2021年1月28日木曜日

「である」ことと「する」こと 9 「である」価値とは

 全体は以上のような二段落構成をとっているのだが、予告したように、最終段落は後半の段落に含まれているというよりは、前後半をまとめて通観し、そこに筆者の主張を付け加える内容になっている。

 この章で丸山はどのような主張をしているか?


 まずそこまでの論旨はこうまとめられる。

 丸山真男の分析に拠れば、現代日本の問題は、「政治・経済」は「非近代的」であり、「学問・芸術」分野は「過近代的」であることだ、ということになる。

 そうした認識にたって、どうしようと言っているのか?


 主張は明らかだ。章題に現われているように「価値倒錯を再転倒」しなければならない、であり、その「ために」、「文化の立場からする政治への発言と行動」が重要だ、というこということになる。

 ここに見られる「文化/政治」という対比は「学問・芸術/政治・経済」という対比に他ならない。つまり「『である』立場から『する』活動へ発言・行動する」ことが求められているわけだ。

まさにそうした行動によって「である」価値と「する」価値の倒錯――前者の否定し難い意味をもつ部面に後者が蔓延し、後者によって批判されるべきところに前者が居座っているという倒錯を再転倒する道がひらかれるのです。

 ここでもまた「非近代/過近代」が対比的に表現されている。

 「である」価値の否定しがたい意味を持つ部面(学問・芸術)に「する」論理が蔓延している状態「過近代」

 「する」論理によって批判されるべきところに「である」論理が居座っている状態「非近代」

 つまり「倒錯」とは「非近代/過近代」であることに他ならない。

 だから「非近代的」な「面」では正しく「する」化し、「過近代的」な「面」には「である」価値を見直すことこそ「再転倒」なのだ。


 ここでわかりにくいのは「である」価値だ。「する」価値・論理は最初のうちマークした表現でつかめている。そこでは「する」価値・論理は肯定的な意味合いで捉えられていた。前半は「する」推しだったわけだ。

 だが後半の「である」推しは、どのような意味でそれを価値あるものと見なしているか?


 対比表現をピックアップしてみる。

 対比的に明示されている表現は次の二つ。

  花/果実

それ自体/結果

 「である」価値を示す「花」は比喩だし「それ自体」もわかりにくい。

 「花」という比喩はどのような意味合いを表わしているか?


 「である」価値を示す表現は少ないが、実は「する」価値を示す表現は、後半に入っても様々に言い換えられて頻出している。170~172頁から挙げてみる。

  • 効用と能率原理
  • 有効に時間を組織化する
  • 効果と卑近な「実用」の規準
  • 果たすべき機能
  • 大衆の嗜好や多数決
  • 不断に忙しく働いている

 「である」価値=「それ自体としての価値」は、これら「する」価値とは反対方向を向いた価値、ととりあえずは把握できる。つまり

  • 「効用・効果・実用性・機能」などによって決められない価値
  • 多数決で決められない価値
  • 忙しく時間を使うことよりも、蓄積することで生ずる価値

といったようなものが「それ自体」としての価値=「である」価値なのだと考えておく。

 「花」はそういった価値を喩えたものだ。「花」は食べられない。おいしいわけでも栄養があるわけでもない。だから「効用・効果・実用性・機能」的には価値がない。だがそれに例えば「美」を見出す者にとっては「それ自体」に価値がある、と言っているのだ。


 「である」価値を示すフレーズはもう一つある。「かけがえのない個体性」だ。

 「かけがえのない」というのは「交換できない」という意味だ。

 「する」価値は、「果たすべき機能」が満たされればいいのだから、それを為す主体は交換可能である。誰がやってもいい。問題は「効果」や「結果」なのだから。

 政治はこれらの「する」価値の実現を目指している。

 だがそれだけを重視することは、今度は、「である」価値=「かけがえのない個体性」がもつ「それ自体」の価値の否定・軽視、すなわち「過近代」という「倒錯」を生む。

 だからこそ「である」=「文化」=「学問・芸術」からの発言と行動によって、その「倒錯」を「再転倒」しようというのである(もちろん一方の「非近代」という「倒錯」もまた「再転倒」されなければならない)。


