鷲田の言う
若者は他人とのつながりを求めている。
と、斎藤の言う
若者は「キャラ」化している。
は、共通した認識を示しているのだろうか? また、それを「である/する」図式で語ることは可能だろうか?
例えばこれらの文を「つなげる」ことはできる。言い換えたり、「つまり」「なぜなら」などの関係を示したりすれば、両者は容易につながる。
だがそれが「つなげる」ことを目的とした恣意的な変形でないと、なぜ言えるのか? 関係づけることが自己目的化した短絡かもしれないではないか。
一方で、それぞれの文章の論理をそれぞれの文章中の言葉で語ったら、それらは別々でしかない。表われた外見は違っている。確かに。
だがそれらは本当に、単に関係のない別々の認識を示しているだけなのだろうか? 同一の構造の、別の断面を示している可能性はないのだろうか?
例えば、上の二つの文の背景は、それぞれの筆者にどう把握されているか?
それぞれの文を「症状」として見たとき、その「病因」はどのように語られているか?
「ぬくみ」については、「『である』ことと『する』こと」との比較によって、その背景について、ある程度把握している。問題は今回読む斎藤だ。
斎藤は「『キャラ』化する若者たち」で、若者たちが「キャラ化」するのはなぜだと論じているか?
問題を構造化しておくと考えが整理され、語り合うためにも便利だ。
ということで「『キャラ』化する若者たち」の対比をとろう。
最初の2頁の見開きから、目立つ対比的キーワードを3組探そう。
さらに、その対比軸にそって、いずれかの領域を特徴付ける形容や条件を挙げる。いつもの対比図作りだ。
まずは3組。
必然/偶然
固有性/匿名性
キャラクター/キャラ
これは文脈の論理から、いわば機械的に抽出できるはずだ。できなければならない。
ここにさらにこの対比を特徴付ける形容を加えていく。一方に特徴的な形容が文中から見つかったら、もう一方は対義的に補う。
取り替えきかない/きく
記述不可能/可能
世界が一つ/複数
これ以外に「運命/確率的」というのが対比的ではないかとの意見が各クラスで出た。離れたところにある二つの言葉なので、これを対にして挙げた者は論理の把握力が強い。これらは言葉の意味的にはまるで対義的な言葉ではないが、確かに文中では対比的な意味合いで配されている。
一方「根拠がない/ある」と「信仰」も候補に挙がった。これらは冒頭で左辺を特徴付けるように読める。しかし次頁まで読むと、「いずれの信仰にも根拠がない」と言っているので、左辺/右辺によらないのだと読むべきだろう。
もう一つ、気がつく者が少ないが、取り上げたかった言葉がある。各クラスでこれを挙げた者は誇って良い。
幸福/不幸
である。
本文では「必然」を信じられるのは「幸福」だと言っている。つまり右辺は「不幸」なのだ。
さて、みんな薄々気づいているだろうが、この対比図は、「である/する」の対比だと理解することができる。
とすれば「ぬくみ」の対比図とも、向きを揃えて並べることができるということになる。
コンテキスト/自由な個人
このままの自分/資格・条件
対比図を整理したら、鷲田と斎藤の認識が共通していることを語るのも大分楽になったはずだ。
「このままの自分」は「『である』ことと『する』こと」の「かけがえのない個体性」との共通性を確認した。これはこのまま「取り替えのきかない固有性」と同じだと見なせる。
「自由な個人」が「全てが『偶然』教」とどう共通しているのかは、にわかには語れない。が、そこに通じるものがあることは感じ取れるだろうか?
また、「キャラ」と「資格・条件」が対応していることには容易に気づくが、それをどう変形していくと両者の共通性が示せるか?
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