「『である』ことと『する』こと」は、前半では日本の「非近代的」な「面」について述べ、後半では「過近代的」な「面」について述べている、と把握される。
「日本の急激な『近代化』」の章(169頁)は前半と後半のいわば橋渡しだと考えればいい。最後の「価値倒錯を再転倒するために」(172頁)は全体のまとめだ。
ここまでの考察はかなり論理的に進めているが、それよりもまずは漠然と「前半は『する』推しだったのに、何だか後半は『である』推しになってるなあ。」くらいの捉え方はしてほしい。
つまり「する」推しなのにそうなってないから「非近代的」だということで、「である」推しなのに「する」が蔓延してくるから「過近代的」だということだ。
これがピンとくるためには、この文章の「近代」が「である」→「する」という移行・転換だと捉えられていることが必須だ。
その上で最終段落がよくわからないから「結局どっちなんだ?」という「疑問」も挙がっていた。これは後で考察する。
では、何については「する」推しなのだろう? 「である」推しなのは?
これが保留にしていた、前半・後半の「面」とは何か、である。
「非近代的」な「ある面」、「過近代的」な「他の面」とはそれぞれ何のことか?
前半と後半を大づかみにして、抽象度の揃った語で表現することを目標として、ひとまずは様々な話題を取り出して総覧してみよう。
どんな言葉を取り上げれば良いか?
前半
権利 自由 民主主義 制度 近代
徳川時代 身分 人間関係 業績 会社 組織
後半
宿屋/ホテル 休日 論文 教養 古典
あれこれとキーワードを挙げてみたが、上にはまだ、「抽象度の揃った語」はまだ挙がっていない。
これらのキーワードを包括する、前半と後半でバランスのとれた抽象度の言葉は何だろう?
文中で、これらの言葉が対比的に使われるのは171頁上段の一度きりだ。
それは「政治・経済」/「学問・芸術」である。
全体を把握しようと意識したとき、確かに前半では「政治・経済」という言葉で括れる領域については「する」であるべきだと言い、後半では「学問・芸術」とまとめられる領域について「である」であるべきだと言っているのだ、と考えると、にわかに全体の構造が腑に落ちないだろうか(各クラスで最初にこれを指摘した人は素晴らしい!)。
そして文中で様々な例で指摘されているのが、そこに起きている「倒錯(錯誤した転倒)」なのだということが腑に落ちないだろうか。
「『である』ことと『する』こと」という文章の読解の核心はここである。
全体を「非近代/過近代」という二つのまとまりで捉えること。
そしてそれぞれが対象としている領域・「面」を「政治・経済」/「学問・芸術」という、抽象度の揃った概念語で捉えること。
この二つができれば、読解のおおよそは完了したと言っていい。
残りは?
最も厄介な「主張」と「部分」である。
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