「である」ことと「する」こと 8 抽象度を揃える

 「『である』ことと『する』こと」は、前半では日本の「非近代的」な「面」について述べ、後半では「過近代的」な「面」について述べている、と把握される。

 「日本の急激な『近代化』」の章(169頁)は前半と後半のいわば橋渡しだと考えればいい。最後の「価値倒錯を再転倒するために」(172頁)は全体のまとめだ。


 ここまでの考察はかなり論理的に進めているが、それよりもまずは漠然と「前半は『する』推しだったのに、何だか後半は『である』推しになってるなあ。」くらいの捉え方はしてほしい。

 つまり「する」推しなのにそうなってないから「非近代的」だということで、「である」推しなのに「する」が蔓延してくるから「過近代的」だということだ。

 これがピンとくるためには、この文章の「近代」が「である」→「する」という移行・転換だと捉えられていることが必須だ。


 その上で最終段落がよくわからないから「結局どっちなんだ?」という「疑問」も挙がっていた。これは後で考察する。

 では、何については「する」推しなのだろう? 「である」推しなのは?

 これが保留にしていた、前半・後半の「面」とは何か、である。

 「非近代的」な「ある面」、「過近代的」な「他の面」とはそれぞれ何のことか?


 前半と後半を大づかみにして、抽象度の揃った語で表現することを目標として、ひとまずは様々な話題を取り出して総覧してみよう。

 どんな言葉を取り上げれば良いか?


前半

権利 自由 民主主義 制度 近代

 徳川時代 身分 人間関係 業績 会社 組織 


後半

宿屋/ホテル 休日 論文 教養 古典


 あれこれとキーワードを挙げてみたが、上にはまだ、「抽象度の揃った語」はまだ挙がっていない。

 これらのキーワードを包括する、前半と後半でバランスのとれた抽象度の言葉は何だろう?


 文中で、これらの言葉が対比的に使われるのは171頁上段の一度きりだ。

 それは「政治・経済」/「学問・芸術」である。

 全体を把握しようと意識したとき、確かに前半では「政治・経済」という言葉で括れる領域については「する」であるべきだと言い、後半では「学問・芸術」とまとめられる領域について「である」であるべきだと言っているのだ、と考えると、にわかに全体の構造が腑に落ちないだろうか(各クラスで最初にこれを指摘した人は素晴らしい!)。

 そして文中で様々な例で指摘されているのが、そこに起きている「倒錯(錯誤した転倒)」なのだということが腑に落ちないだろうか。


 「『である』ことと『する』こと」という文章の読解の核心はここである。

 全体を「非近代/過近代」という二つのまとまりで捉えること。

 そしてそれぞれが対象としている領域・「面」を「政治・経済」/「学問・芸術」という、抽象度の揃った概念語で捉えること。

 この二つができれば、読解のおおよそは完了したと言っていい。


 残りは?

 最も厄介な「主張」と「部分」である。


「である」ことと「する」こと 7 前後半の対比構造

 「『である』ことと『する』こと」を前後半二つの大段落のまとまりとして把握する。

 「『である』ことと『する』こと」の場合、これら二つの大段落は対比的に表現できる。したがって、片方ずつが把握されるのではなく、同時に発想されるはずだ。

 対比的?

 ということは「である/する」という対比?

