2021年11月30日火曜日

舞姫 22 比較読解「こころ」1

 読み比べ二つ目は、夏目漱石「こころ」。

 「山月記」ではまず主人公を一致点として、そこに袁傪と相沢を重ねることで見えてくる物語の構造を捉えた。

 ここでも「こころ」と「舞姫」の登場人物を対応させてみる。

 ①私(先生)―豊太郎

 ②  K ―相沢

 ③お嬢さん―エリス

 ④ 奥さん―老媼

 これはどのような対応を示しているか?


 ①は主人公。

 ②は主人公の友人。①にとって東大の学友でもある。

 ③は物語のヒロイン。

 ④はヒロインの母親。

 まずは人物関係の設定としては見事な対応を見せている。

 「山月記」比較の経験から、人物造型の共通性を考えてみる。

 「私」と豊太郎は、似ていると言えなくもない。その性格については共通点も指摘できるだろう。そして、二人ともある選択を前に葛藤する。その葛藤から浮かび上がる人物像には共通した印象がある。

 それだけではない。そうした人物像とは別の層で、二人には共通点がある。

 それは、それぞれが手記の語り手(書き手)だという点である。一人称の語り手は自らの心の裡を語るからどうしても内向的に見えがちだ。人物像に共通した印象が生ずるのも、そうした要因がある。

 二人のヒロインもまた、ともに半ば冗談として「悪女」説が唱えられるような「あざとい」魅力をもっている。そしてそれが二人の賢さ故であって、その清純を疑うには至らない、といったバランスで描かれている。

 奥さんとエリスの母は、悪巧みをしていそうな雰囲気が似ていなくもない。もちろん二人とも生活上の知恵としてそうしているのであって、悪人というわけではない。

 そして二人のヒロインはともに皆と同じ17歳くらいで、なおかつ主人公の二人は25歳くらいだ。


 ここまで、共通点を探してはみたが、実はこの対応はこの先に何らの発展的な考察を生まない。主人公の二人には共通したものも感じられるが、お嬢さんとエリスの印象はかなり違う。

 さらに、Kと相沢の対応には強い違和感がある。人物としての共通性は「優秀」くらいで、その人物造型は似ても似つかないし、何より物語上での役割が違いすぎる。

 登場人物を対応させるのは、物語の構造を対応させるためだ。物語を重ね合わせようと考える思考と、登場人物の印象を重ねようとする思考を相補的にはたらかそうとすれば、このような対応はむしろ思いつかない。

 では、物語の構造を表現することを目的として人物を対応させるには、どのような組合わせが考えられるか?

 Aに示した4人を入れ替えて全員を対応させるのは難しい。3人の対応でいい、どのような対応が可能か?


 対応関係が整理できたら、そうした人物の対応による物語把握を、①~③の番号を用いて、「こころ」「舞姫」両者の要約として読めるような一文で表現してみよう。①~③に、それぞれ二つの物語の登場人物名を代入すると、それぞれの物語を表現していることになるような一文だ。

 例えばAを「①が③をめぐって②とライバル関係になる」というのは「こころ」については言えるが、「①豊太郎が③エリスをめぐって②相沢とライバル関係になる」わけではない。

 「舞姫」について「①が②によって③から遠ざけられる」と表現することはできる。豊太郎は相沢によってエリスから遠ざけられる。これを「こころ」で代入して「①私は②Kによって③お嬢さんから遠ざけられる。」としても意味をなさない…と書こうとして、全く無理ではないではないかもしれないと思い直した。「私」は、Kの死によってお嬢さんと結婚してからも、本当には心を開けなくなって死に至る。図らずもKは「私」をお嬢さんから「遠ざけ」たことになるかもしれない。だがこれは穿ち過ぎとも言える。


 4人の中から3人を選び、それぞれに対応させるとすると、組み合わせは24通り。Aも含めて、授業では5~6種類の対応関係が皆から提示される。

 毎年誰かが思いつく対応関係のアイデアを二つ紹介する。これらはどちらも授業者には発想できなかったものだ。

 これらはどのような物語把握に基づいた対応だろうか?

  ①  K ―豊太郎

  ②  私 ―相沢

  ③お嬢さん―エリス

 「私」と相沢を対応させるという発想は実に意外だった。

 こうした物語把握を表現する一文は、例えば「①が③に心惹かれて求めようとするのを②が妨害する」というような文が考えられる。あるいは「①が『道を外れている』状態にあり、友人である②が、その原因である③を遠ざけて道に引き戻そうとする」などといった表現も可能だ。

 ①②③にそれぞれの人物を代入すればそれぞれの物語の要約になる。

  • 「こころ」ーKがお嬢さんに心惹かれて求めようとするのを先生が妨害する
  • 「舞姫」ー豊太郎がエリスに心惹かれて求めようとするのを相沢が妨害する

 ここでは②の動機についての共通性もある。②は純粋に①のためを思って③を遠ざけるわけではなく、そこには私利があることも指摘できる。


 次の対応はどのような構造を示すか。

 ①お嬢さん―豊太郎

 ②  私 ―相沢

 ③  K ―エリス

 Bに比べ、「こころ」の①と③が入れ替わっている。

 この対応をたとえば「②が①と③の関係を妨害する」などと表現することは可能だが、同時にこの表現はBにもあてはまる。BとCでは「こころ」の①と③が入れ替わっているだけだから、「①と③の関係」ではどちらでも同じことになってしまう。

 だがKと豊太郎を対応させる把握(B)と、お嬢さんと豊太郎を対応させる把握(C)が同じであるはずはない。別の表現が可能なはずだ。

 ではどう表現するか?

 可能なのは次のような表現だ。

  • ③が①を求めて②に阻まれることになる。
  • ①をめぐって②と③が対立関係にあり、②が勝者となり、③が敗者になる。
  • ②が①を自分の意に沿うようにするために③を排除する。

 Kとエリスの悲劇は、いずれも排除される敗者の悲劇である。


 さらに別な人物対応によって見えてくる物語の構造を検討しよう。

2021年11月26日金曜日

舞姫 21 比較読解「山月記」3

 「舞姫」を、豊太郎が虎になる話、と捉えてみる。

 〈虎〉とは何か?

 「まことの我」、つまり「自我」の象徴だ。

 ここから少々理屈をこねてみる(以下のくだりは授業では時間がなくて割愛している)。

 豊太郎は「本当の自分=自我」を見出すことで自由になったと錯覚したが、結局は相沢や天方伯とエリスとの綱引きの間で、何ら主体的な選択をしないまま流され、エリスを発狂させるにいたる。

 これは「本当の自分」などというものがそもそも幻想なのではないかという主題を示してはいないだろうか?

 李徴が虎になるのは、いわば自我の暴走である。制御を失った「解放」の中で、結局は本来の自我であったはずの〈人間〉が消滅してしまうのである。

 とすると、正反対の結末を迎える二つの物語が、実はどちらも「本当の自分=自我」(という幻想)の挫折を描いた物語だということになる。

 ここで「『本当の自分』幻想」!

 とすると、「舞姫」という作品は、近代化の入口に立った日本から西洋を見た鷗外が、西洋から流入する「近代」に対する違和を語った小説だとは言えないだろうか。

 これは実は「こころ」の主題にも重なる。

 「こころ」は選択の物語のように見えるが、実は「先生」はほとんど選択の余地などなく、そのようにしかできないといったふうに運命に流されている。これは「主体的な選択をする自我をもった人間」などという近代的な人間観に対する漱石の違和を語っているのではないか、という考察を、昨年の授業の最終盤でした(ことを覚えている人はあまりいないだろうが、まあしたのだよ)。

 図らずも「こころ」との比較を先取りしてしまったが、こうした考察に導かれるのもまた一興ではある。


 あるいは袁傪と相沢という登場人物の比較を考察の糸口としてみよう。二人を比較すると、どのようなことが考えられるか。

 袁傪と相沢の共通点は何か?

 二人がそれぞれ主人公の旧友であることは指摘できる。だがそれだけではない。象徴的には二人をどのように捉えればいいか?


 二人はともに現在も官職に就いている。つまり二人は李徴と豊太郎が失っている「故郷」と「エリートコース」という二つの世界を象徴する人物なのである。物語は、〈虎〉になった李徴/豊太郎に対して、〈人間〉を象徴する袁傪/相沢が再会する、という共通の構図において展開する。

 こうした比較はどんな考察を可能にするか?


 たとえば、袁傪が山中に消えてゆく虎=李徴を見送るのに対し、相沢は豊太郎を日本に連れ帰る。こうした対応の違いはなぜ生じたか?

 このことについて考えるため、物語中の空間を「人間の世界/虎の世界」という対比で捉えてみる。

 「山月記」において上の対比は「人里・街/山の中」と表現できる。物語はほとんど山中で展開し、「里・街」は直接は登場しないが、そこに李徴の妻子がいるはずの場所だ。

 では「舞姫」では? 入れ子状に大中小の対比を挙げてみる。

 まずはすぐに「日本/ドイツ」という対比が挙がる。これが大。

 「官舎/エリスの家」などという対比も挙がるが、「エリスの家」に対置するならば、文中に度々登場する「ホテル・カイゼルホウフ」の方が適切だ。これが小で、中は?

