2021年5月27日木曜日

情報流

 最後に用意した「情報流」は充分な時間がとれなかった。「内閉化する『個性』」と「情報流」にそれぞれ1時限を使えたクラスが一つだけあったが、どちらの考察も1時限を使ってさえ、まだまだ深めることができそうだという手応えだった。

 これまでの読み比べ同様、切り口によって、さまざまな分析が可能だ。

 ただ、西垣通の「情報流」の比較は、ここまでの3編とは違った難しさがある。抽象度の違うところに土俵を設定する必要があるのだ。

 ここまでの鷲田、斎藤、平野、土井は、言わば「自分」論だ。主観的な自己意識の様相について、その背景からの分析を述べている。

 それに対し、「情報流」は言わば「人間」論であり、その図地一体となった「社会」論である。「人間」についてのある見方が提示されていて、上の諸氏の論は、それらの見方の内部で、それらの人々が「自分」をどう捉えているかという主観が問題にされている、と言える。

 どのような「人間」観が提示されているか?


 対比構造は明確だ。

孤立した個人/情報流の一部

 ここに時間軸を持ち込んで、三層の対比図を画く。

 プレモダン/ モダン  /ポストモダン

共同体の一部/孤立した個人/情報流の一部


 この、近代(モダン)的「個人」観が、鷲田の言う「自由な個人」であり、斎藤・平野・土井らの言う「本当の自分」の幻想につながってくる。

 それに対して西垣の描く「個人」は、「情報システム」の一部だ。そこでは「個人」は、周囲の世界の構造の中に置いて捉えられ、「個」と「群」が入れ子状のフラクタル図形的イメージで描かれている。身体精神社会も、それぞれ「情報流」のアナロジーで捉えられている。

 とすれば、「情報流」の考え方による「個人」は、平野の言う「分人」や、土井の言う「社会的個性指向」につながってくる。

 つまりみんな「近代」的人間観に対する反省や批判としてそれぞれの論を構築していると言っていいのである。


 一方「『である』ことと『する』こと」は、特に前半部の「非近代」批判においては、正しい「近代」を目指すべきだと言っている。それは自律した個人が集まって作る社会のイメージだ。丸山にとって「近代」はまだ明るく輝く未来だったのだ。

 それは「『市民』のイメージ」にも共通している。アメリカの陪審員制度をモデルに日野啓三が描きだす「市民」は、西垣の言う「神の理性を分有する」「個人」である。新興国アメリカをモデルにすれば、近代もまだまだ新鮮な理想と見える。

 そこに「自由や責任」が生ずる。そしてそれは同時に「つながっていたい」という寂しさをも生む。


 一見したところ無関係に見えるそれぞれの論が、「近代」を接点としてあらたな相貌を見せる。


内閉化する「個性」

 土井隆義の「内閉化する『個性』」を読む。

 土井氏は筑波大教授の社会学者で、2016年のセンター試験に「キャラ化する/される子どもたち」が出題された。どこかで聞いたような題名だ。

 2018年には、河合塾と筑波大学の「オーサービジット事業」で本校を訪れた

 ここでも取り上げられている著書の一節が本文で、慶應大学の入試に出題された文章でもある。


 分析のために対比をとる。

 対比らしき記述が登場するのは30行を過ぎてからの次の記述。

現代の若者たちは、自分をとりまく人間関係や自分自身を変えていくことで得られるものをではなく、生まれもったはずの素朴な自分のすがたを、そのまま自らの個性とみなす傾向にあります。彼らにとっての個性とは、人間関係の関数としてではなく、固有の実在として感受されているのです。

