「ぬくみ」と「『である』ことと『する』こと」の語句の対応関係が出揃ったところで、「ぬくみ」の趣旨をもう一度「である/する」図式で語りおろしてみよう。
近代は封建社会にあったさまざまな社会的コンテキストから人々を解き放った。そこではかつて「である」論理に人々を結びつけていた中間世界が消失して、人々は「自由な個人」となる。だが自由な社会で「資格・条件」といった「する」価値が求められるようになった人々は、かえって「このままの」自分の「である」価値を認めてもらいたくて、他人との「つながり」を求めるようになる。
前項で挙げていない「中間世界」を使ってしまったが、これは何か?
何の「中間」かといえば、社会と個人の「中間」ということだ。「中間世界」が社会と人々を結びつけていたのだから、これは「社会的コンテキスト」の言い換えであることがわかる。
具体例は?
「社会的コンテキスト」は例えば「地縁・血縁」なのだから、村落共同体や親族、職種毎の組合組織(古い起源の農協や漁協、職人組合)、宗教組織(教会や檀家)などを考えればいいだろう。
つまり「社会的コンテキスト」=「中間組織」は、そこに所属することで人々にアイデンティティーを保障していたのだが、それが消失すると、「個人はその神経をじかに『社会』というものに接続させるような社会になっていった」。そのような個人は「漂流する」。
こうした事態において何が起こるか?
次の一節は、やや読みにくい印象もあるので、考察してみよう。
この部分を「である/する」図式にあてはめるとどのように言えるか?
そういう「自由な個人」が群れ集う都市生活は、いわゆるシステム化という形で大規模に、緻密に組織されていかざるをえず、そして個人はその中に緊密に組み込まれてしか個人としての生存を維持できなくなっている。つまり、自分で選択しているつもりで実は社会のほうから選択されているという形でしか自分を意識できないのだ。社会の中に自分が意味のある場所を占めるということが、社会にとっての意味であって自分にとっての意味ではないらしいという感覚の中でしか確認できなくなっているのだ。
「『自由な個人』が群れ集う都市生活」は、丸山が「赤の他人」が集まっていると表現する近代社会のことだし、社会が「システム化という形で大規模に、緻密に組織されてい」くというのは、「する」化しているということだと考えていい。
なのにそこで起こる「つまり」以降のような事態は、奇妙に「である」論理に見えてこないだろうか?
「自分で選択しているつもりで実は社会のほうから選択されているという形でしか自分を意識できない」も、わかったようなわからないようなモヤモヤ感がある。
例えばここに、後から言及される「資格」の問題をからめて説明してみる。
どんな資格を取るかは個人の自由な選択に任されている。だが、実は資格とは社会がその人の能力の適否についての決定権をもっているということなのだ。どのような能力を「資格」として認定するかも、どのような能力を求めるかも、社会側の都合だ。個人はそれに合わせるしかない。だからどの資格をとるかの選択権が個人の自由だとしても、結局は資格によって個人の価値が定められることは、「社会のほうから選択されている」ということなのだ。
この、「する」化の果てに見えてくる光景がなぜ「である」社会のように感じられるのか?
「自分で選択しているつもりで実は社会のほうから選択されている」の「つもりで」が逆接であるとすると、「自分で選択している」が「する」論理なのだから、「社会のほうから選択されている」が「である」なのではないか、それに「選択されて」という受身形も「である」論理っぽい、と言ったのはH組のYさんだ。鋭い指摘だ。
丸山の「である」論理とは、封建的な身分制に代表されるような、既存の社会システムが所与のものとして人々にもたらされる状態を言っていた。そこに「安住」することなく、「不断の行使」によってそれを実効性のあるものとして機能させることが「する」論理だ。そこでは社会は創造したり変革したりするものとしてイメージされる。
鷲田が上の一節で描写する社会のイメージは、そうしてみると随分と「である」的だ。社会が「する」論理になるほど、個人にとって社会は「既存・所与」のものであるような「である」的なものとして立ち上がってくる。
このねじれはどう考えたらいいのか?
これは、この部分の全段落の「中間世界の消失」からの論理の流れを読み取る必要がある。
「中間世界の消失」は、個人に、直接社会と対峙することを強いる。
そのとき、複雑化し、巨大化した社会は、個人にとって動かしがたい支配的な存在となる。そこには個人の自由はない。こうした「支配的」で「不自由」な存在は、かつての封建制や身分社会、村落共同体のように「である」論理によって人々を抑圧する。
とすれば、そこに組み込まれていかざるをえない「社会システム」は、確かに「する」原理によって構築されていったはずなのに、個人から見ればやはり既存の存在であり、「不断の努力」などで我々「市民」が作り上げていくようなものではない。
とすれば、これは「封建的」な「身分制度」に替わる、新たな「である」システムなのだと言ってもいいのかもしれない。
こうした論点は「『である』ことと『する』こと」には見られない。
それは、丸山がモダン=近代の問題を論じているのに対し、鷲田がポストモダン=現代の問題を考察しているからだと考えてはどうだろう。
つまり、近代はプレモダン=前近代的「である」論理から「する」論理への移行を目指したが、その末に新たな「である」論理が台頭しているのが現代の状況なのだというのが鷲田の認識だと考えればいいということかもしれない。
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