2021年1月28日木曜日

「である」ことと「する」こと 7 前後半の対比構造

 「『である』ことと『する』こと」を前後半二つの大段落のまとまりとして把握する。

 「『である』ことと『する』こと」の場合、これら二つの大段落は対比的に表現できる。したがって、片方ずつが把握されるのではなく、同時に発想されるはずだ。

 対比的?

 ということは「である/する」という対比?

 発想は悪くない。だが単に前半が「する」だとも「である」だとも言えないし、後半も同様である。


 このあたりでそろそろ、結びついてほしいところだ。

 先に留保した問題である。

 再掲する。

ある面では甚だしく非近代的でありながら、他の面ではまたおそろしく過近代的でもある現代日本の問題(165頁下)

 さらに、この一節にも重なる。

一方で「する」価値が猛烈な勢いで浸透しながら、他方では強靱に「である」価値が根を張り(169頁下)

 さらにこれが169~170頁の一節にも重なる。

厄介なのは、「『する』こと」の価値に基づく不断の検証が最も必要なところでは、それが著しく欠けているのに、他方さほど切実な必要のない、あるいは世界的に「する」価値のとめどない侵入が反省されようとしているような部面では、かえって効用と能率原理が驚くべき速度と規模で進展しているという点なのです。(169頁下~)


 これら3箇所は同じことを言っているのであり、これが、「『である』ことと『する』こと」全体を二つに分けたときのそれぞれの「まとまり」をも示しているのだと気づくと、全体が把握される。


 すなわち文章全体は、前半が

ある面では甚だしく非近代的

  ↓

他方では強靱に「である」価値が根を張り

  ↓

「『する』こと」の価値に基づく不断の検証が最も必要なところでは、それが著しく欠けている


 について述べ、後半は

他の面ではまたおそろしく過近代的

  ↓

一方で「する」価値が猛烈な勢いで浸透

  ↓

他方、世界的に「する」価値のとめどない侵入が反省されようとしているような部面では、かえって効用と能率原理(=「する」原理)が驚くべき速度と規模で進展している

 について述べているのである。


 いよいよ保留にしていた「面」に光をあてる。前半と後半はどのような「面」について論じているのだろうか?


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