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2021年12月21日火曜日

舞姫35 最終回

 最後の「羅生門」との比較は、「通過儀礼」という視点を提示した時点で既に実質的な読解はほぼ完了していると言っていいから、授業時間内における考察の余地がそれほどあるわけではなく、授業時間の残りのなくなったクラスでは割愛した。


 それにしても、最初の一章の口語訳朗読を始めてから、既に長い時間を経過している。後期まるまる全ての授業を「舞姫」の読解に費やした。

 「舞姫」という、教科書の定番教材であり文学史上は紛れもなく重要な小説と目されていながら、現代の一般読者からするとひどく読みにくくて、そのわりにカタルシスもない小説は、主人公の行為=選択に主題を求めようとすると、重苦しいばかりで面白くもない。

 だが小説としての情報密度の高さを信頼してその論理を読み解こうとすると、物語はたちまち魅力的な謎をいくつも提供してくれる。

 とはいえそれを楽しむためには、みんなで考えることのできる授業という場が必要だ。そしてそれを成立させるのは皆の姿勢次第で、それが確保されれば、読み進めること自体が楽しい。

 そうして読み終えた後で考えるべきなのはやはり、豊太郎の行為の是非などではない。

 今回、高校国語科授業の定番といっていい「山月記」「こころ」「檸檬」「羅生門」との読み比べを通して、「舞姫」という小説が、ページをめくるたびに違った相貌を見せる、とび出す仕掛け絵本のように立体的に浮かび上がるようだ、と授業者には思えた。


 豊太郎が虎になる物語としての「舞姫」。


 第三者の「無作為」の介入によって、主人公が「不作為」になるほかない事態がもたらす悲劇を描いた物語としての「舞姫」。


 近代的=西洋的な価値体系と別のもう一つの価値、二つの世界の対立をめぐる物語としての「舞姫」。


 主人公を近代日本という秩序に組み込む通過儀礼において起こる「異類殺し」の悲劇を描いた物語としての「舞姫」。


 これらは「女か出世かの選択をめぐる、人間のエゴイズムを描いた物語」として捉えた「舞姫」とは随分違った物語だ。

 これらの読み方が正しい「舞姫」だと言うつもりは無論ない。そのような物語としての「舞姫」という作品が、価値が高いとか面白いなどとさえ思ってはいない。

 ただそのように「読む」ことだけが楽しいのであり、なおかつ高校の国語科授業として意義あることだと思っているのだ。

 皆の目にも同様に、めくるめくような「舞姫」の世界が映っていたことを祈って、今年度の授業を終える。


2021年12月6日月曜日

舞姫 26 比較読解「こころ」5 無作為の悲劇

 「舞姫」の結末は、前に述べたとおり、発狂したエリスを置いて帰国するという、ある意味でバランスを欠いた奇妙な悲劇に終わる。このような展開にする必然性が読者にはわからない。小説が全体として豊太郎という人物の非倫理的な行為を倫理的に批難しているようには見えないからである。

 だが上のように考えると、エリスの発狂は豊太郎を日本に帰すことを結末とする限り、やむをえない展開だったと言える。豊太郎には主体的な選択がなく、その帰郷をめぐって相沢とエリスが対立した場合、豊太郎に対する執着において、相沢がエリスに勝るとは思えない。

 鷗外には豊太郎をこのような性格の人物に設定し、かつ日本に帰す結末を描く必然性があった(事実鷗外が帰国しているのだから)。そのように物語を描くには、エリスを発狂させるしかなかったのである。


 さて、先ほどのEの対応から見えてくる物語把握として、「不作為による悲劇」という表現とともに、「無作為による悲劇」という表現を提示した。

 ここには、「奥さん―相沢」という対応から導かれる、さらにもうちょっと興味深い考察の可能性がある。

 「不作為」は「しないこと」である。「私」と豊太郎の罪は「選択」という「作為=したこと」にあるのではなく、「言わない」という「不作為=しなかったこと」にある。そして主人公を「不作為」に追いやるのは、実は主人公達の弱さのみならず、奥さんと相沢の「無作為」の介入である。

