2020年5月28日木曜日

少年という名のメカ 6 -この小説をどう読むか

 3回のプレ講座が終了しました。
 3回とも、とても楽しく、充実した時間でした。そしてとても疲れました。
 疲れたのはいつもと勝手が違うことに緊張があったせいで、慣れれば普段の授業と変わらなくなるのでしょう。おそらく。
 そして、楽しさや充実感は、これまでの普段の授業でいつも感じてきたことです。
 この楽しさや充実感を感ずるには、「当事者になる」必要があります。授業者である私はもちろん、カメラやマイクをオンにして対話に加わってくれた人は、そうした「当事者」としての充実感を得たはずだと信じています。
 今後の教室での授業では、単純に受講者全体の人数が減り、全員の姿が互いに見えていて、少人数でのグループワークが行われ、と、みんながそれぞれ「当事者」になる条件が増えます。
 その時さらに充実するかどうかは、みんなのそれぞれの参加への姿勢次第です。

 さて、前半組の講座では第2回で「解決」してしまった問題について、まず確認しましょう。
 この小説は、「反『少年』」たる「メカ少年」の設定によって、逆に「少年」という存在を浮き彫りにしていると考えられます。
 またこの小説は、既存の様々なメディアで提供される、ファンタジーやSF的な「物語」の特徴を備えています。その、いかにも、といった手触りはあまりにあからさまです。
 そういった「物語」的世界における「少年」とは何を象徴しているのでしょうか?
 S君・Mさんはこれを 「物語」における「主人公」 と表現しました。
 それを受けてYさん・H君は、この小説は、「物語」における「主人公」というのは、実際にいたら、周囲の人にとってはとても迷惑な存在だという皮肉を言っている小説だ、と解釈しきってみせました。
 つまりこの小説は、「メカ少年」という設定によって逆説的に「少年」というものの存在を浮き彫りにすることを通して、「物語」における「主人公」というものについて逆説的に語っていると言えます。
 逆説的?
 紛らわしい。「メカ少年」を描くことが「少年」を描いていることになるのだ、という事態がまず「逆説的」です。そしてもう一つ、重要なことはここで描き出される「少年」が「逆説的」な存在なのです。
 どういう意味で?
 「逆説」を説明するにはまず「通説」です。「主人公」は肯定的に捉えられるべき存在だ、というのが「通説」です。自由だったり特別だったり勇敢だったりして、人々から愛されたり憧れられたり感謝されたりする存在としての「主人公」像に対して、ここで描かれる「少年」は、その身勝手さが人々に迷惑をかけ、傷つけます。「通説」に反する、そのような「主人公」像が、それもまた真実でありそうだと思わせるところが「逆説」的なのです(以上、「逆説」についての復習)。

 さて、最初にこの講座のテーマとして掲げたのは、この小説をどう読んだら良いのか? でした。
 この問いの問題意識がそもそもわかりにくいはずです。といってこれをどういう問題なのかと説明するのは得策ではありません。実際に読んでみて、それがどのような読み方なのか、と振り返る方がいいはずだ、と考えました。

 最初に考察したのは、序盤の会話の分析を通して、小説中の情報を読者がどのように受け取っているか、その思考や感情の流れを、スローモーションのように振り返ってシミュレートしてみることでした(第1回講座)。
 もちろん実際にみんながそのように考えたり感じたりしていたわけではありません。あくまでシミュレーションですから、言われてみればそんなふうに考えたり感じたりすることはありえる、と思えればいいのです。

 次に、我々が小説を読みながら予期している「世界観」が、末尾の一文によって変更されることで構築される、新たな「世界観」の可能性について考察しました。
 少年という名のメカの目的を知り、特許制度や経済活動の存在する世界の広がりに思いを馳せ、メカの作り手や買い手を想像する…。
 しかし実はこのような考察は、おそらく上に掲げた授業の目的にはたどり着きません(思いがけない形でたどり着くかもしれませんが、少なくともこちらはそれを想定していません)。これはあえてみんなの思考をミスリード(誤誘導)したのです。
 このような読解は、なぜ「この小説をどのように読んだら良いか?」にたどり着かない(だろうと想定される)のでしょうか?

