理矢理立てた問いに過ぎない。


 当然「現代人はなぜつながりを求めているのか?」と問いたくなる。だが、この文章から、この問いに対する明確な答えを抽出することには、少々のハードルがある。

 あるいは「つながりを求めているとどうなるのか?」といった問題意識も見てとれる。とりあえず「つながりを求めている」という現状を指摘した上で、それがどのような問題につながるかを考察しているのだ。だがこれもまた明確な答えを抽出するのは容易ではない。

 とはいえ、どちらも鷲田にはその問題意識はあるはずだ。それを読み取るためにはまた別の問題設定が授業には必要である。


2021年1月13日水曜日

「である」ことと「する」こと 1 全体と部分

 今年度の授業は、年が明けて10回ほどしかない。この中で「『である』ことと『する』こと」「市民のイメージ」「南の貧困/北の貧困」「『贅沢』のすすめ」を読む。

 メインは「『である』ことと『する』こと」と「南の貧困/北の貧困」だが、後の二つはそれぞれと結びつけて読む。

 そして最終的には「『である』~」と「南の貧困~」を結びつける。

 そのために、さらに他に二つほどの文章を読みたい。

 正直、かなりきつい。

 まともな考察をするためには、まずテキストの情報を(表面的にではあれ)ひとまず把握するために、既に長い時間が必要になる。

 そこでそれぞれは冬休みに読むことにして、それを促す課題を出した。

 若干の未提出者がいるとはいえ、それらはシステムの不具合で提出できなかっただけだろうから、授業は、皆が既に上記の文章を読んでいて、それについて課題に答えるだけの考察もしてある前提で展開する。


 まずは「『である』ことと『する』こと」。

 今回は事前の授業準備に、「疑問点・考察したい点」を挙げよ、という課題を出しておいた。受身で授業に臨むのではなく、自分で問題意識をもっておこうというわけだ。

 それらの疑問は、文章全体の主旨にかかわるものと、部分的な表現にかかわるものとがあった。

 授業での読解は、これまでの評論教材でも、この「全体/部分」を行き来する形で読み進めていった。どちらかだけを先に完了することはできない。わかりにくいと感じられる「部分」を適切に理解したり説明したりするためには「全体」に対する見通しが必要だし、「全体」は「部分」の集積でできている。だから「行き来」が必要だ。これはどんな文章の読解でも鉄則である。

 とはいえ、とりあえずどちらかに手をつけるしかない。まず通読した。「部分」だ。では次に「全体」を?

 だが「『である』ことと『する』こと」は、この「全体」の把握がそもそも難しい。「ミロのヴィーナス」や「空白の意味」が一読しただけで、とりあえず「全体」の主旨がわかったようには、この文章は把握できない。

 例えば「全体」を把握しようという思考を促すためのメソッドが「問いを立てる」である→。 この文章の主旨を掴もうとし、それがどのような問いに対する答えなのかを想定する。その問いを「~か?」の形で表現する。

 だがこれが「『である』ことと『する』こと」では容易にはできない。ちょっと考えてみればわかる。「ホンモノのおカネの作り方」「ミロのヴィーナス」「ロゴスと言葉」に比べてもはるかに難しい。


 ではやはり、引き続き「部分」を?

 だが実は皆が疑問として挙げた「部分」の多くは、「全体」の主旨が凝縮した表現なのだ。

 その意味で目の付け所として適切ではあるが、ということは「全体」の把握ができなければ、その「部分」については考察も説明も議論もできないのである。「ミロのヴィーナス」でも「ロゴスと言葉」でも、そういった「部分」の考察は最後に回したのだった。

 さてどうするか?


 ということで、当然のことだが、まずは全体に関わる核心的な「部分」ではなく、冒頭から読む。そして段落ごとに把握する。

 このための思考が、各章一文要約である。「全体」を捉えるために、各章はなるべく短く圧縮しておく。

 これを例年は授業時に行っていたが、今回は冬休みの課題とした。

 そして、その範囲で考察できる部分的な「部分」を考察していく。

 つまり小さい範囲での「全体→部分」を繰り返していくのである。ある意味で授業の読解の常套手段だ。

 そのうえで、文章「全体」につなげていくための読解として何をすべきか?


