2020年6月12日金曜日

ミロのヴィーナス1 -全体を捉える

 ブログ開設以来ここまで、休校中の特別措置ということで全体に語りかけるという体裁をとろうと、慣れない敬体で書いてきたが、ここからは授業の進行と並行して、授業の記録及び考察の整理のためにという、私的な目的が強くなるので、通常運転の常体に変える。
 もちろん公開はしているので誰でも読める。欠席者や、授業時には個人的に考え事をしていてボーッとしていたとかいう事情で授業内容を振り返りたい人など、積極的に読んでほしい人もいる。とはいえ、まあそういう人よりも、読むとしたら授業中にも積極的だった人だろうとも思う。
 さらに、こちらがクラスによって言い忘れたりしていることもなるべく書いておく。
 また、別のクラスで提出されたアイデアの交換にもなるはずだという期待もある。

 休校明けの最初の教材は「ミロのヴィーナス」。
 休校中に「ホンモノのおカネの作り方」「少年という名のメカ」と、評論→小説の順に扱ってきて、この後で定番の「ミロのヴィーナス」か「山月記」かという選択だったので、同じパターンを踏襲して、評論→小説にしようとしただけだ(ということでこの次は「山月記」)。
 だが始めてみると、ここまでのブログでの読解で使ってきたメソッドが意外と使えることに気づいて、「ミロのヴィーナス」を取り上げた偶然を幸運だと思わされる。

 読解のための作法は、文章の全体を見ることと部分を見ることを交互に関連させながら、それぞれの考察結果を互いにそれぞれの考察に活かすように進めていく、というのが常套手段だ。
 この文章は何を言っているんだろう? と、文章全体に意識を向けるか、ここの一節は何を言っているんだろう? と部分的な表現に意識を向けるか。
 ここでいう「全体」というのはその文章の主旨や、論の構成、そこで論じられている問題の社会的な背景などを指す。
 「部分」というのは、局所的に読みが滞ったり靄がかかったような印象があって、一読して腑に落ちるとは言い難い一節のことだ。
 「ミロのヴィーナス」という文章は「全体」と「部分」、どちらが難しいか?
 そう問えば誰もが思い当たる。「全体」よりも「部分」の方が圧倒的に手こずるはずである。「全体」として何を言っているかは一読してわかる。共感できるとは言い難いが、とりあえず主旨は読み取れる。
 そこでまず「全体」を問う(註)。導入にまず易しいところから入る。

 とはいえいま言ったとおり、この文章の主旨はあまりに明らかである。それを20字以内で簡潔に表現せよ、などという問いも悪くないが、その前に少々ひねる。教科書に収録されている「空白の意味」(原研哉)を読み比べるのである。
 二つの文章を読み比べて、次の2点について考えをまとめるように指示する。

  • 二つの文章で対応する表現
  • 二つの文章に共通する主旨

 ここからは初のグループワークだ。「主旨」は上記の通り簡単だが、「対応する表現」はさまざまな箇所を挙げうるから、それぞれの見つけたところを交換する。
 班での検討の後は発表だが、とにかくあちこちが挙がる。クラスによって様々な箇所が発見される。
 「可能性」は共通して文中に登場して「対応」する語である。
 「対応」のわかりにくいものは応答によって明らかにする。皆の言う引用が長いと、どこが「対応」しているかわかりにくい。
 例えば

  • 「ミロの…」  おびただしい夢をはらんでいる
  • 「空白の意味」 未来に充実した中身が満たされるべき機前の可能性

 が対応している、というような意見が出される。ぼんやりと、そうだとは思える。だがどこがどう「対応」しているのか?
 そこで、短く切って、何と何が「対応」しているかを明らかにする。
 「おびただしい夢」「機前の可能性」が、「夢をはらんでいる」「未来に充実した中身が満たされるべき」が対応しているとすれば「」は? 「空白」「」である。さらに「ミロの…」では他に「欠落」「失われた」があり、「空白の意味」では「省略」の語がある。
  • 「ミロの…」  存在すべき無数の美しい腕への暗示
  • 「空白の意味」 空っぽの器に~何かが入る「予兆」
が挙がった時にはこちらがハッとしせられた。「暗示」と「予兆」!

 また、皆から挙がらなかったもので、こちらから一方を挙げて考えさせたものもあった。
 「空白」の「イメージ」に対応する語を「ミロの…」から挙げよ、という問いは難易度のちょうど良い問いのはずだ。
 「イメージ」の日本語訳としてしばしば用いられる、などとヒントを出しながら、候補をどんどん挙げるよう指示すると、「想像」「夢」など、悪くない対応語が挙がり、誰かが「心象」にたどりつく。
 この問いはむしろ、最初のクラスで「イメージ」「心象」の対応を指摘した生徒がいたので、後のクラスではこちらから問いかけたのだった。

 さて「主旨」は「ない方がかえって想像させるので良い」くらいの捉え方で良い。数人にきくと、結局は趣旨は同じだが、それぞれに違った表現で語られるところが面白い。
 すぐに既習のメソッド二つを応用する。「問いと答え」「対比」だ。これもグループワークである。

  • 全体を捉える「問いと答え」はどう表現できるか?

 「問い」の形そのままの表現は文中にはない。上の「主旨」が「答え」になるように「問い」を設定するのである。
 抽象的な表現で、本質的な問題を問おうとする者もいる。それよりも「ミロのヴィーナス」という言葉を「問い」に入れて表現してみよう。
 例えば「ヴィーナスは腕があった方が良いか、ない方が良いか?」という問いは、前に触れた「イエスorノーで答えられる問い」と同じように、益が少ない。二択のどちらかを本気で検討しているような文章ならいいが、この場合は結論は明らかだからだ。
 「ミロのヴィーナスはなぜ魅惑的か?」はシンプルで良い。ただ注意が必要だ。「腕がないから。」が答えになりかねない。
 もちろん「腕がないことによって、さまざまな想像の可能性がひろがるから」という「答え」なら良い。
 「問い」の方に「腕がない」を入れてもいい。

  • 問い 腕のないミロのヴィーナスはなぜ魅惑的か?

 これなら先ほどの「主旨」がそのまま「答え」になる。

  • 答え ないことでかえってそれを想像させるから。

 こうした考察は、結論を聞いてしまえばあまりに当たり前で、そりゃそうだという以上の発見はないだろうが、問題は生徒一人一人がそれを形にすることには、それぞれにいくらかのハードルはあるということである。
 それなりに考える必要があるということは学習の機会になるということだ。これを聞いて「わかる」ことが学習なのではなく、これを自分で形にすることが学習なのだ。

 ここまでは難易度がそれほど高くないことから、お互いのコミュニケーションの機会として、年度初めにはちょうど良かった。
 だが2回目以降はどんどんハードルが上がる。


 文章を前から読み進めていくようなタイプの授業では、段落毎に「部分」を検討しつつその段落の内容をまとめ、最後の段落まで読んでから「全体」をまとめることが多いだろうが、筆者の授業では基本的に、前から順に内容を「まとめる」といった手順をふむことがない。最初から、考えるに値すると思われる問いを提示する。
 むろん、前の段落から順に「まとめる」ことが「考えるに値する問い」であるならばそうすることもある。それはつまりこちらが「まとめる」のではなく、皆に「まとめ」を問うということだ。
 みんなからすれば、こちらの「まとめ」を聞くまで待つのではなく、必ず自分で「まとめ」ようとしなければならないということだ。

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