 「ベルリン」とすると「東京」だが、これは「ドイツ/日本」という対比と変わらない。

 それよりも「舞姫」において象徴的な空間の対比は「ウンテル・デン・リンデン/クロステル巷」だ。ドイツに着いてすぐのウンテル・デン・リンデンの描写と、三年経って度々出入りするようになるクロステル巷の描写を読んでみよう。それが対比的であることは明瞭に感じられるはずだ。







 左辺は李徴と豊太郎が元々所属していた世界を象徴する空間・場所であり、右辺は言わば異界である。

 そして袁傪と相沢は左辺に属する人物である。

 先の要約によれば「山月記」は左辺から右辺に行って-異類となって-終わる話であり、「舞姫」は右辺に行った主人公が再び左辺に戻る-異類となった主人公が人間に戻る-話だ。


 さて、物語中、袁傪と相沢はそれぞれどこで主人公と会うか。

 袁傪が李徴に会うのは山中、つまり〈虎〉の世界である。〈虎〉になった李徴を目の当たりにしている袁傪にとって、李徴を人間界に連れ戻すという選択肢が最初から無い。

 一方相沢が豊太郎と会うのはどこか。カイゼルホオフだ。つまり〈人間〉の世界なのである。

 だから相沢には、そもそも豊太郎が〈虎〉になっていることが見えてはいない。それは相沢と豊太郎の置かれている位相の差がもたらす認識のずれだと言ってもよい。


 このことは、最初の通読の際に考察した、カイゼルホオフに向かう前の豊太郎の身支度の場面に象徴的に表われている。

 この場面はいわば、エリスのいる〈虎〉の世界から相沢のいる〈人間〉の世界へ越境するために豊太郎が変身する場面だといえる。

 身支度を整えた豊太郎を見てエリスが「何となくわが豊太郎の君とは見えず。」と言う。虎の娘であるエリスには人間の姿になった豊太郎は「私の豊太郎さんではない」のである。

 一方で相沢の目に映る豊太郎は単なる〈人間〉でしかない。だからこそ相沢は疑いもなく豊太郎が日本に帰るものと決めてかかるのである。


 また、〈人間〉の世界に妻子を残してきた李徴に対し、豊太郎はいわば〈虎〉の世界に妻子をつくったのだといえる。

 李徴は〈人間〉の世界に妻子を残して〈虎〉になってしまう。また豊太郎は〈虎〉の世界の妻子=エリスとお腹の子を残して豊太郎が〈人間〉の世界に戻る。それぞれに方向は反対だが、悲劇の構図としては同じだとも言える。

 〈人間〉の世界に残してきた妻子の面倒を請け負う袁傪が「良い人」に見えてしまうのに対し、相沢は悪役の印象を免れない。だが、相沢もまたエリスとお腹の子に対して相応の手当をしているし、なにより豊太郎の家族が日本にいたとすれば(母親が生きていたならば)、豊太郎を日本に連れ帰った相沢は恩人となるはずだ。読者が〈虎〉の世界の妻子=エリスとお腹の子に感情移入してしまっているがゆえに、「舞姫」が悲劇になり、相沢は悪役の汚名を被ってしまうのである。


 あるいはこんな想像をしてみるのも面白い。

 公務でドイツのベルリンを訪れた袁傪は、夜になって、治安が悪いから気をつけろと忠告されていたクロステル巷に足を踏み入れる。残月の下歩いていると、街角で出会い頭にぶつかりそうになって謝る一人の男の声に聞き覚えがあってその姿をよくよく見ると、それはすっかりユダヤ系ドイツ人と見まごう姿をした旧友、李徴だった。久闊を叙したあと、どうしてそんな姿になってしまったのかを李徴は袁傪に語り出す…。語り終わった李徴は故郷に残してきた妻子の面倒を袁傪に託し、ドイツ語で何やら一声叫ぶと、朝まだきクロステル巷の薄闇の中に消えてしまう…。

 これが「山月記」という物語である。あるいは「舞姫」かもしれない。


 こうした比較が学習にもたらすものは何か?

 そもそもそうした比較が可能なのかを検討すること自体が、それぞれの作品を「読む」ことになるのだ、とまずはいえる。同じだとか違うとかいう結論が重要なのではない

 さらに、そうしてそれぞれの物語を透かして見たもう一方の物語に、新たな光をあてるのだ、といってもいい。

 「舞姫」とは豊太郎が虎になる話だ、というフレーズが浮上した瞬間、授業者には、「舞姫」が新しく目に映ると同時に、何か腑に落ちるものがあったのだった。


舞姫 20 比較読解「山月記」2

 読み比べの効用は、共通性を見ようとすることによって、細部を削ぎ落とした構造を浮かび上がらせることにある。

 大きく考えよう。「山月記」の主題に直結する問題は何か? 「山月記」とは何を言っている小説なのか?

 もちろんこれは既習事項でもあるが、素朴な読者として考えてみてもすぐにわかるはずだし、大方の読者には同意される。

 「山月記」とは切り詰めて言えば「男が虎になったことを語る話」である。虎になった経緯や原因、現在の心境を語る物語である。すなわち問題は「李徴はなぜ虎になったのか」だ。

 それに答えようと努め、そうした目で「舞姫」を眺めてみよう。


 前回の二人の経歴の重ね合わせは妥当だろうか?

李徴  「官吏→詩人→官吏」

豊太郎 「官吏→通信員→官吏(?)」

 「山月記」では、この展開の後に虎になる。そして虎になることこそが「山月記」の核心だ。

 これを豊太郎の物語に合わせると、どこにあたるか?

 上の流れに沿って言えばエリスを棄てて日本に帰ることになってしまうが、そう重ねて何が言えるだろう(もちろん言えることはある。どちらもある意味で自由の喪失である、といったような)。

 それよりも、物語全体の印象を大づかみにするならば、最初の免官こそが、豊太郎にとって「虎になる」ことだと感じられるはずだ。李徴が虎になることは、経歴からすると最後の局面だとも言えるが、小説にとっては、李徴はほとんど冒頭近くで虎になっている。豊太郎が物語の序盤で免官になることを重ねることはそう考えれば無理なことではない。

 つまり「舞姫」は、〈豊太郎が虎になる話〉なのだ。


 こうした見立てが妥当であるかどうかは、あくまで本文に基づいて判断されるべきである。具体的にどこを読み比べるかというと、李徴が「虎」になった時のことを場面を具体的に語る場面、袁傪との 邂逅 かいこう の後、比較的最初の辺りだ。

今から一年ほど前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊まった夜のこと、一睡してから、ふと目を覚ますと、戸外でだれかがわが名を呼んでいる。声に応じて外へ出てみると、声は闇の中からしきりに自分を招く。覚えず、自分は声を追うて走り出した。無我夢中で駆けて行くうちに、いつしか道は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地をつかんで走っていた。なにか体中に力が満ち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行った。気がつくと、手先やひじのあたりに毛を生じているらしい。少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映してみると、既に虎となっていた。

 「舞姫」からは次の箇所を引こう。

かくて三年ばかりは夢のごとくにたちしが、時来れば包みても包みがたきは人の好尚なるらん、余は父の遺言を守り、母の教へに従ひ、人の神童なりなど褒むるがうれしさに怠らず学びし時より、官長のよき働き手を得たりと励ますが喜ばしさにたゆみなく勤めし時まで、ただ所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが、今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大学の風に当たりたればにや、心の中なにとなく穏やかならず、奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表に現れて、昨日までの我ならぬ我を攻むるに似たり。(…)今までは瑣々たる問題にも、きはめて丁寧にいらへしつる余が、このころより官長に寄する書にはしきりに法制の細目にかかづらふべきにあらぬを論じて、ひとたび法の精神をだに得たらんには、紛々たる万事は破竹のごとくなるべしなどと広言しつ。また大学にては法科の講筵をよそにして、歴史文学に心を寄せ、やうやく蔗を嚼む境に入りぬ。

 二つの記述に似たような印象を感じないだろうか?

 闇の中から李徴を呼ぶ声は、何か超自然的なものでも、外部にあるものでもないだろう。李徴自身の心の声であることは素直に感じ取れる。

 とすればそれは、ドイツ留学後三年経って豊太郎に〈やうやう表に現れ〉た〈奥深く潜みたりしまことの我〉ではないのか。

 声にいざなわれて闇の中に駆け出す李徴は〈なにか体中に力が満ち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行〉く。こうした描写には何か充実感とともに解放感のようなものが感じられる。

 一方で豊太郎は学問の脇道に逸れつつ、官長に対しては、本質さえわかれば細かいことは一挙に片づくなどと尊大な態度をとる。

 これらは裏返して言えば、二人にとってそれ以前の生活が 桎梏 しっこく であったことを示している。

 李徴は妻子を養うために再び就いた地方官吏の職に満足できずにいたのだし、豊太郎は官長や母の期待を今更ながら抑圧と感じている(自分が受動的な機械のような人間だったと振り返る)。

 虎になって束の間の解放感と全能感に酔っていると、気がついたときにはこれまで手にしていたものを失っている。「虎になる」ことは二人にとって、桎梏と抑圧からの解放であるとともに喪失でもある。

 李徴は闇の中に駆け込んで、視界に入った兎を知らずに喰っている。豊太郎もまたクロステル街に駆け込んで、気づいた時にはエリスを喰っていたのだ(というフレーズが図らずも授業中に飛び出したのは見事だった)。


 とすると「舞姫」は主人公が〈人間〉からいったんは〈虎〉になり、再び〈人間〉に戻る話であり、「山月記」は〈虎〉になりきる話だ、と要約することができる。

 〈虎〉になった理由こそが主題になっている「山月記」に対して、「舞姫」は〈虎〉から人間に戻る逡巡とそこに起こる悲劇にこそ主眼が置かれている。こうした主題の在処が結末の違いに表れていると考えることもできる。


2021年11月24日水曜日

舞姫 19 比較読解「山月記」1

 比較読解の最初にとりあげるのは中島敦「山月記」(「えー、覚えてない」と言うのをやめなさい。今年度も「再帰性」を説明するのに思い出した)。


 評論の読み比べでも毎度、まず何を考えるかといえば共通点だ。

 まずは共通点を探してそこをピン留めして、その周囲に拡がる構造を徐々に重ね合わせていく。そうすることで双方の構造が明らかになっていく。一方で重ならないところ=違いが明らかになっていくところも、それぞれの文章の読解として有益だ。

 読み比べは、読み比べることによってそれぞれの文章が、ある姿で立ち上がってくる読解のメソッドだ。


 さて「山月記」と「舞姫」、両作品を思い浮かべ、その共通点が何かと考える。すぐにわかる。主人公のキャラクターがあまりに似ている。

 まずはその人物設定の共通性を具体的な表現の中で跡付けていく。そして、きわめて似通った性格をもった主人公がどのような物語の中に置かれているのかを考察する。


 文章中から必要な情報を探して目的に沿った再構成をする力というのは、必要とされる国語力の中でもとりわけ基本的であり、重要なものだ。李徴と豊太郎の人物造型の共通性を述べるためには、どのような設定、どのような挿話、どのような形容を物語中から探し出して併置すればよいか?