2020年9月4日金曜日

ロゴスと言葉 2 -要約する

 次は要約だ。今度は口頭で終わらず、文章に書き起こす。テキストを見直してもいい。教科書解禁である。
 要約には条件をつけるのが効果的だ。国語力というのは言語による情報操作の能力のことだから、目的に合わせた様々な条件で操作する練習をするのがいい。
 簡単な条件は字数だ。
 休校中に100字要約と200字要約をしたのはそういう狙いだ。

 今回の条件は「4つの大段落それぞれを一文で要約する」だ。さらにそれぞれの一文は単文(主語と述語が一組の文)であること、という条件をつけた。
 単文にしたのは、なるべく文の構造をシンプルにすることが頭の整理に有効だからだ。日本語として最低限意味を成すような3~4文節くらいの一文にする。
 もちろんそれだけでは説明不足に感ずるだろうが、かまわない。必要に応じて説明できるように、背後には複雑な論理が感得されているとしても、とりあえずなるべく簡素な文構造の一文にする。把握のためには把握した形自体の情報量が多くない方がいいのだ。圧縮率を上げようとすることが理解を押し進める。

 要約しようとするとき、本文中から、そのまま文章の内容をまとめた言い方になっていると思われる一節が見つかることがある。見つかったならそれでもいい。だがいつもそういう一節が文中にあるとは限らない。
 むしろ要約をするには、細部に目を凝らして探すより、全体をボンヤリ眺める方が良い。視野を広くもって、細部を濾して除去してしまうフィルターのような意識で、全体の構造や「大事なところ」を感じ取ろうとする。
 そしてまず主語を決めてしまう。何を主語にするかを考えることは、その段落の主題、最重要モチーフが何かを考えるということだ。実際には主語だけでなく、ほとんど主語と述語の組合わせとして認識されるはずだが、とりあえず「主語を決めよう」と思って全体を眺めると、取り上げるべきキーワード(主語)と、それがどうしたというのか(述語)が意識されるはずだ。
 そこに最低限の目的語や形容をつけくわえて5文節以内くらいに収める。

 例えば1段落を次のように要約するのはどうか?
・言葉の本質はロゴスにある。
 もちろん正しい。だが望むらくは「ロゴス」という言葉を使わずに要約文を考えた方が良い。
 要約の効用は、要約の「正解」を知ることではなく、要約しようとすることが思考の整理になるということだ。これもまた目的ではなく手段、である。
 それならば「ロゴス」という言葉を使って筆者が言いたかったことこそを一文にしようとした方が目的に適っている。「ロゴス」という言葉はまだブラックボックスのようなものだから。開いてしまった方が良いのだ。
 「ロゴス」とはカテゴリー化する=取り集める働きのことだ、と本文にある。したがって、次のような要約が考えられる。
・言葉は事物をカテゴリー化する。(3文節)
・言葉には物事を取り集めるはたらきがある。(5文節)
 2段落はどうか。
 言うべきことは1段落と重なっているように思える。実際にどう要約しようとしてみても、それは両方の段落で触れられているトピックであるように思える。
 だが敢えてそれぞれの段落のトピックに重み付けをして、要約文を書き分けてみよう。
 選ばれる言葉は「存在」「分節」「差異化」あたりだろう。
・言葉による分節で物事の存在が認識される。
・命名は外界の差異化である。

 このように、それぞれの段落を一文にしたら、それぞれの内容の展開の論理がたどれるかどうか通観する。それぞれの段落を表わす一文を、バラバラなままにしておかないで、一続きの論理で把握する。
 例えば1、2段落の要約を、ひと繋がりの論理展開として捉えてみよう。
 「カテゴリー化」は「分節」と同じことだ。とすると、そのまま1,2段落の要約文は1文に書き換えられる。
・言葉によるカテゴリー化によって物事が認識される。
 実際に1文に書き換える必要は必ずしもないが、とにかく論理の繋がり・展開を意識するのは有益だ。
 「差異化」はここではまだ説明が足りていないので、保留にしておいてもいい。「取り集める」ことと「差異化」がどうつながっているのかは後で考えよう。

 さて3段落には子供のエピソード、4段落にはヘレン・ケラーのエピソードが登場するが、これらの具体例はこの一文要約においては捨象しよう。論理展開を追えるように、1,2段落と抽象度を揃える。
 3段落は1,2段落の内容を、具体例で説明し直しているだけのようにも見える。
 それでもそこで具体例を通してあらためて明らかになったことはないか考える。
 段落の末尾は次の通りである。
繰り返し、繰り返し命名を通して、知覚の上に刻一刻と密になる認識の網の目がかぶせられ、本能図式は言葉による再編成を強いられる。
子供のエピソードを通して示される認識がこのように表わされているとして、これをシンプルな一文に書き換えてみよう。
 「命名を通して」は「言葉による」と同じことだ。「繰り返し、繰り返し」とか「刻一刻と密になる」は大胆に伐り払って「命名を通して本能図式は再編成を強いられる。」としよう。
 「本能図式」が何のことかわかりにくいし、実は「本能図式」が直に「再編成」されるわけではない。そこには「繰り返し」があり、「刻一刻と密になる」過程がある。実際には「本能図式」が言葉による「象徴化」を受け、その「象徴図式」とでもいったものが「刻一刻と密になる」のである。そう考えてみれば勘の良い者は「象徴図式」とは1段落の「カテゴリー」のことだと気付く。
・言語によるカテゴリーは成長の過程で再編成される。
他に「分節線は非自然的な画定である。」を挙げたグループもあった。これも重要な要素ではある。「分節線」はカテゴリーの輪郭のことだから、「成長の過程で再編成される」時に「非自然的」に「画定」されるということだ。
 「非自然的」とはどういうことか? 同段落にある言い換えの言葉を探し、「文化」がそれに近いという感触を得た。
 だがこの要素は4段落でも述べられるので、そちらに入れることもできる。