 奥さんと相沢、二人が為したのは、物語の決定的な悲劇をもたらす事実をそれぞれの犠牲者に告げる役割である。だがそれはことさらに「作為」のあるようなものではないように見える。

 奥さんにしてみれば当然、友人であるKに対しては、「私」の口からとうに婚約成立の事実が告げられているはずである。

 また相沢にしてみれば当然、エリスと別れるという豊太郎の約束はエリス本人にはとうに告げられているはずである。

 二人は相手が当然知っているはずという前提で、その事実を告げる。つまり二人の行為は「無作為」であるはずである。

 二つの物語は、②の「無作為」の介入によって①が「不作為」になるほかない事態がもたらす③の悲劇を描いているのだと言える。

 そうしてみると、奥さんと相沢はギリシャ悲劇における「不条理な運命」の象徴のようだとも言える。悲劇はある時に突然訪れ、それが起こってしまった後で人はもう取り返しがつかない結末を知るしかない。そこには人為的なはたらきはない。

 「無作為の悲劇」とはそのような様相を捉えた表現だ。


 だが、近代小説としての仕掛けはそれだけにとどまらない裏読みの可能性をほのめかしている。

 奥さんと相沢の介入は本当に「無作為」なのだろうか?


 奥さんにとって、親の遺産を相続して東京に出てきた帝国大学生である「私」は、娘の結婚相手として申し分のない相手である。そして当の「私」が娘に気があるのは、恐らく母親にも筒抜けである。一方同じ帝大生とはいえ、親元から勘当されて金に困っているKは条件において劣るという判断は、娘の親としては当然である。

 当のお嬢さんはそうした条件に左右されてはいないだろうが、どうもこの母子は、なかなか煮え切らない「私」をその気にさせるために、Kをいわば当て馬にしているふしがある。少なくとも、結婚相手として「私」が話題に上がっていたであろうという想定は、結婚の申し込みに対して母親が二つ返事で「本人が不承知の所へ、私があの子をやるはずがありませんから」と承諾しているところから充分に読み取れる。

 さて、めでたく婚約は成立したが「私」はなかなかこの事実をこの共同体の中で公認のものとしない。こうした状態に対して〈奥さんの調子や、お嬢さんの態度が、始終私を突ッつくように刺戟する〉というのだから、それでも何やらためらっている「私」を出し抜いて、Kにこのことを告げてしまう奥さんに、どうやらこちらも娘に気があるらしいKへの牽制として、婚約を公然のものとすることで事態を安定化しようという意図があったのだと読むことは充分可能である。

 もちろん奥さんは、友人である「私」の口からKさんへはとっくに伝えてあるはずだ、という逃げ道を確保してある。あまつさえ〈あなたもよくないじゃありませんか。平生あんなに親しくしている間柄だのに、黙って知らん顔をしているのは〉と「私」を責めることで自らの責任を回避し、その「作為」を隠してさえみせるのである。


 一方、相沢にとって豊太郎は友人ではあるが、日本に連れて帰れば、自分にとって「使える」人材になることは間違いない。語学に優れ、ドイツの事情に通じ、なおかつ一旦は官職を罷免された身として、その後、仕事の世話や帰国にあたって便宜を図った自分に恩を感じるべき立場にいる豊太郎は、相沢のその先の日本での活動にとって、便利な存在になるはずである。

 当の豊太郎はエリスとの関係について〈この情縁を断たんと約し〉はしたものの、実際の行動の上からはどうもはっきりしない。そこで病気に言寄せて豊太郎を見舞った折に、状況を把握するとともに事態をのっぴきならない方向に向かって押し遣るのである。

 もちろんここでも相沢は、「既に話は豊太郎からきいているはずだが」という前置きとともに、もはや既定事実として豊太郎の帰国をエリスに伝えたに違いない。ここでもその「作為」は巧妙に隠されている。


 二つの悲劇は、奥さんと相沢という第三者の「無作為」の介入によって起きた、と一見したところ見えているのだが、実は二人は、自らの利益のために邪魔者を排除せんとする「作為」によって、この「無作為」に見える介入をしたのだ、と読むことも可能である。

 断定はできない。二人は本当に「無作為」だったのか? 自らの「作為」を自覚していたのか? 自らの「作為」が悟られないはずだという計算のもとに「無作為」に見える行為を実行したのか?