 授業では「属性」「性格」「言動」「経歴」などとタグ付けして項目立てることを提案した。これらは排他的な項目ではない。きれいに分類せずとも、あれこれ考えるための手がかりにすればいい。


 二人はともに優秀で、いわゆるエリートである。

 李徴は〈博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられた〉。

 豊太郎は〈旧藩の学館にありし日も、東京に出でて予備黌に通ひし時も、大学法学部に入りし後も、太田豊太郎といふ名はいつも一級の首に記されたり〉。

 二人はともに高級官吏となるが、やがてその職を辞する。

 二人はともに強い自尊心をもっている。

 李徴は最初の任官の折は〈自ら恃むところすこぶる厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった〉ために官を退き〈詩家としての名を死後百年に遺そうとした〉がかなわず、二度目の奉職の折は〈彼が昔、鈍物として歯牙にもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬことが、往年の儁才李徴の自尊心をいかに傷つけたかは、想像に難くない〉としてついに発狂する。

 一方豊太郎は、官命により〈わが名を成さんも、わが家を興さんも、今ぞと思ふ心の勇み立ちて〉、洋行したがひそかに〈幼き心に思ひ計〉っていた〈政治家になるべき〉道にすすむこともかなわず、三年もたつと〈このころより官長に寄する書にはしきりに法制の細目にかかづらふべきにあらぬを論じて、ひとたび法の精神をだに得たらんには、紛々たる万事は破竹のごとくなるべしなどと広言しつ〉と尊大な態度をとったり、免官されたあと、新聞社の通信員となると〈今まで一筋の道をのみ走りし知識は、おのづから総括的になりて、同郷の留学生などのおほかたは、夢にも知らぬ境地に至りぬ〉と同輩を軽侮する。

 一方で二人はともに自尊心と表裏一体の 怯懦 きょうだ (臆病で意志薄弱)を心にひそませている。

 李徴は〈己の珠にあらざることを惧れるがゆえに、あえて刻苦して磨こうともせず、また、己の珠なるべきを半ば信ずるがゆえに、碌々として瓦に伍することもできなかった〉と告白する。

 豊太郎は留学生仲間と〈勇気なければ、かの活発なる同郷の人々と交はらんやうもなし〉と告白する。

 これらの「弱さ」が、どちらも物語中で重要な自己発見として語られるのも共通している。

 「山月記」で李徴を表わす最重要フレーズ「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」は、まったくそのまま豊太郎をも表わしている。

 こうした性格故に、二人とも人づきあいが悪い。友達は少ない(が、重要な友人が物語中に配されているところも共通している)。


 二つの物語の主人公は、できすぎではないかと思われるほど似ている。

 主人公が似ているということは、そうした主人公を中心とする物語に、共通した構造がある可能性を示している。物語を「~が~する話」「~が~となる話」などと要約するとき、その主語は述語に必然性をもたせるように造型されるはずだ。

 そう考えたとき、「山月記」と「舞姫」を重ね合わせることが可能になる。


 例えば二人の経歴を重ねてみる。李徴の「官吏→詩人→官吏」という経歴と、豊太郎の「官吏→通信員→官吏(?)」という経歴を重ねると、何が見えてくるか?

 こうした経歴は一見似たような軌跡を辿っている。だが最初の転職は李徴にとって辞職だが豊太郎にとっては免職である、といった差違は指摘できる。

 それよりも、二度目の官吏への復職の際の二人の葛藤を重ねてみよう。

 李徴が復職しようとするのは「詩人としての名声/妻子の生活」という選択の上で後者を選んだからだ。同様に豊太郎は「名誉の回復/エリスとの生活」という選択で前者を選んでいるように見える。

 そしてこのように考えたときに、二つの物語の共通性よりもむしろ違いが見えてくる。一見したところ、二人が選ぶものがともに官吏への復職であるにも関わらず、それは逆の価値観に基づいているようにも見える。一方、両者とも「実生活」に重心があるいう点では共通していると言えなくもない。

 だがそれよりも相違として指摘したいのは、一つは、豊太郎の復職の可能性が、豊太郎自身の選択によるものであったか、という問題と、もう一つは、棄てられたものの意味合いである。前者の問題は「こころ」との比較で検討するので措くとして、後者の問題において比較されるのは何か。

 李徴にとってのと豊太郎にとってのエリスの意味である。


 李徴にとっての詩の意味とは何か?

 世の中の「山月記」論の中には、李徴の発狂を詩への執着に起因すると論じている徒らに「文学的」なものも多いが、李徴にとっての詩とは、文学=芸術としての詩ではない。

下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そうとした

俺は、俺の詩集が長安風流人士の机の上に置かれているさまを、夢に見ることがあるのだ。

 これらは李徴が良い詩を書きたいというより、名声を得たいと思っていることを示している。つまり李徴にとって詩は、それ自体が目的なのではなく名声を得る為の手段に過ぎないということだ(去年の授業でこのことは確認した。「目的ではなく手段」という書き込みが教科書にあったという証言があちこちで聞かれた)。

 それ以外に、李徴が本当に良い詩を書こうとしていたとか、詩の魅力に取り憑かれていたと読めるような記述はない。袁傪が李徴の詩に「どこか(非常に微妙な点において)欠けるところがあるのではないか」と感じたという「山月記」の重要な論点の一つを、ここから説明することも可能である。

 一方豊太郎にとってのエリスの意味は、「舞姫」全体の主題把握に関わる大きな問題であり、「檸檬」との比較で論ずる予定なのでここでは深く立ち入らないが、上記のように把握される李徴にとっての詩とはまるで印象が違う、とは言える(ただし、エリスもまた目的ではなく手段だったのだ、という言い方は、また新たな「舞姫」論につながりそうな予感もある。が少なくともその「目的」の方向性はまるで違う)。

 共通性よりも相違の方が強く感じられるという意味で以上の考察は授業者の意図したものとは違っているが、それでもこのような考察を可能にするという意味では、それ自体が比較読みの意義ではある。


2021年11月20日土曜日

舞姫 18 全体を捉える

 さて、ここまで10時限ほどかけて、全編を読み終えた。

 「舞姫」は、高校の国語科授業にとって「羅生門」「こころ」「山月記」に次ぐ「定番」小説教材だ。授業者も高校時代に授業で読んだ。

 だがこの小説は、その文体と長さから読むに難渋するわりには、物語にカタルシスがなく、むしろ不快と言ってさえいい。「舞姫」が近代文学の出発点に位置する、文学史的に価値の高い作品であることをいくら喧伝されても、単にエンターテイメントとして享受するにはコストとベネフィットのバランスが悪すぎる。

 だがこうして途中に考察をはさみつつ時間をかけて読み進めてきた過程は、それなりに面白かったはずだ。みんなで考察し合うことは楽しい。

 だがそれは日常で「小説を読む」行為とはだいぶ違う。半ばは勉強と思って粘り強く取り組むうちに、じわじわと感じられてくるような面白さだ。

 ここまでは、そうして読み進めること自体に楽しみを見出してきたが、ここからいよいよ「舞姫」という小説を全体として捉える。


 「舞姫」という小説の主題は何か? 「舞姫」というのは、何を言っているテクストなのか?

 高校生であった頃の授業者には、授業において提示された「愛か出世かの選択」というテーマ設定は凡庸なものに思えた。積極的にそうではないと考えていたわけではなく、まあそうなんだろうと思いつつも、それが自分の身に迫るような問題として捉えられたりはしなかった(もちろん「羅生門」の〈生きるために為す悪は許されるか〉とか、「こころ」の〈友情か愛情かを巡るエゴイズム〉などといったテーマも、同様につまらなかった。現在ではこうした把握自体が間違っていると思っているわけだが)。

 そもそもこうしたテーマとして「舞姫」を描くなら、結末は次の3通りにしかならないはずだ。

  1. 大臣と相沢の誘いを断ってドイツに残る(ハッピーエンド)
  2. 悲しみ暮れるエリスをおいて帰国する(悲劇)
  3. 発狂したエリスを抱えて失意の中でドイツに残る(バッドエンド)

 とりわけ3は、豊太郎がドイツに残るという、ヒロインにとってのハッピーエンドのはずの結末が最悪のかたちで実現するという、ギリシャ悲劇的、「こころ」的アイロニーを醸し出しているともいえる。

 ところが「舞姫」の結末はどれでもない「発狂した女をおいて帰国する」という不可解な決着を迎えるのだ。

 この結末が選択されていることの不全感は、西洋列強に伍して立国していこうとしている明治という状況をいくら勘案して、豊太郎にとって「やむを得ない選択だった」という判断に落ち着こうとしても、到底無理だった。

 だから「舞姫」をテキストとして「自分だったらどうするか」を問うのは的外れだ。自己を豊太郎の立場において問うのなら先の3択のうちの1・2であり、どうにもならない悲劇を享受するという意味では3の読書体験もありうるが、いずれにせよ、この小説が示す結末は選択に迷うような釣り合いにはない。


 ではこの小説をどう読めばいいか。

 アカデミックな「舞姫」研究の多くは、鷗外の伝記的事実から「舞姫」の執筆動機や主題を考察するものだが、そうした、テクスト外部の情報を「教える」ことが高校の国語科授業の使命ではない。興味があればネットでも「国語便覧」でも調べられる。

 小説は、それが小説という虚構として書かれる以上は、いくら「私小説」「自伝小説」などと言おうが、現実からは独立したものとして受け取られなければならない。「永訣の朝」もそうだ。あれは宮沢賢治が妹を亡くした実体験に基づいて書かれたものだという知識があることはかまわない。だがその詩はそこにあるテクスト自体から読み取らなければならない。宮沢賢治の伝記的事実を並べて、こういう人がこういうメッセージを込めているのだ、などと読むべきではない。

 とはいえ、「舞姫」を読むための構えとして、知っておくべき最低限の基礎的知識はおさえておこう。

 「舞姫」が鷗外の実体験に基づいているということは、たびたび触れてはいた。そうした事実と小説の相違を知っておくと、この小説に感ずる不快感はいくらかは減ずるかもしれない。


 まず豊太郎が19歳で東大を主席で修了したことは、鷗外=森林太郎の実話だ。東大開校以来のことだという。その後豊太郎は法律を扱う省庁に勤めるが、典医の家に生まれた林太郎は医学を学んで陸軍軍医となる。その後、豊太郎は法律を、林太郎は医学を学ぶためドイツへ官費留学する。時期も大体事実に基づいている。

 天方伯爵は山県有朋のことで、その大陸視察旅行も事実に基づく。もちろん相沢謙吉のモデルらしき人物も同定されている。

 そして林太郎と恋愛関係にあったエリスもまた実在する人物、エリーゼ・ワイゲルトをモデルとしている。本人と思われる写真も見つかっている。

 一方で、豊太郎は一人っ子で早くに父を亡くし、物語中で母を亡くす。頼りになる親族はいない。だが林太郎の両親は健在で弟妹もいる。

 そして現実のエリーゼは、帰国した林太郎を追って来日するのである。名前を記した船員名簿が見つかっている。

 つまり、実在のエリーゼは発狂してはいない。妊娠もしていないかもしれない。

 来日したエリーゼは横浜のホテルに一ヶ月ほど滞在する。その間、森家の説得により、諦めてドイツに戻る。

 翌年、林太郎は軍関係者の娘と結婚する。


 史実が小説ほど酷いことにはなっていないと知ったことで、読者の不快感はいくらかはいくらか減じるかもしれないが、そのぶん、ではなぜ小説をこのように描いたのか、という謎はいっそう深くなる。

 その謎がすっきりと解けるという保証はできない。そもそも問題は、なぜ鷗外は「舞姫」を書いたか、ではなく、「舞姫」という小説をどう読むか、だ。

 ここからは、評論でも用いた「読み比べ」という方法を使う。

 その相手は、高校の国語の授業で読む小説としては「舞姫」以上の「定番」と言っていい「山月記」「こころ」「檸檬」「羅生門」である(「羅生門」は時間次第)。


舞姫 17 豊太郎の「逆境」

 これまで述べたように、この手紙によって豊太郎が日本に帰れる可能性に初めて気づいたのだと考えるのは難しい。

 ではこの手紙の核心はどこにあるか?


