2021年12月21日火曜日

舞姫33 比較読解「羅生門」2 通過儀礼の形式

 「舞姫」と「羅生門」それぞれに、通過儀礼の構造を見つけることは難しくない。

 「舞姫」では、豊太郎の洋行がすでに〈分離〉の形式を成していることは明らかだが、さらにここに「母親の死」と「免官」という要素を加えて、鷗外は豊太郎を日本、及びその安定した社会構造から念入りに〈分離〉する。

 一方の「羅生門」の下人もまた「主人から暇を出され」ることで社会的秩序から〈分離〉されている。

 〈分離〉はまた、異界への越境である。たとえば千尋が神々の世界に迷い込む際にトンネルを通過する場面は、〈分離〉の形式を、「境界を越える」という空間的な移動として象徴的に表現したものだ。

 「羅生門」における越境を空間的に展開したのが、もとより境界上に存在する門としての「羅生門」という舞台設定であると一見したところ見えなくもない。

 だが下人は千尋のように門を通って都の外へ出るわけではない。そもそも「羅生門」が隔てている「洛中」と「洛外」は、〈洛中のさびれ方はひととおりではない〉以上、それほど明確なコントラストを描いているとはいえない(むしろ初出によれば、下人はこのあと京都の町、つまり「洛中」へ舞い戻るのだ)。

 したがってここでの越境は、羅生門の上層へ下人が登ることによって表現されていると言える。


 一方「舞姫」における越境について考えるには、「山月記」「檸檬」との比較において考察した「舞姫」の空間把握が参考になる。

 すなわち大きなスケールでいえば日本→ドイツが〈分離〉=越境であるには違いない。

 だが、豊太郎にとってドイツは異国ではあるが、ウンテル・デン・リンデンに立つ豊太郎はまだ社会的秩序から断ち切られているとは言い難い。豊太郎にとって本当に異界であるのは、ここまでも空間的な対比として捉えてきた、反ウンテル・デン・リンデン的空間であるクロステル巷だ。異界としてのクロステル巷へ足を踏み入れた豊太郎は、そこで異界の住人であるエリスに出会い、エリスに伴われてその家へ足を踏み入れる。

 つまり「舞姫」において〈分離〉の形式は、先に「檸檬」との比較で考察した西洋的秩序への忌避感や母親の死と免官といった心理的な〈分離〉とともに、空間的には「ドイツ」→「クロステル巷」→「エリスの家」という入れ子状の「異界」への空間的な越境によって表現されているのである。


 こう考えてみると、うち捨てられた死体の転がる羅生門の上層への梯子を登る下人と、父親の死体の横たわるエリスの部屋への石の梯を登る豊太郎の姿が、奇妙に重なって見えてくる。

 「異界」は「彼岸=あの世」でもある。二人はともに「異界」への越境という形で、通過儀礼における〈分離〉を果たす。


 これまで檸檬と対比されてきたエリスは、ここで老婆に比せられる。

 二人は豊太郎や下人が〈移行〉期を過ごす「異界」の住人だ。エリスとのつつましやかな同棲生活が豊太郎にとっての、また老婆との会話の戯れが下人にとっての〈移行〉期である。下人はここで本当に、それまで彼を捉えていた「観念」から〈分離〉される。

 とすれば、豊太郎と下人の〈再統合〉はいかにして行われるか?


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