 二人の行為には「無作為」に見えるような巧妙な隠蔽を図る「作為」のある疑いがある。

 二つの物語はそう読むことが可能な、近代小説としての深みを備えているのである。


舞姫 25 比較読解「こころ」4 不作為の悲劇

 さてここまでは考えるための準備運動だ。本当に検討したいのは、次のEの対応である。比較のために前回のDの対応も再掲する。

D

 ①  私 ―豊太郎

 ②お嬢さん―相沢

 ③  K ―エリス

 ①  私 ―豊太郎

 ② 奥さん―相沢

 ③  K ―エリス

 Dの対応から見えてくるのは、「こころ」と「舞姫」を「①が②と③の選択に迷い、②を選ぶことで、選ばれなかった③が悲劇に陥る物語」だと捉える読解である。だがこれが作品を適切に捉えていないことは、最初から皆感じ取っていたはずだ。

 ではEの対応はどのような作品把握に基づいているか。

 ①と③はDと同じ。①は主人公というだけでなく、語り手という特権的な位置を占めているし、③が悲劇の犠牲者であることも、その対応には十分な必然性がある。

 ところが②の相沢に対応する人物が「お嬢さん」から「奥さん」に変わることで、物語の把握はまるで違ったものになる。

 「お嬢さん―相沢」という対応を想定するDの把握を選択による悲劇(選択されなかった者の悲劇・排除される者の悲劇)とでも名付けるとすると、「奥さん―相沢」という対応を想定するEの把握はどのように捉えられるだろうか。「~による悲劇」という形にあてはまるように表現してみよう。

 みんなからは「すれ違いによる悲劇」「コミュニケーション不全による悲劇」などの表現が挙がった。

 悪くない。前回の考察によれば、二つの物語の悲劇はそのように表現していい。

 だがこれだけでは②の役割の共通性が不明確だ。


 授業者が提示したいのは次の表現だ。

不作為による悲劇

無作為による悲劇

 これらはどのような把握を意味しているか?


 まず「不作為」と「無作為」の語義を捉える必要がある。

 「不作為」→すべき行為をしないこと。

 「無作為」→作為がないこと。意図的でないこと。


 Kとエリスの悲劇は、「私」と豊太郎の、〈選択〉という〈作為〉によって生じたものではなく、むしろ〈選択〉しなかった〈不作為〉によって生じている。

 二つの物語における〈不作為〉とは、具体的には両者が「言わない」ということだ。

 そして①主人公が〈作為〉に至る前にその可能性を断ち切ってしまう役割を担うのが②奥さんと相沢である。

 この〈不作為〉こそ、二つの物語の悲劇の決定的な引き金になっている。「私」が言っていればKは死なず、豊太郎が話していればエリスは発狂していない。


 もし「私」がKに、自分もお嬢さんが好きなのだと言っていれば、あるいはお嬢さんとの婚約について、その経緯もふくめて告白していればどうなったか?