 発想は悪くない。だが単に前半が「する」だとも「である」だとも言えないし、後半も同様である。


 このあたりでそろそろ、結びついてほしいところだ。

 先に留保した問題である。

 再掲する。

ある面では甚だしく非近代的でありながら、他の面ではまたおそろしく過近代的でもある現代日本の問題(165頁下)

 さらに、この一節にも重なる。

一方で「する」価値が猛烈な勢いで浸透しながら、他方では強靱に「である」価値が根を張り(169頁下)

 さらにこれが169~170頁の一節にも重なる。

厄介なのは、「『する』こと」の価値に基づく不断の検証が最も必要なところでは、それが著しく欠けているのに、他方さほど切実な必要のない、あるいは世界的に「する」価値のとめどない侵入が反省されようとしているような部面では、かえって効用と能率原理が驚くべき速度と規模で進展しているという点なのです。(169頁下~)


 これら3箇所は同じことを言っているのであり、これが、「『である』ことと『する』こと」全体を二つに分けたときのそれぞれの「まとまり」をも示しているのだと気づくと、全体が把握される。


 すなわち文章全体は、前半が

ある面では甚だしく非近代的

  ↓

他方では強靱に「である」価値が根を張り

  ↓

「『する』こと」の価値に基づく不断の検証が最も必要なところでは、それが著しく欠けている


 について述べ、後半は

他の面ではまたおそろしく過近代的

  ↓

一方で「する」価値が猛烈な勢いで浸透

  ↓

他方、世界的に「する」価値のとめどない侵入が反省されようとしているような部面では、かえって効用と能率原理(=「する」原理)が驚くべき速度と規模で進展している

 について述べているのである。


 いよいよ保留にしていた「面」に光をあてる。前半と後半はどのような「面」について論じているのだろうか?


2021年1月22日金曜日

「である」ことと「する」こと 6 段落分けというメソッド

 このあたりで一度、いよいよ「全体」を捉える考察をする。

 といって「問いを立てる」はこの段階でも相変わらず難しい。

 「全体要約」も同様に難しい。

 いずれも、やってやれないことはないが、やれる人だけやる、ということになりかねない。


 ここで全員に課すのは、「全体を二つに分けて、それらがどのようなまとまりなのかを言い表す」という課題である。

 といって、どこかの章から、すっぱりと後半になるわけではない。前半と後半の橋渡しをしている章がある。

 また、最後の1章は全体のまとめなので、どちらとも言えない。

 だがともかくも、前半と後半は明らかにトーンがかわっている。その変わり目はどのあたりで、それはつまりどのような「トーン」だというのか?


 これは「段落を分ける」という、小学生のときからお馴染みの読解メソッドだ。

 段落を分けるという思考は、文章の構造を把握しようという思考である。こことここは何らかの分かれ目がある、ということはそれ以外の部分はつながっているということだ。それぞれのまとまりとは何か? などと考えることは、文章を俯瞰して、その構造を捉えようとしているのだ。

 もちろん、文章にはもともと形式段落に分けられているし、ときどき一行空きになっていたり、「『である』ことと『する』こと」のように、見出しのついた章に分けられていたりする。

 それもまた、筆者がその構造を読者に示してくれているわけだ。もしも章も段落も全く区切られていなければ、文章の論旨はもっと把握しにくくなる。

 この「構造」はいくつもの階層が重層的に組み合わされている。学校での人間関係が「班」→「クラス」→「学年」→「学校」などと階層化されるように。またそれらの階層に「部活動」「委員会」などの階層が横断的に挿入されているように。

 まずは最初の課題の「章ごとに一文で要約する」で、章レベルのまとまりを把握した。

 そして今回は、章同士をつなげた、もっと大きなまとまりをつかもうというわけである。


 この「まとまり」は、まずは明らかには言語化できない感触としてとらえられるはずだ。どうもこのへんから流れが変わったぞ…。

 そうして、そこまでの「流れ」とそこからの「流れ」を言語化する。


 「『である』ことと『する』こと」についての、この「大段落分け」は、「問いを立てる」「全体要約」よりも易しいとも言えるが、また別種の難しさもある。というのは、「問いを立てる」「全体要約」は、はっきりした正解/不正解が示しにくく、それだけにやってやれないことはないのだが、この「前後半分け」は、やった後には皆が納得できる形になる―いわば正解がある―だけに、そこに辿り着くかどうかがはっきりと形でわかる。

 そして、このそれなりに難解な文章を全体として捉える視野の広さと論理把握力は、やはり高度なレベルが要求されるのだとはいえる。


 だが不可能ではない。実はそれなりに布石が打ってあるからである。

 何のことか?