 4段落はさらに厄介だ。「ヘレン・ケラーのエピソードも同じである」と言っておきながら、どう「同じ」なのか、にわかにわからない。
 手がかりとなるキーワードを決めてしまおう。
 重要なことは繰り返し述べられる。この段落で繰り返される言葉は「文化」「関係」「差異化」である。それぞれを一文にしよう。
・指向対象は文化の中で決定される。
・指向対象は関係の中で決定される。
・指向対象は実体ではなく差異化によって生まれる。
それぞれに、こうした一文にすること自体が、そもそも難しい。「指向対象」が「カテゴリー」とどういう関係になっているかも、現状では理解し切れていないはずだ。
 この三文はどれも同程度に適切だが、その関係を表わすのは、これはこれで現状では難しすぎる。「文化の中で」と「関係の中で」が同じ構文に入っているが、どうしてこういう言い換えが成立するのか?
 「差異化」は1,2段落で言っていればそれでよし、むしろ1,2段落で「差異化」を使わずに、4段落で使うという手もある。
 ついでに最終段落の「関係づける」と「差異化」が同じことであることについて考えた。
 差異化するということは、境界を引いて二つのカテゴリーを分けるということだ。そのとき、その二つのカテゴリーは「関係づけ」られている。比較され、違うものでありかつ隣接すると認識される。「関係づける」ことは二つを「差異化」することなのである。

 例えば4段落を、展開が見えるようにつなげてみよう。
1 言葉は事物をカテゴリー化する。
2 カテゴリー化することで物事の存在が認識される。
3 カテゴリーは成長の過程で文化的に再編成される。
4 カテゴリー化とは、カテゴリーの内と外を差異化することだ。
この4文の流れは「カテゴリー化=ロゴス」を使って論理展開を統一してある。

 現状ではここまですっきりした要約は無理だろう。
 要約は、完璧な要約を「教わる」ことに意味があるのではなく、要約しようと「考える」ことにのみ意味がある。要約しようと頭を使い、ある要約に辿り着いたときに感じるスッキリ感が味わえれば良い。
 あるいは、試行錯誤した要約文を発表して、授業者の反応(よしよし、とか、そうかなあ、とか)をみて、それぞれの要約の適切さについての反省と検討をすることに意義がある。

2020年5月14日木曜日

課題要項

Teamsの各講座の「課題」に、前回予告の課題をアップしました。
提出用ファイルとともに、説明のためのPDFファイルもアップしてあります。
内容は以下の通りです。

 まず、課題に上げてあるExcelファイル「休校期間課題」をダウンロードしてください。
 家庭学習期間に要約した文章について、題名筆者名自己評価をシートにある表に記入し、Excelファイルのまま提出してください。
 指示した、教科書や「ちくま評論選」以外に、問題集の文章などを自主的に要約した場合は、それを書いてもかまいません。
 少なければ少ないなりに、正直に自分のやったものだけを書いてください(要約文そのものの提出を求められても困らないように)。既に何本か題名を入れてありますが、それらの要約をしていなければ消してください。提出のためにまとめて何本もやらなくてもかまいません。逆に、多くやった場合は最大20本まで入力できます。

 「自己評価」欄に、以下の基準に従ってA~Eの評価をしてください。ドロップダウンメニューで入力できます。
 100字と200字の要約の他、「学習の手引き」「読解」などの問題を15分以上考察した。
 100字と200字の要約をし、おおむね適切であった。
 100字と200字の要約をしたが、あまり適切ではなかった。
 100字.200字いずれかの要約をして、おおむね適切であった。
 100字.200字いずれかの要約をしたが、あまり適切ではなかった。
参考に、こちらで要約したものを後日掲載しますが、これ通りでなければ適切でない、というわけではありません。
 要約の「適切」さを判断するのは難しいとはいえます(←以前ここでも説明しました)
 それでもいくらかでも客観的な判断をするために、例えば要約の適切さを判断する基準として次のような項目を掲げる研究もあります。