 Kの恋心の告白とは、実は自らの「道」に対する迷いの告白だ。恋が信仰の妨げになるという信条に反するから、恋心はKにとって罪である。だが「私」が自分の恋心を告白していれば、Kにとっては自分の恋心が相対化され、その罪の深刻さは軽減されるはずである。

 また、婚約の件をKに伝えることは、Kの自殺を食い止める決定的な契機になったはずだ。奥さんから婚約の件を聞いた時の〈変な顔をしていた〉〈最もおちついた驚き〉と表現されるKの反応の裡に読み取るべき心理は、「私」が考えるようにお嬢さんを失う絶望でも、裏切った友人への怒りでもない。Kの関心は自らの求道の行方であり、だからこそ友人とお嬢さんの婚約は寝耳に水の展開ではあるが、それは決して直ちにKの怒りや悲しみや絶望を引き起こすものではない。Kは自らの関心の外にあるこうした展開に、どうとも反応できずにとまどっているだけである。

 やがて「二日余り」の間に徐々に納得が訪れる。自分の悩みを聞いていたはずの友人の中で、自分の悩みとはまるで関係のない煩悶が繰り広げられていたことが、ようやく分かってくる。だがそうしたすれ違いに、自分も、友人も、まるで気付かずにいた。ならば「理想と現実の衝突」という問題はただ自分が解決するしかないのであり、〈覚悟〉していた自死という決着は、とうに自分独りで実行に移すべき処断だったのだ、とKは思い至る。

 遺書の最後に書き添えた「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろう」という述懐に込められた心情、また、「私」が後に考える〈Kが私のように淋しくって仕方がなくなった結果、急に処決したのではなかろうか〉というKの心理はそのようなものだ。

 端的に言って、Kはお嬢さんを失ったり、それが友人に奪われてしまったりしたから「淋しくって仕方がなくなった」のではなく、意思疎通の断絶による孤独を自覚したときに、〈覚悟〉していた自己処決を実行に移すのである。

 とすれば、「私」がKに自らの思いを告白することは、裏切りに対する謝罪という意味合いにおいてではなく、Kを独りにしないという意味で、この悲劇を回避する決定的な手段であったはずなのだ。

 つまり「私」は、「裏切り」によってではなく、自らの心の裡を語らなかったことによって、Kを死に追いやったのである(Kがなぜ自殺をしたかという問題は、簡単に説明することが難しい。詳しくはブログの昨年度の記事を参照されたい)。


 一方「舞姫」では、確かに豊太郎は、エリスとの生活と帰国を選択肢として意識している。だが、そうした選択肢に対して自らどちらかを選ぶという決断をすることはない。豊太郎はただ〈友に対して否とはえ答へぬが常なり〉とか〈余は己が信じて頼む心を生じたる人に、卒然ものを問はれたる時は、咄嗟の間、その答への範囲をよくも量らず、直ちにうべなふことあり〉などと言い訳がましい説明をしては、目の前にいる者に恭順してしまう。

 だから、決定的な悲劇の起こる直前にエリスに対して事の次第を問い質されていれば、エリスの涙や懇願や恨み言を前にして、豊太郎があくまで帰国を選び通すことはできまい。前述の通り、作者鷗外はそのつもりで豊太郎を描いている。

 とすれば、なぜ豊太郎は発狂したエリスを置いて日本に帰るような非道な行いをしたのかと問うべきではなく、むしろエリスが発狂することによって豊太郎は日本に帰れたのである。

 あるいは仮に、万が一、豊太郎が帰国を選んだとしても、それを直接エリスに告げていれば、実は発狂という最悪の事態は避けられたはずだ。

 エリスが叫んだ「わが豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺きたまひしか。」には、ただ豊太郎に選択されなかった悲しみよりも、それを自分に黙っていた豊太郎の裏切りこそが衝撃であったことが示されている。豊太郎の告白があれば、二人の話し合いは言わば、ありきたりな愁嘆場、健全な痴話喧嘩とでもいったやりとりになって、最悪の悲劇には至らなかっただろうと想像される。

 とすれば、ここでもやはり選択という〈作為〉ではなく、自分自身で選択をしなかった(言わなかった)という〈不作為〉こそが悲劇を招いているのである。


舞姫 24 比較読解「こころ」3 ≠選択の悲劇

 「こころ」と「舞姫」において、確かに主人公の二人はある選択の前に葛藤している。そして悲劇的な結末に心を痛め、罪悪感と後悔に苛まれる。

 にもかかわらずこれらの物語を、主人公のエゴによる選択の悲劇として捉えることはなぜ不適切だと言えるのか?