「である」ことと「する」こと 5 「宿命的」な混乱

 168頁まで「である/する」という対比を表わす表現をマークしながら読み進める。そして何事かを考える際に、必要に応じてマークされた表現を駆使する。


 さてその上で169頁下段の次の一節について考察する。

日本の近代の「宿命的」な混乱は、一方で「する」価値が猛烈な勢いで浸透しながら、他方では強靱に「である」価値が根を張り、その上、「する」原理をたてまえとする組織が、しばしば「である」社会のモラルによってセメント化されてきたところに発しているわけなのです。


 ここで考察に値するのはどこか?

 「セメント化」に引っかかって、これを疑問として挙げた者がどのクラスにもいたが、むしろこれは大した問題ではない。「セメント化」という見慣れない比喩に惑わされているだけで、単に「固まっている」と言っているに過ぎない。

 これは、具体例が思い浮かべばいいのであって、しかもそれは既に文中で述べられている。

 「『する』原理をたてまえとする組織」の例は?

 「『である』社会のモラル」とは?

  組織を「セメント化」するとは?


 「組織」の例は前の章の「会社」が簡便だ。

 「『である』社会のモラル」も既にマークされている表現の中から選べばいい。

 会社組織における人間関係は「する」論理、すなわち「仕事の側面」だけのものであるはずなのに、「先天的」な「身分」のような「まるごとの人間関係」といった「である」論理が関係性を決める、会社の上役がプライベートにまで口を出してきたり、社長だから偉いと決めつけたり。そのような人間関係が変えられないような日本の習慣を「セメント化」と表現しているのである。

 あるいは会社での評価は「業績」=「する」論理で決められるべきはずなのに、年齢=「である」論理で給料が決まっているような状態を挙げてもいい。


 それよりもこの一節の問題は前半にある。

 「一方/他方」は重要な対比なのだが、これが問題であることは意識されにくい。「一方で~他方で~」という一節が、既に述べられていることだ、と思えるだろうか?

 どこで?


 この対比が指し示しているのは、実は先に保留にした「ある面/他の面」とほとんど同じなのだが、そうすると同様に、これも保留することになる。

 ではさらに、ここで考察すべき問題は?


 問題は「日本の近代の『宿命的』な混乱」だ。

 「混乱」の内容は以下に述べる「ところに発している」あれこれで、そのいくつかは本文でも既に、またこの先でも挙がっている。

 それよりも問題は、なぜこの混乱は日本にとって「宿命的」なのか、だ。

 わざわざ括弧が付された「宿命的」に、丸山はどのようなニュアンスを込めているのだろうか?


 「混乱」の原因は以下の「猛烈な勢いで浸透する」ことと「根を張る」ことの衝突によるのだが、衝突するとなぜ混乱するのか、とさらに問うてみよう。

 これを説明するのに丁度いい記述が既にある。

 直前の168頁からは次の一節。

領域による落差、また、同じ領域での組織の論理と、その組織を現実に動かしている人々のモラルのくいちがい


 165頁からは次の一節。

制度と思考習慣とのギャップ

 混乱を生じるのは、これら「落差」「くいちがい」「ギャップ」があるからである。

 さらに、これらはなぜ起こるか?


 168頁、上の一節に先立つ次の一節がその理由を述べている。

「する」社会と「する」論理への移行は、具体的な歴史的発展の過程では、全ての領域に同じテンポで進行するのでもなければ、またそうした社会関係の変化がいわば自動的に人々のものの考え方なり、価値意識を変えてゆくものでもありません。

 したがって「ギャップ」「落差・くいちがい」が生じ、それが「混乱」を生む。

 だがこれがなぜ日本にとって「宿命的」なのか?

 日本の「宿命」とは?