 ここにみられる2度の「ではなく」が対比を表わしているのは意識すべきだ。

  固有の実在/人間関係の関数

 文中の出現順を入れ替えたのには訳がある。

 対比に付けるラベルとしては、言葉が揃っていた方が整理しやすいので、探していけば次の用語が見つかる。

内閉的個性指向/社会的個性指向

ここに、文中からあれこれの言葉を抜き出して配置する。

     身体/言葉

  内発的衝動/社会関係

刹那的・断片化/持続性・統合性

 そしてこの文章では、今までの文章と共通する「キャラ」「本当の自分」という言葉が、左辺に配せられる。


 さて、この左と右の配置は、ここまで読んできた文章との対応を見易くするために敢えて文中の登場順を入れ替えてある。

  固有の実在/人間関係の関数

といった対比を「である/する」と対応させると、斎藤の次の対比が同じ向きで並ぶことになる。

      必然/偶然

     固有性/匿名性

  キャラクター/キャラ

   記述不可能/可能

 「固有」が左辺にくるという対応が認められるし、斎藤の「キャラ」は土井の言う「人間関係の関数」によって成立していることも一致する。

 右辺では「言葉」が人格の「持続性・統合性」を保障するのだが、これは斎藤の「キャラ」は「記述」することで自己同一性を維持する、という認識に対応する。

 その上で土井は右辺を肯定的に評価し、斎藤の描く右辺的若者像は悲劇的な色合いを帯びている。

 「偶然」や「匿名」も土井の論との対応がよくわからないが、無理矢理言えば、「社会関係の関数」で個性が決まるということは、そうした自己は入れ替え可能な「匿名性」を帯びたものと捉えることができるかもしれないし、そうした認識の背景には「全てが偶然教」の信仰があるということも、全くできないわけではないかもしれない(曖昧な言いよう!)。

 まあ、二人の対比軸が同一のものだという保証はないので、こうした齟齬はやむをえまい。


 平野の論ではどうか?

内閉的個性指向/社会的個性指向

 を連想させるのは「キャラ/分人」の対比だ。「キャラ」は「インタラクティブでない」し、「分人」は人間関係によって生ずる。

 その上で、生まれついた「固有の存在」を「本当の自分」と見なす左辺的認識を否定して、「分人」こそ自分の「個性」だという右辺的人間観を提示しているという点で、平野の論と土井の論は一致している。


 上記のような分析は別に「正解」というわけではない。

 「分人」も上のように言えば右辺だが、「断片化」した「寄せ木細工」のような自己イメージは、複数の「分人」の集合を「自分」と考えるイメージに近いように見える。「断片化」は左辺だ。

 そもそも「分人」は「キャラ」と対比されているわけではなく「個人」との対比だ(そしてこの「個人」が問題になるのが次の「情報流」との読み比べだ)。

 それぞれの論の対比軸が揃っているわけではないから、分析の切り口によって、それぞれの論はさまざまに分析できる。


2021年5月26日水曜日

「本当の自分」幻想 3 賛否を問う

 斎藤と平野が、他者とのコミュニケーション(相互作用)によって、「自分」というもののある側面が作られているという認識で一致していることは認めていい。だがそれ以外の相違点は結局何なのか?

 そしてそうした相違はなぜ生じたのか?

 さらに、みんな自身は、そのどちらに賛成したいのか?


 ここから先は正解のない考察になる。それぞれがどう自分の考えをまとめるかが問われる。

 だがそれも、元になるテキストの読解をねじ曲げて良いわけではない。その適否を判断するのはとても難しかった。

 前回取り上げた、

平野 「本当の自分」には実体がない

斎藤 自らの「固有性」には根拠がない

 が、共通性よりもむしろ相違を表わしているという解釈、

平野 「本当の自分」はない

斎藤 「固有性」はある

 は、「ない/ある」という対立が相違を表わすように併置してあるのだが、そもそも「本当の自分」と「固有性」が等置できるのかに疑問の呈されたクラスもあった。


 また、前回の鷲田と平野の比較からわかるように、「誰がそれを語っているのか」を明らかにしないと、それらが対立するかどうかも明らかにはならない。

 例えば平野は自分の意見としてある考えを表明しているが、鷲田や斎藤は「~と若者は考えている」と言っている部分も多い。だから、平野と、鷲田や斎藤の描写する「若者」の意見が相違しているとしても、それに対して鷲田や斎藤がどう考えているのかはそれと切り分けて慎重に検討しなければならない。


 それでも平野と斎藤はやはり対立しているのだろうか?


 斎藤は「キャラ」を否定的に捉えているように見えるし、平野は「分人」を新しい人間観として肯定的に提案しているように見える。

 それはもともと次のような相違から導かれている。

斎藤環

 人にはおそらく〝幸福の才能〟というものがある。偶然の成功体験を、これは必然の運命だったと自分に信じ込ませる才能のことだ。そうした必然性への〝信仰〟が、自らを取り替えのきかない固有の存在であるとみなす確信の基盤にある。

平野啓一郎

私たちは、唯一無二の「本当の自分」という幻想に囚われてきたせいで、非常に多くの苦しみとプレッシャーを受けてきた。


 自らの「固有性」を信じることが〝幸福〟だという斎藤に対し、「本当の自分」を信じると「苦しみとプレッシャーを受け」ると平野は言う。

 だがこれも、斎藤は、信じられれば〝幸福〟だが、信じられないので「キャラ」を作ることになり、それは悲劇的だと言っているわけで、どこかにある「本当の自分」の幻想こそ不幸のもとだから、すっぱりと「分人」を信じましょうという平野の提案は、むしろ斎藤の現状認識に対する処方箋になっているとも言える。

 斎藤がそれを受け容れることはないのだろうか?