 ここで先の「否」による逆接の考察が活きる。この手紙に書かれているのは残される不安に対するエリスの積極的な姿勢だ。「我が愛もてつなぎとめではやまじ。」には強い意志の表明がある。

 だがこれだけならば一通目の手紙にある、不安と裏返しの愛情の延長上にある。

 問題はそれに続く「それもかなはで東に還りたまはんとならば」からの、豊太郎の帰国に対する具体的な方策の記述である。ここには路用と母親の処遇についての解決の見通しが書かれている。つまり、豊太郎が日本に帰る場合、エリスが日本に着いていくというのだ。

 この手紙がここに引用されてることの重要性からすると、この方針は二人の間で、この手紙によって初めて示されたものだと考えられる。そのような可能性は、豊太郎にとってこれまでは想定外だったということになる。

 エリスが日本に着いてくるという可能性は豊太郎の認識にどのような変化をもたらすか?


 こう考えてみよう。

豊太郎はどのような選択肢の前に置かれているか?

 ここまでの豊太郎にとっては、未来は次の二択として捉えられている。

a エリスと共にドイツに残る。

b エリスを棄てて日本に帰る。

 そしてこの手紙によって示された新たな選択肢は次のようなものだ。

c エリスを連れて日本に帰る。

 三つ目の選択肢が加わったことは豊太郎の認識にどのような変化をもたらすか?


 abの選択に迷っているのなら、cは最も喜ばしい選択肢のはずだ。イイトコドリではないか。

 にもかかわらず、cが豊太郎にとって最も避けたい選択肢であることは、読者には直感的にわかる。なぜか? ここが説明できれば、ここで「明視し得た」「我が地位」を説明できる。


 豊太郎はabの板挟みになっている「我が地位」について自覚していないわけではない。だがそのことについて本気で「決断」せずにいられたのは、それが相手任せにできたからだ。事実、大臣に「東に帰るぞ」と言われれば「承りはべり」と答えてしまうし、ロシアからドイツに帰れば「低徊踟躕の思ひは去」ってエリスを抱きしめてしまう。豊太郎はそのような人物として描かれている。

 このab二択の帰趨は、言わば他人任せの成り行きで決まる。決まった後の、選ばなかった相手からは逃げてしまえばいい

 だがこの手紙に示された可能性は、そのような他人任せの二択では済まされない。

 エリスとともに日本に帰るとすれば、まずは「エリスと別れる」と言った相沢との約束が嘘だったことを告白し、あらためて外国人の卑しい舞姫を日本に連れ帰ることを大臣や相沢、日本での生活で関わる全ての人々に受け入れさせなければならない。そのための強固な意志に支えられた自己主張と説得が必要になる。

 それができずエリスと別れるとなれば、エリスに直接別れを切り出さなければならない。黙ってドイツを去るだけでは片付かない事態になったのである。そこにもまた同じ強固な意志による主張と説得が必要になる。といってエリスの妊娠が明らかになった以上、そのような意志を持つことは豊太郎には絶望的といっていい。

 いずれにせよ、相手に任せた成り行きで事が決し、その後は、選ばなかった相手とは関わらずに済む(と思えた)abの二択では済まされない事態に陥ったのである。

 cの選択肢は、豊太郎の弱点を確実に衝いている。

 むろんabの選択においても本当は既に「強固な意志に支えられた自己主張と説得」は必要だったのだ。だが「逆境」におかれた豊太郎は、そのことを敢えて見ないようにしていた。この手紙によって示されたcの可能性が、自分が置かれた「地位」を、今こそ豊太郎の眼前にさらけだしたのである。

 単に選択の前に置かれている、というだけでなく、選択するためには相手に「否」を言わなければならないという「立場」を。


 通読に伴う大きな考察ポイントはこれが最後で、あと3章は一気に読み切る。そうしたらいよいよ小説全体を捉える読解に進む。


2021年11月17日水曜日

舞姫 16 我が地位

 11章では、手紙と関係してもう一点、考察したい問題がある。この手紙の直後の「ああ、余はこの書を見て初めて我が地位を明視し得たり。」という述懐である(332頁)。

 ここで述べられている「我が地位」とはどのようなものか?


 ただちに思いつくのは、自分が大臣に重く用いられるようになるということは日本に帰れる可能性が高まってきたということであり、そうなるとエリスを棄てなければならず、どちらをとるかという選択の板挟みになるという状態を指しているのだ、といった説明である。

 これは、次の段落の次のような記述と対応している。

大臣は既に我に厚し。されど我が近眼はただ己が尽くしたる職分をのみ見き。余はこれに未来の望みをつなぐことには、神も知るらむ、絶えて思ひ至らざりき。されど今ここに心づきて、我が心はなほ冷然たりしか。(332頁)

 「ここに心づ(いた)」が「我が地位を明視し得た」に対応していると考えれば、帰国の可能性と、それ故に生ずる板挟みに「心づいた=明視した」のがこの時だったということになる。


 だがこうした説明に素直に納得することはできない。このような状態であることは、とうにわかっていたことではないのか。今更「明視し得たり」などと言うことなのか。

 いや、わかっていなかったわけではないのかもしれない。ただ「胸中の鏡は曇」っていたのだ。心の奥底で「わかっていた」としても、それが今初めて「明視し得た」、つまり明らかに自覚されたのだ。

 だがこのような説明でも腑に落ちない。この場面より2ヶ月ほど前の天方泊と相沢の訪独の際、身支度を整えている場面において、豊太郎の「不興なる面持ち」が示すものは、既にそうした未来を予想してのものだと分析したではないか。

 また実際に相沢と再会した際にはエリスと別れることを相沢に口約束していた。そしてホテルを出る時に「心の中に一種の寒さを覚え」ているのは、約束に従うことでエリスを棄てて東へ帰る可能性が心に兆しているからではないか。

 では「今ここに心づきて」という記述は嘘なのだろうか?


 「初めて我が地位を明視し得たり。」の続きの文章を検討しておこう。

 次の一節における「逆境」とはどのような事態を指すか?

余は我が身一つの進退につきても、また我が身にかかはらぬ他人のことにつきても、決断ありと自ら心に誇りしが、この決断は順境にのみありて、逆境にはあらず。我と人との関係を照らさんとする時は、頼みし胸中の鏡は曇りたり。

 この「逆境」は「我が地位」と同じ状況を指している。「逆境」において「胸中の鏡は曇」っていたため「我が地位」が見えなかったが、エリスの手紙によって初めてそれを「明視し得た」といっているのである。

 だがそうだとしても、エリスを棄てて日本に帰る道とエリスと共にドイツに残る道、自分が大臣とエリスのどちらを選ぶかという板挟みになっているという状況のことを指して「逆境」と言っているのだと考えることは容易い。また、それを指して「我が地位」と言っているのだと考えることも。

 だが、繰り返すが豊太郎がそのことに気づいていないはずはない。

 なのになぜ今さら「明視し得た」「心づいた」などと言っているのか?


 この記述には一面の真実と自己弁護的な嘘が混ざっていると考えられる。この手記には読者が想定されているのだ。

 確かに豊太郎は、大臣から与えられる「職分」に対して、積極的・能動的に「未来の望みをつなぐこと」は意図していなかったかもしれない。だが消極的・受動的であれ、結果的にそうなる可能性について、本当に「思い至ら」なかったのかといえば信じ難い。カイゼルホウフでの相沢との再会から二ヶ月に及ぶ天方伯との関わりの中で、その可能性に全く気づかないなどということはありえない。エリスは既に最初の手紙に「独り後に残りし」不安を書いていたではないか。それがロシア旅行だけにとどまらない可能性について気づかないなどということがありえない。

 だから、当然わかっていてもいいその可能性について敢えて考えないようにして、自らに対し、気づかないふりをしていた、といったところであろう。「絶えて思ひ至らざりき」というのは、告白的な手記における欺瞞なのだ。

 問題は、それがなぜこの手紙によってその「ふり」ができなくなったのか、である。この手紙のどんな情報が豊太郎の自己欺瞞に孔を穿ったのか。この手紙には、それまでの手紙にはないどのような情報が書かれているのか。

 エリスの手紙のどのような内容によって、豊太郎はどのような「我が地位」に気づいたのか?


2021年11月12日金曜日

舞姫 15 「否」から始まる手紙

 天方伯爵の訪欧に随行してきた相沢との再会後、文書の翻訳を依頼された豊太郎は伯爵らが宿泊するホテル、カイゼルホウフへ出入りすることが多くなる。一月ほど過ぎたある日、天方伯は豊太郎にロシア訪問の通訳としての随行を依頼する。例によって豊太郎は咄嗟に肯うことしかできない。

 ロシア旅行の間、エリスは毎日豊太郎宛に手紙を書き送る。11章(331頁)には、最初の一通目と、出発後二十日ほど経ってからの手紙についての記述がある。後者の手紙は「否といふ字にて起こ」されている。

 この奇妙な(そして重要な)手紙について考察したい。


 どのような問いを立てるか。「この手紙にはエリスのどのような心情が表われているか」などという問いでは、手紙の内容の、不必要で不正確な同語反復になるばかりだ。ポイントを絞る必要がある。

 何といっても奇妙なのは冒頭の「否」である。ここを問う。

何が「そうではない」といっているのか? 何に対する否定か?

 「いいえ」「そうじゃない」「違うわ」…、口語訳はいくつも考えられるが、いずれにせよ否定する前部がないのに否定の言葉から始まる文章の奇妙さにもかかわらず、この書き出しが持つ切迫感は確かに読者にも感じ取れる。

 体育科のA教諭は、話し始めに「いや」と言う口癖があるという。それが何を否定しているかをいちいち考える必要はないだろうが、といって「さて」とか「えー」などという無意味な発語と完全に同一視することもできない。「いや」が選ばれるには、何かしらそこに前後の逆接をともなっているはずだ。それはごく曖昧な微弱な論理かもしれないが。

 ここでも、その論理を語るには慎重に本文を追わねばならない。

 直前に記述されているのは一通目の手紙であり、これとただちに逆接するわけではないことは確認する必要はある。一通目は豊太郎の出発の翌日に書かれており、問題の手紙は「二十日ばかり」経ってからの手紙である。そして手紙は「日ごとに」書かれている。つまり二十通目前後の「ほど経ての書」なのである。

 とはいえ、二通目以降も同じようなことが繰り返し書かれていたとすると、この一通目に対して「否」という逆接でつながる論理を説明すればいいのかもしれない。

 また、豊太郎からの返信に対する逆接かもしれない、とも考えられる。その頻度は明らかではないが、豊太郎もまたエリスに手紙を書いている。「書き送りたまひしごとく、大臣の君に重く用ゐられたまはば」と、ロシアでの通訳の仕事ぶりについて、エリスに知らせている。これらの返信の内容に対する反対の意志表明なのだろうか。

 だとすればこの逆接から、豊太郎の手紙の内容を推測すべきなのだろうか?

