2020年5月22日金曜日

少年という名のメカ 3 -34頁の会話の分析

 「現代文B プレ講座 第1回」を実施しました。
 前半後半ともに130名あまり、計270名くらいの生徒が参加してくれました。全員参加を期待してはいるのですが、一方でいわゆる「補習」的な任意参加だと受け取られるかもしれず、一体何割くらいの生徒が参加するのだろうかと、始まるまでは期待混じりの不安といったところでした。
 始まってみると、参加率とともに予想外だったのは、前半後半ともに、カメラをオンにしてくれた人が複数いたことです。
 これは、本当に、本当にありがたかった!
 沈黙に向けて話し続けるよりも、頷いてくれる人の姿が見えるだけではるかに話しやすくなるということもあるのですが、何より、姿の見える人に対して話しかけ、逆にこちらに言葉を返してもらうことで、ちゃんと「授業」が成立したのは、予想と期待以上でした。
 さすがに、自分が指名されて発言を求められるかもしれない緊張感を全員が感じることは難しいでしょうが、リアルタイムでなされるやりとりを見ているときには、恐らくブログの文章を読んでいるだけの状態より、自然と「考える」ことにいざなわれたのではないでしょうか。
 これでグループワークができれば、言うことなしなんですが。
 ともあれ、終了時に退室を促すと、軽く頭を下げてから切断する様子が見えたりするのは、とても嬉しいものでした。

 実施してみての反省として、もっと有効にチャットまたは「会議メモ」を使えば良かったと、終わった直後から残念に思いました。みんなの発言を、もっとこまめに書き出すべきでした。これは気持ちに余裕がなかったことによるので、次回からはもっと改善します。

 さて次回に向けて、第1回の講座で話し合われたことを確認します。


  • 34頁の主とメカの会話はどこがおかしいか?
  • ここから何がわかるか?


 この問いに対して、次のような答えを用意していた人もいると思います。
 「少年」という言葉に対して主とおかみさんの反応は過剰だ、怒ったり泣いたりするのは変、どうして少年がそんなに嫌われるのかわからない…。
 当然「わかる」ことは、少年が嫌われているということです。
 確かに少年というのは通常、そんなに否定的な感情を人に抱かせる存在ではありません。「悪魔」とか「蛆虫」とか、あるいは慣用句の「蛇蝎(だかつ)のごとく嫌う」の「へび」や「さそり」などは、ある文化の中での約束事としてそのような反応を引き起こす存在です。
 ところが「少年」です。確かに「変」です。この違和感が読者の注意を喚起して、先を読み進める動機付けになっていることは間違いありません。

 ですがここで、二人の「やりとり」の「おかしさ(奇妙さ、変さ)」として考えてほしかったのは、そのように明示された意味よりも、読者が読み進める際に、意識はしていないけれど感じていること、あるいは思考のはたらきです。
 まず、このやりとりを「おかしい、変だ」と感じている自分の思考を辿り、それがどのようなものか、どこから生じているかを自覚的に語ることを求めていたのです。
 さて二人の会話はどこが「おかしい」でしょうか。
 主がメカに問いかけます。
「そんで、おまえさんの名前はなんと言うんじゃ」
 メカが答えます。
「ぼくの名前は少年です」
このやりとりのおかしさを、T君・Tさんは次のように表現してくれました。
 名前を聞かれたら普通は固有名詞を答えるのに、普通(一般)名詞を答えている。
簡潔で的確な表現です。おいっ「ぼくの名前は少年です」って何だよ! という読者の反応を分析的に語るならば、つまりそういうことです。「少年」って、「名前」じゃないだろ! とツッコミたくなる感じ。

 だがそれだけではありません。
 我々は既に題名で彼が「少年という名のメカ」であることを知らされています。ダメを押すように本文は「少年という名前のメカが冒険の旅に出た。」と始まります。少年にツッコんでいる場合じゃありません。そこまで読み進めてきた我々の認識が、そこで問い返されているのです。
 我々はこの情報をどのように受け取っていたのでしょうか。

 例えば目の前にある機械を指して、持ち主に「そいつの名前はなんて言うんだ?」と問うたとします。持ち主は「自動車(ブルドーザー・掃除機・スマホ)だ」と答えるかもしれません。あるいは「プリウス(Nワゴン・カローラ・ベンツ)だ」と答えるかもしれません。
 これはお互いの了解事項を二人がどう把握しているかによって変わります。
 聞き手がその機械について知らず、機械の種類を訊いているのだとすれば「自動車だ」という答えはありえます。あるいは外国人に対して、その言語での呼称を教えているのかもしれません。
 それが自動車であることを二人が互いに了解しているとすれば「プリウスだ」という答えもあります。車種を訊いているのです。
 ですが、例えば「駿太(翔・凜)だ」と答えたとしたらどうでしょう。このような答えはありえないでしょうか。
 この持ち主は自分の車に名前をつけているのです。聞き手は持ち主が機械に名前をつけて、言わば擬人的に扱っていることを知っているのです。もちろんそれが車であることは聞き手にも持ち主にも当然の了解事項です。
 「駿太」とか「翔(かける)」とか、いかにも速そうな名前は固有名詞です。その車に与えられた名前ですから。
 このように、「名前」を相手に知らせるというやりとりには、相互の了解事項や文脈が存在しています。とすればそうしたやりとりを「読む」我々は、そのやりとりから逆にその文脈を推測しているということになります。

 では「少年という名のメカ」という表現を我々はどう理解していたのでしょう。書き手と我々読者の間での了解とはどのようなものなのでしょうか?

