これも、「…とは何か?」と訊かれれば「ホンモノのおカネがホンモノであるのはそれがホンモノの金銀からできているからであるという(考え)」と答えられます。
これは本文そのままなので「正しい」に決まっているのであり、それが何のことかわからないので、あらためて「…とは何か?」と問うているわけです。
さてこれも「対比」の考え方を使いましょう。「形而上学(的)/形而下(的)」です。
「形而上学」は、ある辞書では「現象を超越し、またはその背後に在るものの真の本質、存在の根本原理、絶対存在を純粋思惟により或いは直観によって探究しようとする学問。」と書かれています。もちろんこんな説明で「わかる」わけがありません。これは既に「わかっている」人が、自分の認識を言語化しているのです。「わかっている」というのは、「使えている」意味です。
別の辞書では「思惟や直感によって世界の根本原理について研究しようとする学問。」と書かれています。若干すっきりしましたが、それでもまだモヤモヤしています。
「形而上学」は、普通は「哲学」を指しています。じゃあ「哲学」って何だ?
そこで「対比」です。
「形而下」は「形をそなえたもの。物質的なもの。」という意味です。前にも「形而下学」という言い方はほとんどしない、と言いましたが、あえて「哲学」に対応させようとするなら物理学・生物学あたりの「自然科学」が「形而下学」ということになります。
ということで「形而上学=哲学/形而下学=自然科学」なのですが、ニセガネ作りたちが哲学に支配されていた、などといっても何のことやらよくわかりません。
とりあえず「形而上/形而下」は「本質・原理・形のないもの/物質・物体・形をもったもの」というような対比を表しているのだといえます。
しかしこれはおかしな話です。ニセガネ作りたちこそ「金銀」という「物質・物体」や「形」に囚われているのであり、彼らの考え方はむしろ「形而下」的なのではないでしょうか?
なのに、岩井克人は彼らは「ホンモノの形而上学」に支配されていた、と言っています。いったいどういうこと?
このわかりにくさははっきり言って、岩井克人が悪い。気取った言い方をしようとしていたずらに読者を混乱に陥れている。
一方、そうは言っても、まあこういう「形而上学」という言葉の使い方もあるよな、とも思います。読者はとりあえずどういうことを言いたいのかはわからなければいけない。わかった方がいいのです。
そこでニュアンス、です。
前回の記事では、そもそも「形而上学」は肯定的なニュアンスなのか、否定的なのか、とききました。
もちろん言うまでもなく否定的なニュアンスです。それに囚われていたニセガネ作りが、結局「ホンモノのおカネ」を作ることに失敗しているのですから。
といって「形而上学」が元々否定的なニュアンスをもった言葉だというわけではありません。「形而下」が肯定的なのでもありません。
それどころか「形而下」が否定的に使われる場合もあります。物欲や肉欲にとらわれているような状態を「まったく、形而下的なんだから~」と言って揶揄することがあります(まあ高校生にはないでしょうが)。そういう場合は「形而上/形而下」は「高尚/低俗」のニュアンスであり、「形而上的」の方が上等なのです。
ではどういう場合に「形而上学」が否定的なニュアンスで使われるのでしょう?
否定的なニュアンスでの「形而上学的」とは、「地に足のつかない」「机上の空論」「頭でっかち」というような意味合いです。対比的に「形而下的」は肯定的な意味合いとして「現実的」というニュアンスを表わしていることになります。
ニセガネ作りたちはどのような「空論」にとらわれていたのでしょう? ニセガネ作りたちはむしろ金銀といった物質に目を向けていたのであり、むしろ「形而下的」だったんじゃ?
ところでこの問題は「形而上学」という言葉だけを考えても「わかる」ようにはなりません。問題はあくまで「ホンモノの形而上学」です。
もう一つの問いは、「ホンモノ」が片仮名で書かれているのはなぜか? でした。
漢字や平仮名で「本物・ほんもの」と表記せずに「ホンモノ」と書くのは、無色透明な意味での「本物・ほんもの」とは違った意味合いを込めたいからです。「本物・ほんもの」という言葉を一旦保留にして、そもそも「本物・ほんもの」とは何か? という根本的な問いを投げかけたいからです。「ホンモノ」の片仮名表記とは、日常通用している言葉として、とりあえず使っておくけどさあ、という身振りの表明です。
さてでは岩井克人は結局「ホンモノ」をどのようなものだと考えているのでしょう? (ああ、授業ならばここで間を取って全員に考えさせられるのに! 文章では考えることもなしにすぐ先を読み進めることができてしまうのです!)
このことがわかるのは、これまでにも言及したことのある次の記述です。
ところでこの問題は「形而上学」という言葉だけを考えても「わかる」ようにはなりません。問題はあくまで「ホンモノの形而上学」です。
もう一つの問いは、「ホンモノ」が片仮名で書かれているのはなぜか? でした。
漢字や平仮名で「本物・ほんもの」と表記せずに「ホンモノ」と書くのは、無色透明な意味での「本物・ほんもの」とは違った意味合いを込めたいからです。「本物・ほんもの」という言葉を一旦保留にして、そもそも「本物・ほんもの」とは何か? という根本的な問いを投げかけたいからです。「ホンモノ」の片仮名表記とは、日常通用している言葉として、とりあえず使っておくけどさあ、という身振りの表明です。
さてでは岩井克人は結局「ホンモノ」をどのようなものだと考えているのでしょう? (ああ、授業ならばここで間を取って全員に考えさせられるのに! 文章では考えることもなしにすぐ先を読み進めることができてしまうのです!)