 比較対象に、一昨年の授業で生徒が語った解釈を紹介しました。
 コンピュータ・プログラムが稼働し続けていると、不要なデータやバグが蓄積されていくことがあります。あるいはウイルスと呼ばれるソフトがプログラムの一部を書き換えてその機能に不都合を与えたりします。それに対して修正プログラムとかワクチン・プログラムなどと呼ばれるプログラムを走らせることで、バグをリセットすることがあります。
 この小説で描かれているのは、そうしたコンピュータの内部で展開しているプログラムの振る舞いを擬人化・具象化して描いているのだ、というのです。「少年」によって傷ついた心が「バグ」で、メカ少年がワクチン・プログラムです。
 面白い思いつきです。

 また、第2回講座で前半組から出された解釈を前回紹介しました。
 人々の心のケアも、テクノロジーの進歩によって解決しようとし、かつそれを商品」化する、我々の社会が「象徴」されているのだ、という捉え方です。

 そして上に示した解釈です。

 さらに、もう一つの読み方の可能性についても示唆しました。
 「反少年」としてのメカ少年によって明らかにされる「少年」は、確かに「『物語』の主人公」的な姿に見えます。ファンタジーの主人公「あるある」です。
 それだけでしょうか?
「無邪気に振る舞い、わしらを散々幸せな気持ちにさせておきながら、ある日…目の前から消えちまう。…その後はとんと音沙汰なしだ。絵葉書一つ寄越したためしがない。」「唇の端にスープをつけたままにして、わたしの母性にアピール(する)」「服を泥だらけにしたり、ボタンを弾き飛ばしたり(する)」「肉体的にも、精神的にも成長(する)」…。
これらの描写も単に「ファンタジー物語の主人公」としての「少年」を描いたものなのでしょうか?
 S君・Tさんがすぐに気づいたように、これらの描写から浮かび上がる「少年」は「親の目から見た子供」です。ここに表現されるのは、自分に向ける親の愛情に満ちた眼差しにも、そして子供が手を離れてしまう親の淋しさにも無頓着な子供の姿です。
 また、少女は「少年」について次のように語ります。
彼じゃなくて、彼のサポートについたわたしの方が怪我をするの。わたしが少年を守るはめになるの。…わたしが怪我をするたび、ものすごく謝ってくるんだけど、それだけなの。根本的に変わらないし、もうなんか疲れちゃった。
ここで語られる「彼」は、Yさんが言うように、まるで「女性から見た男性」のように見えないでしょうか。恋人である男の身勝手さに振り回されながらも離れられない女。
 老夫婦の語る「少年」は幼い子供で、少女の語る「少年」はむしろ「青年」と言っていい年齢にも感じられます。
 ここにはどちらも、相手に対する愛情と、それ故に相手の自由奔放さに傷ついてしまう心情が描かれています。つまり「少年」に対する「大嫌い」は「大好き」の裏返し、「可愛さあまって憎さ百倍」なのです。
 これは、たとえ読者が親世代でなくとも、恋愛経験が乏しくとも、ありそうだと感じられるように意図的に描いていると言えないでしょうか。

 整理します。

1.我々が小説を読みながら予期している「世界観」が、「特許出願中。」という末尾の一文によって変更されることで新たに構築される「世界観」の可能性について考察を深める。

2.「あるコンピュータ・プログラムが稼働し続けることによって蓄積されていくバグをリセットするワクチン・プログラムを、稼働中のプログラムの中に走らせている」という世界を擬人化・具象化して描いている、と解釈する。

3.全てがテクノロジーの進歩によって機械化されていく「現実」が象徴されている、と解釈する。

4.「物語」の主人公というのは、本当にいたら周囲の人々にとっては意外と迷惑なものだ、という逆説を皮肉として描いている、と解釈する。

5.老夫婦の語る「少年」は「親にとっての子供」を象徴し、少女の語る「少年」は「女性にとっての恋人の男性」を象徴していると考え、その愛憎半ばする心情を描いている、と解釈する。

 これら5つの読み方は、どのようにこの小説を読んでいることになるのでしょうか?

 ここからはそれぞれの講座で、この5つをどのように分類したり分析したりすることが可能か話し合ってもらいました。この話し合いはどちらもとても有益でした。
 ここはやはりグループワークで、全員が自分の分析について語るべき問題です。
 ここには特に固定的な「正解」があるわけではありません。もちろんその分析の妥当性は検討されるべきです。しかしさまざまな観点からさまざまな分析が可能です。
 もちろん1~5の中から正解を選ぶ必要もありません。どれも認めた上で、それらの違い、関係を考えるのです。

 例えば「作者の意図」について考えるかどうかで分類できるのでは? というアイデアがどちらの講座でも出ました。
 確かに「作者」を視野に入れることで、作品から距離をおいて、その小説世界を俯瞰することが可能になります。物語の世界に入り込んでしまえば、その外側にいる作者の姿は見えなくなってしまいます。
 そのような傾向が最も顕著なのは1でしょう。
 1の方向に考察を進めるのはミスリードだと上で述べたのは、1は、あくまで物語の「世界」の内にとどまって、そこを探索するような考察だからです。そのような探索は、第2回講座でやったように、それなりに楽しくなることもあります。また、小中学校の国語の時間にありがちな「この時の登場人物の気持ちを考えてみましょう」的な授業は、基本的にこの層に視点を限定しています。
 とはいえ、1~5のどれもが、それぞれに作者の意図を同時に捉えることも可能ではあります。1のような読み方でも、そのように世界を構築し、そのように物語を展開し、そのように人物を描く作者の意図を考えることはありえます。小中学校の国語の時間でも「気持ち」発問とともに、「作者は何を言いたかったでしょうか」などとよく訊かれたはずです。

