「分人」という珍奇な造語によって、相手との相互作用によって生じた自分の、ある側面を肯定的に捉える概念を提起する平野に対し、斎藤の、「キャラ」という言葉の若者による使い方から見えてくる病理を描写する斎藤は、もしも面と向かって対談することがあれば、この点をめぐって対立するのだろうか?
ちなみに鷲田清一はどう言うだろう?
(若者が他者とのつながりを求めているのは)なんの条件もつけないで「このままの」自分を認めてくれる他者の存在に渇くということだ。上手に「条件」を満たすさなかに、もしこれを満たせなかったらという不安を感じ、かつそれを(かろうじて?)上手に克服している自分を「偽の」自分として否定する、そういう感情を内に深く抱え込んでいる
他者との関係の中で「条件」を「上手に克服している自分」とは、斎藤の「キャラ」であり、平野の「分人」のように見える。とすると、それを「『偽の』自分として否定する」のは、「キャラ」を否定的なニュアンスで語る斎藤の認識に近いと言っていいだろうか?
いや、「否定する」のは若者であって、鷲田ではない。鷲田が、否定すべきだと言っているわけではない。
とすれば、積極的に「分人」を認めるべきだという平野の主張と対立するわけではなく、むしろ平野は若者が「否定する」ように追い込まれているような前提そのものに対する異議を唱えているのだから、そうして苦しんでいる若者を見つめる鷲田と斎藤は同盟者なのかもしれない。
とすれば、斎藤と平野の主張も、前回の「抽象化」のように相違しているわけではないのかもしれない。
例えば、前回、共通認識として提出された次のフレーズについても検討する余地がある。
平野 「本当の自分」には実体がない
斎藤 自らの「固有性」には根拠がない
「本当の自分」と「固有性」が対応するとしても、平野の「実体がない」と斎藤の「根拠がない」とを、同じだと見なしていいかどうか。
「根拠がない」は「つまり記述不可能だ」と言い換えられている。これは、記述できるような形で根拠を指し示すことができないというだけで、裏返して言えば、記述のできない「固有性」は、その存在が前提されているということだとも言える。
とすればこれは共通認識と言うより、むしろ相違点を示しているのだ、という意見が出たクラスもあったのだった。
平野 「本当の自分」はない
斎藤 「固有性」はある
同じだということも違うということも、表面的な言葉の比較だけですぐさま判断できるわけではない。
その中で、それでも二人の主張には違いがあると言える部分はどこか?
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