 実際、みんなの中でも平野の考え方に共感する者が多かった。わかりやすいしハッピーなイメージがある。

 ただし、「分人」は全て「本当の自分」だ、という捉え方には違和感がある、という意見も出た。さまざまな「分人」の中にはそれぞれの濃淡があり、その中にはやはり「偽りの」自分だと感じられるものもある、と。

 単純に「キャラ」=「分人」という前提も成立しているかどうか怪しいし、「キャラ」全否定、「分人」全肯定というわけにもいかない。

 「キャラ」という概念と「分人」という概念の関係についてもさまざまな見方が提示された。それぞれに有益な議論だった。


 それでもやはり1975年生まれの平野と1961年生まれの斎藤の世代差は、読者にも感じられる。鷲田・斎藤の認識を乗り越える視座を平野は提示しているのではないか、と。


 一点、耳目に入りやすい平野の論についての異論を提示しておく。

 平野の描写する「分人」と斎藤の描写する「キャラ」、それぞれ誰をモデルにしているか?


 平野の「分人」の発想は、自らの実感を元にしている。

 一方、斎藤の分析は「若者」をモデルにしている。これは精神科医として接してきた患者や、大学教授として接する悩める大学生がモデルということではないか?

 そう考えてみたとき、平野の提示する「分人」モデルは、あまりにうまくいきすぎているのではないか、という疑問が生じないだろうか?

 斎藤の言及する「不本意なキャラ」や、「キャラ」を喪失することの恐怖は、平野の論では言及されない。「キャラ」を「降りる」ことはできないと斎藤は言うが、平野は「降りればいいじゃん」と言うだろう。だが、それは誰にも可能なことなのだろうか?

 この点をめぐって「極めつけの難問」と言う斎藤の「精神科医としての困惑」は、少なくとも平野の論の記述からは解消しないように思える。


2021年5月21日金曜日

「本当の自分」幻想 2 共通と相違の再検討

 「分人」という珍奇な造語によって、相手との相互作用によって生じた自分の、ある側面を肯定的に捉える概念を提起する平野に対し、斎藤の、「キャラ」という言葉の若者による使い方から見えてくる病理を描写する斎藤は、もしも面と向かって対談することがあれば、この点をめぐって対立するのだろうか?


 ちなみに鷲田清一はどう言うだろう?

(若者が他者とのつながりを求めているのは)なんの条件もつけないで「このままの」自分を認めてくれる他者の存在に渇くということだ。上手に「条件」を満たすさなかに、もしこれを満たせなかったらという不安を感じ、かつそれを(かろうじて?)上手に克服している自分を「偽の」自分として否定する、そういう感情を内に深く抱え込んでいる

 他者との関係の中で「条件」を「上手に克服している自分」とは、斎藤の「キャラ」であり、平野の「分人」のように見える。とすると、それを「『偽の』自分として否定する」のは、「キャラ」を否定的なニュアンスで語る斎藤の認識に近いと言っていいだろうか?


 いや、「否定する」のは若者であって、鷲田ではない。鷲田が、否定すべきだと言っているわけではない。

 とすれば、積極的に「分人」を認めるべきだという平野の主張と対立するわけではなく、むしろ平野は若者が「否定する」ように追い込まれているような前提そのものに対する異議を唱えているのだから、そうして苦しんでいる若者を見つめる鷲田と斎藤は同盟者なのかもしれない。


 とすれば、斎藤と平野の主張も、前回の「抽象化」のように相違しているわけではないのかもしれない。


 例えば、前回、共通認識として提出された次のフレーズについても検討する余地がある。

平野 「本当の自分」には実体がない

斎藤 自らの「固有性」には根拠がない


 「本当の自分」と「固有性」が対応するとしても、平野の「実体がない」と斎藤の「根拠がない」とを、同じだと見なしていいかどうか。

 「根拠がない」は「つまり記述不可能だ」と言い換えられている。これは、記述できるような形で根拠を指し示すことができないというだけで、裏返して言えば、記述のできない「固有性」は、その存在が前提されているということだとも言える。

 とすればこれは共通認識と言うより、むしろ相違点を示しているのだ、という意見が出たクラスもあったのだった。

平野 「本当の自分」はない

斎藤 「固有性」はある


 同じだということも違うということも、表面的な言葉の比較だけですぐさま判断できるわけではない。

 その中で、それでも二人の主張には違いがあると言える部分はどこか?


