2021年5月14日金曜日

「キャラ」化する若者たち 3 鷲田と斎藤の共通点

 対比図を画くことは、思考や議論の整理のためにきわめて有益だ。

 文中の語をマークするのは、文章を読み返す便を高めるが、ノートなどに書き出してレイアウトするのにはまた別の便益がある。全ての論理操作を頭の中だけでやろうとするのは無理がある。とりわけ、他人との議論においては、共有できる視覚情報があると便利なのは間違いない。

 そして、これは自分で画かなければならない。対比図を画くこと自体が学習だからであり、できあがったものは、まあそれを「使う」ならば良いが、それを「理解する」などというのは国語学習の目的ではない。したがって、黒板に画かれるのを待ってノートに写すなどというのは本末転倒である。


 さて、丸山の「である/する」図式は、左から右への移行を「近代化」と捉えていて、この推移は鷲田にも斎藤にも共通だ。

 尤も斎藤がそれを「近代化」と呼ぶ保証はない。文中では「多くの若者が(必然性への)〝信仰〟を捨てつつある」「諸般の事情から『すべては偶然』教の勢力が優勢である」という言葉で、左辺から右辺への移行を表現しているが、これを「近代化」と見なすのはこちらの解釈の仮説だ。


 「ぬくみ」の対比図と「『キャラ』化する若者たち」の対比図が、同じ軸に基づく対比なのだと見なせるなら、2人の認識は共通していると考えていいわけだ。

 例えば「キャラ」とは、友人との関係における「資格・条件」なのだと言えるのでは? 免許という資格があることによって自動車の運転が許されるように、ある人は「いじられキャラ」認定という「資格」を得ることで友人関係への参加が許されているのかもしれない。


 対比図とその対応が見渡せたことで最初の問い、二つの文章の主旨が共通していることが言えるかどうか、あらためて考える。

  • 若者はつながりを求めている。
  • 若者は「キャラ」化している。

 両者が共通していることを示すため、同じ言い方で両者に適用できる表現を考えてみる。

 上の二つの、原因は何か? なぜ「つながりを求めている」のか? なぜ「キャラ」化しているのか?

 もちろん「近代化」が原因だといえば共通していることになるのだが、「近代化」だと抽象度が高すぎて、まだ距離がある。「近代化」と上の二つの文をつなぐ抽象度の表現を考えたい。

 話し合いの断片を聞いていると、どちらかの文章の言葉をそのまま使っていて、「どちらでもない・どちらでもある」ような共通した表現にならない人もいるようだ。

 両方の文章の論理を辿って「つながりを求める」「『キャラ』化する」の直前に、共通する状況を表現してみる。次のような表現が想起できれば良い。

安定した自分の存在を見失っているから。

 「自分の存在」を「自己」「自我」「アイデンティティー」などの言葉に置き換えてもいい。

 こうした表現を案出する抽象化の能力は、思考力の重要な要素だ。


 もう一つ。上の二文に表われた鷲田と斎藤の認識が共通していることを示すため、それぞれの文が、実際にどのような「症状」の相似があるかを言い表してみよう。

 この問いは趣旨がわかりにくい。答えを一つに絞るような問いの形を提示できない。考える皆も、何を言えばいいか迷っている。

 「つながりを求める」「『キャラ』化する」が似ていると読者が感じるのはなぜか?

 読者は「近代化」という背景が共通しているから似ているなどと考えるわけではあるまい(そもそも斎藤は「近代化」などと言っていない)。2人の筆者が捉える若者の姿に、ある共通した気配を感じるから、2人の言っていることが共通していると、まず感じるはずなのだ。その相似に潜む共通性を言葉にしてみる。

 たとえばこんなふうに。

他者の承認を通じて自分の存在を確認しようとしている。

 実際にこれが二つの文章のどのような表現から読み取れるのか?

 「ぬくみ」でいえば「他者の意識の宛先として自分を感じる」「『自分の存在』を、私を私として名ざしする他者との関係の中に求める」といった一節が指摘できる。

 「『キャラ』化する」でいえば、「コミュニケーション」という語の頻出がそれを表わしている。「コミュニケーション」によって「自分の存在」を確かめようというのは、他者を通じた自己確認だ。

 これはひっくり返して言えば、どちらも、自分の存在を自分自身では確信できずに不安になっている、ということだ。これが「近代化」によって人々が陥っている状況だという認識において、二人は共通しているのである。


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