2021年12月18日土曜日

舞姫 28 比較読解「檸檬」2 構造化する

 さて、問いは立ててみたものの、それに答えるために何を考えたらいいかは、依然としてよくわからない。檸檬とは○○の象徴だ! などという「答え」は天から「降りて」くるようにして閃くものかもしれない。だがそれを当てにしていたのでは授業はできない。皆でひたすらただ黙って考えてみるにしても、皆が真剣に考えているのか、ただぼーっとしているのかも判然としない。

 授業では、みんなが一斉にやれることに取り組もう。

 まずは情報の、バランスの良い把握と整理だ。そのために、ともかく何かの引っかかりを見つけて、それを手がかりに、まずは読むことを進めるしかない。

 どんな手がかりがあるか?


 最初の問いを立てる段階で、そこに注目している人はあちこちにいた。この小説では「かつて好きだったもの」「今好きなもの」が対比的に列挙される。そうした対比を整理するのが有効なのではないか?

 良い着眼点だ。ともかくも頭を構造化することは、ある種の「理解」にとって必須の作業だ。そして、そのための標識として使える手がかりがもう一つある。これも指摘した人がいた。

 この小説には、「時期」を示す言葉が頻出している。そしてその「時期」の区分は、上記の対比と同一軸に並ぶのである。


 まずは時間・時期を示す表現を文中から探して、それらをマークする。

 この作業によって「檸檬」という小説を読むための構えができる。

 この作業から次のことがわかる。

  1. 「その頃」と「以前」が対比的に何度も示される。
  2. 「ある朝・その日」が同じ一日を指し、それは「その頃」に含まれる。
  3. 「その頃」を「あの頃」と回想する「現在」がある。

 ひとまずはこの対比構造の把握が必要だ

 「その頃」といい「以前」といい、時間には実際には何の区切りもないのだから、それをどう把握するかは、ある観点・視点、つまり意識の変化に拠る。この場合は、これらが対比的であることが、それを区別されるものとして把握させているのである。

 この時間の整理は「檸檬」という物語そのものの構造把握につながる。

 ただ、3については物語中で一箇所、突然浮上するのだが、この回想が何を意味しているかについては、申し訳ない、授業者にはアイデアがない(この点についての解釈を語ってくれた人がいたので、それについては後述)。


 さてもう一つの手がかりは、そもそもの授業の流れであるところの「舞姫」との比較だ。

 これまでの読み比べの作法に従えば、それぞれの作品に対応する要素を探す、ということになる。すると、「エリス=檸檬」説も、早い段階で発想されてもいい。そもそも「檸檬」には「私」以外の登場人物がいないのだ。「私」と豊太郎を対応させて、その後はもう「エリス=檸檬」くらいしか考えようがない(一方で「相沢=檸檬」説もとび出した。これがどんな結論を導くかは、提案した班の手に委ねる)。

 だが繰り返すが授業は「正解」を求めているのではない。要求しているのは根拠と論証だ。そしてそうした対比が可能にする作品の読みだ。

 その直観の根拠となるのは「主人公が心を惹かれるもの」といった共通点であることはすぐに思い浮かぶ。だがその先に考察を進めるのは容易ではない。

 なぜ主人公は「エリス=檸檬」に惹かれるのか?

 そうした設定が意味しているものは何か?


 既に対比として捉えた「檸檬」の構造を「舞姫」にも適用してみよう。

 最初はぼんやり見えてくる。そのつもりで読んでみると次第にはっきりしてくる。「檸檬」の「以前/その頃」に似た対比が「舞姫」にもあるではないか。留学後のある時期までと、3年経ってからの時期だ。

  • 檸檬   以前/その頃
  • 舞姫 (以前)/3年経って

 どちらも左から右へ、主人公の 頽廃 たいはい 落魄 らくはく といった変化がある。豊太郎はエリートコースを外れて免官されるし、「檸檬」の「私」は、たぶん大学生だろうが(ちなみに梶井基次郎自身は東大在学時に「檸檬」を発表している。余談だが今回扱う作品の作者はみな、東大出身なのだった。鷗外、漱石、芥川龍之介、梶井基次郎、中島敦…。閑話休題)、学校に行っている友達の家に居候して、本人はぶらぶらしている。金もない。「 落魄 おちぶ れて」「生活が…蝕まれて」といった表現が文中にある。

 どちらも、似たような変化によって、「時期」を分けることができるらしい。

 それぞれの時期に属する要素を、さらに対比的に列挙してみよう。


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