「本当の自分」幻想 1 共通点と相違点

 ここに平野啓一郎「『本当の自分』幻想」をぶつける。

 1学年の「国語総合」の教科書に収録されていた文章だが、授業で詳細に読解したというわけでもないらしく、皆、見覚えはあるが内容はどうだったか、といった曖昧な反応だった。


 題名の通り、これは「自分」論だから、鷲田-斎藤ラインには載ってくるが、丸山真男にはやや縁遠い。とはいえ「である/する」は考える/語る枠組みとして使い回せばいいのだ。


 対応関係を探るというのが毎度のパターンだが、読んでみると、今回は相違点が意識されてこないだろうか?

 特に主張の方向性が見易い斎藤「『キャラ』化した若者たち」と比較したい気がする。

 とはいえ「相違」として意識されるのは、共通した土俵で比較するからだ。だからまずは共通点、共通認識を明らかにして、その上で相違点を探る。


 共通点/相違点、どちらも抽象化の能力が問われる。それぞれの文章の言葉のままでは、同じとも違うとも言えない。

 むしろ、同じ言葉が使われていても、それが文中の使われ方によって定義される意味合いが違えば、そのままで「相違」とも言えるし、だからといって主張が「相違」しているとは言えないのだ。

 例えば平野は

キャラという比喩は…インタラクティブでない印象を与える

というが、斎藤は

「キャラ」を維持させてくれるのが、コミュニケーションの力なのである

という。

 「インタラクティブ(相互的)」と「コミュニケーション」を同じ趣旨だとみなすと、まるで正反対のことを言っているように見えるが、これは見解が相違しているというより、「キャラ」という言葉の文中での使い方が違うのだと感じられる。

 平野の文中から、上の斎藤の言葉に近い意味合いの一節を抜き出すなら「分人は…相手との相互作用の中で生ずる」だろう。

 ここでは「コミュニケーション」と「インタラクティブ・相互作用」を同じものとみなしているのだから、斎藤の「キャラ」と平野の「分人」が対応していると考えられるわけだ。


 上の認識の前提として、次の記述を共通性として挙げた班があった。

平野 「本当の自分」には実体がない

斎藤 自らの「固有性」には根拠がない

 そこから次の認識に至るわけだ。

平野 「分人」は他者との相互作用で生ずる

斎藤 「キャラ」は相手とのコミュニケーションで維持される


 ここでの抽象化とは、文型を揃えて、そこで対応する成分を交換可能と見なせるかどうかを検討するということだ。

 これらの対応を認めるならば、まずは二人には共通した認識があるということになる。


 さてその上で相違点をどう抽象化するか?

平野 「分人」は流動的・可変的

斎藤 「キャラ」は同一性の維持こそが目的(固定化を指向する)


平野 「分人」こそ自分自身

斎藤 「キャラ」は偽の自分


 さらに平野は「分人」という概念を肯定的に提起しているが、斎藤は「キャラ」の負の面を描写している。


 まずはこうした共通点と相違点の把握が妥当なものかを疑うことも必要だ。抽象化の過程で、不適切な言い換えをしていないか?

 そのうえで、これを認めるとして、次はこの相違について、皆の賛否を問いたい。

 もちろん心情的な共感というだけでなく、それぞれの論の論理をたどり直して、その適否を問題にするのである。

 そこに何が見えてくるか?


2021年5月14日金曜日

「キャラ」化する若者たち 4 「再帰的」とは?

 さて、大きな認識の枠組みとして、斎藤・鷲田・丸山に共通する構造があることを見てきた。

 近代化する中で見失われそうな「自己」への不安が、他者とのコミュニケーションを求める。他者の承認によってかろうじて「自己」が確かめられる。

 そうした「自己」を安定させるコミュニケーションを、斎藤は「再帰的コミュニケーション」と呼ぶ。

 再帰的コミュニケーションがキャラの同一性を維持するとはどういうことか?

 そもそも「再帰的」とはどういう概念か?


 なんとページを捲った22ページに語注がある。なぜ初出の20頁に置かない? 余白の問題だろうか。

 ともあれ、ここには「自己言及的なコミュニケーションのこと」とある。辞書的な説明はそうだ。

 だが「自己言及的」も同様にわかりにくいのではなかろうか。語注のそれ以降の説明もちょっと怪しい。

 付属の解説小冊子でも、「再帰的自己同一性」について「他者とのコミュニケーションの中で自らそのキャラを演じ続けるという自己言及」などと説明しているが、これが間違っているとは言わないが、どうも「自己言及的」の「自己」を、演じる本人、「自分」のことだと思っているんじゃないかという感じもする。怪しい。


