2020年5月28日木曜日

少年という名のメカ 6 -この小説をどう読むか

 3回のプレ講座が終了しました。
 3回とも、とても楽しく、充実した時間でした。そしてとても疲れました。
 疲れたのはいつもと勝手が違うことに緊張があったせいで、慣れれば普段の授業と変わらなくなるのでしょう。おそらく。
 そして、楽しさや充実感は、これまでの普段の授業でいつも感じてきたことです。
 この楽しさや充実感を感ずるには、「当事者になる」必要があります。授業者である私はもちろん、カメラやマイクをオンにして対話に加わってくれた人は、そうした「当事者」としての充実感を得たはずだと信じています。
 今後の教室での授業では、単純に受講者全体の人数が減り、全員の姿が互いに見えていて、少人数でのグループワークが行われ、と、みんながそれぞれ「当事者」になる条件が増えます。
 その時さらに充実するかどうかは、みんなのそれぞれの参加への姿勢次第です。

 さて、前半組の講座では第2回で「解決」してしまった問題について、まず確認しましょう。
 この小説は、「反『少年』」たる「メカ少年」の設定によって、逆に「少年」という存在を浮き彫りにしていると考えられます。
 またこの小説は、既存の様々なメディアで提供される、ファンタジーやSF的な「物語」の特徴を備えています。その、いかにも、といった手触りはあまりにあからさまです。
 そういった「物語」的世界における「少年」とは何を象徴しているのでしょうか?
 S君・Mさんはこれを 「物語」における「主人公」 と表現しました。
 それを受けてYさん・H君は、この小説は、「物語」における「主人公」というのは、実際にいたら、周囲の人にとってはとても迷惑な存在だという皮肉を言っている小説だ、と解釈しきってみせました。
 つまりこの小説は、「メカ少年」という設定によって逆説的に「少年」というものの存在を浮き彫りにすることを通して、「物語」における「主人公」というものについて逆説的に語っていると言えます。
 逆説的?
 紛らわしい。「メカ少年」を描くことが「少年」を描いていることになるのだ、という事態がまず「逆説的」です。そしてもう一つ、重要なことはここで描き出される「少年」が「逆説的」な存在なのです。
 どういう意味で?
 「逆説」を説明するにはまず「通説」です。「主人公」は肯定的に捉えられるべき存在だ、というのが「通説」です。自由だったり特別だったり勇敢だったりして、人々から愛されたり憧れられたり感謝されたりする存在としての「主人公」像に対して、ここで描かれる「少年」は、その身勝手さが人々に迷惑をかけ、傷つけます。「通説」に反する、そのような「主人公」像が、それもまた真実でありそうだと思わせるところが「逆説」的なのです(以上、「逆説」についての復習)。

 さて、最初にこの講座のテーマとして掲げたのは、この小説をどう読んだら良いのか? でした。
 この問いの問題意識がそもそもわかりにくいはずです。といってこれをどういう問題なのかと説明するのは得策ではありません。実際に読んでみて、それがどのような読み方なのか、と振り返る方がいいはずだ、と考えました。

 最初に考察したのは、序盤の会話の分析を通して、小説中の情報を読者がどのように受け取っているか、その思考や感情の流れを、スローモーションのように振り返ってシミュレートしてみることでした(第1回講座)。
 もちろん実際にみんながそのように考えたり感じたりしていたわけではありません。あくまでシミュレーションですから、言われてみればそんなふうに考えたり感じたりすることはありえる、と思えればいいのです。

 次に、我々が小説を読みながら予期している「世界観」が、末尾の一文によって変更されることで構築される、新たな「世界観」の可能性について考察しました。
 少年という名のメカの目的を知り、特許制度や経済活動の存在する世界の広がりに思いを馳せ、メカの作り手や買い手を想像する…。
 しかし実はこのような考察は、おそらく上に掲げた授業の目的にはたどり着きません(思いがけない形でたどり着くかもしれませんが、少なくともこちらはそれを想定していません)。これはあえてみんなの思考をミスリード(誤誘導)したのです。
 このような読解は、なぜ「この小説をどのように読んだら良いか?」にたどり着かない(だろうと想定される)のでしょうか?

 比較対象に、一昨年の授業で生徒が語った解釈を紹介しました。
 コンピュータ・プログラムが稼働し続けていると、不要なデータやバグが蓄積されていくことがあります。あるいはウイルスと呼ばれるソフトがプログラムの一部を書き換えてその機能に不都合を与えたりします。それに対して修正プログラムとかワクチン・プログラムなどと呼ばれるプログラムを走らせることで、バグをリセットすることがあります。
 この小説で描かれているのは、そうしたコンピュータの内部で展開しているプログラムの振る舞いを擬人化・具象化して描いているのだ、というのです。「少年」によって傷ついた心が「バグ」で、メカ少年がワクチン・プログラムです。
 面白い思いつきです。

 また、第2回講座で前半組から出された解釈を前回紹介しました。
 人々の心のケアも、テクノロジーの進歩によって解決しようとし、かつそれを商品」化する、我々の社会が「象徴」されているのだ、という捉え方です。

 そして上に示した解釈です。

 さらに、もう一つの読み方の可能性についても示唆しました。
 「反少年」としてのメカ少年によって明らかにされる「少年」は、確かに「『物語』の主人公」的な姿に見えます。ファンタジーの主人公「あるある」です。
 それだけでしょうか?
「無邪気に振る舞い、わしらを散々幸せな気持ちにさせておきながら、ある日…目の前から消えちまう。…その後はとんと音沙汰なしだ。絵葉書一つ寄越したためしがない。」「唇の端にスープをつけたままにして、わたしの母性にアピール(する)」「服を泥だらけにしたり、ボタンを弾き飛ばしたり(する)」「肉体的にも、精神的にも成長(する)」…。
これらの描写も単に「ファンタジー物語の主人公」としての「少年」を描いたものなのでしょうか?
 S君・Tさんがすぐに気づいたように、これらの描写から浮かび上がる「少年」は「親の目から見た子供」です。ここに表現されるのは、自分に向ける親の愛情に満ちた眼差しにも、そして子供が手を離れてしまう親の淋しさにも無頓着な子供の姿です。
 また、少女は「少年」について次のように語ります。
彼じゃなくて、彼のサポートについたわたしの方が怪我をするの。わたしが少年を守るはめになるの。…わたしが怪我をするたび、ものすごく謝ってくるんだけど、それだけなの。根本的に変わらないし、もうなんか疲れちゃった。
ここで語られる「彼」は、Yさんが言うように、まるで「女性から見た男性」のように見えないでしょうか。恋人である男の身勝手さに振り回されながらも離れられない女。
 老夫婦の語る「少年」は幼い子供で、少女の語る「少年」はむしろ「青年」と言っていい年齢にも感じられます。
 ここにはどちらも、相手に対する愛情と、それ故に相手の自由奔放さに傷ついてしまう心情が描かれています。つまり「少年」に対する「大嫌い」は「大好き」の裏返し、「可愛さあまって憎さ百倍」なのです。
 これは、たとえ読者が親世代でなくとも、恋愛経験が乏しくとも、ありそうだと感じられるように意図的に描いていると言えないでしょうか。

 整理します。

1.我々が小説を読みながら予期している「世界観」が、「特許出願中。」という末尾の一文によって変更されることで新たに構築される「世界観」の可能性について考察を深める。

2.「あるコンピュータ・プログラムが稼働し続けることによって蓄積されていくバグをリセットするワクチン・プログラムを、稼働中のプログラムの中に走らせている」という世界を擬人化・具象化して描いている、と解釈する。

3.全てがテクノロジーの進歩によって機械化されていく「現実」が象徴されている、と解釈する。

4.「物語」の主人公というのは、本当にいたら周囲の人々にとっては意外と迷惑なものだ、という逆説を皮肉として描いている、と解釈する。

5.老夫婦の語る「少年」は「親にとっての子供」を象徴し、少女の語る「少年」は「女性にとっての恋人の男性」を象徴していると考え、その愛憎半ばする心情を描いている、と解釈する。

 これら5つの読み方は、どのようにこの小説を読んでいることになるのでしょうか?

