「『である』ことと『する』こと」という文章は、様々な話題が「である/する」という対比に沿って整理される。
冒頭2頁までで挙げた先の対比項目に、追加すべき語がある。「自己目的化・物神化」だ。
これが「である」側に振り分けられることは、決して語義的にわかるわけではなく、文脈でわかる。
すなわち「自己目的化―物神化―を不断に警戒し…」は「『である』化しないように絶えず『する』化し…」と言い換えられるのだと考えるから「自己目的化・物神化」は「である」なのだ。
さてこの「自己目的化―物神化」とはどういうことか?
「物神化」は語注がある。それだけではない。既に挙がっている項目との関連性・親和性も感じられる。どれ?
「置き物」「祝福」である。
「物神化」とは、それを「置き物」として据え、神の恩寵のように「祝福」するという意味だ。
では「自己目的化」は?
どういう意味か、という説明とともに、これを用いて前頁の「ナポレオン三世のクーデター・ヒットラーの権力掌握」の「歴史的教訓」を説明してみる。
164頁の問題の箇所は、シンプルに言うと、民主主義は「である」ではなく「する」ことが大事だ、ということになる。それは同時に163頁の「教訓」でもある。
ということは上の例は「自己目的化」したことによって「血塗られ」ているのである。どういうことか?
「自己目的化」を説明するために考えるべきことは何か?
既習事項だ。「自己目的化」とは「元々手段に過ぎないものが目的に置き換わり、本来の目的を忘れること」だった。
つまり「目的」と「手段」を明らかにしなければならない。
ここでの「目的」と「手段」とは?
「民主主義」がどちらかであるわけではない。「民主主義」における「目的」と「手段」が何か、だ。
「どちらも漢字二文字で」と言ったところ「自由」と「制度」が挙がった。
「制度の自己目的化を不断に警戒し」とあるから、「制度」が「手段」だというのは正しい。だがここでの目的は「自由」?
民主主義という制度の「目的」は国民の「自由」を保障することだ、というのは間違っていない。だがこの文脈で「民主主義」の「目的」を素直に表現するなら「国民に主権があることを保障する」といったところだ。「民主」とは「国民主権」の意味だ。つまり独裁や専制を許さないことが民主主義の目的なのだ。「自由」も「主権」に伴って保障される権利の一つである。
そのための手段が「制度」だということなのだが、「民主主義という制度」は抽象度の高い表現だから、ここはさらに具体的な制度を想起するとよい。
何を想起すべきか?
例えば「立憲主義」とか「法治原則」なども候補として挙がるが、ここでは「選挙」が想起されるとわかりやすい。
目的―民主(国民主権)
手段―制度=選挙
さて説明のお膳立てはできた。
「ナポレオン三世のクーデター」がどのようなものかはよくわからなくても、論理的に推測できればいい。しなければならない。
つまりナポレオン三世もヒトラーも選挙によって「民主」的に選ばれたのだ。そこでは目的のための手段だという建前に則っている。
だがそれがやがて「自己目的化」する。「選挙」という「手段」が「目的」にすりかわってしまい、本来の目的「民主」が忘れられる。それが民主的な制度であることに「安住」して、人々が選挙結果を「物神化」し、「不断の検証」を怠っているうち何が起きるか?
彼らは徐々に独裁的にふるまって、やがては本来の目的であった「民主」を機能不全にしてしまったのだった。
これが歴史上起こった「制度の自己目的化ー物神化」の一例だ。
こんなふうに、考えるためにも、説明するためにも対比を意識することは有効だ。
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