 「再帰的」も「自己言及性」も、昨年の「山月記」で触れている。李徴が「虎になった」メカニズムを説明する際に使った概念だ。各クラスでこれをすぐに想起できたのは数少ない人たちだけだが、学習が定着していて嬉しい。

 補助線として「鶏が先か、卵が先か」のパラドクスや、フラクタル図形の作り方を「再帰的」の例として参照することもヒントとした。


 「再帰的」「自己言及性」「鶏が先か、卵が先か」「フラクタル図形」の四つに共通する性質を2点挙げる。

 こういう時に必要とされるのがまたしても抽象化の能力だ。


 上の四つに共通する性質は次のように表せる。

結果が原因に帰って循環する。

 結果が原因に「帰」って、「再」び原因となる。原因も結果もそれ自身の一部だから、それを指して「自己」と言っているのであり、原因が結果を一部として含んでいることを「言及」と言っているのだ。

 卵から鶏が生まれるのだから卵が「原因」、鶏が「結果」だが、その鶏が卵を産むのだから、鶏が「原因」で卵が「結果」だとも言える。循環の中ではどちらもが原因とも結果とも言える。

 図形の細部に、図形全体と同じ形のミニチュアが描き込まれている。ミニチュアの細部にはさらに小さな全体図が描き込まれている。どれが元(原因)なのかコピー(結果)なのか決定できない。細部にそれ自身の全体が再現されている(自己言及)。フラクタル図形とはそのような図形だ。

 このメカニズムを上記の「キャラの同一性」に適用する。


 あるふるまいを相手に「お前って陰キャだよね」と言われる。そうか、と自分でも思う。そうするとその相手には「陰キャ」としてふるまうようになる。そうするうちに「お前って陰キャだ」と言われ…。

 ふるまいが先か、キャラ認定が先か。


 「山月記」の「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」もそうした再帰性をもった循環をつくる絶妙な設定だった。尊大だからこそ臆病になるのであり、そうした羞恥心が自尊心の満足を阻害する。互いが互いの原因であり結果であり…。


 再帰的コミュニケーションがキャラの同一性を維持するという仕組みを、スッと受け取るためには、こうした理解が予め必要であり、斎藤環はそれを読者に要求している。

 これは読者に対して不親切か?

 いやむしろ読者への信頼かもしれない。


「キャラ」化する若者たち 3 鷲田と斎藤の共通点

 対比図を画くことは、思考や議論の整理のためにきわめて有益だ。

 文中の語をマークするのは、文章を読み返す便を高めるが、ノートなどに書き出してレイアウトするのにはまた別の便益がある。全ての論理操作を頭の中だけでやろうとするのは無理がある。とりわけ、他人との議論においては、共有できる視覚情報があると便利なのは間違いない。

 そして、これは自分で画かなければならない。対比図を画くこと自体が学習だからであり、できあがったものは、まあそれを「使う」ならば良いが、それを「理解する」などというのは国語学習の目的ではない。したがって、黒板に画かれるのを待ってノートに写すなどというのは本末転倒である。


 さて、丸山の「である/する」図式は、左から右への移行を「近代化」と捉えていて、この推移は鷲田にも斎藤にも共通だ。

 尤も斎藤がそれを「近代化」と呼ぶ保証はない。文中では「多くの若者が(必然性への)〝信仰〟を捨てつつある」「諸般の事情から『すべては偶然』教の勢力が優勢である」という言葉で、左辺から右辺への移行を表現しているが、これを「近代化」と見なすのはこちらの解釈の仮説だ。


 「ぬくみ」の対比図と「『キャラ』化する若者たち」の対比図が、同じ軸に基づく対比なのだと見なせるなら、2人の認識は共通していると考えていいわけだ。

 例えば「キャラ」とは、友人との関係における「資格・条件」なのだと言えるのでは? 免許という資格があることによって自動車の運転が許されるように、ある人は「いじられキャラ」認定という「資格」を得ることで友人関係への参加が許されているのかもしれない。


 対比図とその対応が見渡せたことで最初の問い、二つの文章の主旨が共通していることが言えるかどうか、あらためて考える。

  • 若者はつながりを求めている。
  • 若者は「キャラ」化している。

 両者が共通していることを示すため、同じ言い方で両者に適用できる表現を考えてみる。

 上の二つの、原因は何か? なぜ「つながりを求めている」のか? なぜ「キャラ」化しているのか?