 「少年」と名付けられる「メカ」だというのだから、読者はそれがロボットとかアンドロイドといったヒューマノイド型の機械であろうと推測します。「旅に出た」という擬人的な表現もそれを裏付けます。「少年」があるからには「少女」や「赤ちゃん」や「おばさん」「おじいさん」もあるかもしれません。
 つまり「少年」というのは、あるロボットの「型」を表しているのだろうと、読者は考えます。
 しかしこんなことも考えられます。彼を作った博士が、出来上がったロボットを「少年」と呼んでいるのです。これは固有名詞でしょうか、普通名詞でしょうか。
 『吾輩は猫である』の猫は「名前はまだない」というのですが、つまり苦沙弥先生は彼を「猫」と呼んでいるのです。
 だとしたら、それは固有名詞です。普通名詞を、固有名詞的に使っているのです。
 そもそも「プリウス」は普通名詞でしょうか。固有名詞でしょうか。
 特定の商品に名付けられた登録商標としては固有名詞だともいえますが、ある個体を指しているわけではありません。つまり他の車種と区別したい時には固有名詞的に使われ、複数の個体を類として一括するときには普通名詞的に使われるのです。
 主とメカの最初のやりとりの「固有名詞を訊いているのに普通名詞を答える」という異常さは、こうした、明瞭だと思われていた固有名詞と普通名詞の境界が、実は意外と曖昧であることを、突然我々の前にさらけ出すのです。

 話が少々大げさになりました。
 とりあえず、冒頭のやりとりの間にあるズレから、読者はズッコケルような感じを受け取りつつ、「ぼくの名前は少年です」という返答を、それが類型を表す普通名詞なのか、個体に与えられた固有名詞なのかを決定できずに宙づりにされてしまうのです。そして題名がそもそも読者をそのような宙づりにしていたのだということも、同時に明らかになります。

 もちろん読者はこのようなことを自覚的に考えているわけではありません。
 読者は宙づりの不安定な状況に置かれて戸惑っているだけです。
 ですが、こうした思考は潜在的に読者の脳裏に展開されていたはずであり、だからこそこのやりとりを「おかしい・変だ」と感じるのです。

 やりとりはさらに続きます。
 少年の返答を聞いた主の反応の過剰さは無論「おかしい・変」です。
 だが問題は「なに、少年じゃと。おまえさんが少年だというなら…」という言葉です。
 この返答の奇妙さはどこにあるでしょう?

 まずはY君の言うとおり、少年の「固有名詞を聞かれたのに普通名詞を答えている」ズレた答えに「疑問を示さない」ことです。読者は主に対しても「そこ、ツッコまんのかい!」ツッコみたくなります。
 同時に、このことから読者は、おかしいはずの「少年です」という名乗りが、必ずしもおかしくない文脈というのがあるのかもしれないと、さらなる解釈の変更を迫られます。
 では、この返答から「何がわかる」でしょうか?
 I君、H君らが言っていたように、この返答は、メカが「少年」であることを主が予想していなかったことを示していると同時に、メカが「少年」でありうることをも意味しています。「少年であるはずがない」と言わずに、「少年だというなら」と、その名乗りを受け入れているからです。
 それはつまり「少年」という概念が彼らの間の既知情報であることを示しています。
 しかもそれは、主とおかみさんの反応が示すように、ある特別な意味を付与された概念らしいのです。
 とりあえずそれは個体を特定しない類概念です。目の前のメカが「少年」であってもいいからです。
 つまり「少年」は唯一の個体でないわけです。そう思って読み進めると、左頁では確かにこれまでも複数の少年がいたことが明らかになります。
 にもかかわらず、1頁目には「どこからどう見ても少年としか言いようのない見た目につくられてはいる」とあります。なのに主はメカが名乗るまではそれが「少年」であることなど思ってもいません。
 つまり「少年」は、見た目から一義的に決定できるような特徴を持った類概念ではないということになります。

 以上のように、
「そんで、おまえさんの名前はなんと言うんじゃ」
「ぼくの名前は少年です」
「なに、少年じゃと。おまえさんが少年だというなら…」
というやりとりから、読者は様々な情報を受け取っています。自覚的にではないとしても、です。
 そしてそこに含まれる判断の宙づり状態や予期の変更が、このやりとりの「おかしさ・奇妙さ・変さ」として感じられているのです。

 さて「特許出願中。」についても話し合う時間があり、この件についてもいくつか貴重な意見をもらったのですが、この問題は次回の入口にもう一度触れたいので、ブログでは第2回講座の後でアップします。

 第2回講座では、参加者の、授業への「参加」機会を増やすため、もう少しチャットを活用しようと思います。
 次の三点について、テキストを用意して臨んでください。

  1. ・100字要約
  2. ・対比
  3. ・全体を捉える「問い」(「答え」が用意できていなくても可)

 その場で指定した人たち(クラスで、とか、奇数番、とか、男子、とか)に、一斉にチャットに貼り付けてもらおうかと思います。
 「対比」や「問い」は、前に書いたように、ある意味では明白だとも言えるので、同じ答えが一斉に返ってくるかもしれません。あるいは予想外にさまざまなアイデアが上がるかもしれません。むしろそうなるのは楽しみです。それらを見ながら、あれこれ考えてみようと思います。

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