 ここからはそれぞれの講座で、この5つをどのように分類したり分析したりすることが可能か話し合ってもらいました。この話し合いはどちらもとても有益でした。
 ここはやはりグループワークで、全員が自分の分析について語るべき問題です。
 ここには特に固定的な「正解」があるわけではありません。もちろんその分析の妥当性は検討されるべきです。しかしさまざまな観点からさまざまな分析が可能です。
 もちろん1~5の中から正解を選ぶ必要もありません。どれも認めた上で、それらの違い、関係を考えるのです。

 例えば「作者の意図」について考えるかどうかで分類できるのでは? というアイデアがどちらの講座でも出ました。
 確かに「作者」を視野に入れることで、作品から距離をおいて、その小説世界を俯瞰することが可能になります。物語の世界に入り込んでしまえば、その外側にいる作者の姿は見えなくなってしまいます。
 そのような傾向が最も顕著なのは1でしょう。
 1の方向に考察を進めるのはミスリードだと上で述べたのは、1は、あくまで物語の「世界」の内にとどまって、そこを探索するような考察だからです。そのような探索は、第2回講座でやったように、それなりに楽しくなることもあります。また、小中学校の国語の時間にありがちな「この時の登場人物の気持ちを考えてみましょう」的な授業は、基本的にこの層に視点を限定しています。
 とはいえ、1~5のどれもが、それぞれに作者の意図を同時に捉えることも可能ではあります。1のような読み方でも、そのように世界を構築し、そのように物語を展開し、そのように人物を描く作者の意図を考えることはありえます。小中学校の国語の時間でも「気持ち」発問とともに、「作者は何を言いたかったでしょうか」などとよく訊かれたはずです。

 とりあえず1に比べて2~5が、作品の物語の層から離れて、小説を俯瞰しようとする視点に立っている、というのは確かです。
 その上で2~5をさらに分類するなら、紹介した2,3と、講座中で意図的に展開した4,5のような読み方の違いはあると言えます。
 2,3の解釈は、作品世界全体の構造を、別の何かと重ね合わせることができるのでは、という仮説です。どちらも授業者自身の解釈ではないので検討が不十分ですが、本当にそうだと言うためには、作品の細部や構造自体から、ある特徴を抽出し、それが、重ね合わせようとする対象の特徴と意図的な一致を図っているかどうかを検討する必要があります。
 それを丁寧に行うまでは、これはあくまで思いつきです。面白い、そうかもしれない、とは思うものの、腑に落ちる、という感覚には至りません。まだ。
 一方、4,5の解釈は、小説の細部の特徴から、意図的に方向付けられた小説の「感触」を確認し、それをある作者の意図として想定できないか、と考えています。
 読者が感じるはずの手触りを表現し、確かにそういう感じがする、という読者間の合意のもとに、それが合理性を持つような作者の意図を想定してみよう、と考えているのです。

 小説と何を重ねるか、という点から、別の分類をしてみましょう。
 3と5は、小説内世界と、我々の住む「現実」が重ねられています。
 2と4は、小説内世界と、それぞれ別のバーチャルな世界が重ねられています。
 2のコンピュータ・プログラムの振る舞いは、もちろん現実の物理現象ではありますが、それは我々にとってのリアルではなく、やはりバーチャルな世界でもあります。
 4は、様々なメディアで我々に伝えられる「物語」と小説が重ねられています。しかも、その二つを同じ層で並べているのではなく、「物語」の上の層から俯瞰する視点に小説は立っています。
 その意味で、4の解釈に立つのなら、この小説はメタ「物語」だと言えます。「物語」のパロディなのです。
 そのとき、そうした諸々の「物語」を作っている作者達や、そうした「物語」を享受している我々自身が相対化されます。

 まだまだ分析は可能でしょう。別の分類もありえます。
 とりあえず今回の3回の講座で考察できたのはここまでです。

 後から思いついたことを少々付け加えます。
 H君の言った、この小説の中心はやはり「少年」ではなく、メカ少年が人々を癒やすことの方にあるのではないかと思う、という言葉が引っかかっていたのですが、そこから思いついたことがあります。
 この小説は、過剰なサービスは、そのうちに人を疲れさせるようになり、その時、むしろ何もサービスしないことが癒やしになる、という逆説を表しているのではないか、という思いつきはどうでしょう。「レンタルなんもしない人」が話題になっていることなどをふと連想しました。
 さらに言えば、サービスに疲れた人に対して、さらに何もしないことをもサービスとして提供するという堂々巡りを皮肉っているとか、そうした商魂たくましい様子を戯画化している、などとも言えます。
 そしてこのような社会批判としてみるならば、この論理はこの先授業で読む予定の「南の貧困/北の貧困」とも重なってくる可能性さえあります(まあ今の時点では何のことかわからないでしょうけれど)。
 この解釈は上の3の解釈と同系統の、小説世界を我々の現実と重ねる解釈の一つです。
 この解釈を通番で解釈6とすると、みんなが自由に発言する機会が充分に確保されていたら、いったいいくつの解釈がみんなの目の前に並べられていただろうと考えると、愉しくもなり惜しくもなります。

 「少年という名のメカ」という作品を題材に、その作品世界に分け入りつつ、小説を読むという行為、「小説の読み方」自体をも考察対象にしてきました。
 ブログ開設初期に、教材の読解は、学力向上のためのトレーニングではあるが、それだけではない、ある種の掛け替えのない「体験」なのだ、と書きました。
 特定の文章の解釈を結果として「知る」ことなど、学力向上のためのトレーニングにさえなりません。
 読解は主体的な「行為」です。それだけが実技科目としての国語の学力向上に益するのです。
 だがさらにそれが、一人ではなかなか遭遇することのできないひとつの「体験」として参加者それぞれに感じられることを期待して3回の講座を進めてきました。
 授業者自身には、間違いなく毎回がそれぞれの1回性の出来事の「体験」でした(既に一昨年から長い時間を考察に費やしてきたにもかかわらず!!)。
 そしてこれはどうしたって一人ではできないことなのです。

2020年5月27日水曜日

少年という名のメカ 5 -対比・大きな問い

 「小説」を「物語」としてではなく「小説」として読むためには、メタな視点が必要です。
 そこで、予告の通り、「対比」と「問い」を上げてもらいました。

 「対比」については、たちまち複数の同じ回答が上がってしまったのですが、それはその通り、そうです、こちらの想定通りです。
対比 メカ少年/少年
  この対比から導き出される「問い」もまた、やはり想定通りに上がりました。
問い 「少年」とは何か?
この「対比」と「問い」の関係は、「ホンモノのおカネの作り方」と相似形です。
対比  メカ少年/少年
問い  「少年」とはどのようなものか?
       
対比  ニセガネ/ホンモノのおカネ
問い  「ホンモノのおカネ」とはどのようなものか?
「ホンモノのおカネの作り方」では、ニセガネ作りたちの失敗を通して、「ホンモノのおカネ」とは何かを考えているのだ、と整理できたのでした。同じように「少年という名のメカ」では、メカ少年の存在を通して「少年」という存在を浮き彫りにしているのだ、と考えることができるのです。
 メカ少年は、いわば「反『少年』」です。「アンチ『少年』」です。
 メカ少年の振る舞いは「…したりはしなかった。」と否定形で語られます。それはすなわち、逆にそれをする者としての「少年」の姿を彷彿させるのです。
 「少年」は主(あるじ)によって、おかみさんによって、少女によって、物語の語り手によって、様々に語られます。それはいわゆる「あるある」の楽しさに満ちています。「あるある」ネタは漫才などのギャグのパターンとしても最も有力な様式の一つです。この、いちいち思い当たる羅列がこの小説の面白さのひとつです。

 このように浮かび上がる「少年」とは一体なんでしょうか?

 …と問いかけたところ、後半でS君が「これは『少年』ではなく『少年らしさ』を表しているのではないか」と言ってくれました。前半でもM君が最初から「問い」を「少年らしいとは何なのか?」と表現しています。
 確かに問題は「少年らしさ」です。「少年」はどうやら個体ではなく、「あるある」というのはそもそも複数の個体の共通属性です。それらに見られる典型・ステレオタイプが問題なのです。

 こういうとき、小説の読解においては、こうした「らしさ」としての「少年」をどのような言葉で捉えるでしょうか? という問いに対してはA君が「象徴」という言葉を上げてくれました。Yさんも「『少年』と『メカ』はそれぞれ何を象徴しているのか?」という言葉で「問い」を表現していました。
 そうです。問題は「『少年』とは何の象徴か?」と表現されます。

 少々脇道に逸れると、授業者は「メカ少年」は「反」であることによって「少年」を浮かび上がらせるだけだと捉えていたのですが、「メカ」の象徴性についても問うているYさんの問いに、別のYさんの見解を接続させると、この設定は「この世界で様々なものが自然から機械に移行していく様子と通ずる」と捉えることができます。
 なるほど。人々の心のケアも、機械化された商品、テクノロジーの進歩によって解決しようとする、我々の世界が「象徴」されているのだ、という捉え方は、この小説の「読み方」として、ひとつ腑に落ちる解釈です。

 閑話休題。「少年」です。
 象徴とは、それをそのものではなく、別の何かであると見なす、という約束のことです。「何か」は基本的に抽象概念です。
 ある文脈において、鳩は鳥ではなく「平和」を、天皇はある個人ではなく「日本国」を表していると見なす、という約束が了解されているとき、鳩や天皇は「象徴」です。
 「少年」は何の象徴でしょうか?

 先ほどの「特許出願中。」についての考察において、たびたび、そこまでの「世界観」は「物語」的だ、という語られ方がされてきました。
 これは読者誰もがすぐに感ずることです(感ずることを言葉にして表現できるということが重要なのですが)。
 どのような「物語」と言えばいいのでしょうか?
 メディアの種類で言えば、ゲーム(RPG)、アニメ、小説(ラノベ)、マンガ…。
 ジャンルで言えばファンタジー、SF…。
 様々な設定や描写が、老夫婦や少女のいる世界が、これらのメディアによって語られるこれらのジャンルの「物語」であることを示しています。村の入口にある家にいて、「…じゃ。」という口調で語る、パイプを咥えた老人はどうみてもゲームにおける「村人」です。「エプロンで手をふきふき出てきたおかみさん」「悲しそうな目をした少女」などという形容もステロタイプです。「戦闘機らしき乗り物」などという形容は、その設定の大雑把さを皮肉っているようにも見えます。

 そのように作られる「物語」的世界における「少年」とは何を象徴しているでしょうか?

