さて、大きな認識の枠組みとして、斎藤・鷲田・丸山に共通する構造があることを見てきた。
近代化する中で見失われそうな「自己」への不安が、他者とのコミュニケーションを求める。他者の承認によってかろうじて「自己」が確かめられる。
そうした「自己」を安定させるコミュニケーションを、斎藤は「再帰的コミュニケーション」と呼ぶ。
再帰的コミュニケーションがキャラの同一性を維持するとはどういうことか?
そもそも「再帰的」とはどういう概念か?
なんとページを捲った22ページに語注がある。なぜ初出の20頁に置かない? 余白の問題だろうか。
ともあれ、ここには「自己言及的なコミュニケーションのこと」とある。辞書的な説明はそうだ。
だが「自己言及的」も同様にわかりにくいのではなかろうか。語注のそれ以降の説明もちょっと怪しい。
付属の解説小冊子でも、「再帰的自己同一性」について「他者とのコミュニケーションの中で自らそのキャラを演じ続けるという自己言及」などと説明しているが、これが間違っているとは言わないが、どうも「自己言及的」の「自己」を、演じる本人、「自分」のことだと思っているんじゃないかという感じもする。怪しい。
「再帰的」も「自己言及性」も、昨年の「山月記」で触れている。李徴が「虎になった」メカニズムを説明する際に使った概念だ。各クラスでこれをすぐに想起できたのは数少ない人たちだけだが、学習が定着していて嬉しい。
補助線として「鶏が先か、卵が先か」のパラドクスや、フラクタル図形の作り方を「再帰的」の例として参照することもヒントとした。
「再帰的」「自己言及性」「鶏が先か、卵が先か」「フラクタル図形」の四つに共通する性質を2点挙げる。
こういう時に必要とされるのがまたしても抽象化の能力だ。
上の四つに共通する性質は次のように表せる。
結果が原因に帰って循環する。
結果が原因に「帰」って、「再」び原因となる。原因も結果もそれ自身の一部だから、それを指して「自己」と言っているのであり、原因が結果を一部として含んでいることを「言及」と言っているのだ。
卵から鶏が生まれるのだから卵が「原因」、鶏が「結果」だが、その鶏が卵を産むのだから、鶏が「原因」で卵が「結果」だとも言える。循環の中ではどちらもが原因とも結果とも言える。
図形の細部に、図形全体と同じ形のミニチュアが描き込まれている。ミニチュアの細部にはさらに小さな全体図が描き込まれている。どれが元(原因)なのかコピー(結果)なのか決定できない。細部にそれ自身の全体が再現されている(自己言及)。フラクタル図形とはそのような図形だ。
このメカニズムを上記の「キャラの同一性」に適用する。
あるふるまいを相手に「お前って陰キャだよね」と言われる。そうか、と自分でも思う。そうするとその相手には「陰キャ」としてふるまうようになる。そうするうちに「お前って陰キャだ」と言われ…。
ふるまいが先か、キャラ認定が先か。
「山月記」の「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」もそうした再帰性をもった循環をつくる絶妙な設定だった。尊大だからこそ臆病になるのであり、そうした羞恥心が自尊心の満足を阻害する。互いが互いの原因であり結果であり…。
再帰的コミュニケーションがキャラの同一性を維持するという仕組みを、スッと受け取るためには、こうした理解が予め必要であり、斎藤環はそれを読者に要求している。
これは読者に対して不親切か?
いやむしろ読者への信頼かもしれない。
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