 おそらくそうではあるまい。「否」から豊太郎の手紙の内容を推測させるような迂遠な論理を読者に期待しているとは考えにくいからだ。

 実際には、手紙を書き出す前にあれこれと考えをめぐらせ、それを自分自身で否定したのがこの冒頭の「否」なのだろう、とは思われる。

 ではエリスの頭にはどのような思いがよぎったのか。


 論理の組み立て方のアイデアは一つではない。視野をどのくらい拡げて考えるか?

 まず一つは、「否」に続く書き出しの一文「否、君を思ふ心の深き底をば今ぞ知りぬる。」を素直に逆転させるアイデア。

a 今までも豊太郎を思う心については充分その深さを知っていたつもりだった。だがその思いがこんなにも深かったのだと今初めて知った(今まで自分でも知らなかった)ということ。

 エリスの手紙は、一通目から「あなたが恋しい」ということを訴えているに過ぎない。それは自分でも自覚している。だがこれほどとは思わなかった、と言っているのである。いつも通りに「あなたが恋しい」と書きそうになり、それでは足りないと思う思考が「否」に表われているのである。これはすこぶる論理的な説明だ。


 もう少し視野を拡げる。続く手紙全体の内容の趣旨を抽出した上で、それを逆転させる。これには、悲観的な方向と楽観的な方向が考えられる。

 一通目の手紙に示されているのは、豊太郎との別離の不安である。それは問題のこの手紙にも通底している。だがこの手紙に表明されているのはむしろ、そうした不安に対し「わが愛もてつなぎとめではやまじ」という積極的な意志だ。あるいはそれに続く「それもかなはで東に還りたまはんとならば、親とともに行かん」という具体的な対抗策の提示である。そこから考えられる逆接は次のようなものだ。

b 豊太郎の帰りを待つ不安が心に兆して、つい弱気な泣き言を書きそうになる。それを打ち消し、自らを鼓舞して強い意志を表明している。

c 不安の裏返しとして安易な希望的観測(「大丈夫、あなたはきっと帰ってくる」など)にすがりそうになるのを自ら打ち消し、自分の意志で事態を変えることを宣言しようとしている。

 bは「悲観的」という誘導にしたがったものであり、cは「楽観的」な方向だ。このb不安とc希望は表裏一体である。したがって両者は基本的には同じ心理がそれぞれの表現型をとったものである。

 授業では、「否」を挟む逆接を、対照的な言葉で示せ、と指示して、多くの班で「知っているつもり/今知った(=知らなかった)」と「待っています/着いていくわ」という表現に至った。

 さらにこの逆接を示す対比的な抽象語を挙げよと要求して、各班ともに「受動的/能動的」という言葉を挙げたのは適切だった。

 これらの説明には、論理を整理して語ることと、表現のニュアンスに気を配ることが求められる。

 繰り返すが、入試で問われるのもそれなのだ。


 ところで、話題に挙がっていた班もあったようなので附言する。

 最近ではコロッケによる物まねで有名な美川憲一という歌手に「さそり座の女」というヒット曲があり、その歌い出しが「いいえ」で始まるのである。


いいえ 私は さそり座の女

お気のすむまで 笑うがいいわ

あなたはあそびの つもりでも

地獄のはてまで ついて行く

思いこんだら いのち いのち

いのちがけよ

そうよ私は さそり座の女

さそりの星は 一途な星よ


 この歌詞を考察したとあるサイトでは、この前に男が星座の話題をふったのだろうと考えている。つまり「君の星座を当ててみよう。乙女座かな?」などというチャラい問いかけに対して「いいえ私はさそり座の女なのよ」と答えているのだ、というのである(これを美川憲一の声で言われたところを想像すると怖い)。

 しかし1番の歌詞全体を見ると、「笑うがいいわ」「ついて行く」などから、何を否定しているかが見えてくる。

 男は、棄てようとしている愚かな女の思いを軽く見ているのである。あなたは気軽な遊びのつもりでたやすく棄てられると思っているかもしれないけれどお 生憎 あいにく 、軽く見ないで頂戴、私はさそり座の女=一途な女なのよ、「地獄のはてまで ついて行く」わ、というわけだ。

 地獄のはてまで」って!

 エリスって、「さそり座の女」だったのか。


舞姫 14 豊太郎の憂鬱

 豊太郎の「不興なる面持ち」は、読者に読み取られるべき「意味」をもっている。そしてその「意味」は読み取れるはずだ。

 その「意味」は、文中に関連要素をもっているはずである。

 また、その理由を問われた豊太郎が、なぜか答えなかったことに必然性を持つ必要がある。

 また、エリスが「豊太郎と自分との距離を感じて不安になる」契機としてこの顔つきがある。その「意味」はエリスに伝わっているはずだ。


 条件はまだある。「関連要素」の確認はまだ不十分だ。

 実は「エリスの世話焼が煩わしい」も「大臣に会いたくない」=「正装が窮屈だ」も、それがどのような意味であるかを明らかにすれば、完全に間違っているとも言えない。それにはまず以下のように考える必要がある。

 この「不興なる」はいささか唐突に語られているともいえる。だから何とか解釈しようとして、前後を見回し、上のような二つの解釈を思いつく。

 だがもうちょっと視野を拡げることができれば、この言葉は先立つこと1頁ほど(教科書では前の見開き)にある次の言葉を受けていることに気づく。

(エリスの体調不良は) 悪阻 つわり といふものならんと初めて心づきしは母なりき。ああ、さらぬだにおぼつかなきは我が身の行く末なるに、もし真なりせばいかにせまし。/今朝は日曜なれば家に在れど、心は楽しからず

 それ以降には直接「不興」と関連しそうな情報がない(だからいたずらに不要な解釈をするしかなくなる)ことを思えば、豊太郎の「不興」は「心は楽しからず」を受けていると考えるしかない。

 だが、エリスの妊娠が引き起こした憂鬱を、この場面で唐突に豊太郎が顔に出したと考えることはできない。とうのエリスを前にして、妊娠が憂鬱だなどという心の裡を顔に出していると考えるのはあまりに不自然だ。

 またこれでは、妊娠発覚の後1頁程の、相沢の訪独の展開が考慮されていない。

 エリスの妊娠と相沢の訪独。この二つを結びつけて、豊太郎の「不興」を説明すべきなのだ。


 逆にここから豊太郎がエリスの妊娠になぜ「心は楽しからず」思ったのかも考えることができる。

 とはいえわざわざ考えるまでもなく、恋人の妊娠を「楽しからず」思う心理には疑問はないようにも思える。だが敢えて挙げるなら、どのような不満や不安があるのか。

 ここで生活の困窮などを挙げてはいけない(だが授業で聞いてみるとこの答えが意外なほど多い)。確かに現在の日本の少子化問題などを考えるときに挙がるのは、子どもを作らないのは収入の不足であるように語られたりもする。

 だがそれではエリスの心理の変化に対応していない。

 それよりも、端的に言えば豊太郎は逃げたいのだ。後に天方伯に帰国の意志を問われて承諾した時にも「本国をも失ひ、名誉をひきかへさん道をも絶ち、身はこの広漠たる欧州大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭を衝いて起これり」と述べている。エリスの妊娠はこれまでの過去の栄誉を棄て、未来の可能性を限定してしまうことになる。それが豊太郎を「心楽しからず」させる。

 そこに手紙が届く。

 以前にも自分の窮状を救ってくれた相沢の訪独と大臣への謁見は、自分の「名誉を回復する」可能性を示している。エリスさえその可能性に思い至っている。相沢の手紙に書かれているそのことを、豊太郎が意識しないはずはない。

 ここまで条件を並べてしまえば「不機嫌」であることに何らの疑問もない。ただ説明のための条件を揃えることが少々難しかったのだ。


 説明とは抽象化の過程が必須であり、抽象化するためには、それを表わす言葉を用意する必要がある。各班でその言葉を挙げよ、と指示した。

 多くの班で挙がったのは、「迷い」「決断への怖れ」「葛藤」などといった言葉だ。

 日本への未練を棄てることは憂鬱だが、それを受け容れるしかないとなれば、なりゆきでそうならざるをえない。

 だがそこから逃れる可能性が示されてしまったら、却って迷ってしまう。どうするのかという決断を迫られることになる。

 相沢や大臣に対する度重なる うべな い(承諾)には、何より断ることのできない豊太郎の弱さが表われているということを分析した。その豊太郎にとって、エリスか相沢・大臣かのどちらであるにせよ、拒絶することは難しいのだ。

 そうした決断が迫られるのが憂鬱なのだ。


 もう一つの方向は「罪悪感」「良心の呵責」「自己嫌悪」などの表現だ。

 本心では、失ったエリートコースや日本での生活に未練があるが、それを諦めざるをえないと思っていたところに「名誉の回復」の可能性が示される。思わずエリスを棄てて日本に帰る可能性に期待してしまう自分の卑しさを自覚してしまうことが「不興」なのだ。


 豊太郎の「不興なる面持ち」は、豊太郎の「迷い」や「罪悪感」を示している。豊太郎の頭に「名誉の回復」の可能性がちらついているということは、エリスのA→Bの変化と整合しているし、エリスに問われて答えられないのも当然だ。

 そしてここまで分析できれば「エリスの世話焼が煩わしい」も「大臣に会いたくない」もあながち間違ってはいない。このように考えている豊太郎はエリスの甲斐甲斐しい世話を「煩わしい」というより「後ろめたく」思うはずだし、混迷を深くするかもしれない大臣への謁見は憂鬱だ。正装が窮屈だというのは、こうした状況を象徴している表現だとすれば正解の範疇だ。


 ここまで考えれば「微笑」の説明も些かの修正が必要となる。

 それは確かにエリスの不安を なだ めるためではあるのだが、同時に、そうした不安をエリスに与えてしまう自分の心理が真実であることを気取られていることも、豊太郎は感じ取っている。だからそれを誤魔化そうとしているのだ、と説明できる。

 読者は「〈豊太郎の心理〉に気づいたエリスの心理』に気づいた豊太郎の心理」に気づかなければならない。


 こうした説明には、誰もが納得するはずだ(授業では「葛藤」を提案した班が多かった)。

 だがそうした説明を的確に組み立てるのはそれほど容易ではない。

 「わかる」ことより、わかったことを客観的に捉えて他人に伝えることは、格段に難しい。

 だがそれを求められる場面は多い。

 入試のようなペーパーテストでさえ基本的にそうした力を試されているのだ。


舞姫 13 不興なる面持ち

 豊太郎の「不興なる面持ち」が示す心理を「エリスの世話焼が煩わしい」「大臣に会いたくない」と考えることには、なぜ腑に落ちない不全感があるか?

