2021年12月6日月曜日

舞姫 25 比較読解「こころ」4 不作為の悲劇

 さてここまでは考えるための準備運動だ。本当に検討したいのは、次のEの対応である。比較のために前回のDの対応も再掲する。

D

 ①  私 ―豊太郎

 ②お嬢さん―相沢

 ③  K ―エリス

 ①  私 ―豊太郎

 ② 奥さん―相沢

 ③  K ―エリス

 Dの対応から見えてくるのは、「こころ」と「舞姫」を「①が②と③の選択に迷い、②を選ぶことで、選ばれなかった③が悲劇に陥る物語」だと捉える読解である。だがこれが作品を適切に捉えていないことは、最初から皆感じ取っていたはずだ。

 ではEの対応はどのような作品把握に基づいているか。

 ①と③はDと同じ。①は主人公というだけでなく、語り手という特権的な位置を占めているし、③が悲劇の犠牲者であることも、その対応には十分な必然性がある。

 ところが②の相沢に対応する人物が「お嬢さん」から「奥さん」に変わることで、物語の把握はまるで違ったものになる。

 「お嬢さん―相沢」という対応を想定するDの把握を選択による悲劇(選択されなかった者の悲劇・排除される者の悲劇)とでも名付けるとすると、「奥さん―相沢」という対応を想定するEの把握はどのように捉えられるだろうか。「~による悲劇」という形にあてはまるように表現してみよう。

 みんなからは「すれ違いによる悲劇」「コミュニケーション不全による悲劇」などの表現が挙がった。

 悪くない。前回の考察によれば、二つの物語の悲劇はそのように表現していい。

 だがこれだけでは②の役割の共通性が不明確だ。


 授業者が提示したいのは次の表現だ。

不作為による悲劇

無作為による悲劇

 これらはどのような把握を意味しているか?


 まず「不作為」と「無作為」の語義を捉える必要がある。

 「不作為」→すべき行為をしないこと。

 「無作為」→作為がないこと。意図的でないこと。


 Kとエリスの悲劇は、「私」と豊太郎の、〈選択〉という〈作為〉によって生じたものではなく、むしろ〈選択〉しなかった〈不作為〉によって生じている。

 二つの物語における〈不作為〉とは、具体的には両者が「言わない」ということだ。

 そして①主人公が〈作為〉に至る前にその可能性を断ち切ってしまう役割を担うのが②奥さんと相沢である。

 この〈不作為〉こそ、二つの物語の悲劇の決定的な引き金になっている。「私」が言っていればKは死なず、豊太郎が話していればエリスは発狂していない。


 もし「私」がKに、自分もお嬢さんが好きなのだと言っていれば、あるいはお嬢さんとの婚約について、その経緯もふくめて告白していればどうなったか?

 Kの恋心の告白とは、実は自らの「道」に対する迷いの告白だ。恋が信仰の妨げになるという信条に反するから、恋心はKにとって罪である。だが「私」が自分の恋心を告白していれば、Kにとっては自分の恋心が相対化され、その罪の深刻さは軽減されるはずである。

 また、婚約の件をKに伝えることは、Kの自殺を食い止める決定的な契機になったはずだ。奥さんから婚約の件を聞いた時の〈変な顔をしていた〉〈最もおちついた驚き〉と表現されるKの反応の裡に読み取るべき心理は、「私」が考えるようにお嬢さんを失う絶望でも、裏切った友人への怒りでもない。Kの関心は自らの求道の行方であり、だからこそ友人とお嬢さんの婚約は寝耳に水の展開ではあるが、それは決して直ちにKの怒りや悲しみや絶望を引き起こすものではない。Kは自らの関心の外にあるこうした展開に、どうとも反応できずにとまどっているだけである。

 やがて「二日余り」の間に徐々に納得が訪れる。自分の悩みを聞いていたはずの友人の中で、自分の悩みとはまるで関係のない煩悶が繰り広げられていたことが、ようやく分かってくる。だがそうしたすれ違いに、自分も、友人も、まるで気付かずにいた。ならば「理想と現実の衝突」という問題はただ自分が解決するしかないのであり、〈覚悟〉していた自死という決着は、とうに自分独りで実行に移すべき処断だったのだ、とKは思い至る。

 遺書の最後に書き添えた「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろう」という述懐に込められた心情、また、「私」が後に考える〈Kが私のように淋しくって仕方がなくなった結果、急に処決したのではなかろうか〉というKの心理はそのようなものだ。

 端的に言って、Kはお嬢さんを失ったり、それが友人に奪われてしまったりしたから「淋しくって仕方がなくなった」のではなく、意思疎通の断絶による孤独を自覚したときに、〈覚悟〉していた自己処決を実行に移すのである。

 とすれば、「私」がKに自らの思いを告白することは、裏切りに対する謝罪という意味合いにおいてではなく、Kを独りにしないという意味で、この悲劇を回避する決定的な手段であったはずなのだ。

 つまり「私」は、「裏切り」によってではなく、自らの心の裡を語らなかったことによって、Kを死に追いやったのである(Kがなぜ自殺をしたかという問題は、簡単に説明することが難しい。詳しくはブログの昨年度の記事を参照されたい)。


 一方「舞姫」では、確かに豊太郎は、エリスとの生活と帰国を選択肢として意識している。だが、そうした選択肢に対して自らどちらかを選ぶという決断をすることはない。豊太郎はただ〈友に対して否とはえ答へぬが常なり〉とか〈余は己が信じて頼む心を生じたる人に、卒然ものを問はれたる時は、咄嗟の間、その答への範囲をよくも量らず、直ちにうべなふことあり〉などと言い訳がましい説明をしては、目の前にいる者に恭順してしまう。

 だから、決定的な悲劇の起こる直前にエリスに対して事の次第を問い質されていれば、エリスの涙や懇願や恨み言を前にして、豊太郎があくまで帰国を選び通すことはできまい。前述の通り、作者鷗外はそのつもりで豊太郎を描いている。

 とすれば、なぜ豊太郎は発狂したエリスを置いて日本に帰るような非道な行いをしたのかと問うべきではなく、むしろエリスが発狂することによって豊太郎は日本に帰れたのである。

 あるいは仮に、万が一、豊太郎が帰国を選んだとしても、それを直接エリスに告げていれば、実は発狂という最悪の事態は避けられたはずだ。

 エリスが叫んだ「わが豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺きたまひしか。」には、ただ豊太郎に選択されなかった悲しみよりも、それを自分に黙っていた豊太郎の裏切りこそが衝撃であったことが示されている。豊太郎の告白があれば、二人の話し合いは言わば、ありきたりな愁嘆場、健全な痴話喧嘩とでもいったやりとりになって、最悪の悲劇には至らなかっただろうと想像される。

 とすれば、ここでもやはり選択という〈作為〉ではなく、自分自身で選択をしなかった(言わなかった)という〈不作為〉こそが悲劇を招いているのである。


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