 もちろん「近代化」が原因だといえば共通していることになるのだが、「近代化」だと抽象度が高すぎて、まだ距離がある。「近代化」と上の二つの文をつなぐ抽象度の表現を考えたい。

 話し合いの断片を聞いていると、どちらかの文章の言葉をそのまま使っていて、「どちらでもない・どちらでもある」ような共通した表現にならない人もいるようだ。

 両方の文章の論理を辿って「つながりを求める」「『キャラ』化する」の直前に、共通する状況を表現してみる。次のような表現が想起できれば良い。

安定した自分の存在を見失っているから。

 「自分の存在」を「自己」「自我」「アイデンティティー」などの言葉に置き換えてもいい。

 こうした表現を案出する抽象化の能力は、思考力の重要な要素だ。


 もう一つ。上の二文に表われた鷲田と斎藤の認識が共通していることを示すため、それぞれの文が、実際にどのような「症状」の相似があるかを言い表してみよう。

 この問いは趣旨がわかりにくい。答えを一つに絞るような問いの形を提示できない。考える皆も、何を言えばいいか迷っている。

 「つながりを求める」「『キャラ』化する」が似ていると読者が感じるのはなぜか?

 読者は「近代化」という背景が共通しているから似ているなどと考えるわけではあるまい(そもそも斎藤は「近代化」などと言っていない)。2人の筆者が捉える若者の姿に、ある共通した気配を感じるから、2人の言っていることが共通していると、まず感じるはずなのだ。その相似に潜む共通性を言葉にしてみる。

 たとえばこんなふうに。

他者の承認を通じて自分の存在を確認しようとしている。

 実際にこれが二つの文章のどのような表現から読み取れるのか?

 「ぬくみ」でいえば「他者の意識の宛先として自分を感じる」「『自分の存在』を、私を私として名ざしする他者との関係の中に求める」といった一節が指摘できる。

 「『キャラ』化する」でいえば、「コミュニケーション」という語の頻出がそれを表わしている。「コミュニケーション」によって「自分の存在」を確かめようというのは、他者を通じた自己確認だ。

 これはひっくり返して言えば、どちらも、自分の存在を自分自身では確信できずに不安になっている、ということだ。これが「近代化」によって人々が陥っている状況だという認識において、二人は共通しているのである。


「キャラ」化する若者たち 2 対比図を作る

 鷲田の言う

若者は他人とのつながりを求めている。

と、斎藤の言う

若者は「キャラ」化している。

は、共通した認識を示しているのだろうか? また、それを「である/する」図式で語ることは可能だろうか?


 例えばこれらの文を「つなげる」ことはできる。言い換えたり、「つまり」「なぜなら」などの関係を示したりすれば、両者は容易につながる。

 だがそれが「つなげる」ことを目的とした恣意的な変形でないと、なぜ言えるのか? 関係づけることが自己目的化した短絡かもしれないではないか。

 一方で、それぞれの文章の論理をそれぞれの文章中の言葉で語ったら、それらは別々でしかない。表われた外見は違っている。確かに。

 だがそれらは本当に、単に関係のない別々の認識を示しているだけなのだろうか? 同一の構造の、別の断面を示している可能性はないのだろうか?


 例えば、上の二つの文の背景は、それぞれの筆者にどう把握されているか?

 それぞれの文を「症状」として見たとき、その「病因」はどのように語られているか?


 「ぬくみ」については、「『である』ことと『する』こと」との比較によって、その背景について、ある程度把握している。問題は今回読む斎藤だ。

 斎藤は「『キャラ』化する若者たち」で、若者たちが「キャラ化」するのはなぜだと論じているか?


 問題を構造化しておくと考えが整理され、語り合うためにも便利だ。

 ということで「『キャラ』化する若者たち」の対比をとろう。

 最初の2頁の見開きから、目立つ対比的キーワードを3組探そう。

 さらに、その対比軸にそって、いずれかの領域を特徴付ける形容や条件を挙げる。いつもの対比図作りだ。


 まずは3組。

    必然/偶然

   固有性/匿名性

キャラクター/キャラ


 これは文脈の論理から、いわば機械的に抽出できるはずだ。できなければならない。

 ここにさらにこの対比を特徴付ける形容を加えていく。一方に特徴的な形容が文中から見つかったら、もう一方は対義的に補う。

取り替えきかない/きく

   記述不可能/可能

   世界が一つ/複数

 これ以外に「運命/確率的」というのが対比的ではないかとの意見が各クラスで出た。離れたところにある二つの言葉なので、これを対にして挙げた者は論理の把握力が強い。これらは言葉の意味的にはまるで対義的な言葉ではないが、確かに文中では対比的な意味合いで配されている。

 一方「根拠がない/ある」と「信仰」も候補に挙がった。これらは冒頭で左辺を特徴付けるように読める。しかし次頁まで読むと、「いずれの信仰にも根拠がない」と言っているので、左辺/右辺によらないのだと読むべきだろう。