 さて、後半組では、話はここで終了だったのですが、前半組ではこの問いに対してS君の的確な答えが提示され、それを受けてYさんがあまりに見事にこの小説を解釈しきってしまいました。
 まさかそのタイミングでそのようにこの問題が「解決」してしまうとは思わなかったので、びっくりしました。

 明日、プレ講座も残り1回、後半組ではこの「解決」とその先へ向けて、前半組でももう一つの「解決」へ向けて考察を進めたいと思います。

少年という名のメカ 4 -「特許出願中。」の分析

 第2回のプレ講座を実施しました。
 今回も、こちらではコントロールしきれない迷走の末に、思いがけない認識に至る瞬間はとても楽しい。その瞬間に向けて知恵を出し合ってくれたみんな、ありがとう!
 さて、第2回のプレ講座を終えてのまとめです。

 第1回に考察した、末尾の「特許出願中。」について、今回の導入に再考しました。
 小説は最後の最後にこの一文を置いて、唐突に終わります。教科書ではよりによって左頁の最終行にこの一文が現れ、呆気にとられて頁をめくると、そこには作者の写真と紹介があって、この小説がここで終わっていることが知らされます。
 この一文は何を意味しているのでしょうか?

 …という問い方は、一方では自由な発想による考察を可能にするのかもしれないのですが、一方ではとっかかりがつかめずに、このままでは埒が開かないかもしれません。
 そこでまずは上の34頁のやりとりの分析に用いたのと同じ問い方をしてみましょう。
 この一文は何が「おかしい」か?

 T君は「そこまでのファンタジー的な世界からいきなり現実的になる」と言いました。Tさんはこれを「カメラが急に切り替わる」という比喩で表現しました。
 確かにそこまでの、主が暖炉の傍でパイプを咥えているような世界や、戦闘中の街の少女がいる世界からすると、「特許出願」という言葉はあまりに不似合いです。発言者が表現するように「事務的な」「ビジネスっぽい」言葉です。決してファンタジーっぽくはない。
 我々は様々な物語を、それがどのような世界のものであるかという予期のもとに享受しています。これをしばしば物語における「世界観」などと言います。予期は作品に入る前の予告編によって形成され、読みながら(観ながら)次々と更新されていきます。
 この最後の一文は、その「世界観」に対する予期を裏切るのです。
 この二つの「世界観」を対比的に表現するならばS君の言う「物語/現実」でしょうか。
 最後の一文だけ、いきなり「現実」的な手触りを感じさせる「世界観」が闖入して、しかもそこでいきなり終わるのです。

 だがこの結末についてY君はむしろ「現実と違う」という言い方をしました。
 なるほど、このように「少年」が嫌われている「世界」は我々の生きる「現実」と違います。
 これはつまりこういうことです。そこまでの「物語」的世界は、我々の「現実」と違うことが前提になっているので、違うこと(ドラゴンがいること、「…なんじゃ」などという「非現実的」な喋り方をするおじいさんがいること)をそのまま受け入れているのですが、「特許出願」という言葉によって「現実」と接続されたとたんに、我々の「現実」との比較が可能になって、そこで「違い」があらためて浮上するのです。
 さらにこの結末の違和感について、YさんTさんの対話の中で、この一文によって、かえって終わらずに規模を拡大して続いていく感じになる、にもかかわらず、それについての説明はなく終わってしまう、というような表現がありました(「強制シャットダウンのような」byT)。
 私なりに解釈するならそれはこういうことです。
 人々の心を癒やすために作られたというメカの正体が明かされたところで終わるのは、物語としてはある種の終わり方としての安定感があります。老夫婦を癒やし、少女を癒やし、これからもメカは傷ついた人を癒やすために旅を続けます…。
 ところが「特許出願」という異なった世界観が提示されたとたんに、物語は完結せずにさらなる拡大を始めます。別な世界への通路が示されるからです。
 にもかかわらずそこで小説はいきなり終わるのです。

 さて、そこまでの世界についての予期を裏切られた読者は、どのような認識の変更を迫られるのでしょうか。
 この一文から何がわかるか?

 前回、まずはこの一文からわかることは何でしょう、という問いに対して答えてくれた人の発言には前半組、後半組ともに共通して「メカが傷ついた心のケアをするために作られたこと。また、そのような人は他にもいっぱいいる」という要素が入っていました。
 ここには「特許出願」という言葉から「わかる」ことと、その前の段落からの数行の情報が混ざっています。
 ここから、末尾一文に限定して「ここからわかること」を抽出してみましょう。

 まず「特許出願」という言葉は、このメカが商品であることを示しています。
 ということはある程度の需要が見込まれるということです。前の数行からわかる、大勢の傷ついた人々がいるという情報が、「需要」という経済用語に換言されます。
 商品であるからには、この世界では経済活動が行われていることになります。
 経済活動と共に、特許権を保護するような高度な社会システムがあるということでもあります。
 そして商品であるからには、おそらくメカは一体ではありません。試用品としては、この時点ですら複数のメカ少年が同時に世界中を旅している可能性もありますが、特許が認められたあかつきには間違いなく大量生産になるのでしょう。
 「少年」が複数であることは途中の情報から認めたとしても、物語の主人公である「メカ少年」そのものが複数である(複数になる)可能性については、読者の予期の範囲外です。物語の享受者は、物語に出てきた「それ(彼)」に思い入れてしまうので、それが複製可能な商品であることを認めたくはありません。「それ」と同じものがいくつもある状態は居心地が悪いのです。
 これもまた最後の一文が読者に与える違和感のひとつです。

 拡がった「世界」はどのようなことを読者に考えさせるでしょうか。
 例えばこのような商品を誰が作り、誰が買うのでしょう?

 前半後半いずれの講座でも「自分でも『少年』に傷つけられた過去を持つ人が作ったのでは?」という意見が出ました。
 この発想は自然です。
 思わず連想してしまったのは手塚治虫の『鉄腕アトム』の天馬博士です。彼は自分の息子を事故で亡くした悲しみから少年型のロボット、アトムを作りますが、息子に似せて作ったアトムが成長しないことに苛立ち、やがてアトムを棄てます(みんながアトムの保護者としてイメージするのは、その後アトムを引き取ったお茶の水博士かもしれません)。
 そういった個人的な心理ドラマを開発動機として持った「博士」がこのメカを作ったのだろうという想像は、「物語」の世界観にふさわしい。
 だがこのような「博士」は、そのメカを「特許出願」するでしょうか?
 また、Yさんが指摘するように、「何年も…何十年も」旅を続けていつ商品化されるかわからない試作品が特許を獲得するまで老博士が待ち続けると考えるのには無理があります。
 そう考えると、このメカを開発したのは大企業かもしれません。「博士」も、そのような企業の研究室に所属しているのです。となれば、個人的なトラウマに基づく発明ではなく、マーケティングに裏打ちされた需要を見込んだ製品開発です。ベンチャー企業では「何十年」もの回転資金が保たないかもしれないので、ある程度は多角経営をしている大企業の製品かもしれません。
 一方、いったんは癒やされたものの、やがて再び傷ついた少女は、今度は製品となったメカ少年を買うのでしょうか?
 購入を期待されているのは、地方自治体などの公的機関や企業かもしれません。会社で1体、市で1体、県で数体、みたいに、人々の心を癒やすカウンセラー、セラピストとして、公的機関や企業がメカ少年を購入するのです。

 さて、こんなふうにこの小説の「世界」に分け入って、そこがどのような「世界」なのかを考えていく、という小説の読み方はできます。
 このような読み方は、それはそれで楽しいのですが、実は最初にこの小説を教材として取り上げた時に提示した「この小説をどのように読んだら良いか?」という問いの設定からすると、この方向はどこかで行き詰まってしまうんじゃないかというのが授業者の見通しです。
 では、この「世界」を、ではなく、この「小説」をどう読んだらいいのでしょう?

2020年5月22日金曜日

少年という名のメカ 3 -34頁の会話の分析

 「現代文B プレ講座 第1回」を実施しました。
 前半後半ともに130名あまり、計270名くらいの生徒が参加してくれました。全員参加を期待してはいるのですが、一方でいわゆる「補習」的な任意参加だと受け取られるかもしれず、一体何割くらいの生徒が参加するのだろうかと、始まるまでは期待混じりの不安といったところでした。
 始まってみると、参加率とともに予想外だったのは、前半後半ともに、カメラをオンにしてくれた人が複数いたことです。
 これは、本当に、本当にありがたかった!
 沈黙に向けて話し続けるよりも、頷いてくれる人の姿が見えるだけではるかに話しやすくなるということもあるのですが、何より、姿の見える人に対して話しかけ、逆にこちらに言葉を返してもらうことで、ちゃんと「授業」が成立したのは、予想と期待以上でした。
 さすがに、自分が指名されて発言を求められるかもしれない緊張感を全員が感じることは難しいでしょうが、リアルタイムでなされるやりとりを見ているときには、恐らくブログの文章を読んでいるだけの状態より、自然と「考える」ことにいざなわれたのではないでしょうか。
 これでグループワークができれば、言うことなしなんですが。
 ともあれ、終了時に退室を促すと、軽く頭を下げてから切断する様子が見えたりするのは、とても嬉しいものでした。

 実施してみての反省として、もっと有効にチャットまたは「会議メモ」を使えば良かったと、終わった直後から残念に思いました。みんなの発言を、もっとこまめに書き出すべきでした。これは気持ちに余裕がなかったことによるので、次回からはもっと改善します。

 さて次回に向けて、第1回の講座で話し合われたことを確認します。


  • 34頁の主とメカの会話はどこがおかしいか?
  • ここから何がわかるか?