 これは、逆に言うとどのような条件を満たせばここでの心理の説明として納得できるのか、ということでもあるのだが、こういう「自然とそう感じられる」ことの論理を自覚するのは難しい。実際には授業者も、このような条件を考えてから、さて豊太郎の心理は、と考えたわけではなく、先に心理を説明してみてから、それが上のような候補とどう違うのか、と考えたのだが。


 D組のMさんからは、「不興なる面持ち」についてエリスから問われたのに豊太郎が答えないということと整合的であるべき、という条件が示された。

 なるほど。この心理を説明するためには、「なぜ豊太郎は答えないのか」に答えなければならないのだ。

 豊太郎は、エリスの指摘・問いに対してなぜ答えないのか?

 「歯痛・腹痛」説はこうした点でも条件から外れる。「ネクタイが苦しい」も。

 「不興なる面持ち」は、「エリスからそう見えているだけだ」説も同様に否定される。そうならば豊太郎は「そんなことはないよ」と答えるか、地の文で読者に対して訂正される必要がある。

 「久しぶりの正装が窮屈だ」は実は「大臣に会いたくない」の象徴的な表われだと言ってもいい。そしてともに、この条件から否定される。エリスの科白が終わった後に、エリスの不安を払拭するために結局言っているのだから、なぜ問われたときにすぐに答えないのかわからない。

 「エリスの世話焼が煩わしい」はこの条件をクリアしているとも言える。確かにそんな本音は本人には答えられない。


 だが上記のように条件をつけて、発想される諸説を選別していくというのは、読解に負荷がかかりすぎて現実的ではない。読者はそんなに立ち止まって考えたりはしない。

 この「不興」についての解釈は、もっと自然になされるべきだ。それはどのような条件によって可能になっているか?


 「不興なる面持ち」が示す豊太郎の心理は、AからBに推移するエリスの心理に対応している。だからこそそれは読者に読み取れるはずなのである。

 エリスが「容をあらため」た契機は、「不興な面持ち」しか考えられない。つまりエリスは豊太郎の心の裡を感じ取ったのだ。むろんそれは論理的な明晰さなどなくともかまわない。だがそれがエリスの誤解であったのなら、その釈明が必要となる。その釈明が文中にない以上は、豊太郎の「不興」が示しているものと、エリスに「容をあらため」させたものは一致していると考えるべきなのである。

 読者はそのようにして「不興」を解釈するはずだ。鷗外はそれを読者に期待しているはずだ。


 AからBに推移するエリスの心理を、Bの頭の「否」から考えてみよう(この考察のアイデアは元々H組のYさんの疑問だ)。

 この「いいえ」は、Aの何を否定しているか?


A「これにて見苦しとは誰もえ言はじ。わが鏡に向きて見たまへ。何故にかく不興なる面持ちを見せたまふか。我ももろともに行かまほしきを。」

B「否、かく衣を改めたまふを見れば、何となくわが豊太郎の君とは見えず。」

 Bの冒頭の「否」は、Aの科白の何らかの要素を否定していることになる。したがって、BにはAを打ち消して提示される内容があるはずだ。

 AとBはどのような意味で逆接しているか?


 こうした問いに答えるには、毎度言っている「抽象化」が必要となる。AとBを同じ土俵に乗せて比較しなければならない。どちらかに寄せるか、間をとって両者を対照的な言葉に言い換えるか。

 Aに寄せてみよう。

 A「一緒に行きたいのに」は「行ける」前提があるということだ(行けないのは体調が悪いから)。ならばBを「行けない」(私の豊太郎様ではないので)と表現すれば逆接が示せる。

 Bに寄せてみよう。「私の豊太郎様ではない」ならばAは「私の」だと思っているということだ。「もろともに行かまほし」がそれを表わしている。

 つまりAは自分と豊太郎を同じ範疇に入れているが、Bは違うのかもしれないと思っているわけだ。

 最初の分析で、Bを「豊太郎と自分との距離を感じて不安になる」と表現したが、こうした変化の契機に「不興なる面持ち」がある。


 だがまだそれだけで「不興なる面持ち」が解釈されるわけではない。


2021年11月10日水曜日

舞姫 12 心理分析

 エリスのぎりぎりの戦いはその後も続く。

 8章(326頁)で、カイゼルホオフに赴く身支度をする次の場面もまた実に興味深い読解が可能だ。

 「これにて見苦しとは誰もえ言はじ。わが鏡に向きて見たまへ。何故にかく不興なる面持ちを見せたまふか。我ももろともに行かまほしきを。」少し容を改めて。「否、かく衣を改めたまふを見れば、何となくわが豊太郎の君とは見えず。」また少し考へて。「よしや富貴になりたまふ日はありとも、我をば見棄てたまはじ。わが病は母ののたまふごとくならずとも。」

 「何、富貴。」余は微笑しつ。「政治社会などに出でんの望みは絶ちしより幾年をか経ぬるを。大臣は見たくもなし。ただ年久しく別れたりし友にこそ逢ひには行け。」


 ここではエリスと豊太郎の心理を分析しよう。

 エリスの心理は、三つに分割された科白ABCそれぞれの推移を、間に挟まる「少し容(かたち)をあらためて。」「また少し考えて。」といった描写を考慮して分析する。

A「これにて見苦しとは誰もえ言はじ。…」

↓  少し容を改めて

B「否、かく衣を改めたまふを見れば、…」

↓  また少し考へて

C「よしや富貴になりたまふ日はありとも、…」


 そして豊太郎。

 次の二つの描写はそれぞれどのような心理を表わしているか?

 「不興なる面持ち」「余は微笑しつ」

 そして、これら二つの形容の間の齟齬・矛盾・変化をどう考えるか?


 分析の容易なのはエリスの心理だ(といって「わかる」ことより「分析」の方がはるかに難しい。それを的確に言葉に表すのも)。

A 立派に正装した豊太郎を見て誇らしく思う

B 豊太郎と自分との距離を感じて不安になる

C 豊太郎が離れていく可能性に気づいて牽制する


 Bの「感じて」が「少し表情を変えて」、Cの「気づいて」が「少し考えて」に対応している。


 一方、豊太郎の心理は少々難しい。

 これは、読み取るのが難しいということではない。大抵の読者はここでの二人の心理を正しく読み取っている。だがそれを適切に表現するのが難しいのだ。

 それでもそれなりに表現できるのは「微笑」だ。

 BCのエリスの不安を なだ めるための微笑みであることはわかる。そのように表現することは間違っていないが、その微妙なニュアンスを充分に表現しきっているわけでもない。それは「不興」の心理を的確に表現し、それとの関連で初めて明らかになる問題だ。

 エリスの科白によって「不興なる面持ち」をした豊太郎の様子を読者に知らせておいて、なのにその内面を、地の文では解説しない。

 だがこの「不興なる面持ち」は、わざわざ書かれている、と思わざるをえない。となれば「書いてあることには意味がある」の法則に従って解釈しないわけにはいかない。

 だが「意味」とは何か?

 豊太郎の「不興なる面持ち」とはどのような心理を表わしているか?


 例えばこれを、たまたま歯に挟まった食べ滓が取れずに気になっていたのだとか、朝から腹を下し気味だったのだとか考える者はいない。

 だがそれらは文中でそうではないと否定されているわけではない。にもかかわらずなぜそれを誰も支持しないのか?

 解釈が妥当であるかどうかという判断は、それが置かれた文脈が、その可能性についてどのような限定をしているかに依存する。限定がなければどんな解釈をしてもいいということではなく、むしろそれはそもそも解釈の必要がないということだ。

 だから文脈が解釈の範囲を限定する。文脈の中でその妥当性を判断する。

 「食べ滓」「腹痛」説を誰も支持しないのは、そう考えることの妥当性を示す標識が文中にないからだ。関連する要素がみつからないのである。


 では、エリスの締めるネクタイがきつすぎて苦しかったから顔をしかめたのだ、というのは?

 これは科白の直前にある情報から導かれる解釈だ。だから文脈に依存しているという点では「食べ滓」「腹痛」よりはマシだ。だがやはり依然としてそれを本気で支持する人はいまい。なぜか?

 そうしたことをなぜ文中に載せるのかという必然性が腑に落ちないからである。例えばこの身支度の様子をコミカルに描きたいのだ、などという意図が感じ取れるなら、その必然性はわかる。だがそのようにも見えない。

 久しぶりの正装が窮屈だったのだ、は?

 これが単に身体的な感覚のことを言っているのではなく、心理的な抵抗感を示しているとすると、「ネクタイが苦しい」よりも必然性が高い。

 具合の悪いエリスの体調を心配しているのだ、という解釈は?

 これも本文中に関連する情報はある。エリスを気づかう豊太郎の心理が表わされているのだと考えれば「意味」もあると見做せる。

 あるいは「不興なる面持ち」は、エリスからそう見えているだけで、豊太郎にとっては別に意味はなく、これはむしろエリスの心理を表わしているのだ、という説もちらほらと聞こえた。これは去年の「こころ」の読解が活かされた発想だ。

 これらの諸説をどう考えればいいか?


 実際に授業で提案されるのは主に次の二つの解釈。

 エリスの科白の前の部分と結びつけるならば、

エリスの甲斐甲斐しい世話焼がかえって煩わしい

という解釈が可能であり、後の豊太郎の科白から引用すれば、

大臣に会いたくない

という心理を表わすものだと解釈できる。

 それぞれに文脈に依存した解釈ではある。

 また、エリスの世話が煩わしいとか大臣に会いたくないとかいう解釈は、豊太郎がそれらの人物に対してどのような感情を抱いているかを表わしているのだと考えれば「ネクタイが苦しい」よりは有用な情報であると見なすこともできる。

 だがこれら、簡単にとびついてしまいそうな説明は、まだ腑に落ちない、と考えるべきである。

 なぜか?


舞姫 11 母の手紙

 公使館から告げられた免官の宣告から、態度を決定する一週間の猶予の間に、日本から手紙が届く。母の手紙と母の死を知らせる親族の手紙である。

 この母の手紙の内容について考えてみよう。


 その死を知らせる手紙と「ほとんど同時に」出されたということは、母の手紙が、その死の直前に書かれたということを意味する。遺書なのだ。

 そこには何が書かれていたか?