 もう一つ、気がつく者が少ないが、取り上げたかった言葉がある。各クラスでこれを挙げた者は誇って良い。

 幸福/不幸

である。

 本文では「必然」を信じられるのは「幸福」だと言っている。つまり右辺は「不幸」なのだ。


 さて、みんな薄々気づいているだろうが、この対比図は、「である/する」の対比だと理解することができる。

 とすれば「ぬくみ」の対比図とも、向きを揃えて並べることができるということになる。

 コンテキスト/自由な個人

このままの自分/資格・条件


 対比図を整理したら、鷲田と斎藤の認識が共通していることを語るのも大分楽になったはずだ。

 「このままの自分」は「『である』ことと『する』こと」の「かけがえのない個体性」との共通性を確認した。これはこのまま「取り替えのきかない固有性」と同じだと見なせる。

 「自由な個人」が「全てが『偶然』教」とどう共通しているのかは、にわかには語れない。が、そこに通じるものがあることは感じ取れるだろうか?

 また、「キャラ」と「資格・条件」が対応していることには容易に気づくが、それをどう変形していくと両者の共通性が示せるか?


2021年5月7日金曜日

「キャラ」化する若者たち 1 斎藤環参戦

 鷲田清一「ぬくみ」を、丸山真男「『である』ことと『する』こと」の枠組みを援用して読み解いてみた。

 ここに、「ちくま評論選」から、斎藤環の「『キャラ』化する若者たち」を加えて、さらに問題を考察してみよう。


 鷲田と丸山の論考の大きな違いは何か?

 見解の相違ということではなく、論点の重心の違い、といったようなものである。

 前項の通り「丸山=モダン/鷲田=ポストモダン」という相違がまずある。

 それ以外に、丸山が論じているのは社会の仕組みであり、鷲田の論じているのは個人の内面についてだ、という相違も挙げられる。

 この「社会/個人」という相違は、丸山が政治学者であり鷲田が哲学者であるという専門分野の違いからすればなるほどな感じがする。

 さて、斎藤環は何者か。精神科医である(ついでに筑波大の医学群の教授でもある。サブカルにも堪能で、もちろんエヴァ論もある)。

 ということでまずは当然鷲田の論との近親性が感じられる。

 だが、何事かを語るには「である/する」図式がやはり便利だ。言葉がシンプルで、かつ包括的だからだ。そうなると丸山との関係も視野に入れる必要がある。

 そして「近代」についての認識が共通していれば、それをベースにそれぞれの認識を比較することができる。


 さて、読み比べれば、様々な方向で、様々な切り口で、様々な論点について考察できる。たっぷり時間をとって話し合いをさせて、なるべく多くの発表をききたい。どこにどんな可能性があるか、それらをつぶさに見たい。


 が、共通した論点を示さないと授業としてはまとまりが悪い、とも言える。話題がそれぞれにばらばらでは噛み合わないかもしれない。

 そこでこちらで問いを立てる。


 「ぬくみ」を次のような一文で表現してみよう。

若者は他人とのつながりを求めている。

 同じく「『キャラ』化する若者たち」を一文にする。題名をそのまま文章の形にする。

若者は「キャラ」化している。

 もちろんこれは斎藤の論の入口に過ぎず、文章全体の趣旨を充分に酌んでいるとはいえないが、一文という限定の中ではまずまずの表現だろう。


 さてこれら二つの文を「つなげて」みよう。どちらから出発してもいい。言い換えたり、「なぜなら」や「つまり」で前後を補ったりしていくと、もう一方の文にたどりつくだろうか?

 それができるということはつまり、それぞれの一文で示された認識は、表われ・切り口は違うものの、同じ認識を示していると考えていいのだろうか?


ぬくみ 4 新たな「である」

 「ぬくみ」と「『である』ことと『する』こと」の語句の対応関係が出揃ったところで、「ぬくみ」の趣旨をもう一度「である/する」図式で語りおろしてみよう。

 近代は封建社会にあったさまざまな社会的コンテキストから人々を解き放った。そこではかつて「である」論理に人々を結びつけていた中間世界が消失して、人々は「自由な個人」となる。だが自由な社会で「資格・条件」といった「する」価値が求められるようになった人々は、かえって「このままの」自分の「である」価値を認めてもらいたくて、他人との「つながり」を求めるようになる。

 前項で挙げていない「中間世界」を使ってしまったが、これは何か?

