土井隆義の「内閉化する『個性』」を読む。
土井氏は筑波大教授の社会学者で、2016年のセンター試験に「キャラ化する/される子どもたち」が出題された。どこかで聞いたような題名だ。
2018年には、河合塾と筑波大学の「オーサービジット事業」で本校を訪れた。
ここでも取り上げられている著書の一節が本文で、慶應大学の入試に出題された文章でもある。
分析のために対比をとる。
対比らしき記述が登場するのは30行を過ぎてからの次の記述。
現代の若者たちは、自分をとりまく人間関係や自分自身を変えていくことで得られるものをではなく、生まれもったはずの素朴な自分のすがたを、そのまま自らの個性とみなす傾向にあります。彼らにとっての個性とは、人間関係の関数としてではなく、固有の実在として感受されているのです。
ここにみられる2度の「ではなく」が対比を表わしているのは意識すべきだ。
固有の実在/人間関係の関数
文中の出現順を入れ替えたのには訳がある。
対比に付けるラベルとしては、言葉が揃っていた方が整理しやすいので、探していけば次の用語が見つかる。
内閉的個性指向/社会的個性指向
ここに、文中からあれこれの言葉を抜き出して配置する。
身体/言葉
内発的衝動/社会関係
刹那的・断片化/持続性・統合性
そしてこの文章では、今までの文章と共通する「キャラ」「本当の自分」という言葉が、左辺に配せられる。
さて、この左と右の配置は、ここまで読んできた文章との対応を見易くするために敢えて文中の登場順を入れ替えてある。
固有の実在/人間関係の関数
といった対比を「である/する」と対応させると、斎藤の次の対比が同じ向きで並ぶことになる。
必然/偶然
固有性/匿名性
キャラクター/キャラ
記述不可能/可能
「固有」が左辺にくるという対応が認められるし、斎藤の「キャラ」は土井の言う「人間関係の関数」によって成立していることも一致する。
右辺では「言葉」が人格の「持続性・統合性」を保障するのだが、これは斎藤の「キャラ」は「記述」することで自己同一性を維持する、という認識に対応する。
その上で土井は右辺を肯定的に評価し、斎藤の描く右辺的若者像は悲劇的な色合いを帯びている。
「偶然」や「匿名」も土井の論との対応がよくわからないが、無理矢理言えば、「社会関係の関数」で個性が決まるということは、そうした自己は入れ替え可能な「匿名性」を帯びたものと捉えることができるかもしれないし、そうした認識の背景には「全てが偶然教」の信仰があるということも、全くできないわけではないかもしれない(曖昧な言いよう!)。
まあ、二人の対比軸が同一のものだという保証はないので、こうした齟齬はやむをえまい。
平野の論ではどうか?
内閉的個性指向/社会的個性指向
を連想させるのは「キャラ/分人」の対比だ。「キャラ」は「インタラクティブでない」し、「分人」は人間関係によって生ずる。
その上で、生まれついた「固有の存在」を「本当の自分」と見なす左辺的認識を否定して、「分人」こそ自分の「個性」だという右辺的人間観を提示しているという点で、平野の論と土井の論は一致している。
上記のような分析は別に「正解」というわけではない。
「分人」も上のように言えば右辺だが、「断片化」した「寄せ木細工」のような自己イメージは、複数の「分人」の集合を「自分」と考えるイメージに近いように見える。「断片化」は左辺だ。
そもそも「分人」は「キャラ」と対比されているわけではなく「個人」との対比だ(そしてこの「個人」が問題になるのが次の「情報流」との読み比べだ)。
それぞれの論の対比軸が揃っているわけではないから、分析の切り口によって、それぞれの論はさまざまに分析できる。
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