 「『する』社会と『する』論理への移行」という言い方には見覚えがある。前の記事の「近代」とは何か? の答えだ。「近代」という概念の一つの側面を、この文章では「である」から「する」への移行として捉えているのだった。

 つまりこの「混乱」は日本が近代化する過程で生じているのだと言える。

 では日本における近代化はどのようにして行われたか?


 ここでその一つの説明として有効なのが、教科書298頁~の夏目漱石「現代日本の開化」で述べられている考え方だ。

 ここで漱石が「現代の開化」と呼んでいるのは、明治の「文明開化」のことであり、それはつまり日本における「近代化」のことだ。

 漱石は日本の近代化がどうだと言っているのか?

 また、その考え方を利用して、丸山が言う「宿命的」な混乱はどのように説明できるか?


 漱石はこの「開化」が「外発的」だったという。

 「内発的」とは、自然の、必然の推移を表わしている。「開化」が「内発的」に起こった西欧は、その変化には相当の時間をかけている。

 だが明治の開国とともに西欧の文化の流入にさらされた日本の「開化」は「外発的」であり、その変化は急激だった。

 一方、「ギャップ」「落差・くいちがい」とは「制度と思考習慣」「組織の論理と人々のモラル」の「ギャップ」のことだ。

 ここまで揃えば完璧な説明までもう一歩だ。


 近代化に伴う変化は、まず「制度・組織の論理」を「する」論理に基づくように変える。だが人々の「思考習慣・モラル」はまだすぐにはかわらず「である」論理をひきずっている。そこに「落差」「くいちがい」「ギャップ」がある。そうした「落差」が混乱を生む。そのようにして生じた「混乱」こそ、丸山が「宿命的」という言葉で表現している日本の近代化の特殊性だ。

 「外発的」に近代化した日本は「宿命的」に「混乱」せざるをえなかったのである。


2021年1月18日月曜日

「である」ことと「する」こと 4 近代

 2~4章(165~168頁)で、対比項目としてマークしておきたい主な表現を挙げておく。

身分・ドグマ・権威/現実的な機能と効用

to be/ to do

血族・人種・出生・家柄/行動          

先天的       /具体的な貢献やサービス

 「分」に安んずる/          

既定の間柄     /未知の人との多様な関係

            /会議の精神・赤の他人の間のモラル

儒教・縦の上下関係/ 横の関係

家柄・同族・素性に基づく/ 業績・機能集団

         /特定の目的活動

    君主   /会社の上役

まるごとの  /仕事という側面についての


 これ以外にも、既出の表現が繰り返し使われたらマークする(「不断」など)。これ以降は、読みながら自分でその都度マークしていく。


 さて、第2章で何より難物なのは、章の終わりの次の一節だ。

(「である/する」図式を想定することで)例えばある面では甚だしく非近代的でありながら、他の面ではまたおそろしく過近代的でもある現代日本の問題を、反省する手がかりにもなる

 ここを「疑問/考察したい点」として挙げた者は各クラスにいた。適切な疑問だ。

 この一節はきわめて抽象度が高い。実際のところ、ここまで読んだだけではこれが何のことかはわかるはずがない(だが皆はこの文章を最後まで読んでいる。だからわかってもいい)。

 つまりここは、先に言及した、「全体」の論旨が集約されている「部分」なのである。

 したがってここではこの部分の解釈を完全に行うことはしない。

 ただ、この段階で考察できることもある。何か?


 この部分の解釈の難しさは、「ある面/他の面」と「非近代/過近代」が、それぞれに集約的で抽象的であることに因っている。

 難しいのはどちらか?