 「舞姫」においては、豊太郎が「故郷+栄達」と「愛情」の選択に悩んでいることは、本文に明らかな記述がある。

 だが、「舞姫」という物語において、結局のところ主人公による選択はされなかったと言うべきである。

 豊太郎は相沢にしろ天方伯にしろ、目の前にいる人物に対してとりあえずの恭順を示してしまう。エリスとの縁を切れと言われても、日本に帰ろうと言われても、「はい」と答えてしまう。

 一方でエリスに対してもロシア行から帰った時〈故郷を憶ふ念と栄達を求むる心とは、時として愛情を圧せんとせしが、ただこの一刹那、低徊踟躕の思ひは去りて、余は彼を抱〉いてしまう。

 つまりどちらが選ばれるかは後出しジャンケンのようにして決まるといっていい。どちらにも豊太郎の主体的な選択のニュアンスはなく、だから時間的に後にきている、天方伯への帰国の了承の返答も、その後でエリスとの対面があればたやすくひっくり返りそうな気配がある(鷗外自身が「『舞姫』論争」でそのことを認めている)。

 したがって、エリスの主観からすれば、選択されなかったことによって発狂したのだとも言えるのだが、物語の展開としてはむしろ、エリスは発狂したから選択されなかったのだ、と言えるのである。エリスが冷静に豊太郎の非を責めるならば、豊太郎がそれに抗い続けることはできないだろう。お腹に赤ん坊がいればなおさらだ。

 つまり「舞姫」における悲劇は単に、豊太郎の〈エゴイズム〉による選択によるものではないのである。


 一方「こころ」についてはどうか。

 まず、K自身にとっての自殺の動機は、エリスの発狂とはまったく違った構造において成立している。Kは選択の敗者になったから自殺したのではない。Kはあくまで自分の問題として自己処決を実行している。「私」がそのことを理解していないだけである。

 さらに「私」が天秤に掛けているのは②と③ではない。

 通常はこの選択肢は「友情/愛情」であるように語られる。もうちょっと気が利いていると「倫理観/エゴイズム」などとも言われる。

 だが実際に小説を読んでみると、「私」がKとお嬢さんを選択の秤にかける逡巡を具体的に指摘できる箇所は、本文中からは見つからない。

 そう、「私」は一度としてKを選ぶかどうかに迷ったりはしていないのだ。「愛情と友情の選択」などという物語把握がそもそも錯覚なのである。

 では「私」はどのような選択の前で葛藤しているか?


 物語の進行につれて葛藤の様相は変化する。下宿に住み始めてから。Kが居候を始めてから。またKが恋心を自白してから。また奥さんに談判をした後。談判の結果をKが知った後。Kが自殺した後。

 それぞれの局面を詳細に分析するのも興味深いのだが、ここでは割愛するとして、すべての状況下に共通する葛藤は何か?


 「こころ」において「私」が葛藤するのは「言うか言わないか」という選択だ。それぞれの局面では「私」は言おう、言わねばならないと思い続け、だがその実行を先送りする。全編に渡ってそうした葛藤が続く。

 この葛藤はむろん「友情か愛情か」という選択とはまるで無関係だし、巷間「こころ」のテーマとして語られる「倫理観とエゴイズムの葛藤」とも違う。

 「私」が「言わない」のは自己保身と戦況を有利に運ぼうとする計算によるものだから、それをエゴイズムと呼んでもいいのだが、一方の「言う」べき動機は倫理観によるものではない。実はそれもまた別の利害に基づいたエゴイズムなのである。

 言わねばならないとしたら、それは友情のためではなく「公明正大」であるという対面を保つためだ。また「私」が最後まで言えないのは友情を選ばなかったということではなく、言うことによる戦況の悪化を怖れ、世間体が傷つくことを怖れたからだ。

 いずれにせよ「愛情」を得る上でどちらが有利かを考えて、その選択に迷っていただけであり、「友情/愛情」=「K/お嬢さん」は最初から選択の対象になってはいない。


 「こころ」と「舞姫」を

①が②と③の選択に迷い、

②を選ぶことで、選ばれなかった③が悲劇に陥る

 と把握することはまちがっている。豊太郎は相沢を選んでいないし、「私」はお嬢さんとKの選択に迷っていないだけでなく、最終的に何かを選んでさえいない。

 それでは二つの物語の悲劇はどのようにして起こったのか?