 この問いに対して、次のような答えを用意していた人もいると思います。
 「少年」という言葉に対して主とおかみさんの反応は過剰だ、怒ったり泣いたりするのは変、どうして少年がそんなに嫌われるのかわからない…。
 当然「わかる」ことは、少年が嫌われているということです。
 確かに少年というのは通常、そんなに否定的な感情を人に抱かせる存在ではありません。「悪魔」とか「蛆虫」とか、あるいは慣用句の「蛇蝎(だかつ)のごとく嫌う」の「へび」や「さそり」などは、ある文化の中での約束事としてそのような反応を引き起こす存在です。
 ところが「少年」です。確かに「変」です。この違和感が読者の注意を喚起して、先を読み進める動機付けになっていることは間違いありません。

 ですがここで、二人の「やりとり」の「おかしさ(奇妙さ、変さ)」として考えてほしかったのは、そのように明示された意味よりも、読者が読み進める際に、意識はしていないけれど感じていること、あるいは思考のはたらきです。
 まず、このやりとりを「おかしい、変だ」と感じている自分の思考を辿り、それがどのようなものか、どこから生じているかを自覚的に語ることを求めていたのです。
 さて二人の会話はどこが「おかしい」でしょうか。
 主がメカに問いかけます。
「そんで、おまえさんの名前はなんと言うんじゃ」
 メカが答えます。
「ぼくの名前は少年です」
このやりとりのおかしさを、T君・Tさんは次のように表現してくれました。
 名前を聞かれたら普通は固有名詞を答えるのに、普通(一般)名詞を答えている。
簡潔で的確な表現です。おいっ「ぼくの名前は少年です」って何だよ! という読者の反応を分析的に語るならば、つまりそういうことです。「少年」って、「名前」じゃないだろ! とツッコミたくなる感じ。

 だがそれだけではありません。
 我々は既に題名で彼が「少年という名のメカ」であることを知らされています。ダメを押すように本文は「少年という名前のメカが冒険の旅に出た。」と始まります。少年にツッコんでいる場合じゃありません。そこまで読み進めてきた我々の認識が、そこで問い返されているのです。
 我々はこの情報をどのように受け取っていたのでしょうか。

 例えば目の前にある機械を指して、持ち主に「そいつの名前はなんて言うんだ?」と問うたとします。持ち主は「自動車(ブルドーザー・掃除機・スマホ)だ」と答えるかもしれません。あるいは「プリウス(Nワゴン・カローラ・ベンツ)だ」と答えるかもしれません。
 これはお互いの了解事項を二人がどう把握しているかによって変わります。
 聞き手がその機械について知らず、機械の種類を訊いているのだとすれば「自動車だ」という答えはありえます。あるいは外国人に対して、その言語での呼称を教えているのかもしれません。
 それが自動車であることを二人が互いに了解しているとすれば「プリウスだ」という答えもあります。車種を訊いているのです。
 ですが、例えば「駿太(翔・凜)だ」と答えたとしたらどうでしょう。このような答えはありえないでしょうか。
 この持ち主は自分の車に名前をつけているのです。聞き手は持ち主が機械に名前をつけて、言わば擬人的に扱っていることを知っているのです。もちろんそれが車であることは聞き手にも持ち主にも当然の了解事項です。
 「駿太」とか「翔(かける)」とか、いかにも速そうな名前は固有名詞です。その車に与えられた名前ですから。
 このように、「名前」を相手に知らせるというやりとりには、相互の了解事項や文脈が存在しています。とすればそうしたやりとりを「読む」我々は、そのやりとりから逆にその文脈を推測しているということになります。

 では「少年という名のメカ」という表現を我々はどう理解していたのでしょう。書き手と我々読者の間での了解とはどのようなものなのでしょうか?

 「少年」と名付けられる「メカ」だというのだから、読者はそれがロボットとかアンドロイドといったヒューマノイド型の機械であろうと推測します。「旅に出た」という擬人的な表現もそれを裏付けます。「少年」があるからには「少女」や「赤ちゃん」や「おばさん」「おじいさん」もあるかもしれません。
 つまり「少年」というのは、あるロボットの「型」を表しているのだろうと、読者は考えます。
 しかしこんなことも考えられます。彼を作った博士が、出来上がったロボットを「少年」と呼んでいるのです。これは固有名詞でしょうか、普通名詞でしょうか。
 『吾輩は猫である』の猫は「名前はまだない」というのですが、つまり苦沙弥先生は彼を「猫」と呼んでいるのです。
 だとしたら、それは固有名詞です。普通名詞を、固有名詞的に使っているのです。
 そもそも「プリウス」は普通名詞でしょうか。固有名詞でしょうか。
 特定の商品に名付けられた登録商標としては固有名詞だともいえますが、ある個体を指しているわけではありません。つまり他の車種と区別したい時には固有名詞的に使われ、複数の個体を類として一括するときには普通名詞的に使われるのです。
 主とメカの最初のやりとりの「固有名詞を訊いているのに普通名詞を答える」という異常さは、こうした、明瞭だと思われていた固有名詞と普通名詞の境界が、実は意外と曖昧であることを、突然我々の前にさらけ出すのです。

 話が少々大げさになりました。
 とりあえず、冒頭のやりとりの間にあるズレから、読者はズッコケルような感じを受け取りつつ、「ぼくの名前は少年です」という返答を、それが類型を表す普通名詞なのか、個体に与えられた固有名詞なのかを決定できずに宙づりにされてしまうのです。そして題名がそもそも読者をそのような宙づりにしていたのだということも、同時に明らかになります。

 もちろん読者はこのようなことを自覚的に考えているわけではありません。
 読者は宙づりの不安定な状況に置かれて戸惑っているだけです。
 ですが、こうした思考は潜在的に読者の脳裏に展開されていたはずであり、だからこそこのやりとりを「おかしい・変だ」と感じるのです。

 やりとりはさらに続きます。
 少年の返答を聞いた主の反応の過剰さは無論「おかしい・変」です。
 だが問題は「なに、少年じゃと。おまえさんが少年だというなら…」という言葉です。
 この返答の奇妙さはどこにあるでしょう?

 まずはY君の言うとおり、少年の「固有名詞を聞かれたのに普通名詞を答えている」ズレた答えに「疑問を示さない」ことです。読者は主に対しても「そこ、ツッコまんのかい!」ツッコみたくなります。
 同時に、このことから読者は、おかしいはずの「少年です」という名乗りが、必ずしもおかしくない文脈というのがあるのかもしれないと、さらなる解釈の変更を迫られます。
 では、この返答から「何がわかる」でしょうか?
 I君、H君らが言っていたように、この返答は、メカが「少年」であることを主が予想していなかったことを示していると同時に、メカが「少年」でありうることをも意味しています。「少年であるはずがない」と言わずに、「少年だというなら」と、その名乗りを受け入れているからです。
 それはつまり「少年」という概念が彼らの間の既知情報であることを示しています。
 しかもそれは、主とおかみさんの反応が示すように、ある特別な意味を付与された概念らしいのです。
 とりあえずそれは個体を特定しない類概念です。目の前のメカが「少年」であってもいいからです。
 つまり「少年」は唯一の個体でないわけです。そう思って読み進めると、左頁では確かにこれまでも複数の少年がいたことが明らかになります。
 にもかかわらず、1頁目には「どこからどう見ても少年としか言いようのない見た目につくられてはいる」とあります。なのに主はメカが名乗るまではそれが「少年」であることなど思ってもいません。
 つまり「少年」は、見た目から一義的に決定できるような特徴を持った類概念ではないということになります。

 以上のように、
「そんで、おまえさんの名前はなんと言うんじゃ」
「ぼくの名前は少年です」
「なに、少年じゃと。おまえさんが少年だというなら…」
というやりとりから、読者は様々な情報を受け取っています。自覚的にではないとしても、です。
 そしてそこに含まれる判断の宙づり状態や予期の変更が、このやりとりの「おかしさ・奇妙さ・変さ」として感じられているのです。

 さて「特許出願中。」についても話し合う時間があり、この件についてもいくつか貴重な意見をもらったのですが、この問題は次回の入口にもう一度触れたいので、ブログでは第2回講座の後でアップします。

 第2回講座では、参加者の、授業への「参加」機会を増やすため、もう少しチャットを活用しようと思います。
 次の三点について、テキストを用意して臨んでください。

  1. ・100字要約
  2. ・対比
  3. ・全体を捉える「問い」(「答え」が用意できていなくても可)

 その場で指定した人たち(クラスで、とか、奇数番、とか、男子、とか)に、一斉にチャットに貼り付けてもらおうかと思います。
 「対比」や「問い」は、前に書いたように、ある意味では明白だとも言えるので、同じ答えが一斉に返ってくるかもしれません。あるいは予想外にさまざまなアイデアが上がるかもしれません。むしろそうなるのは楽しみです。それらを見ながら、あれこれ考えてみようと思います。

2020年5月16日土曜日

少年という名のメカ 2 プレ講座の準備2

 前回、プレ講座「準備1」では「少年という名のメカ」という小説を教材として取り上げ、「小説の読み方」を考える、と予告しました。
 しかし「どう読んだら良いのか」などという問いは抽象的すぎて、みなさんにとっては考えるための手掛かりがほとんどないはずです。

 たとえば評論読解のためのメソッドは、小説読解にも使えるでしょうか?
 たとえば問い答えのセットを考える」は?
 おそらく直ちに思いつくであろう「問い」、

  • 「少年という名のメカ」の正体は何か?
  • 「少年という名のメカ」はなぜ作られたか? 目的は何か?