 見慣れない「非近代/過近代」ではない。「ある面/他の面」こそ、この段階では捉えるのが難しい集約的な表現だ。したがって「面」については読み進めて全体を振り返ってから再考する。

 一方「近代」については考えようがある。

 「近代」というのは様々なことを考える上で、また多くの評論を読む上できわめて重要な概念だ。あらかじめある程度の知識としてもっていることも期待されるのだが、ここでは文中からそれを読み取ろう。

  • 債権は行使することによって債権でありうるというロジックは、およそ近代社会の制度やモラル、ないしは物事の判断の仕方を深く規定している「哲学」にまでひろげて考えられるでしょう。(164頁)
  • 身分社会打破し、あらゆるドグマ実験のふるいにかけ、政治・経済・文化などいろいろな領域で「先天的」に通用していた権威に対して、現実的な機能と効用を「問う」近代精神のダイナミックス
  • もしハムレット時代の人間にとって“to be or not to be”が最大の問題であったとするならば、近代社会の人間はむしろ“to do or not to do”という問いがますます大きな関心事になってきたといえる(165頁)

 これら3箇所の「近代」に共通しているのは、簡単に言うとどのような意味合いか?


 平たく言うならば、近代とは「である」から「する」に価値の重点が移動してきた時代だということだ。

 とすれば「非近代」とは? 「過近代」とは?

 「非近代」とはまだ「する」への移動が充分ではないということであり、「過近代」とは「する」に移動し過ぎている、ということになる。

 さてそのようにいえる「ある面/他の面」とは何なのか?

 これは後ほど再考する。


「である」ことと「する」こと 3 物神化・自己目的化

 「『である』ことと『する』こと」という文章は、様々な話題が「である/する」という対比に沿って整理される。

 冒頭2頁までで挙げた先の対比項目に、追加すべき語がある。「自己目的化・物神化」だ。

 これが「である」側に振り分けられることは、決して語義的にわかるわけではなく、文脈でわかる。

 すなわち「自己目的化―物神化―を不断に警戒し…」は「『である』化しないように絶えず『する』化し…」と言い換えられるのだと考えるから「自己目的化・物神化」は「である」なのだ。

 さてこの「自己目的化―物神化」とはどういうことか?


 「物神化」は語注がある。それだけではない。既に挙がっている項目との関連性・親和性も感じられる。どれ?

 「置き物」「祝福」である。

 「物神化」とは、それを「置き物」として据え、神の恩寵のように「祝福」するという意味だ。


 では「自己目的化」は?

 どういう意味か、という説明とともに、これを用いて前頁の「ナポレオン三世のクーデター・ヒットラーの権力掌握」の「歴史的教訓」を説明してみる。

 164頁の問題の箇所は、シンプルに言うと、民主主義は「である」ではなく「する」ことが大事だ、ということになる。それは同時に163頁の「教訓」でもある。

 ということは上の例は「自己目的化」したことによって「血塗られ」ているのである。どういうことか?


 「自己目的化」を説明するために考えるべきことは何か?

 既習事項だ。「自己目的化」とは「元々手段に過ぎないものが目的に置き換わり、本来の目的を忘れること」だった。

 つまり「目的」と「手段」を明らかにしなければならない。

 ここでの「目的」と「手段」とは?


 「民主主義」がどちらかであるわけではない。「民主主義」における「目的」と「手段」が何か、だ。

 「どちらも漢字二文字で」と言ったところ「自由」と「制度」が挙がった。

 「制度の自己目的化を不断に警戒し」とあるから、「制度」が「手段」だというのは正しい。だがここでの目的は「自由」?


 民主主義という制度の「目的」は国民の「自由」を保障することだ、というのは間違っていない。だがこの文脈で「民主主義」の「目的」を素直に表現するなら「国民に主権があることを保障する」といったところだ。「民主」とは「国民主権」の意味だ。つまり独裁や専制を許さないことが民主主義の目的なのだ。「自由」も「主権」に伴って保障される権利の一つである。

 そのための手段が「制度」だということなのだが、「民主主義という制度」は抽象度の高い表現だから、ここはさらに具体的な制度を想起するとよい。

 何を想起すべきか?