2021年12月4日土曜日

舞姫 23 比較読解「こころ」2 選択の悲劇

 BCは意外なアイデアだった。とはいえそれらは、登場人物たちの関係の、あるいは物語中でのふるまいの、ある一面を捉えてはいるが、物語の核心部分を捉えているとは言い難い。

 それに対して、次は授業者から提示したい対応関係だ。

 ①  私 ―豊太郎

 ②お嬢さん―相沢

 ③  K ―エリス

 Dの対応を発想した者は必ずしも多くなかったのだが、実はこれこそが、最も一般的な「こころ」把握であり「舞姫」把握であることを認めなくてはならない。そしてDのような把握には「王道」とも言うべき強い必然性がある。

 ①「私」と豊太郎はいずれも主人公であり、物語の語り手である。

 また③Kとエリスは、両者がどちらも物語のクライマックスを為す悲劇の犠牲者である。

 一人称の語り手によって、登場人物の自殺と発狂がいわば物語の最大の「山場」として語られるような二つの物語を比較するうえで、①と③をこのように対応させることには強い必然性があるのである。

 ではなぜ②お嬢さんと相沢が対照されるのか?


 「①と③の間に②が介入することで、その関係が悪化する」などということは可能である。お嬢さんと相沢はそのような存在として対応している。

 だがさらに一般的なこれらの小説の受容のあり方から言えば、次のように言うのが自然だろう。

①が②と③の選択に迷い、②を選ぶことで、選ばれなかった③が悲劇に陥る

 「こころ」において、「私」はKに対する友情と、お嬢さんに対する愛情という選択に悩み、最終的にお嬢さんを選んだために、Kを死に追いやる。

 一方「舞姫」において、豊太郎はエリスとの愛と、相沢に象徴される故郷や栄達との選択に悩み、最終的に後者を選んだためにエリスを狂気に追い込む。

 ①  私 ―豊太郎(エゴイズムによる選択)

 ②お嬢さん―相沢(選択する価値の象徴)

       ↑

      主人公による選択

       ↓

 ③  K ―エリス(選択されなった悲劇)

 一般的には「こころ」は友情と愛情の選択の物語として、「舞姫」は愛情と出世の選択の物語として紹介される。世間的には、二つの物語をそのように説明しても不審には思われないはずだ。そして浮上してくるのは、主人公①の選択に見出せる「エゴイズム」という主題だ。

 だがこうした把握は間違っていることは、ここまで授業を受けてきた皆にはすぐにわかる。

 だがなぜこれが間違った物語把握だと言えるのか?

 にもかかわらず、なぜこのような対応による物語把握が一般的にはなされるのか?


 間違っていることを説明することの方が容易かもしれない。「一般的」といいながら、むしろDを発想した者はそれほど多くはなかった。それは健全なことだ。「不適切」と言っているのだから、それが発想されないことはむしろ両作品を適切に捉えている証拠ではある。

 だが上に述べたように、Dの把握には強い必然性がある。主語を主人公にすることも、物語の帰結としてKとエリスの悲劇をおくことも。

 だがそれだけではない。これらの物語には、そのように読者に捉えさせる強い方向付けがなされているのである。それは何か?


 二人の主人公の共通点は、彼らが手記の語り手だという点だ。二人は自分の内面を吐露する。その時どのような心理が読者に強く印象づけられるか?