 などはもちろん重要な謎として物語をひっぱっていますが、この「答え」は小説中で明かされています。それを読んだ上で「だから何?」と感じているわけです。

  • 「主」や「おかみさん」「少女」はどのような気持ちだったのか?

 などという「問い」もむろんどうでもいい。

 これらの「問い」が有効に働かないのは抽象度の設定が不適切だからです。
 「この小説をどう読むか?」という問いは抽象度の階層が高い問いであり、そのレベルを問題にするには、問いの抽象度を上げる必要があります。
 といって「この小説をどう読むか?」はそもそも高すぎて焦点が絞られず、手が出ない。つまり上の「どうでもいい」問いよりも抽象度を上げ、なおかつ考えるべき焦点の定まった問いを設定する必要があるのです。
 うーん、これでもまだ難しいでしょうねぇ。「問い」を考えることは「答え」を考えることより難しいことが多いのです。やはり。
 とりあえず、ポイントは「問いの抽象度です。

 では「対比」は?
 実はすぐ目の前に明らさまな対比があります。明白なので、考えてみればすぐに思いつくかもしれません。思いつかないとすれば盲点に入っているだけです。言われてみれば「ああ、そうか」なはずです。
 この対比は上の「問いと答え」にも関わります。「ホンモノのおカネの作り方」でも、重要な対比がそのまま中心的な「問いと答え」に密接に関わっていました。同じように「少年という名のメカ」はどのような対比によって、何について語っているのでしょうか?

 最初は評論読解のためのメソッドは、今回の小説読解には使えないだろうな、と予想して、使えないことを書くつもりでいたのですが、上のように考えているうちに、それなりに使えるような気がしてきました。
 よし、この方向でも考察を展開していきます。

 さて、当初の思惑としては、「ホンモノのおカネの作り方」でもやった「部分的な表現を考える」でいくつもりでした。
 どこ?
 言うまでもないでしょう。末尾の一文「特許出願中。」です。
 何これ?
 誰もが素朴にそう思うはずです。
 だからといってもちろんこれもまた「~とは何か?」では埒が開きません。「逆説」「ホンモノの形而上学」で考えたように、問いを組み直す必要があるのです。

 頭の体操に、最初に取り上げようと思っていたのは34頁の「主」とメカの、おかしなやりとりです。これについてはこちらから「問い」を提示します。

  • このやりとりの「おかしさ(奇妙さ、変さ)」はどこから生じているか?
  • このやりとりからどのようなことがわかるか?

 これらの問いの「答え」を考えてください。

 上で提示したいくつもの問題は、いずれも事前に考えてほしい事柄です。授業時に初めて考えるのでは、3時間で想定した内容を扱うことはできそうにないからです。
 そして授業ではこれらを「教える」わけではありません。そのように「教える」内容に価値があるわけではないからです(もちろん最終的にはこちらの考えは明らかにしますが)。

 そして可能な限り自分なりの「答え」を書き出しておいてください。ノートにではなくテキストエディタやワープロで、テキストファイルにしておいてください。授業における「発言」を、チャットへのテキスト入力で代替しようと考えています。その時には、手元のテキストのコピペで済むのが効率的です。
 もちろんその時に思いついたら、音声で答えてくれてもかまいません。

 考えるべき優先順位は、上に述べた項目の後の方ほど高いと考えてください。つまり、

  1. 34頁の会話
  2. 特許出願中
  3. 対比
  4. 問いと答え

 の順に「答え」を考えておいてください。

2020年5月15日金曜日

少年という名のメカ 1 プレ講座の準備1

 来週と再来週、Teamsの「会議」機能を使った「授業」を行います。「プレ講座」などと称していますが、つまりは「授業」です。
 39県の緊急事態宣言が解除され、千葉県では陽性率も基準以下で、慣れないことをしなくても、ここまで感染者が減ってくれば学校も再開しそうな様相を呈してきました。
 それでもまあ分散登校となれば、授業数は減ります。予定していた教材のすべては扱えないまま今年度は終わるでしょう。残りの休校予定2週間を漫然と過ごすよりはやれることをやろうと思い、半ば見切り発車でライブ配信の授業を開講することにします。

 本当は「ホンモノのおカネの作り方」も授業で扱う予定はなかったのですが、授業開始までの埋め草として、メソッドを「教える」題材として扱い始めたら、豈図らんや協力してくれた人たちのおかげで、大いに充実した考察が展開できたのは予定外の幸運でした。

 さて、年度初めから授業が始まっていたら、最初に扱おうと思っていたのはシラバスどおり「少年という名のメカ」です。扱う予定のなかった「ホンモノのおカネの作り方」と違って、小説の読解はライブでやりたいと思っていたので、授業が再開されるまでとっておいて、最初に、という思惑でした。
 今回、教室でやるのとは違った形ではありますが、ライブ授業ということで、これを取り上げます。

 ライブ授業では、授業と同じように教科書を脇で開いておいてください。しばしば、頁や行を言って、その本文を各自で読んでもらったりします。
 特定の本文を読んでもらうだけなら端末の画面に本文を表示することもできますが、それでは受講者がそこだけしか見ることができなくなります。この小説で言えば本文は教科書で7頁にわたります。考えるためには自分で違う頁の違う部分を参照のために読んだりする必要もあります。そうした自由度が失われることになるので、本文を画面に固定することはしません。
 受講者全員がパソコンでアクセスしていれば、いずれはデジタル教科書を使ったオンライン授業もできるようになるかもしれませんが、現状ではデジタル教科書は購入していません。またスマホでは画面の切り替えが不自由ということもあるでしょう。
 ということで、必要な情報を自分で探す自由度を確保するためには、教科書を脇に置く方が良いでしょう。
 ただし、ウインドウを切り替えて本文を見ることができるように、本文のPDFファイルを「ファイル」に置いておきます。ダウンロードしてお使いください。

 ノートと筆記用具任意です。上記同様、パソコンならば、画面を広くとれるので、ワープロソフトや「メモ帳」「ワードパッド」などのテキストエディタをノート代わりに、キーボードを筆記用具代わりに使うこともできます。
 こちらは黒板がわりに、チャット画面を使います。チャット画面の文字情報はテキストコピーできますので、必要ならば自分で使っているテキストエディタにコピペできます。

 一般的な授業における授業者の板書と生徒のノートの役割は、恐らく次のように理解されているはずです。
 すなわち、授業者は「教える」べき学習内容を板書に書き出し、生徒はそれをノートに書き写して、後で見直して覚えるものだ、と。
 「国語の学習とは何か」で述べてきた国語の学習のイメージは、これとは全く違います。
 ノートの機能は板書を写して情報を保存することではなく、自分の考えをまとめるために、自分が考えたことを書き出すことです。
 板書の機能は、授業で「教える」情報を書き出すことではなく、今みんなが考えようとしている問題に関して共有すべき情報を、常に閲覧可能な状態にしておくことです。例えば「問題」を提示したり、誰かの発言を書き留めたりします。これらは書き写して保存しておくことに意味があるわけではありません。情報として独立した完結性を持たないからです。
 それでも、その時間に考えたことを後で思い出すための手掛かりとして保存しておきたくなったら、まあ黒板ならば書き写しても、チャット画面ならテキストのコピペをしてもいいのですが、あくまで、意味があるのは、その時に「考える」ことです。

 さて、授業に先立ってまずは「少年という名のメカ」を読んでおいてください。既に休校に伴う家庭学習課題として要約をしたはずですが、あらためてもう一度読み直してください。
 そして考えておいてください。
 いったいこの小説をどう読んだら良いのでしょうか?