 例えば「立憲主義」とか「法治原則」なども候補として挙がるが、ここでは「選挙」が想起されるとわかりやすい。

目的―民主(国民主権)

手段―制度=選挙


 さて説明のお膳立てはできた。

 「ナポレオン三世のクーデター」がどのようなものかはよくわからなくても、論理的に推測できればいい。しなければならない。

 つまりナポレオン三世もヒトラーも選挙によって「民主」的に選ばれたのだ。そこでは目的のための手段だという建前に則っている。

 だがそれがやがて「自己目的化」する。「選挙」という「手段」が「目的」にすりかわってしまい、本来の目的「民主」が忘れられる。それが民主的な制度であることに「安住」して、人々が選挙結果を「物神化」し、「不断の検証」を怠っているうち何が起きるか?

 彼らは徐々に独裁的にふるまって、やがては本来の目的であった「民主」を機能不全にしてしまったのだった。

 これが歴史上起こった「制度の自己目的化ー物神化」の一例だ。


 こんなふうに、考えるためにも、説明するためにも対比を意識することは有効だ。

2021年1月13日水曜日

「である」ことと「する」こと 2 対比

 何をすべきかは、自分で思いつかなければならない。どのように読んでいくことが有効なのかは自覚しておくのが有効だ。

 この文章を読む上で有効な方略は、もう一つの既習メソッド、対比だ。


 この文章はどうみても対比的に考察が進んでいる。そうした対比を示す言葉が文中に散らばっている。それらを取り上げて整理し、通観する。

 探すため、また整理のためには、対比される領域にラベル=見出しをつけておくと便利だ(ラベルはある程度ピックアップが進んでからでもいい場合もある)。

 どんなラベルが適切か?

 明らかである。「である/する」だ。

 本文から、「である/する」のどちらかに分類できる表現を探し、本文にマークするとともに、ノートに書き出す。どちらも必要な作業だ。マークしてあれば、本文を読むときに頭が整理された状態で内容を把握できるし、ノートに書き出しておくと、一覧してその共通性が把握できる。


 さてしばらくはそうした頭の使い方に慣れるために、実際にやってみる。

 ポイントは、どちらかに振り分けられる特徴的な表現かどうかを判断することである。それは語義的に判断されたり、文脈的に判断されたり、さまざまな場合がある。

 まず冒頭の162ページから挙げてみる。下段に「債権者である/請求する」は「である/する」に傍点がふってあるから、明らかにそうした対比を表している。

 だがそれよりも、ここでマークしておくことに価値があるのは「債権者であることに安住していると」の「安住する」だ。これはもちろん「時効を中断する」と対比されているからそちらもマークしてもよい。だが「時効を中断する」は汎用性がない。「する」論理を表すには表現が限定的すぎる。それに比べて「安住する」は次の163ページにも使われる。

 「安住する」に比べて「債権者」は「である」論理を表しているわけではない。「である」がついているから「である」なのであって、「債権者である」と同様に「債権者する」状態を想定することもできるからだ(日本語としては不自然だが趣旨はわかる)。「請求する行為によって時効を中断する」はまさに「債権者する」ことである。その意味で「債権者」という言葉はそれ自体ではどちらにも振り分けられない。

 それに比べて「安住する」が「する」論理を表すことはない。だからこの言葉を「である」論理を表現しているとみなしてマークしておくことは有意義なのである。

 次ページ上段ではこの「安住する」が「行使を怠る」と言い換えられるから、逆に言えば「行使」は「する」だ。

 さらに下段では「行使」が「祝福」と対になる。


 同様に「不断の努力」を「する」に、「置き物」を「である」に挙げておきたい。「不断の」といった形容や、「置き物」のような比喩も、対比を示す重要な要素だ。

 そして章の見出しである「権利の上に眠る者」の中の「眠る」もまた「である」状態を示す比喩的な動詞である。


 個別の箇所の判断は、詳述していけば上記の様に、なぜどちらかに振り分けられるかの説明がつくが、実際には読みながら、何となくわかる、といった程度で構わない。挙げていくと、その共通性からどちらかであることが判断できるようになる。

 次の164ページからも探して、一度整理してみよう。

である/する

眠る/ 

安住する/行使する

祝福する/行使する

  置き物/不断の努力

惰性を好む/    

ひとにあずける/      

よりかかる/立ち上がる

   /点検・吟味・認識・判断・警戒・監視・批判

「属性」として内在する/そのつど検証される

定義や結論/プロセス


 こうして図式化したものを通観すると、この文章で「である/する」という対比で表したいものが見えてくる。

 ここまでは、我々の「姿勢」とでもいったような感じだ。「である」姿勢がどうなのか、「する」姿勢だとどうだというのか?