  1. ●可読性=「主語~述語の捻れなど、非文法的なつながりが生じていないかどうか」、
  2. ●了解性=「文法的には問題ないが主要な格要素、修飾語句の大部分が抜けているなど意味のとりにくい文となっていないかどうか」
  3. ●忠実性=「意味が通る文になっていても、原文とは違う解釈の余地が生じていないか」
  4. ●十分性=「残存部分が原文と同じ意味解釈の内容であっても、原文に含まれていた別の命題内容(重文の場合など)や、主題・陳述内容が欠落していないかどうか」(「残存部分」とは要約文に書かれた文章のこと)
  5. ●非冗長性=「残存部分に、不必要に冗長な記述がないかどうか」

 我々が要約文を読む際は、確かにこうしたいくつかの基準にてらして、その「適切」さを判断しています。
 しかしこうした基準を用いても、やはり本人にはその適切さを判断することができるわけではありません。
 原文の解釈が適切であるかどうかも、文法的な妥当性も、意味の明確さも。
 かまいません。自分なりに、原文が言っていることと違っていないと思えるかどうかを判断してください。自分で判断しようとすること自体もまた学習です。
 内容に盛り込むべき情報の取捨選択とともに、要約において重要なことは、その要約文が「自然な」文章になっているかどうかです。上の基準「可読性」「了解性」はつまり文章の自然さです。本文のあちこちのキーセンテンスをつなぐだけでは自然な文章にはなりません。
 できるかぎり客観的に、原文を読んでいない人がその要約文だけを読むことを想定して、それがすっきりとした自然な日本語で、的確に趣旨を伝えていると思えるかを判断してください。

2020年5月11日月曜日

休校延長にともなう課題の変更について

 4月にはGW明けの予定だった休校が5月末までに延長されたことに伴って、「家庭での学習状況や成果を確認し、学校における学習評価に反映することができる」という文科省からの通知を受けて、県教委では「できる」ではなくむしろ「成果を確認し、適切に評価を行うこと」と指示してきました。「してもよい」ではなく「しなさい」というわけです。

 2学年「現代文B」及び3学年「現代文探究」の課題は、教科書及び副読本の文章の要約を、週に2本ずつ行う、というものです。
 4月の3週目から5月末まで、授業が通常通り行われていたら約6週の課業日がありました。12本の文章の要約をしてあれば、こちらの課した指示通りの学習をしたことになります。

 ですが私は最初の課題指示の中で、提出を求めることはないと明言しました。
 この宣言通り、学校再開後に要約文そのものを、ノートにせよプリントにせよテキストファイルにせよ、提出を求めるようなことはしません。原則としては。
 ただし今回の県教委の指示を受けてあらためて、「要約の記録」の提出をもって、上記の指示に替えることにしました。
 具体的にはTeamsに課題をアップしてそこで指示しますが、要は、どの文章を要約したか、そのリストを提出してもらう、ということです。

 これまでのブログの中でも説明していますが、要約には、ある程度の出来の善し悪しはあるとはいえ、いわゆる「正解/不正解」のようなものがあるわけではありません。出来がどのようなものであれ、要約をすることそのものが、常に有効な学習になっているのです。
 したがって、この課題提出による評価は、いわゆる「学力」に対する評価というより、学習状況に対する評価です。
 このリストは、自己申告でかまいません。要約についての自己評価もあくまで自分で判断してください(判断基準については後ほどTeamsの方で示します)。

 学習評価の重要な機能は、本人に対する外部からの客観的評価というだけでなく、学習者が自らの学習状況について振り返り、それをその先の学習への取り組みにフィードバックすることです。
 やるだけやって相手の前に投げ出して点数をつけてもらう、という態度ではなく、自分のやったことを自分で振り返って、その適切さを判断し、それを次の学習に活かすことが「学習評価」に期待される機能なのです。

 要約は、12本はやってないといけない、ということではありません。やった分だけを正直に記録してください。12本以上の要約をした人はもちろんそれだけ書いてください。
 上記の通り、要約文そのものの提出は原則として求めませんが、この先、学校が再開されてからの学習状況(出席・成績)などにおいて問題がある場合は、ここまでの学習の成果として要約文を提出させることもあるかもしれません。要約文を書いたノートや原稿用紙は保管しておいてください。

2020年4月25日土曜日

ホンモノのおカネの作り方 7 -対話1「要約」

 繰り返し書いているように、授業の本質は「対話」なので、こうして情報発信するだけでは授業の「代わり」にはなりません。
 前回お報せした通り、方法については検討していくとして、今回は「投稿募集」に応じたというわけではないのですが、反応を返してくれた生徒がいたので、本人の了承のもと、それを取り上げて、3回に分けて「対話」の試みをしてみようと思います。