 一つは主人公の葛藤だ。確かに彼らはある選択の前で迷っている

 さらにもう一つは、彼らの抱く「罪悪感」「後悔・悔恨」である。

 「私」はKに黙って自分とお嬢さんとの婚約を画策したことについて、自らを〈卑怯〉〈倫理的に弱点をもっている〉と認識している。そしてKが自殺した翌朝、目を覚ました奥さんに向かって、〈すみません。私が悪かったのです〉と告白してしまう。さらに葬式の後でも〈早くお前が殺したと白状してしまえ〉という〈良心〉の声を聞く。Kの自殺より後の部分は教科書には載っていないことも多いが、自殺の時点で既に「私」の抱く罪悪感は充分に読者にも感得される。

 一方豊太郎は天方伯爵に日本への帰国の意志を問われ、「承りはべり」と答えてしまった自分を〈我は許すべからぬ罪人なり〉と責める。

 そして一人称の語り手による手記という体裁によって、これらはいわば罪の告白=懺悔として読者の前に開陳される。

 「こころ」では「先生」が年下の大学生に対して「暗い人世の影」を伝えようとする。これは自らの犯した罪の告白である。「舞姫」では手記を綴る動機を〈恨み〉によるものだと書き起こす。ここには相沢に対するいわゆる「恨み」も含まれていようが、むしろ自らの行為に対する「悔恨」、つまり「罪悪感」が述べられていると見る方が適切だ。

 一人称の語り手でもある主人公たちのこうした言明は、読者にとっても殊更に無視できない重さを持っていて、それが物語の「主題」を形成すべく読者を誘導する。それがすなわち「エゴイズムの罪」である。二人は自らのエゴイズムによる選択が引き起こした悲劇の罪を抱えて生きていくのである。

 つまりDのような把握は、語り手の主観から見た物語構造としては適切なのである。そして一般的な読解が語り手の主観に沿ったものになるのは、一人称小説の享受として当然のことだ。


 ではこうした把握がなぜ間違っていると言えるのか?


2021年11月30日火曜日

舞姫 22 比較読解「こころ」1

 読み比べ二つ目は、夏目漱石「こころ」。

 「山月記」ではまず主人公を一致点として、そこに袁傪と相沢を重ねることで見えてくる物語の構造を捉えた。

 ここでも「こころ」と「舞姫」の登場人物を対応させてみる。

 ①私(先生)―豊太郎

 ②  K ―相沢

 ③お嬢さん―エリス

 ④ 奥さん―老媼

 これはどのような対応を示しているか?


 ①は主人公。

 ②は主人公の友人。①にとって東大の学友でもある。

 ③は物語のヒロイン。

 ④はヒロインの母親。

 まずは人物関係の設定としては見事な対応を見せている。

 「山月記」比較の経験から、人物造型の共通性を考えてみる。

 「私」と豊太郎は、似ていると言えなくもない。その性格については共通点も指摘できるだろう。そして、二人ともある選択を前に葛藤する。その葛藤から浮かび上がる人物像には共通した印象がある。

 それだけではない。そうした人物像とは別の層で、二人には共通点がある。

 それは、それぞれが手記の語り手(書き手)だという点である。一人称の語り手は自らの心の裡を語るからどうしても内向的に見えがちだ。人物像に共通した印象が生ずるのも、そうした要因がある。

 二人のヒロインもまた、ともに半ば冗談として「悪女」説が唱えられるような「あざとい」魅力をもっている。そしてそれが二人の賢さ故であって、その清純を疑うには至らない、といったバランスで描かれている。

 奥さんとエリスの母は、悪巧みをしていそうな雰囲気が似ていなくもない。もちろん二人とも生活上の知恵としてそうしているのであって、悪人というわけではない。

 そして二人のヒロインはともに皆と同じ17歳くらいで、なおかつ主人公の二人は25歳くらいだ。


 ここまで、共通点を探してはみたが、実はこの対応はこの先に何らの発展的な考察を生まない。主人公の二人には共通したものも感じられるが、お嬢さんとエリスの印象はかなり違う。

 さらに、Kと相沢の対応には強い違和感がある。人物としての共通性は「優秀」くらいで、その人物造型は似ても似つかないし、何より物語上での役割が違いすぎる。

 登場人物を対応させるのは、物語の構造を対応させるためだ。物語を重ね合わせようと考える思考と、登場人物の印象を重ねようとする思考を相補的にはたらかそうとすれば、このような対応はむしろ思いつかない。

 では、物語の構造を表現することを目的として人物を対応させるには、どのような組合わせが考えられるか?