 母の死自体もまた悲しいに違いないが、その内容を「ここ(手記)に反復するに堪えず」と書かれているから、問題は内容だ。

 不慮の死であったというのは、「わざわざ書かれるべき特別な事由」にあたるから、そうでないとすれば母親は自らの死を知っていて、息子に手紙を書いたということになる。それが殊更に悲しいとしたら、そこにはどのようなことが書かれていたと考えられるか?


 病気で死期が迫った母が息子に残す言葉として、単なるその死以上に息子を悲しませるとしたら、この息子の現状との対比がそこにある場合だ。

 ここでの豊太郎はちょうど、事実とは言い難い(だが「無根」とも言えない)中傷によって免官になったところだ。

 そこから考えると、死期の迫った母は、息子の将来に希望と期待を述べ、あなたは太田家の誇りです、くらいのことを書いていたと考えるのが、そのコントラストによって、より豊太郎を悲しませるにふさわしい。


 もう一つ、母の死が自死である可能性について考えた人もいるだろう。これもまた遺書であるという可能性から考えられる一つの死因である。

 授業では 諫死 かんし という言葉を紹介した。

 諫死とは、死をもって主君に忠告することだ。豊太郎の行状に対し、母親がその死をもって息子を諫めたのだと考えることは、この時代の親子、とりあわけ家庭教育の賜物としての立身出世を期待する息子に対する母親の身の処し方としては考えられるところである。

 問題は、免官の宣告を受けた一週間のうちにこの手紙が届いたことだ、と授業では言った。

 当時は航空便もなく、船便による郵便は日独間で1ヶ月以上かかったという。母親が、豊太郎の免官を知って諫死したのだと考えるのは無理だ、といって、悪評程度を仄聞するくらいで諫死までするだろうか?

 自分の行いのせいで母親が死んだのだとすれば、それが豊太郎にとってどれほど辛いかは想像に難くない。諫死という死因は豊太郎の悲しみに対してきわめて整合的であると感じられるのだが、この、情報の伝達のタイミングの不整合が容易には腑に落ちない要素ではある、と注釈した。


 電信の発達・普及がどうなのか、という問題もある。実はこのころ既に大西洋を海底ケーブルが渡されていて、大陸間で電報を送ることが可能だった。

 だがもちろん現在のように気軽に連絡ができるわけではない。一留学生の罷免について、わざわざ電信を使って日本からドイツに知らせる必然性があるとは考えにくい。まして豊太郎が舞姫と遊んでいるようだ、というような報告が、電信を使って伝えられるべきこととは思えない。

 したがってこれらは文書をもってやりとりされたはずだ。

 とすれば、母親からの手紙は、いつ、どのような契機で書かれたものなのか?


 だがこうした疑問は、以下の記述についての浅はかな勘違いに基づくものだった。

…余がしばしば芝居に出入りして、女優と交はるといふことを、官長のもとに報じつ。さらぬだに余がすこぶる学問の岐路に走るを知りて憎み思ひし官長は、つひに旨を公使館に伝へて、わが官を免じ、わが職を解いたり。公使がこの命を伝ふる時余に言ひしは、御身もし即時に郷に帰らば、路用を給すべけれど、もしなほここに在らんには、公の助けをば仰ぐべからずとのことなりき。余は一週日の猶予を請ひて、…

 さらさらと記述されているが、実際には「官長のもとに報じつ」や「旨を公使館に伝へて」に、それぞれ文書の船便で1ヶ月以上の時間が経過しているのだ。

 独公使館からの報告を受けて日本にいる官長が豊太郎の罷免を決めたことは、正式にか、周囲の人からの忠告でか、母親にも知らされたのだろう。それを知った母親が死をもって不甲斐ない息子を諫める。

 その時に書かれた遺書と、それを知らせる親族の手紙は、官長による豊太郎罷免の通知を追いかけるようにして日本からドイツに海を渡ったのだ。そして免官の宣告を受けた豊太郎に、その宣告に追い打ちをかけるように、母の死の報せが届いたのだ。

 母親の死が既に1ヶ月以上も前のことであったことを知って、その間もエリスとの淡い交際に胸をときめかせ、浮かれて日々を送っていた豊太郎がどれほど胸を痛めたか。

 あらためて想像されるその悲痛は、この時間経過を考えることで、より強く迫ってくる。


 以上の追加考察は、D組のMさんとM君の提言に基づいている。貴重な意見に感謝するとともに、他クラスの人にも知らせたいと思い、ここに掲載した。

2021年11月5日金曜日

舞姫 10 エリスの戦い

 この場面について、さらに興味深い解釈を紹介する。かつて本校にいたM教諭によるものだ。

 皆はこの一連の出会いの場面を読みながら、一体、エリスは自らの魅力についてどの程度自覚しており、それをどの程度自覚的に利用しているのかが気になったりはしなかったろうか?

 エリスは清純なのかあざといのか?

 敢えてどちらかというと、でいいからと挙手させてみると、小説の裏を読んで面白がりたい高校生たちには「あざとい」説が優勢だ。

 「あざとい」説が出てくるのは、次の二つの描写からである。

  G

彼は物語りするうちに、覚えずわが肩に寄りしが、この時ふと頭をもたげ、また初めて我を見たるがごとく、恥ぢてわがそばを飛びのきつ。

  H

彼は涙ぐみて身を震はせたり。その見上げたる目には、人に否とは言はせぬ媚態あり。この目の働きは知りてするにや、また自らは知らぬにや。

 Gは豊太郎と会ったばかりで、わずかに事情を語った科白の後に続く描写、Hはエリスの家でさらに詳しい事情を語って援助を請う 科白 せりふ の後に続く描写である。

 この二つの描写をどう読むか?

 Gの「覚えず」というのは本当か?

 Hの目遣いの効果について本人は自覚的なのか?

 どちらと答えるによせ、実はそう考える根拠が別段あるわけではない。議論をしても個人的な好みに終止してしまって、どちらかに決着するわけではない。

 だがHでは作者自らがその二択を殊更に読者に投げかけている。これは考える余地があるということだろうか? 何か具体的な手がかりに基づいた読解ができるのだろうか?


 考える緒は次の疑問に答えることだ。

 「わがそばを飛びの」いたのはどのような契機によるか?


 往来で泣いていたことに、初めて気づいたのか?

 見知らぬ男の肩に寄り添ってしまっている自分に不意に気づいたのか?

 そう考えることを否定するわけではないし、読者にはまずそのようにしか読めない。

 だが、この場面の「真相」に基づいてこの描写を読み直してみると、エリスの反応について別の解釈が可能になる。

 Gの場面でエリスが外にいるのは、先の考察に拠れば、恥知らずなことが行われようとしている家を飛び出してきたからである。といってこれからどうしようというあてもない。そこへ現れたのは「黄なる面」の「外人(よそびと)」である。エリスは突然声を掛けてきたこの異邦からの来訪者に、ただすがりつくように自らの窮境を語る。そうするうちに「わが肩に寄」ってしまったのは「覚えず」であったとしてももっともなことである。

 それが、何らかの契機がエリスに「初めて我を見たるがごとく」豊太郎の存在を捉えなおさせ、「恥ぢてわがそばを飛びの」く動作をさせたのだ。

 M教諭の解釈は次のようなものである。

 エリスが反応したのは、豊太郎が言った「君が家に送り行かん」である。この時初めてエリスは、豊太郎が「家」の「客」になる可能性に思い至ったのである。この東洋人が、自分の世界の外からやってきたこの世ならぬ救世主ではなく、現実的な―しかしそもそもはそれこそ避けたかった―援助者としての「客」になる可能性をもっていることに初めて思い至ったのである。

 ここからHに至るエリスの心理を推論してみよう。

 それでもエリスは豊太郎にすがることを決める。少なくともシヤウムベルヒの影響下にない豊太郎が善人であることに賭けて、彼を家に連れて行く。

 家では母親が待っている。母親は娘の説明に従ってこの身なりの良さそうな東洋人を、善意の援助者として素直に信じることができるだろうか?

 もちろんそんなことは期待できまい。とすれば、母親にとってこの東洋人は、予定の「客」に代わるあらたな「客」である。シヤウムベルヒに借りを作るくらいなら、金の出所としてこの東洋人に乗り換えてもいいと母親は考えたのである。それで母親は、態度を豹変させて豊太郎を迎え入れる。

 豊太郎が通されるのは「客」のために設えた屋根裏部屋である。

 母親はそこまで着いてきている。「老媼の室を出でし後に」、いよいよこれからがエリスの必死の策略が実行される。豊太郎を籠絡しつつ、「客」ではない善意の援助者として仕立て上げるのである。

 エリスの科白を分析しよう。

 まず「許したまへ。君をここまで導きし心なさを。君は善き人なるべし。」と切り出す。「あなたは良い人に見えます」とは絶妙な牽制だ。そう言われて「悪い人」になることは難しい。加えて、家に連れてきたことを謝罪することで、豊太郎には見返りがないこと(つまり「客」として遇しないこと)をさりげなく伝える。

 そして自らの窮境を、先ほどよりは具体的な事情がわかるように伝えた上で「金をば薄き給金を割きて返し参らせん。よしやわが身は食らはずとも。」と言う。金はあくまでも「借りる」前提であること、つまり見返りに何かを渡すつもりはない―すなわち豊太郎は「客」ではない―ことをまたしても前提として確認してしまう。

 なおかつあなたが、先の前提である「善き人」ならば、「それもならずば母のことばに。」という仮定の示す「酷い」成り行きに私を任せるはずはない、と念を押すのである。

 こうしてエリスは巧妙に自分の望む方向に豊太郎の了解を誘導する。

 このように考えると、Hの「その見上げたる目には、人に否とは言はせぬ媚態あり。この目の働きは知りてするにや、また自らは知らぬにや。」の「媚態」はGに比べて、意図的、というより意志的なものだということになる。

 エリスは自分の精一杯の媚態を利用してでも、豊太郎を善意の援助者にしたてあげることに賭けたのだ。


 だからといってこれはエリスが「あざとい」ということではない。この科白も、分析的というより、感覚的に繰り出されていると言ってもいい。

 そしてこうした策略もまた「恥なき人とならんを」逃れるためであることから考えれば、依然としてエリスの純情を疑う理由はない。


 以上の解釈が作者・鷗外の意図したものであったどうかについては確信がないが、少なくともこうした解釈を可能にするテキストであることは以上の考察が示しているし、それをする自由が小説読者に許されているのは確かである。

 そして、不注意な読者には、こうしたエリスのぎりぎりの戦いは、決して読み取れはしないのである。


舞姫 9 出会いの場面の真相

 エリスはその時、なぜそこで泣いていたか?

 ここからその「真相」に一息に迫るのは、次の問いだ。

 「体を売る」のは、具体的には、いつ、どこでか?