 どう読んだら良いか、だって? 何のことだ?
 いや、これはあたりまえのことです、すべての文章は、まずはどう読んだら良いのかを判断する必要があります(ここでは「どう読んだら良いのか」を「何が書いてあるか」と区別して使います)。
 「どう読んだら良いのか」というのは、読むための構え、読むための枠組みのことです。
 「どう読んだら良いのか」が既にわかっている場合は、ただ読めば良い。小説はエンターテインメントですから、楽しい楽しくないかです。好きか好きじゃないかです。読みたいか読みたくないかです。
 ところが「どう読んだら良いのか」がわからない小説も(マンガも映画も)世の中にはあります。楽しいか楽しくないかよりも、まずどう受け止めればいいのかがわからない。
 「少年という名のメカ」は、そういう作品ではないでしょうか。

 プレ講座は3回シリーズの予定です。3回の授業で、「少年という名のメカ」を読むことを通して、新しい「小説の読み方」を体験してもらおうと考えています。

2020年5月14日木曜日

課題要項

Teamsの各講座の「課題」に、前回予告の課題をアップしました。
提出用ファイルとともに、説明のためのPDFファイルもアップしてあります。
内容は以下の通りです。

 まず、課題に上げてあるExcelファイル「休校期間課題」をダウンロードしてください。
 家庭学習期間に要約した文章について、題名筆者名自己評価をシートにある表に記入し、Excelファイルのまま提出してください。
 指示した、教科書や「ちくま評論選」以外に、問題集の文章などを自主的に要約した場合は、それを書いてもかまいません。
 少なければ少ないなりに、正直に自分のやったものだけを書いてください(要約文そのものの提出を求められても困らないように)。既に何本か題名を入れてありますが、それらの要約をしていなければ消してください。提出のためにまとめて何本もやらなくてもかまいません。逆に、多くやった場合は最大20本まで入力できます。

 「自己評価」欄に、以下の基準に従ってA~Eの評価をしてください。ドロップダウンメニューで入力できます。
 100字と200字の要約の他、「学習の手引き」「読解」などの問題を15分以上考察した。
 100字と200字の要約をし、おおむね適切であった。
 100字と200字の要約をしたが、あまり適切ではなかった。
 100字.200字いずれかの要約をして、おおむね適切であった。
 100字.200字いずれかの要約をしたが、あまり適切ではなかった。
参考に、こちらで要約したものを後日掲載しますが、これ通りでなければ適切でない、というわけではありません。
 要約の「適切」さを判断するのは難しいとはいえます(←以前ここでも説明しました)
 それでもいくらかでも客観的な判断をするために、例えば要約の適切さを判断する基準として次のような項目を掲げる研究もあります。

  1. ●可読性=「主語~述語の捻れなど、非文法的なつながりが生じていないかどうか」、
  2. ●了解性=「文法的には問題ないが主要な格要素、修飾語句の大部分が抜けているなど意味のとりにくい文となっていないかどうか」
  3. ●忠実性=「意味が通る文になっていても、原文とは違う解釈の余地が生じていないか」
  4. ●十分性=「残存部分が原文と同じ意味解釈の内容であっても、原文に含まれていた別の命題内容(重文の場合など)や、主題・陳述内容が欠落していないかどうか」(「残存部分」とは要約文に書かれた文章のこと)
  5. ●非冗長性=「残存部分に、不必要に冗長な記述がないかどうか」

 我々が要約文を読む際は、確かにこうしたいくつかの基準にてらして、その「適切」さを判断しています。
 しかしこうした基準を用いても、やはり本人にはその適切さを判断することができるわけではありません。
 原文の解釈が適切であるかどうかも、文法的な妥当性も、意味の明確さも。
 かまいません。自分なりに、原文が言っていることと違っていないと思えるかどうかを判断してください。自分で判断しようとすること自体もまた学習です。
 内容に盛り込むべき情報の取捨選択とともに、要約において重要なことは、その要約文が「自然な」文章になっているかどうかです。上の基準「可読性」「了解性」はつまり文章の自然さです。本文のあちこちのキーセンテンスをつなぐだけでは自然な文章にはなりません。
 できるかぎり客観的に、原文を読んでいない人がその要約文だけを読むことを想定して、それがすっきりとした自然な日本語で、的確に趣旨を伝えていると思えるかを判断してください。

2020年5月11日月曜日

休校延長にともなう課題の変更について

 4月にはGW明けの予定だった休校が5月末までに延長されたことに伴って、「家庭での学習状況や成果を確認し、学校における学習評価に反映することができる」という文科省からの通知を受けて、県教委では「できる」ではなくむしろ「成果を確認し、適切に評価を行うこと」と指示してきました。「してもよい」ではなく「しなさい」というわけです。

 2学年「現代文B」及び3学年「現代文探究」の課題は、教科書及び副読本の文章の要約を、週に2本ずつ行う、というものです。
 4月の3週目から5月末まで、授業が通常通り行われていたら約6週の課業日がありました。12本の文章の要約をしてあれば、こちらの課した指示通りの学習をしたことになります。

 ですが私は最初の課題指示の中で、提出を求めることはないと明言しました。
 この宣言通り、学校再開後に要約文そのものを、ノートにせよプリントにせよテキストファイルにせよ、提出を求めるようなことはしません。原則としては。
 ただし今回の県教委の指示を受けてあらためて、「要約の記録」の提出をもって、上記の指示に替えることにしました。
 具体的にはTeamsに課題をアップしてそこで指示しますが、要は、どの文章を要約したか、そのリストを提出してもらう、ということです。

 これまでのブログの中でも説明していますが、要約には、ある程度の出来の善し悪しはあるとはいえ、いわゆる「正解/不正解」のようなものがあるわけではありません。出来がどのようなものであれ、要約をすることそのものが、常に有効な学習になっているのです。
 したがって、この課題提出による評価は、いわゆる「学力」に対する評価というより、学習状況に対する評価です。
 このリストは、自己申告でかまいません。要約についての自己評価もあくまで自分で判断してください(判断基準については後ほどTeamsの方で示します)。

 学習評価の重要な機能は、本人に対する外部からの客観的評価というだけでなく、学習者が自らの学習状況について振り返り、それをその先の学習への取り組みにフィードバックすることです。
 やるだけやって相手の前に投げ出して点数をつけてもらう、という態度ではなく、自分のやったことを自分で振り返って、その適切さを判断し、それを次の学習に活かすことが「学習評価」に期待される機能なのです。

 要約は、12本はやってないといけない、ということではありません。やった分だけを正直に記録してください。12本以上の要約をした人はもちろんそれだけ書いてください。
 上記の通り、要約文そのものの提出は原則として求めませんが、この先、学校が再開されてからの学習状況(出席・成績)などにおいて問題がある場合は、ここまでの学習の成果として要約文を提出させることもあるかもしれません。要約文を書いたノートや原稿用紙は保管しておいてください。

ホンモノのおカネの作り方 14 -「問い」と「答え」

 いよいよ「ホンモノのおカネの作り方」最終回です。
 全体を捉えるための「問い」と「答え」のセットを考えます。

 まず題名からすぐに思いつく「ホンモノのおカネの作り方とは何か?」「どうしたらホンモノのおカネが作れるか?」はイマイチです。「作る」が不純な夾雑物として考えるべき像を不鮮明にします。
 次の組み合わせはそれよりは良い。
問い ホンモノのおカネとはどのようなものか?
答え その時々の「代わり」のおカネに対するその時々のホンモノでしかなく、それ自身もかつてはホンモノのおカネに対する単なる「代わり」にすぎなかったもの
 「作る」を取り除いて、この文章のポイントがいくらか鮮明になりました。
 それでも問題は「答え」です。この、本文そのままの「答え」がわかりにくいからこそさらに問うているのでした。

 さて、グループ討論の中では、さまざまな「問い」と「答え」のセットが提案されました。例えば次のような組み合わせはどうでしょう?
問い どういうおカネがホンモノになるのか?
答え 利便性の高いもの(「預かり手形」など)。
 もちろんこれは間違っていないのですが、果たしてこの「答え」は、この文章の全体もしくは中心的な論点だと感じられるでしょうか?
 この「答え」は、上のわかりにくい「答え」に対して、付随的な条件を言っているというに過ぎません。「利便性の高さ」は「代わり」になるための条件の一つです。

 それよりも、この文章を読解するためのここまでの考察は有機的に結びついているはずです。上の「わかりにくい」「答え」は「逆説」そのものです。そして「問い」に含まれる「ホンモノ」についても考察しました。
 それらの成果を活かして「答え」を言い換えてみましょう。
問い ホンモノのおカネとはどのようなものか?
答え 「ホンモノのおカネ」などという絶対的なものは存在せず、「ホンモノ」とはその時々の「代わり」に対する相対的な「ホンモノ」でしかない。
答え 「ホンモノのおカネ」は変化していく流動的なものであり、絶対的な「ホンモノのおカネ」など存在しない。

 「ホンモノ」という片仮名表記についての考察がこの「答え」に活かされています。題名にも使われている「ホンモノの」という形容は重要なポイントです。

 これで終わりではありません。
 この文章は「どうしたらホンモノのおカネが作れるか?」を通して「『ホンモノのおカネ』とは何か?」を考えているのだ、と言うことができます。
 これをさらに突き詰めて言えば「『ホンモノのおカネ』とは何か?」を通して、この文章は「『おカネ』とは何か?」を考えているとは言えないでしょうか?
 実はこれこそ、最初に「問いを立てる」というメソッドを提示した時点で、こちらが想定していた「問い」です。
 この文章は、「おカネ」=「貨幣」の本質について考察しているのです。