 Aに示した4人を入れ替えて全員を対応させるのは難しい。3人の対応でいい、どのような対応が可能か?


 対応関係が整理できたら、そうした人物の対応による物語把握を、①~③の番号を用いて、「こころ」「舞姫」両者の要約として読めるような一文で表現してみよう。①~③に、それぞれ二つの物語の登場人物名を代入すると、それぞれの物語を表現していることになるような一文だ。

 例えばAを「①が③をめぐって②とライバル関係になる」というのは「こころ」については言えるが、「①豊太郎が③エリスをめぐって②相沢とライバル関係になる」わけではない。

 「舞姫」について「①が②によって③から遠ざけられる」と表現することはできる。豊太郎は相沢によってエリスから遠ざけられる。これを「こころ」で代入して「①私は②Kによって③お嬢さんから遠ざけられる。」としても意味をなさない…と書こうとして、全く無理ではないではないかもしれないと思い直した。「私」は、Kの死によってお嬢さんと結婚してからも、本当には心を開けなくなって死に至る。図らずもKは「私」をお嬢さんから「遠ざけ」たことになるかもしれない。だがこれは穿ち過ぎとも言える。


 4人の中から3人を選び、それぞれに対応させるとすると、組み合わせは24通り。Aも含めて、授業では5~6種類の対応関係が皆から提示される。

 毎年誰かが思いつく対応関係のアイデアを二つ紹介する。これらはどちらも授業者には発想できなかったものだ。

 これらはどのような物語把握に基づいた対応だろうか?

  ①  K ―豊太郎

  ②  私 ―相沢

  ③お嬢さん―エリス

 「私」と相沢を対応させるという発想は実に意外だった。

 こうした物語把握を表現する一文は、例えば「①が③に心惹かれて求めようとするのを②が妨害する」というような文が考えられる。あるいは「①が『道を外れている』状態にあり、友人である②が、その原因である③を遠ざけて道に引き戻そうとする」などといった表現も可能だ。

 ①②③にそれぞれの人物を代入すればそれぞれの物語の要約になる。

  • 「こころ」ーKがお嬢さんに心惹かれて求めようとするのを先生が妨害する
  • 「舞姫」ー豊太郎がエリスに心惹かれて求めようとするのを相沢が妨害する

 ここでは②の動機についての共通性もある。②は純粋に①のためを思って③を遠ざけるわけではなく、そこには私利があることも指摘できる。


 次の対応はどのような構造を示すか。

 ①お嬢さん―豊太郎

 ②  私 ―相沢

 ③  K ―エリス

 Bに比べ、「こころ」の①と③が入れ替わっている。

 この対応をたとえば「②が①と③の関係を妨害する」などと表現することは可能だが、同時にこの表現はBにもあてはまる。BとCでは「こころ」の①と③が入れ替わっているだけだから、「①と③の関係」ではどちらでも同じことになってしまう。

 だがKと豊太郎を対応させる把握(B)と、お嬢さんと豊太郎を対応させる把握(C)が同じであるはずはない。別の表現が可能なはずだ。

 ではどう表現するか?

 可能なのは次のような表現だ。

  • ③が①を求めて②に阻まれることになる。
  • ①をめぐって②と③が対立関係にあり、②が勝者となり、③が敗者になる。
  • ②が①を自分の意に沿うようにするために③を排除する。

 Kとエリスの悲劇は、いずれも排除される敗者の悲劇である。


 さらに別な人物対応によって見えてくる物語の構造を検討しよう。