 まず要約です。
 要約は、それをやろうと頭を使うだけで既に学習になっているのですが、もちろん書き上がった要約が適切なものであるかどうかの検討も必要です。
 ところが、これは要約した本人には判断しにくい、という決定的な問題があります。
 なぜかというと、ある理解に基づいて要約したわけですから、原理的に、そのような要約が適切かどうかをそのように理解した本人は判断できないということになるからです。「自分の理解」に基づいて「自分の理解」の適切さを判定しようというのですから、まるで自分を支えにして自分のバランスをとるような行為になってしまうわけです(わずかにできるのは、わかってはいるけれど上手く書けてはいないという感触を手掛かりに推敲する、くらいです)。
 そう考えた生徒の一人が、私に添削を依頼してきました。ありがたい申し出です。これで対話が始められます。
 送ってくれたのは以下のような要約文です。

ニセガネはホンモノでないものをホンモノに似せたものなのでホンモノになれない。ホンモノのおカネは「代わり」がホンモノに代わってホンモノになる逆説の作用を受けて作られ、「代わり」に対するホンモノでしかない。(101字)

 必要な要素は揃っています。100字要約としてのバランスはとてもいい。
 ですが一読したときに、最後の「『代わり』に対するホンモノでしかない。」の部分に引っかかりました。
 2文目の主語は「ホンモノのおカネは」です。上記要約のように「に対する」というと「代わり」と「ホンモノ」は対立するものだと言っているように見えます。
 ところが本文では、代わりのおカネがホンモノに「代わって」ホンモノになったのだ、と言っています。
 つまり「代わりホンモノ」なのに、これでは「代わりホンモノ」に見えるわけです。

 …という指摘をしたところ、本人から次のような返信がありました。

教科書52ページ13行目〜15行目の「ホンモノのおカネとは、その時々の「代わり」のおカネに対するその時々のホンモノでしかなく、それ自身もかつてはホンモノのおカネに対する単なる「代わり」にすぎなかったのである」を参考にしました。

 なるほど! 本文が「ホンモノのおカネとは、その時々の『代わり』のおカネに対するその時々のホンモノでしかなく」と言っている! これは上記要約の「『代わり』に対するホンモノでしかない。」とほぼ同じです。
 そのつもりで読もうとすると、なるほど、この要約で言っていることは間違ってないとも思えてきました。この要約はそういうことを言っているのだ、と読むことが可能であることに、私の方も今更気づきました。

 なのになぜ最初に要約文を読んだ時には違和感があったのでしょうか。
 これはとても興味深い問題であり、かつ説明がとても難しい。現時点で、これをわかりやすく書けるかどうか自信がもてないくらいに。それでも、やはりこの要約に感ずる違和感には根拠があります。
 みなさんの中にも、同じように違和感を感じた人も、まるで感じない、これでいいではないか、と思った人もいるでしょう。違和感を感じた人、そのわけを考えてみてください。
 そしてこれを書き送ってくれたあなた、どうぞ再考してみてください。もちろんさっき述べた理由で、本人にはこの違和感を感ずること難しいかもしれません。ですが「再考」することで、さっきまでの自分を客観視し、さっきとは違った「自分」として、かつての自分の思考に対する違和を感ずることは可能です。

p.s
 この記事をアップしてから3週間ほど経って、後の記事の方でこの件について解説することができなかったので、ここに追記します。
 上の要約の違和感は、記述内容の順番に拠るものです。説明のために色分けして引用します。
ホンモノのおカネは「代わり」がホンモノに代わってホンモノになる逆説の作用を受けて作られ、「代わり」に対するホンモノでしかない。
 この一文の主語「ホンモノのおカネは」に対する述部は、青字の「「代わり」に対するホンモノでしかない。」です。しかし逆に、この述部に対する主語は、正確に言うと「『ホンモノのおカネ』における『ホンモノ』とは」です。
 ところがこの文章における重要な主語は、本当は「おカネは」であり、それに対する述部は、赤字の「代わり」がホンモノに代わってホンモノになる逆説の作用を受けて作られ、という内容の方です。
 つまり内容的に、主要部分は赤字で、青字はむしろ付属部分です。
 こういう場合、付属部分が先にきて、主要部分が後に、特に文末にくる必要があります。「~は」という主部は必ず文末と対応して完結するからです。
 というわけで、例えばこういう順番であれば違和感はなかったでしょう。
ホンモノのおカネとはあくまで「代わり」に対するホンモノでしかなく、ある時点での「代わり」がホンモノになるという逆説の作用を受けてホンモノになる。
 予備校の要約文採点などでは、要約文の中の要素の有無で得点(減点)を計算したりしますが、実際には単純に要素の有無だけではその適切さを測れないというのがこの例でもわかります(だから予備校の要約指導や採点はあんまり信用できません)。ここでも、要約の適切さの判断の難しさについて、とても面白い例を挙げて論じられています。