「である」ことと「する」こと 1 全体と部分

 今年度の授業は、年が明けて10回ほどしかない。この中で「『である』ことと『する』こと」「市民のイメージ」「南の貧困/北の貧困」「『贅沢』のすすめ」を読む。

 メインは「『である』ことと『する』こと」と「南の貧困/北の貧困」だが、後の二つはそれぞれと結びつけて読む。

 そして最終的には「『である』~」と「南の貧困~」を結びつける。

 そのために、さらに他に二つほどの文章を読みたい。

 正直、かなりきつい。

 まともな考察をするためには、まずテキストの情報を(表面的にではあれ)ひとまず把握するために、既に長い時間が必要になる。

 そこでそれぞれは冬休みに読むことにして、それを促す課題を出した。

 若干の未提出者がいるとはいえ、それらはシステムの不具合で提出できなかっただけだろうから、授業は、皆が既に上記の文章を読んでいて、それについて課題に答えるだけの考察もしてある前提で展開する。


 まずは「『である』ことと『する』こと」。

 今回は事前の授業準備に、「疑問点・考察したい点」を挙げよ、という課題を出しておいた。受身で授業に臨むのではなく、自分で問題意識をもっておこうというわけだ。

 それらの疑問は、文章全体の主旨にかかわるものと、部分的な表現にかかわるものとがあった。

 授業での読解は、これまでの評論教材でも、この「全体/部分」を行き来する形で読み進めていった。どちらかだけを先に完了することはできない。わかりにくいと感じられる「部分」を適切に理解したり説明したりするためには「全体」に対する見通しが必要だし、「全体」は「部分」の集積でできている。だから「行き来」が必要だ。これはどんな文章の読解でも鉄則である。

 とはいえ、とりあえずどちらかに手をつけるしかない。まず通読した。「部分」だ。では次に「全体」を?

 だが「『である』ことと『する』こと」は、この「全体」の把握がそもそも難しい。「ミロのヴィーナス」や「空白の意味」が一読しただけで、とりあえず「全体」の主旨がわかったようには、この文章は把握できない。

 例えば「全体」を把握しようという思考を促すためのメソッドが「問いを立てる」である→。 この文章の主旨を掴もうとし、それがどのような問いに対する答えなのかを想定する。その問いを「~か?」の形で表現する。

 だがこれが「『である』ことと『する』こと」では容易にはできない。ちょっと考えてみればわかる。「ホンモノのおカネの作り方」「ミロのヴィーナス」「ロゴスと言葉」に比べてもはるかに難しい。


 ではやはり、引き続き「部分」を?

 だが実は皆が疑問として挙げた「部分」の多くは、「全体」の主旨が凝縮した表現なのだ。

 その意味で目の付け所として適切ではあるが、ということは「全体」の把握ができなければ、その「部分」については考察も説明も議論もできないのである。「ミロのヴィーナス」でも「ロゴスと言葉」でも、そういった「部分」の考察は最後に回したのだった。

 さてどうするか?


 ということで、当然のことだが、まずは全体に関わる核心的な「部分」ではなく、冒頭から読む。そして段落ごとに把握する。

 このための思考が、各章一文要約である。「全体」を捉えるために、各章はなるべく短く圧縮しておく。

 これを例年は授業時に行っていたが、今回は冬休みの課題とした。

 そして、その範囲で考察できる部分的な「部分」を考察していく。

 つまり小さい範囲での「全体→部分」を繰り返していくのである。ある意味で授業の読解の常套手段だ。

 そのうえで、文章「全体」につなげていくための読解として何をすべきか?