全体は以上のような二段落構成をとっているのだが、予告したように、最終段落は後半の段落に含まれているというよりは、前後半をまとめて通観し、そこに筆者の主張を付け加える内容になっている。
この章で丸山はどのような主張をしているか?
まずそこまでの論旨はこうまとめられる。
丸山真男の分析に拠れば、現代日本の問題は、「政治・経済」は「非近代的」であり、「学問・芸術」分野は「過近代的」であることだ、ということになる。
そうした認識にたって、どうしようと言っているのか?
主張は明らかだ。章題に現われているように「価値倒錯を再転倒」しなければならない、であり、その「ために」、「文化の立場からする政治への発言と行動」が重要だ、というこということになる。
ここに見られる「文化/政治」という対比は「学問・芸術/政治・経済」という対比に他ならない。つまり「『である』立場から『する』活動へ発言・行動する」ことが求められているわけだ。
まさにそうした行動によって「である」価値と「する」価値の倒錯――前者の否定し難い意味をもつ部面に後者が蔓延し、後者によって批判されるべきところに前者が居座っているという倒錯を再転倒する道がひらかれるのです。
ここでもまた「非近代/過近代」が対比的に表現されている。
「である」価値の否定しがたい意味を持つ部面(学問・芸術)に「する」論理が蔓延している状態が「過近代」。
「する」論理によって批判されるべきところに「である」論理が居座っている状態が「非近代」。
つまり「倒錯」とは「非近代/過近代」であることに他ならない。
だから「非近代的」な「面」では正しく「する」化し、「過近代的」な「面」には「である」価値を見直すことこそ「再転倒」なのだ。
ここでわかりにくいのは「である」価値だ。「する」価値・論理は最初のうちマークした表現でつかめている。そこでは「する」価値・論理は肯定的な意味合いで捉えられていた。前半は「する」推しだったわけだ。
だが後半の「である」推しは、どのような意味でそれを価値あるものと見なしているか?
対比表現をピックアップしてみる。
対比的に明示されている表現は次の二つ。
花/果実
それ自体/結果
「である」価値を示す「花」は比喩だし「それ自体」もわかりにくい。
「花」という比喩はどのような意味合いを表わしているか?
「である」価値を示す表現は少ないが、実は「する」価値を示す表現は、後半に入っても様々に言い換えられて頻出している。170~172頁から挙げてみる。
- 効用と能率原理
- 有効に時間を組織化する
- 効果と卑近な「実用」の規準
- 果たすべき機能
- 大衆の嗜好や多数決
- 不断に忙しく働いている
「である」価値=「それ自体としての価値」は、これら「する」価値とは反対方向を向いた価値、ととりあえずは把握できる。つまり
- 「効用・効果・実用性・機能」などによって決められない価値
- 多数決で決められない価値
- 忙しく時間を使うことよりも、蓄積することで生ずる価値
といったようなものが「それ自体」としての価値=「である」価値なのだと考えておく。
「花」はそういった価値を喩えたものだ。「花」は食べられない。おいしいわけでも栄養があるわけでもない。だから「効用・効果・実用性・機能」的には価値がない。だがそれに例えば「美」を見出す者にとっては「それ自体」に価値がある、と言っているのだ。
「である」価値を示すフレーズはもう一つある。「かけがえのない個体性」だ。
「かけがえのない」というのは「交換できない」という意味だ。
「する」価値は、「果たすべき機能」が満たされればいいのだから、それを為す主体は交換可能である。誰がやってもいい。問題は「効果」や「結果」なのだから。
政治はこれらの「する」価値の実現を目指している。
だがそれだけを重視することは、今度は、「である」価値=「かけがえのない個体性」がもつ「それ自体」の価値の否定・軽視、すなわち「過近代」という「倒錯」を生む。
だからこそ「である」=「文化」=「学問・芸術」からの発言と行動によって、その「倒錯」を「再転倒」しようというのである(もちろん一方の「非近代」という「倒錯」もまた「再転倒」されなければならない)。
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