2020年4月20日月曜日

ホンモノのおカネの作り方 4 -問いを立てる3

メソッド1

問いを立てる3


 読解するためのメソッド「問いを立てる」、「ホンモノのおカネの作り方」について、考えてみましたか?
 と、その前に要約はしてあるでしょうか。
 「要約」「問いを立てる」、現代文探究で紹介する「読み比べる」、いずれも、読解するためのメソッドです。ブログでは、実際に授業で取り上げたかもしれない教科書の文章を教材として、その有効性を明らかにしていくつもりですが、何よりもこれらのメソッドは、みなさんが自分で実行し、自らの国語力向上を図るために紹介し、その実行を求めるものです。
 そしてメソッドとは「知っている」だけで有効なのではなく、繰り返し実行して身につけることによって有用な技術になるものです。
 実行してください。繰り返し。ルーチンとして。

 さて、既に「ホンモノのおカネの作り方」の要約をしたことを前提に話を進めましょう。
 「要約の実演」の中で、本文の順番に要約していく方法を提案しました。この方法で要約してみましょう。

A ホンモノのおカネを作るには、ホンモノのおカネに似せようとしなければいい。佐土原藩のニセの二分判金はホンモノに似せようとした、あくまで「ニセガネ」に過ぎないが、両替屋の天王寺屋や鴻池屋の発行する「手形」はホンモノには似ていないが、後にホンモノのおカネのように実際の支払い手段として流通するようになった。ホンモノの「代わり」がそれ自身ホンモノになってしまうという逆説の作用が、ホンモノのおカネを作る。(198字)

 要約に使うキーセンテンスを選ぶ際には、具体例の挙がっている文よりも、抽象的な表現の文を選ぶ方が、短く結論を示すことができます。この文章の場合は佐土原藩のニセガネ作りと天王寺屋や鴻池屋の発行する「預かり手形」のエピソードが具体例にあたります。これらを取り上げずに要約文を作ることもできます。

B ニセガネ作りたちを支配していた、ホンモノのおカネがホンモノなのはホンモノの金銀からできているからだという「ホンモノの形而上学」ではなく、本来のホンモノのおカネに「代わって」それ自身がホンモノのおカネになってしまうという「逆説」が、太古から現在までホンモノのおカネというものを作り続けてきた。本来のホンモノのおカネに似せるのではなく、ホンモノに代わってしまうことがホンモノのおカネを作る極意なのである。(200字)

 ABどちらが正解ということもありません。
 砂土原藩のニセガネ作りのエピソードも、両替屋の預かり手形のエピソードも、本文中では多くの紙幅を費やして語られており、その例示自体にも情報としての重要性はあります。抽象度を高めた下の要約より、具体例を含んだ上の要約の方がわかりやすい(情報が読み手に伝わる)とも言えます。

 ですが、100字に要約するとなるとさすがに具体例と抽象的表現の両立が難しくなります。下の要約abはどちらが「わかりやすい」でしょうか。

a ホンモノに似せようとした佐土原藩のニセの二分判金はついにはホンモノにはなりえず、両替屋の手形はホンモノには似ていないからこそ、後にホンモノの「代わり」として流通するいわば「ホンモノのおカネ」になった。(100字)

b 本来のホンモノのおカネに「代わって」それ自身がホンモノのおカネになってしまうという「逆説」、つまりホンモノのおカネに似せるのではなく、ホンモノに代わってしまうことがホンモノのおカネを作る極意である。(99字)

 具体例を含む要約aの方がわかりやすいけれど、だから何なんだ? と言いたくなる舌足らずさも感じます。一方の下の抽象的な要約bは、これだけでは何を言っているかわからない(原文を読んで理解している人にしかわからない)文だろうと思います。

 ともあれ要約は、要約しようという思考がトレーニングなので、その結果がどのような形になっても有益です。もちろん、上の要約を自分の要約と比べてみる、などという思考も。

 さて、こうして何種類かの要約をしてみると、そこには既に「問い(問題)」と「答え(結論)」が潜在していることに気づきます。
 どのような「問い」でしょうか?
 おそらくみなさんは次のような「問い」を立てただろうと思います(そうではない、という人はちょっと待っていてください。ひとまずは想定される多数派からとりあげます)。

どうしたらホンモノのおカネを作れるか(ホンモノのおカネの作り方の極意とはか)?

