2021年12月16日木曜日

舞姫 27 比較読解「檸檬」1 問いを立てる

 次は「檸檬」と「舞姫」。

 「檸檬」も教科書小説教材の定番だ。有名だし好きな人も多い作品だが、それは教科書に載っているからでもある。

 授業者も高校の授業で読んだ。だがもちろん何を言っているのか、ちっともわからなかった。当時の教師が何を言っていたのかは覚えていない。ただ、良いだろ、これ、というような「文学的」な享受を生徒に期待していたような気がする。高校生としては、主人公の抱える憂鬱もなんだか文学っぽいポーズのようなものとしてしか受け取っていなかったし、檸檬が爆弾だとかいう想像もまるで理解も共感もできなかった(だがこれに共感できるという人は世の中にはいっぱいいるらしい。A教諭とかG組Y君とか…)。

 ただ、授業でそんなものを読んだことは覚えていない、などと言うつもりはない。むしろ印象は強い。

 授業者にとって、高校生の頃に読んだ「檸檬」は、ただひたすらに「描写」の小説だった。とりわけ、檸檬を購ったかの果物屋の描写の美しさには感嘆した。

 そういった文学享受のありようも否定はしないが、今回授業で取り上げるにあたっては、ある読解の決着点を目指す。


 全ての文章の読解は、まずは「この文章は何を言っているか?」を当面の目標とする。

 もちろんそれではとりつくシマもないと感ずるから、それぞれの文章で、それを考える上で有効と思われる問いを細分化して立てる。「羅生門」ならば「下人はなぜ引剥をしたか?」だし、「山月記」なら「李徴はなぜ虎になったか?」だし、「こころ」なら「Kはなぜ自殺したか?」…。さて「檸檬」では?

 話し合いの中で提出された問いは、さまざまな抽象度のものが混ざっているだろうから、そこから精選して、次の問いを全体で共有しておく。


  1. 「えたいの知れない不吉な塊」とは何か?
  2. 檸檬は「私」にとって何の象徴か?
  3. 画集を積み上げて檸檬を置くことや、檸檬を爆弾だと想像することは何を意味するか? それが「私」にとってなぜ快感なのか?
  4. 最後の一文をどう解釈するか?


 これら諸点について、当時の教師がどのように語ったのかはまるで覚えていないが、少なくとも授業者にそれが理解されなかったことは確かだ。

 だが、今授業の読解は、これらの問いに答える、つまり「檸檬」とはどのような物語かを、いささかなりと語りうる方途を見出すことを図る。

 さしあたって、これらの問いの関係を概観しておく。

 1と2は対になっている。「不吉な塊」と「檸檬」が対立的な意味をもっているらしいことはわかる。

 物語に、何のことだが腑に落ちないことは山ほどあるが、それを例えば2のような抽象度の問いとして発想できるようにすることは、2年間の授業を通しての一つの目標ではあった。「不吉な塊」は最初から比喩だから、それが何を喩えているのかと考えることは自然だが、檸檬という具体物を、ここでは象徴として読む必要があるのだと明確に意識できるかどうかが、小説を読む上での一つのスキルなのだ。

 そして、檸檬の色、形、重さ、冷たさが念入りに描かれているから、それら何の意味があるのかと気になるが、それらは2を考える上でほとんど有効でないこともわかってほしい(いや、単に授業者が思いついていないだけで、これらをヒントとする読解も可能なのかもしれない)。

 ではどうするか?

 3から考えるのである。2は3からしか考えられないし、3に答えられるということは2がわかるということだ。つまり2と3は相補的な問いなのである(檸檬を手にしているとなぜ丸善に入る気になるのか、とか、なぜ画集を見ることに疲れてしまったのか、といった疑問もこれに付随する)。

 4はその上でもう一歩、自由度の高い小説の解釈の愉しみを味わいたい。


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