 何の「中間」かといえば、社会と個人の「中間」ということだ。「中間世界」が社会と人々を結びつけていたのだから、これは「社会的コンテキスト」の言い換えであることがわかる。

 具体例は?

 「社会的コンテキスト」は例えば「地縁・血縁」なのだから、村落共同体や親族、職種毎の組合組織(古い起源の農協や漁協、職人組合)、宗教組織(教会や檀家)などを考えればいいだろう。

 つまり「社会的コンテキスト」=「中間組織」は、そこに所属することで人々にアイデンティティーを保障していたのだが、それが消失すると、「個人はその神経をじかに『社会』というものに接続させるような社会になっていった」。そのような個人は「漂流する」。


 こうした事態において何が起こるか?

 次の一節は、やや読みにくい印象もあるので、考察してみよう。

 この部分を「である/する」図式にあてはめるとどのように言えるか?

 そういう「自由な個人」が群れ集う都市生活は、いわゆるシステム化という形で大規模に、緻密に組織されていかざるをえず、そして個人はその中に緊密に組み込まれてしか個人としての生存を維持できなくなっている。つまり、自分で選択しているつもりで実は社会のほうから選択されているという形でしか自分を意識できないのだ。社会の中に自分が意味のある場所を占めるということが、社会にとっての意味であって自分にとっての意味ではないらしいという感覚の中でしか確認できなくなっているのだ。

 「『自由な個人』が群れ集う都市生活」は、丸山が「赤の他人」が集まっていると表現する近代社会のことだし、社会が「システム化という形で大規模に、緻密に組織されてい」くというのは、「する」化しているということだと考えていい。

 なのにそこで起こる「つまり」以降のような事態は、奇妙に「である」論理に見えてこないだろうか?


 「自分で選択しているつもりで実は社会のほうから選択されているという形でしか自分を意識できない」も、わかったようなわからないようなモヤモヤ感がある。

 例えばここに、後から言及される「資格」の問題をからめて説明してみる。

 どんな資格を取るかは個人の自由な選択に任されている。だが、実は資格とは社会がその人の能力の適否についての決定権をもっているということなのだ。どのような能力を「資格」として認定するかも、どのような能力を求めるかも、社会側の都合だ。個人はそれに合わせるしかない。だからどの資格をとるかの選択権が個人の自由だとしても、結局は資格によって個人の価値が定められることは、「社会のほうから選択されている」ということなのだ。


 この、「する」化の果てに見えてくる光景がなぜ「である」社会のように感じられるのか?


 「自分で選択しているつもりで実は社会のほうから選択されている」の「つもりで」が逆接であるとすると、「自分で選択している」が「する」論理なのだから、「社会のほうから選択されている」が「である」なのではないか、それに「選択されて」という受身形も「である」論理っぽい、と言ったのはH組のYさんだ。鋭い指摘だ。

 丸山の「である」論理とは、封建的な身分制に代表されるような、既存の社会システムが所与のものとして人々にもたらされる状態を言っていた。そこに「安住」することなく、「不断の行使」によってそれを実効性のあるものとして機能させることが「する」論理だ。そこでは社会は創造したり変革したりするものとしてイメージされる。

 鷲田が上の一節で描写する社会のイメージは、そうしてみると随分と「である」的だ。社会が「する」論理になるほど、個人にとって社会は「既存・所与」のものであるような「である」的なものとして立ち上がってくる。

 このねじれはどう考えたらいいのか?


 これは、この部分の全段落の「中間世界の消失」からの論理の流れを読み取る必要がある。

 「中間世界の消失」は、個人に、直接社会と対峙することを強いる。

 そのとき、複雑化し、巨大化した社会は、個人にとって動かしがたい支配的な存在となる。そこには個人の自由はない。こうした「支配的」で「不自由」な存在は、かつての封建制や身分社会、村落共同体のように「である」論理によって人々を抑圧する。

 とすれば、そこに組み込まれていかざるをえない「社会システム」は、確かに「する」原理によって構築されていったはずなのに、個人から見ればやはり既存の存在であり、「不断の努力」などで我々「市民」が作り上げていくようなものではない。

 とすれば、これは「封建的」な「身分制度」に替わる、新たな「である」システムなのだと言ってもいいのかもしれない。


 こうした論点は「『である』ことと『する』こと」には見られない。

 それは、丸山がモダン=近代の問題を論じているのに対し、鷲田がポストモダン=現代の問題を考察しているからだと考えてはどうだろう。

 つまり、近代はプレモダン=前近代的「である」論理から「する」論理への移行を目指したが、その末に新たな「である」論理が台頭しているのが現代の状況なのだというのが鷲田の認識だと考えればいいということかもしれない。