 この問いは題名の「ホンモノのおカネの作り方」に、既に潜在しています。「文系と理系の壁はあるか」でもそうですが、題名は主題の在処を示していますから、そこにその文章が提起する問題が潜在しているのは当然です。
 そしてこの「問い」の適切さは、「答え」との対応関係から判定されます。「答え」はなんでしょう?
 次のような「答え」を想定しているはずです。

ホンモノのおカネに似せるのではなく、ホンモノに似ていない、ホンモノの「代わり」を作ればいい。

 これらの問いと答えの組み合わせは、既に要約文中にも見て取れます。「要約する」ことも、「問いを立てる」ことも、読むための思考法=メソッドですから、それを通して形になる読み=理解に共通性があるのは当然です。このような要約をしたということは、この文章を、このような「問い」に対してこのように「答え」ている文章であると理解したということなのです。

 さて、このように要約され、このように問いを立てられたなら、この文章に対する理解は「正解」です。この文章はまさにそう言っています。
 にもかかわらず、みなさんの実感は「腑に落ちない…」といったところだろうと思います。
 例えば大学入試問題のような問いは、基本的には本文中の論理の対応を問うているはずなので、上のような論理の整理ができれば答えられます。ですが、そのように「答えがわかる」ことと、その文章が「わかる」と感じられることは、必ずしもイコールではないのです。

 この文章を「わかる」ためには、別の問いの立て方が必要です。
 そもそも、筆者岩井克人にとっても、この文章で説きたいことを「どうしたらホンモノのおカネを作れるか?」と表現するのは少々不適切なはずです。この問いの形は、わざと奇を衒(てら)ってこの文章を面白くしようというレトリック(修辞)に引っ張られて、文章が本当に問題にしていることを見えにくくしています。この文章がわかりにくいのはそのせいだとも言えます。

 この文章では何が問題になっているのでしょうか?
 再び、上記とは違った「問い」を立て、その「答え」を文中から探してください。

2020年4月13日月曜日

要約の実演

 2年生、3年生ともに、課題の「要約」、最初の二つくらいは既にやってみたでしょうか。まだ一つ? 「文系と理系の壁はあるか」だけ? 「三つの動詞」すらまだやってない?
 練習は、コンスタントにやることが大切です。週に2回がめやすです。

 前回の予告どおり「国語の学習とは」を要約してみます。
 全体の論旨を把握した上で、要約文を書き下ろす、というやり方もあります。ですがこの方法は、全体の論旨を把握するにせよ、要約文を書き下ろすにせよ、ハードルの高いやり方です(今回は自分の文章ですからやれないことはないのですが)。
 それよりも本文の順番に沿って、キーセンテンスを抜き出す方が簡便です。まずはこのやりかたで要約の一段階をやってみましょう。この段階では4回分の記事の見出しをそのまま付けておきます。

要約1


1.国語の学習の目的

 国語の学習の目的は「国語力」を高めることです。「国語力」とは「聞く」「話す」「読む」「書く」力です。「できる」ようになることを目指しているという意味で、国語という教科は実技科目です。一方で、一般的な授業では「教材」の文章の内容を理解することが学習の目的であるかのような了解が、授業者/生徒に共有されています。a「国語力を高めること」b「ある文章の内容を理解すること」これら二つの関係はどうなっているでしょう?

2.「目的」と「手段」の関係

 本来の目的を見失って、手段に過ぎなかったものを目的のように錯覚してしまうことを「自己目的化」と言います。「文章を理解する」ことは国語学習において、しばしば自己目的化されがちです。b「ある文章の内容を理解する」は、a「国語力を高める」という「目的」のための「手段」に過ぎません。自分で文章を理解しようとすることによってのみ、国語力は高まります。

3.要約というトレーニング

 この、国語力を高める練習として最も簡便でかつ有効だと推奨するのが、文章を要約する、というトレーニングです。要約には国語力を高める練習として必要な要素の多くが詰まっています。要約という練習を繰り返すことで、国語力は確実に高まります。

4.授業の意義

 国語の授業とは、何かを教わる場ではありません。みんなで集まって、独りではできないトレーニングを行う場です。自主トレによる基礎練習は間違いなく必要であり有効ですが、チーム練習は、自主トレだけでは身につけられない技術を向上させる場なのです。
 ですが授業はそれだけのものではない、とも思っています。それはテキストの向こうに広がる「世界」に対する認識の変容になる「体験」でありうると信じています。

