2021年1月18日月曜日

「である」ことと「する」こと 3 物神化・自己目的化

 「『である』ことと『する』こと」という文章は、様々な話題が「である/する」という対比に沿って整理される。

 冒頭2頁までで挙げた先の対比項目に、追加すべき語がある。「自己目的化・物神化」だ。

 これが「である」側に振り分けられることは、決して語義的にわかるわけではなく、文脈でわかる。

 すなわち「自己目的化―物神化―を不断に警戒し…」は「『である』化しないように絶えず『する』化し…」と言い換えられるのだと考えるから「自己目的化・物神化」は「である」なのだ。

 さてこの「自己目的化―物神化」とはどういうことか?


 「物神化」は語注がある。それだけではない。既に挙がっている項目との関連性・親和性も感じられる。どれ?

 「置き物」「祝福」である。

 「物神化」とは、それを「置き物」として据え、神の恩寵のように「祝福」するという意味だ。


 では「自己目的化」は?

 どういう意味か、という説明とともに、これを用いて前頁の「ナポレオン三世のクーデター・ヒットラーの権力掌握」の「歴史的教訓」を説明してみる。

 164頁の問題の箇所は、シンプルに言うと、民主主義は「である」ではなく「する」ことが大事だ、ということになる。それは同時に163頁の「教訓」でもある。

 ということは上の例は「自己目的化」したことによって「血塗られ」ているのである。どういうことか?


 「自己目的化」を説明するために考えるべきことは何か?

 既習事項だ。「自己目的化」とは「元々手段に過ぎないものが目的に置き換わり、本来の目的を忘れること」だった。

 つまり「目的」と「手段」を明らかにしなければならない。

 ここでの「目的」と「手段」とは?


 「民主主義」がどちらかであるわけではない。「民主主義」における「目的」と「手段」が何か、だ。

 「どちらも漢字二文字で」と言ったところ「自由」と「制度」が挙がった。

 「制度の自己目的化を不断に警戒し」とあるから、「制度」が「手段」だというのは正しい。だがここでの目的は「自由」?


 民主主義という制度の「目的」は国民の「自由」を保障することだ、というのは間違っていない。だがこの文脈で「民主主義」の「目的」を素直に表現するなら「国民に主権があることを保障する」といったところだ。「民主」とは「国民主権」の意味だ。つまり独裁や専制を許さないことが民主主義の目的なのだ。「自由」も「主権」に伴って保障される権利の一つである。

 そのための手段が「制度」だということなのだが、「民主主義という制度」は抽象度の高い表現だから、ここはさらに具体的な制度を想起するとよい。

 何を想起すべきか?


 例えば「立憲主義」とか「法治原則」なども候補として挙がるが、ここでは「選挙」が想起されるとわかりやすい。

目的―民主(国民主権)

手段―制度=選挙


 さて説明のお膳立てはできた。

 「ナポレオン三世のクーデター」がどのようなものかはよくわからなくても、論理的に推測できればいい。しなければならない。

 つまりナポレオン三世もヒトラーも選挙によって「民主」的に選ばれたのだ。そこでは目的のための手段だという建前に則っている。

 だがそれがやがて「自己目的化」する。「選挙」という「手段」が「目的」にすりかわってしまい、本来の目的「民主」が忘れられる。それが民主的な制度であることに「安住」して、人々が選挙結果を「物神化」し、「不断の検証」を怠っているうち何が起きるか?

 彼らは徐々に独裁的にふるまって、やがては本来の目的であった「民主」を機能不全にしてしまったのだった。

 これが歴史上起こった「制度の自己目的化ー物神化」の一例だ。


 こんなふうに、考えるためにも、説明するためにも対比を意識することは有効だ。

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