 上の問いに対する答えを念頭に置いてD「母親の態度」、E「衣服」、F「室内」の記述について再考し、a~eのストーリーの細部を想像してみよう。エリスにとっての「その時」がどのようなものかに気づいた者は、その「真相」に戦慄を覚えないではいられないはずだ。


 答えは「今晩、エリスの家で」だ。

 「今晩」以外の想定をわざわざした者はいないだろうが、あらためてそのことをリアルに想像しておく必要がある。そしてそれを「エリスの家で」と組み合わせることで、この状況の緊迫感が増す。

 場面は、仕事帰り、「灯火」のともる「夕暮れ」である。折しもこの後、この家がその舞台となるはずだったのだ。

 「明日には葬儀を上げなければならないのに」という条件の提示も、Eのエリスの服が「垢つき汚れた」ものでなかったという言及も、今日それが行われることを意味していると考えると、読者にその情報を伝えるためにわざわざそのことに言及することの必然性が腑に落ちる。

 では「どこで」はなぜそのように確定できるのか?


 現状では「相手」の家、市内のしかるべき施設などとともに、「エリスの家」という可能性も検討されていたはずだ。話し合いの中でそうした声があちこちから聞こえてきてはいた。

 だがそれは様々な可能性の検討の中に流されてしまい、結局いくつものストーリーの並列を許してしまっていた。

 例えばc「身を売る相手を探していた」説に対する疑義として、豊太郎を外において扉を閉めてしまった母の態度は、不特定の客を対象にした売春を命じていると考えることと不整合だ、エリスが男を連れて家に戻れば、誰であれ母親はすぐに彼を迎え入れただろうからだ、といった議論が班の中で交わされていた声が聞こえていた。それは「エリスの家で」という想定を前提していることになるはずなのだが、その可能性の是非自体が議論になることがなく、ストーリーの選択に意識が向いてしまっていたように見える。

 あるいはc説は「相手」を「不特定」と考えていることになるが、そうなれば花束はエリス家が「客」を迎えるために用意したものということになり、となれば「エリスの家で」ということにしかならない。だから「どこで」かを問われる前に、c説は「どこで」を確定していたことになる。同時にそれは「母の態度」との齟齬につきあたるから、その時点でそうしたストーリーの可能性が排除されたはずだ。

 もちろんc説で、さらに場所をどこかの安宿のようなところだと想定すれば、d「どこかへ行く途中」説との融合案としてそれもありそうな気もするのだが、これでは花束の存在に説明がつかない。

 そもそもc説を採る場合、シヤウムベルヒの関与がどのようなものだと考えればいいのかが不明だ。単に「体を売ったらどうだ。」という提案だけが「身勝手なる言い掛け」なのだろうか?

 その要求が何かシヤウムベルヒにとって得になることでなければならないと考えると、相手はシヤウムベルヒか、シヤウムベルヒが仲介する誰かということになる。

 こうして、可能性の候補を絞っていくことはできたはずなのだ。


 では、可能性の一つでしかなかった「エリスの家で」を信ずるべき最大の根拠は何か?

 それこそがFの室内の描写である。5行に渡る描写は、そこがその舞台となることを読者に示している。机に掛けられた「美しき氈」も書物や写真集が飾られているというさりげない描写も、そう考えなければ、わざわざ言及されている意味がわからない。

 「ここに似合わしからぬ」という形容によってどうしても花束が注目されてしまうが、問題はそれも含めた室内の描写の意味そのものだ。花束が、それをエリスに贈ってきた男の存在を示しているという指摘をFの提示の時点でわざとしたのは、敢えて皆をミスリードしたのだった。

 これは、授業者による意図的なミスリードでもあるが、そもそもこの部分の描写自体が小説読者をミスリードしているとも言える。注意を引く形容の被せられた花束は、エリスの窮状とは体を売るよう迫られているということだという、いわば一層目の「真相」に読者を誘導するヒントになるとともに、テーブルクロスや書物や写真集が飾られた室内の描写全体が意味する二層目の「真相」から読者の注意を逸らしてもいるのである。


 a~eの各ストーリーは、「相手」や「場所の意味」にせよ、「母親の態度」にしろ「花束」にしろ、それぞれをそのストーリーに合わせて解釈することが可能だ。だから完全にはそのストーリーを特定することはできなかった。

 その中で最初に特定すべきなのは、この「今晩、エリスの家で」なのだ。ここを起点としてそれ以外の浮動する要素が確定されるのである。

 室内の描写は、ここがそのための場所であることを示しているという以外の解釈を許さない。それは、書いてあることには意味があるはずだという小説解釈の基本原則に則った帰結だ。


 では「価高き花束」の出所については?

 花を用意したのがエリス家だとすると、それはただちに「この家で」という想定をしていることになる。

 だが家の蓄えがなくて葬式さえ出せない母親が、「美しき氈」「書物一、二巻と写真帳」といったワイゲルト家のなけなしの調度によって部屋を飾りこそすれ、高価な花束を買ってまで客をもてなしているのだと考えるのは不自然だ。「客」を迎えるにはエリスの存在だけでいいはずだ。

 それよりも、これから来訪する予定の「客」から贈られたものだと考えるのが自然だ。きれいな花束はかろうじて貧しい家の一間を飾り、エリスの美しさをひきたてる。そこを訪れた「客」は、自分が贈った花束が部屋を華やかに飾っていることに満足するだろう。

 そうした花束を「シヤウムベルヒ」と「シヤウムベルヒの仲介する客」が贈る様を想像してみよう。

 お抱えの踊り子に手をつけようとするシヤウムベルヒが、今更花束を贈って雇い人の歓心を買おうとするだろうか。

 それよりも、「場中第二の地位を占め」ている人気の踊り子を自分のものにしたいという客が、彼女の気を引こうと贈ってきたものと考えるのが最も自然に思える。シヤウムベルヒはそうした客の要求に応えることで仲介料をとろうとしているのだ。


 さて、「今晩」「エリスの家で」「特定の」相手に身を任せようとしているという前提を確認し、聞いてみるとなおもde説を堅持している者がほとんどだったのは奇妙だった。

 de説の「どこか」、dでは「行く」場所、eでは「行ってきた」場所を、おそらく皆はそれが行われる場所として想定していたはずだ。つまり「相手の家」「安宿」などだろう。

 だがそれが「エリスの家で」に変更されてさえ、de支持のまま、それを合理化しようとする。

 つまり皆は相手を座長かエリスのファンだと考え、エリスが彼らを迎えに行って家に連れてくるのだと考えるのだ。

 だがなぜそんな想定をする必要があるのか。なぜ迎えに行く必要があるのか。

 「客」は向こうから訪れると考えるのが素直な発想だ。

 D「母親の態度」がそれを示している。

 母親は、戸の外を確認する前にドアを「荒らかに引き開け」ている。迎えに行って帰ってくる時間が早すぎたのならば、まず事情の確認が必要だし、外にエリスとその客がいる可能性がある以上、そんな不調法はしないはずだ。

 それより、「客」を迎える準備ができたのに、肝心の娘が逃げ出してしまい、「客」の到着までに帰ってくるかどうかを焦って待つ間に怒りを募らせている母親が、エリスが帰ってきたとわかるやいなや戸を開けたのだ。そして「待ち兼ね」たように閉めるのだ。

 母親が豊太郎を閉め出して戸をたてきるのは、それが予定された客ではなかったからである。だが、予定通りのシヤウムベルヒか、その仲介する客でなくても援助が引き出せれば予定外の東洋人でも構わない、という娘の説得に母親が納得したから、その態度は豹変した。

 当然、母親にとってこの身なりの良い東洋人は、単なる善意の援助者ではなく、あらためて娘が体を売ることになる「客」として認識されている。


 一方で「エリスの家で」という設定を信じるには大きな障害が二つある。

 家の中には父親の遺体がある。別の部屋とはいえ、亡き父親が寝かされているのと同じ屋根の下で、娘が身体を売るために着飾って客を迎えるのである。そしてその準備は母親がしているのである(これを根拠に「家で」説に反論している声をいくつかのクラスで聞いた)。

 また、上の想定によれば、予定の客がこの後に訪れることになるではないか!

 この、父親の遺体の存在と、後から訪れる「客」の対処を根拠に「エリスの家で」説に反対していた人は鋭い。

 だが、だから「エリスの家で」説を否定したり、「客が訪れる」というストーリーを否定して、「相手の家で」とか「迎えに行った」というストーリーを採るのは適切ではない。室内の描写を根拠としてまず「エリスの家で」説を採るべきなのであり、この家にやってくる客の相手を今晩するのだというストーリーの方が解釈の蓋然性が高いと考えるべきなのだ。

 そう考えることで、父親の遺体の存在の不気味さに戦くべきなのだ。

 そして母親はこの場であっさりシヤウムベルヒを裏切り、後から訪れる予定の「客」を追い返す決断をしたのだ、と考えるべきなのである。

 恐るべき変わり身!

 この「真相」は恐るべきものだが、だからといって、母親をいたずらに悪人に仕立てるつもりは鷗外にはない。「悪しき相にはあらねど、貧苦の跡を額に印せし面」と、それが貧困のせいであると読者に報せてもいる。


 Eの「衣」について、後段の舞姫という職業についての説明の中で、舞台では「美しき衣をもまとへ」と言及されていることと結びつけ、この「衣」は舞台衣装ではないかという推測を語った者がいた。

 確かにテキスト内情報は関連づけることで有意味化するものであり、そうした意味づけを「読解」と呼ぶのだが、この解釈はただちに認定することはできない。舞台衣装を街中で着ていることの異様さに、Eの時点で言及しないのが不自然だからである。

 だがもちろんこの舞台衣装が「垢つき汚れたりとも見えず」程度の形容を許容するとすると、この晩にわざわざ舞台衣装を着ることを要求したのは、やはりエリスのファンであるような、今夜の予定の客であると考えるのが妥当とも言える。


 結局「なぜそこにいたか」は、最初の選択肢ではaが最も近いが、母から逃げ出したというよりも、今晩のうちにそれが行われようとしている忌まわしい場所から逃げ出してきた、つまり「家から逃げて」とでも言った方が的確である。最初の選択肢でa「母から」と表現したのも、いわばミスリードだ。母が「我を打」つから帰れないのではなく、帰ることは直ちに「我が恥なき人とならむ」ことになるから帰れないのだ。

 そう考えてこそ、この時のエリスにとっての、この状況下に表れた豊太郎の存在の切実さがわかる。漠然と「金のために身を売ることを余儀なくされて悲しんでいた」と考えるのと、「今夜それが行われる部屋から逃げてきて、どうしようもなく道端で泣いている」と考えるのとでは、この時のエリスの置かれた状況の切迫感はまるで違う。


 さて、考察の積み重ねによって構築されるこうした「真相」に、みんなはどの時点で気づいただろうか?