 この「問い」を立てて、それに対する「答え」を考えたグループもありました。
問い おカネとは(そもそも)どのようなものか?
答え1 物質ではなく機能
答え2 人々の信用・承認によってなるもの

 「答え1」はニセガネ作りたちの失敗の教訓をうまく抽象化しています。
 「答え2」は教科書54頁の「実際、天王寺屋や鴻池屋ほどの大きな資力も厳重な金蔵もないところには、ホンモノのおカネを作り出すあの逆説は見向きもしてくれない。」という部分の趣旨を解釈したものです。良いところに目をつけました。
 これらと先ほどの「ホンモノの」の考察を合わせて表現してみましょう。
答え おカネとは、それを作っている物質に依存しているのではなく、それにみんなが価値を認めることによって成立するのであり、それには人々の信用を支えるだけの背景(資金力・金蔵)が必要である。
 これはこの文章の趣旨をなかなかうまく捉えていると思います。

 それでもなおかつ、ここには「逆説」の意外性、「似せる」「代わり」といった重要なキーワードのニュアンスが表現されていません。その意味で、まだこの文章の全体・中心を捉えているとは言えません。
 「似ている/似ていない」「代わり/ホンモノ」といった重要な対比要素は「おカネとは何か?」という「問い」に対してどのような「答え」を構成するのでしょうか?

 「似ていない」と「代わり」という言葉を使い、かつ「逆説」のニュアンスを出すように、この文章の主旨を表現してみます。
ホンモノに「似せる」ことでは「ホンモノのおカネ」になれず、「似ていない」ものこそが「ホンモノ」の「代わり」に「ホンモノのおカネ」になる。これこそが「おカネ」=「貨幣」というものの本質である。
 これが岩井克人がこの文章で論じている最も重要な論点だと授業者は考えています。
 いえ、こんなふうに言ってしまうと、結局は最初の「わかりにくい」「答え」といくらもかわりません。結論だけをすっきりと表現してしまうと、かえってその内容が頭に入ってこないということがあるのです。

 「似ていない」こと。
 「代わり」であること。

 この二つが「貨幣」の本質だ、というのがこの文章の主旨です(と大胆に言ってしまいます)。みなさんはこれまでの読解で、本当にこのことに納得しているでしょうか?

 貨幣経済が存在しない世界を考えてみてください。そこでの交易では物と物とが直接交換されています。いわゆる物々交換です。
 そこへ交換の取次ぎに「おカネ」が介入します。肉を「おカネ」に「代え」、「おカネ」を木の実に「代え」ます。本当に欲しいものは肉や木の実であり、「おカネ」はその「代わり」として、それらの交換を媒介します。
 つまり「おカネ」とは最初に存在を始めた時から一貫して常に、価値ある物の「代わり」だったのです。「代わり」であることこそ「おカネ」の本質なのです。

 その「おカネ」は、ある時にはそれ自身価値をもった金銀だったりしました。つまり、肉を金銀に「代え」、金銀を木の実に「代える」という交換が、「おカネ」を介した交換ということになります。
 だがこれは本当に貨幣による売買と言えるでしょうか。このような交換は物々交換と一体どこが違うのでしょうか。
 しかしその金銀が、それ自身の価値に見合った重さの金銀ではなく、わずかな金銀に数字を刻印しただけの薄い板金に「代わった」とすればどうでしょう?
 その板金には、それ自体、物質的には交換する物(肉・木の実…)の価値に見合った価値はありません。
 にもかかわらず、この交換が成立した時、交換の媒介としての金銀は初めて「おカネ」になったのです。
 つまり、媒介物が「おカネ」すなわち「代わり」になるためには、交換対象と「似ていない」必要があるのです。
 「似ていない」というのは「価値ある物」と「代わり」=「おカネ」が違う階層にあることが認識される、ということです。「価値ある物」こそ「ホンモノ」であり、「おカネ」は「代わり」です。
 両者は「似ていない」ことによって違う階層であることが明らかでなければなりません。「おカネ」が交換対象(価値ある物)と「似ていた」ら、「おカネ」が「代わり」であることは認識できず、それは単なる物々交換に過ぎないか、あるいは交換が階層の違うものの混在によって混乱してしまいます。
 「おカネ」はそれ自身には価値がない(紙幣が単なる紙切れであるように)ことによって、価値ある交換対象とは「似ていない」ことが必要なのです。
 「おカネ」は、交換対象とは「似ていない」ことによって区別される、すなわち違う階層(これを「メタレベル」といいます)にあることによって「代わり」になれるのです。

 価値あるモノ「代わり」であること。そしてそのモノ「似ていない」こと。
 この二つの性質こそ、この文章から導かれる「おカネ」=「貨幣」の本質なのです。

 こうした主旨を、本文から直接に引用することはできません。
 ですが、この文章を貫く最も根源的な「問い」を考えれば、岩井克人はこうした貨幣の本質を射程に収めていると考えざるを得ません。
 そしてここには、これまで考えてきたことが全て総合されているのです。

2020年5月10日日曜日

ホンモノのおカネの作り方 13 -「ホンモノの形而上学」

 次は「ホンモノの形而上学」です。
 これも、「…とは何か?」と訊かれれば「ホンモノのおカネがホンモノであるのはそれがホンモノの金銀からできているからであるという(考え)」と答えられます。
 これは本文そのままなので「正しい」に決まっているのであり、それが何のことかわからないので、あらためて「…とは何か?」と問うているわけです。

 さてこれも「対比」の考え方を使いましょう。「形而上学(的)/形而下(的)」です。
 「形而上学」は、ある辞書では「現象を超越し、またはその背後に在るものの真の本質、存在の根本原理、絶対存在を純粋思惟により或いは直観によって探究しようとする学問。」と書かれています。もちろんこんな説明で「わかる」わけがありません。これは既に「わかっている」人が、自分の認識を言語化しているのです。「わかっている」というのは、「使えている」意味です。
 別の辞書では「思惟や直感によって世界の根本原理について研究しようとする学問。」と書かれています。若干すっきりしましたが、それでもまだモヤモヤしています。
 「形而上学」は、普通は「哲学」を指しています。じゃあ「哲学」って何だ?
 そこで「対比」です。
 「形而下」は「形をそなえたもの。物質的なもの。」という意味です。前にも「形而下学」という言い方はほとんどしない、と言いましたが、あえて「哲学」に対応させようとするなら物理学・生物学あたりの「自然科学」が「形而下学」ということになります。
 ということで「形而上学=哲学/形而下学=自然科学」なのですが、ニセガネ作りたちが哲学に支配されていた、などといっても何のことやらよくわかりません。
 とりあえず「形而上/形而下」「本質・原理・形のないもの/物質・物体・形をもったもの」というような対比を表しているのだといえます。
 しかしこれはおかしな話です。ニセガネ作りたちこそ「金銀」という「物質・物体」「形」に囚われているのであり、彼らの考え方はむしろ「形而下」的なのではないでしょうか?
 なのに、岩井克人は彼らは「ホンモノの形而上学」に支配されていた、と言っています。いったいどういうこと?

 このわかりにくさははっきり言って、岩井克人が悪い。気取った言い方をしようとしていたずらに読者を混乱に陥れている。

 一方、そうは言っても、まあこういう「形而上学」という言葉の使い方もあるよな、とも思います。読者はとりあえずどういうことを言いたいのかはわからなければいけない。わかった方がいいのです。
 そこでニュアンス、です。
 前回の記事では、そもそも「形而上学」は肯定的なニュアンスなのか、否定的なのか、とききました。
 もちろん言うまでもなく否定的なニュアンスです。それに囚われていたニセガネ作りが、結局「ホンモノのおカネ」を作ることに失敗しているのですから。
 といって「形而上学」が元々否定的なニュアンスをもった言葉だというわけではありません。「形而下」が肯定的なのでもありません。
 それどころか「形而下」が否定的に使われる場合もあります。物欲や肉欲にとらわれているような状態を「まったく、形而下的なんだから~」と言って揶揄することがあります(まあ高校生にはないでしょうが)。そういう場合は「形而上/形而下」は「高尚/低俗」のニュアンスであり、「形而上的」の方が上等なのです。
 ではどういう場合に「形而上学」が否定的なニュアンスで使われるのでしょう?

 否定的なニュアンスでの「形而上学的」とは、「地に足のつかない」「机上の空論」「頭でっかち」というような意味合いです。対比的に「形而下的」は肯定的な意味合いとして「現実的」というニュアンスを表わしていることになります。
 ニセガネ作りたちはどのような「空論」にとらわれていたのでしょう? ニセガネ作りたちはむしろ金銀といった物質に目を向けていたのであり、むしろ「形而下的」だったんじゃ?