このことがわかるのは、これまでにも言及したことのある次の記述です。
ホンモノのおカネとは、その時々の「代わり」のおカネに対するその時々のホンモノでしかなく、それ自身もかつてはホンモノのおカネに対する単なる「代わり」にすぎなかったのである。ここから「ホンモノ」という言葉の意味だけを抽出しましょう。
つまり、「ホンモノ」とは「代わり」に対する「ホンモノ」という意味でしかない、と筆者は言うのです。
「本物」という言葉が常にそうしたものだと言っているのはありません。「本物の金」「本物のダイヤモンド」はあります。しかし「ホンモノのおカネ」という場合、つまり「おカネ」についての「ホンモノ」というのは、「代わり」に対するものでしかない、と言っているのです(とはいえ「本物の百円玉」「本物の一万円札」はあります。対象が特定されれば、それについての「本物/偽物」の区別はできます)。
このことを
グループ討論の中で出てきた対義語をいくつか挙げます。
まあ「『代わり』に対する『ホンモノ』でしかない」という言い方から素直に思い浮かぶのは「相対的」ですね。
さてこれを「形而上学」と結びつけましょう。
先ほど「形而下的」は「現実的」というニュアンスだと言いました。では「現実的」の対義語は何でしょう?
これもグループ討論の中ではいろいろと挙げられました。「現実/空想」「現実/仮想」、もちろんあります。「現実/幻想」「現実/虚構」、いいセンいってます。
こちらが期待した語彙はとうとう出ませんでした。無理もありません。高校生の語彙ではないのです。
私が想定していたのは「現実/観念」という対義語です。
つまり「形而下的=現実的/形而上学的=観念的」です。「観念」とは「頭でっかちな空論」というような意味です。否定的なニュアンスで使う場合には。
さて合成しましょう。
「ホンモノの形而上学」とは
ここまで考えれば、去年確認されたかもしれない「ホンモノのおカネが確実に存在するという認識」という説明が、今こそ「わかる」になるはずです。
逆に言えば、この短い説明だけではおそらく「わかる」わけではないのです。前回にならっていえば「わかる」ことが目的ではない、という以上に「答え」が与えられて「わかる」わけではない、といったところでしょうか。
「本物」という言葉が常にそうしたものだと言っているのはありません。「本物の金」「本物のダイヤモンド」はあります。しかし「ホンモノのおカネ」という場合、つまり「おカネ」についての「ホンモノ」というのは、「代わり」に対するものでしかない、と言っているのです(とはいえ「本物の百円玉」「本物の一万円札」はあります。対象が特定されれば、それについての「本物/偽物」の区別はできます)。
このことを
「ホンモノ」というのは ? 的なものではなく ? 的なものだと表現してみましょう。「?」にあてはまる対義語を考えてください(やはりここも考えさせたい)。
グループ討論の中で出てきた対義語をいくつか挙げます。
どれもよろしい。
- 「ホンモノ」というのは実体的なものではなく概念的なものだ
- 「ホンモノ」というのは恒久的なものではなく一時的なものだ
- 「ホンモノ」というのは絶対的なものではなく相対的なものだ
まあ「『代わり』に対する『ホンモノ』でしかない」という言い方から素直に思い浮かぶのは「相対的」ですね。
さてこれを「形而上学」と結びつけましょう。
先ほど「形而下的」は「現実的」というニュアンスだと言いました。では「現実的」の対義語は何でしょう?
これもグループ討論の中ではいろいろと挙げられました。「現実/空想」「現実/仮想」、もちろんあります。「現実/幻想」「現実/虚構」、いいセンいってます。
こちらが期待した語彙はとうとう出ませんでした。無理もありません。高校生の語彙ではないのです。
私が想定していたのは「現実/観念」という対義語です。
つまり「形而下的=現実的/形而上学的=観念的」です。「観念」とは「頭でっかちな空論」というような意味です。否定的なニュアンスで使う場合には。
さて合成しましょう。
「ホンモノの形而上学」とは
相対的なものでしかない「ホンモノ」を、あたかも絶対的な実体として存在するかのように信じている、観念的な思い込み。といったところでしょうか。太字部分には上のいくつかの言い換えが適用可です。
一時的なものでしかない「ホンモノ」を、虚構であることに気づかずに、あたかも恒久的な現実存在であるかのように思い込むこと。「形而上学」という言葉は、先にも述べたように「高尚な」という意味合いでは肯定的にも使えます。ですが、ここでのニュアンスは、難しい言葉で言えば、ニセガネ作りたちに対する揶揄、もう少し平らな言葉で言うなら皮肉、といったところでしょうか。
ここまで考えれば、去年確認されたかもしれない「ホンモノのおカネが確実に存在するという認識」という説明が、今こそ「わかる」になるはずです。
逆に言えば、この短い説明だけではおそらく「わかる」わけではないのです。前回にならっていえば「わかる」ことが目的ではない、という以上に「答え」が与えられて「わかる」わけではない、といったところでしょうか。
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