 とりあえず1に比べて2~5が、作品の物語の層から離れて、小説を俯瞰しようとする視点に立っている、というのは確かです。
 その上で2~5をさらに分類するなら、紹介した2,3と、講座中で意図的に展開した4,5のような読み方の違いはあると言えます。
 2,3の解釈は、作品世界全体の構造を、別の何かと重ね合わせることができるのでは、という仮説です。どちらも授業者自身の解釈ではないので検討が不十分ですが、本当にそうだと言うためには、作品の細部や構造自体から、ある特徴を抽出し、それが、重ね合わせようとする対象の特徴と意図的な一致を図っているかどうかを検討する必要があります。
 それを丁寧に行うまでは、これはあくまで思いつきです。面白い、そうかもしれない、とは思うものの、腑に落ちる、という感覚には至りません。まだ。
 一方、4,5の解釈は、小説の細部の特徴から、意図的に方向付けられた小説の「感触」を確認し、それをある作者の意図として想定できないか、と考えています。
 読者が感じるはずの手触りを表現し、確かにそういう感じがする、という読者間の合意のもとに、それが合理性を持つような作者の意図を想定してみよう、と考えているのです。

 小説と何を重ねるか、という点から、別の分類をしてみましょう。
 3と5は、小説内世界と、我々の住む「現実」が重ねられています。
 2と4は、小説内世界と、それぞれ別のバーチャルな世界が重ねられています。
 2のコンピュータ・プログラムの振る舞いは、もちろん現実の物理現象ではありますが、それは我々にとってのリアルではなく、やはりバーチャルな世界でもあります。
 4は、様々なメディアで我々に伝えられる「物語」と小説が重ねられています。しかも、その二つを同じ層で並べているのではなく、「物語」の上の層から俯瞰する視点に小説は立っています。
 その意味で、4の解釈に立つのなら、この小説はメタ「物語」だと言えます。「物語」のパロディなのです。
 そのとき、そうした諸々の「物語」を作っている作者達や、そうした「物語」を享受している我々自身が相対化されます。

 まだまだ分析は可能でしょう。別の分類もありえます。
 とりあえず今回の3回の講座で考察できたのはここまでです。

 後から思いついたことを少々付け加えます。
 H君の言った、この小説の中心はやはり「少年」ではなく、メカ少年が人々を癒やすことの方にあるのではないかと思う、という言葉が引っかかっていたのですが、そこから思いついたことがあります。
 この小説は、過剰なサービスは、そのうちに人を疲れさせるようになり、その時、むしろ何もサービスしないことが癒やしになる、という逆説を表しているのではないか、という思いつきはどうでしょう。「レンタルなんもしない人」が話題になっていることなどをふと連想しました。
 さらに言えば、サービスに疲れた人に対して、さらに何もしないことをもサービスとして提供するという堂々巡りを皮肉っているとか、そうした商魂たくましい様子を戯画化している、などとも言えます。
 そしてこのような社会批判としてみるならば、この論理はこの先授業で読む予定の「南の貧困/北の貧困」とも重なってくる可能性さえあります(まあ今の時点では何のことかわからないでしょうけれど)。
 この解釈は上の3の解釈と同系統の、小説世界を我々の現実と重ねる解釈の一つです。
 この解釈を通番で解釈6とすると、みんなが自由に発言する機会が充分に確保されていたら、いったいいくつの解釈がみんなの目の前に並べられていただろうと考えると、愉しくもなり惜しくもなります。

 「少年という名のメカ」という作品を題材に、その作品世界に分け入りつつ、小説を読むという行為、「小説の読み方」自体をも考察対象にしてきました。
 ブログ開設初期に、教材の読解は、学力向上のためのトレーニングではあるが、それだけではない、ある種の掛け替えのない「体験」なのだ、と書きました。
 特定の文章の解釈を結果として「知る」ことなど、学力向上のためのトレーニングにさえなりません。
 読解は主体的な「行為」です。それだけが実技科目としての国語の学力向上に益するのです。
 だがさらにそれが、一人ではなかなか遭遇することのできないひとつの「体験」として参加者それぞれに感じられることを期待して3回の講座を進めてきました。
 授業者自身には、間違いなく毎回がそれぞれの1回性の出来事の「体験」でした(既に一昨年から長い時間を考察に費やしてきたにもかかわらず!!)。
 そしてこれはどうしたって一人ではできないことなのです。

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