 上の文章は、基本的に原文の順番で、なるべく本文そのままを抜き出してつなげています。
 ですが完全な抜き出しだけでは、うまく文章がつながるとは限りません。上の例はたまたま、まあまあうまくいっているだけですし、細かいところでは前後のつながりに合わせて書き直している部分もあります(それでも充分に自然な文章にはなっていません)。
 しかもまだ700字以上もあり、目標の200字、100字には遠く及びません。ですがまあ字数の見当がついてきた、とも言えます。これを3分の1よりもう少し短くすると200字なのだな、ということがわかりました。
 そしてこの段階で全体の構成がおおよそわかってきました(自分で書いておいて今更ですが)。ここまでくると書き下ろすこともできます。

要約2


  1. 国語の学習の目的は国語を使う力を高めることだ。
  2. 授業における「ある文章の内容を理解する」という学習も、この目的のための手段である。これを自己目的化することなく、手段として能動的に取り組むべきである。
  3. またこの目的のために有効なのが、総合的な国語力が必要とされる、文章の要約である。
  4. 一方、国語の授業とは、対人スキルである国語力を高めるために、みんなで集まってトレーニングを行う場である。また授業はそれ以上に「世界」に対する認識の変容になる「体験」でありうる。


 これで200字強です。

 こうやって書き下ろそうとすると、この文章がいくつかの方向性をもっていることがわかってきます(またしても、自分で書いておいて今更ですが)。次のような方向性です。

  • 課題として提示した「要約」という学習の有効性を説きたい。
  • 様々な行為における「自己目的化」の罠について注意を喚起したい。
  • 学習における「授業」の意義を再考したい。

 こうした複数の要素を100字に収めるのは難しい。「自己目的化」のくだりは言いたいという動機の結構強い部分なのですが、これ以上短くするためにここを省いてみましょう。

要約3

 文章の要約は、総合的な国語力が必要とされ、国語の学習の目的である、国語を使う力を高めるために有効である。また授業は、対人スキルである国語力を高めるだけでなく、認識の変容をもたらす重要な場である(97字)

 ところでこれを見て、こんなに短くなるのなら、そもそも長々書く必要はあったのか、と、ちらっとでも思った人はいるでしょうか。
 元の文章の趣旨は元の文章を読み、例えばそれを要約しようとすることによって理解されるのであって、要約を読んでもその趣旨が伝わるわけではありません。
 文章の趣旨というのは必ずしも結論のことではなく、そう考える論理過程全体のことです。結論のみ示しても言いたいことが伝わるわけではないのです。
 逆に要約されて抽出された結論を見ても、その文章の趣旨が伝わるわけではありません。要約するという思考を通してのみはじめてその趣旨を理解することができるのです。

2020年4月8日水曜日

休校中の課題 2年 現代文B

休校中の課題は以下のとおりです。

・教科書の文章を要約する(ただし詩歌を除く評論と小説のみ)。
・評論は「要旨」、小説は「粗筋」を、それぞれ200字及び100字程度の二種類の長さに要約する。
・原稿用紙に字数を数えて書いてもいいし、ノートに7~8行(200字)、3~4行(100字)と決めて書いてもいい。
・まとめて複数の文章をやるのではなく、週に2本(3日に1本)程度をコンスタントにやっていくこと。
・文末の「学習の手引き」に挑戦する。

授業があれば週に2単位ですから、自宅学習中も週に2回、1本の要約2種類を、長くても50分以内に終わらせるつもりで進めましょう。

一斉テストにおいて、「重要頻出漢字 リアルマスター3300」から次の範囲を出題します。
休校中の課題というわけではありませんが、週に10ページ程度をめやすに計画的に進めて下さい。

第一回テスト p62~82,p144~174(昨年度第四回テスト予定範囲)
第二回テスト p175~195
第三回テスト p196~213
第四回テスト 未定

休校明けにこれらの課題の提出を求めるようなことはしません。
ですが、こうした学習の積み重ねは、確実に自分の力になります。
そのことを信じて、地道に取り組んで下さい。

休校中の課題 3年 現代文探究

休校中の課題は以下のとおりです。

・「ちくま評論選」所収の文章を要約する。
・200字及び100字程度の二種類の長さに要約する。
・原稿用紙に字数を数えて書いてもいいし、ノートに7~8行(200字)、3~4行(100字)と決めて書いてもいい。
・まとめて複数の文章をやるのではなく、週に2本(3日に1本)程度をコンスタントにやっていくこと。
・脚問及び文末の「読解」課題に挑戦する。
・別冊の「解答編」に詳しい解説及び解答例が載っている。200字強の「要旨」も載っているので、自分の要約文と比較せよ。

授業があれば週に2単位ですから、自宅学習中も週に2回、1本の要約2種類を、長くても50分以内に終わらせるつもりで進めましょう。

休校明けにこれらの課題の提出を求めるようなことはしません。
ですが、こうした学習の積み重ねは、確実に自分の力になります。
そのことを信じて、地道に取り組んで下さい。