 ところでこの問題は「形而上学」という言葉だけを考えても「わかる」ようにはなりません。問題はあくまで「ホンモノの形而上学」です。
 もう一つの問いは、「ホンモノ」が片仮名で書かれているのはなぜか? でした。
 漢字や平仮名で「本物・ほんもの」と表記せずに「ホンモノ」と書くのは、無色透明な意味での「本物・ほんもの」とは違った意味合いを込めたいからです。「本物・ほんもの」という言葉を一旦保留にして、そもそも「本物・ほんもの」とは何か? という根本的な問いを投げかけたいからです。「ホンモノ」の片仮名表記とは、日常通用している言葉として、とりあえず使っておくけどさあ、という身振りの表明です。
 さてでは岩井克人は結局「ホンモノ」をどのようなものだと考えているのでしょう? (ああ、授業ならばここで間を取って全員に考えさせられるのに! 文章では考えることもなしにすぐ先を読み進めることができてしまうのです!)

 このことがわかるのは、これまでにも言及したことのある次の記述です。
ホンモノのおカネとは、その時々の「代わり」のおカネに対するその時々のホンモノでしかなく、それ自身もかつてはホンモノのおカネに対する単なる「代わり」にすぎなかったのである。
 ここから「ホンモノ」という言葉の意味だけを抽出しましょう。
 つまり、「ホンモノ」とは「代わり」に対する「ホンモノ」という意味でしかない、と筆者は言うのです。
 「本物」という言葉が常にそうしたものだと言っているのはありません。「本物の金」「本物のダイヤモンド」はあります。しかし「ホンモノのおカネ」という場合、つまり「おカネ」についての「ホンモノ」というのは、「代わり」に対するものでしかない、と言っているのです(とはいえ「本物の百円玉」「本物の一万円札」はあります。対象が特定されれば、それについての「本物/偽物」の区別はできます)。
 このことを
「ホンモノ」というのは ? 的なものではなく ? 的なものだ
と表現してみましょう。「?」にあてはまる対義語を考えてください(やはりここも考えさせたい)。

 グループ討論の中で出てきた対義語をいくつか挙げます。
  • 「ホンモノ」というのは実体的なものではなく概念的なものだ 
  • 「ホンモノ」というのは恒久的なものではなく一時的なものだ
  • 「ホンモノ」というのは絶対的なものではなく相対的なものだ
どれもよろしい。
 まあ「『代わり』に対する『ホンモノ』でしかない」という言い方から素直に思い浮かぶのは「相対的」ですね。

 さてこれを「形而上学」と結びつけましょう。
 先ほど「形而下的」は「現実的」というニュアンスだと言いました。では「現実的」の対義語は何でしょう?
 これもグループ討論の中ではいろいろと挙げられました。「現実/空想」「現実/仮想」、もちろんあります。「現実/幻想」「現実/虚構」、いいセンいってます。
 こちらが期待した語彙はとうとう出ませんでした。無理もありません。高校生の語彙ではないのです。
 私が想定していたのは「現実/観念」という対義語です。
 つまり「形而下的=現実的/形而上学的=観念的」です。「観念」とは「頭でっかちな空論」というような意味です。否定的なニュアンスで使う場合には。

 さて合成しましょう。
 「ホンモノの形而上学」とは
相対的なものでしかない「ホンモノ」を、あたかも絶対的実体として存在するかのように信じている、観念的な思い込み。
といったところでしょうか。太字部分には上のいくつかの言い換えが適用可です。
一時的なものでしかない「ホンモノ」を、虚構であることに気づかずに、あたかも恒久的現実存在であるかのように思い込むこと。
「形而上学」という言葉は、先にも述べたように「高尚な」という意味合いでは肯定的にも使えます。ですが、ここでのニュアンスは、難しい言葉で言えば、ニセガネ作りたちに対する揶揄、もう少し平らな言葉で言うなら皮肉、といったところでしょうか。

 ここまで考えれば、去年確認されたかもしれない「ホンモノのおカネが確実に存在するという認識」という説明が、今こそ「わかる」になるはずです。
 逆に言えば、この短い説明だけではおそらく「わかる」わけではないのです。前回にならっていえば「わかる」ことが目的ではない、という以上に「答え」が与えられて「わかる」わけではない、といったところでしょうか。

ホンモノのおカネの作り方 12 -「逆説」

 「問題の整理」に基づく第1回のグループ討論を受けて、「授業11」ではさらに問題の「問題」点を整理し直しました。これに基づいて、このGW中に、あるクラスで第2回のグループ討論を行いました。
 この話し合いでは、多くのグループに授業者自身も参加して結論まで示してしまいましたので、このブログでもやっと今回、現状での授業者の考察を提示します。

 まず「逆説」について。
 本文からそのまま引用するなら、「逆説」とは「ホンモノの『代わり』がそれに『代わって』それ自身ホンモノになってしまうということ」です。ですがそれでは何のことかわからないはずだ、というところから話が始まったのでした。
 そこで考察及び説明のために「対比」の考え方を用いよ、と指示しました。「通説/逆説」という対比を考えるのです。
 この対比が「砂土原藩のニセガネ/預かり手形」に対応していることから、いくつかの班では次のような対比が挙げられました。

ホンモノのおカネを作るには
通説 ホンモノのおカネに似せればよい
逆説 ホンモノのおカネに代わればよい

 これは前回の「対比される二つを、なるべく似た表現で並べてみせる。構文も語句も共通させて、その違いの部分だけが違いとして浮き出るような、比較が容易な表現にすること。」という指示に従ったものです。確かに指示通りではあります。
 ですがやはり「代わる」がなぜ「似せる」の「逆」なのかはよくわかりません。
 例えば次のように言えば「逆」であることがはっきりします。

ホンモノのおカネを作るには
通説 ホンモノのおカネに似せればよい
逆説 ホンモノのおカネに似せない方がよい

 では「代わり」「代わる」はなくてもいいのか。
 いや、やはりあった方がいいでしょう。その要素を入れて、なおかつ「逆」であることがはっきりするように並べてみましょう。

通説 ホンモノに似ているほど「代わり」になりうる
逆説 ホンモノに似ていないものこそ「代わり」になる

 上の「通説」が砂土原藩のニセガネ作りを支えた認識です。そして「逆説」は確かに、そう考えるのが普通であるような「通説」の「逆」になっています。
 これを「逆説」と呼ぶのは「真理に反対しているようであるが、よく吟味すれば真理である説(辞書の説明)」というニュアンスをこめているということです。似ていないものこそがホンモノになるんだって? そんなバカな!? という反応を予想した上で、実はそれこそが真理なのだとしたり顔で言ってみせるのがこの「逆説」という言葉のニュアンスです。
 ある交易手段が「ホンモノのおカネ」になるには、現状の「おカネ」に「似ていない」ことが要件である、という認識は新鮮です。そして、「似ていない」からこそあくまで「代わり」にすぎないのに、その「代わり」こそが「ホンモノ」に「代わって」次の「ホンモノ」になる、という意外性が、この「逆説」という言葉には表現されています。

 このような言い方は、それぞれの班から、微妙に違う言い方で、何種類も提出されました。唯一の「正解」があるわけではありません。
 ただし良い表現の条件は、「逆」であることがわかりやすいように文構造が似ていること、「通説」は普通の人が考える普通の考え方で、「逆説」は一見すると、おかしな考え方に見えること、です。
 最後に、本文の表現をほぼそのまま使ってみましょう。

逆説 ホンモノの「代わり」がそれに「代わって」それ自身ホンモノになる

 これに対する「通説」は?
 例えば次のように言えば良いのです。

通説 「代わり」はあくまで「代わり」であり、決してホンモノにはならない

 こうして提示されたものを見てしまえば、あたりまえだ、と思うかもしれませんが、実際に授業をしてみると、こうした表現がサラッと形にできる人が多いわけではありません。
 自分でこうした表現を考えることは、表現されたものを見て「わかる」ことよりはるかに難しいのです。
 「わかる」ことが学習の目的ではない、というのはこういうことです。

2020年5月6日水曜日

休憩2 ~うちで踊ろう ボサノバ・バージョン

 GWも「Stay Home」週間になってしまったので、毎年、夏のお祭りでライブをやっているバンドのメンバーと、「うちで踊ろう」を合わせてみました。
 夏に向けてゆったりとボサノバにアレンジしました。
 今年はもう祭の中止が決定して、バンドの活動もまた来年です。


以下、今日のある人向け

キーだけでなくコード進行もだいぶいじってあります。

A♭M7     G7+5    Cm9   F13  Fm7   Gm7  B♭m7/E♭

A♭M7     G7+5   Cm9   E♭9  A7-5
 たまに重なり 合うよな 僕ら

A♭M7     G7+5          Cm9      E♭9
 扉閉じれば  明日が生まれるなら 遊ぼう 一緒に

Fm7   Gm7   B♭m7/E♭

A♭M7     G7+5        Cm9        E♭9
 うちで踊ろう  ひとり踊ろう   変わらぬ鼓動  弾ませろよ

A♭M7      Dm7-5 G7+5  Cm9      D♭9-5
 生きて踊ろう  僕らそれぞれの場所で    重なり合うよ


A♭M7     G7+5        B♭m9        E♭9
 うちで歌おう 悲しみの向こう   全ての歌で 手を繋ごう

Fm7      E♭/G      Am7-5   Fm7-5/B♭
 生きてまた会おう  僕らそれぞれの場所で  重なり合えそうだ

   A♭M7   Gm7  Fm7  D♭9-5   E♭69