2021年11月20日土曜日

舞姫 18 全体を捉える

 さて、ここまで10時限ほどかけて、全編を読み終えた。

 「舞姫」は、高校の国語科授業にとって「羅生門」「こころ」「山月記」に次ぐ「定番」小説教材だ。授業者も高校時代に授業で読んだ。

 だがこの小説は、その文体と長さから読むに難渋するわりには、物語にカタルシスがなく、むしろ不快と言ってさえいい。「舞姫」が近代文学の出発点に位置する、文学史的に価値の高い作品であることをいくら喧伝されても、単にエンターテイメントとして享受するにはコストとベネフィットのバランスが悪すぎる。

 だがこうして途中に考察をはさみつつ時間をかけて読み進めてきた過程は、それなりに面白かったはずだ。みんなで考察し合うことは楽しい。

 だがそれは日常で「小説を読む」行為とはだいぶ違う。半ばは勉強と思って粘り強く取り組むうちに、じわじわと感じられてくるような面白さだ。

 ここまでは、そうして読み進めること自体に楽しみを見出してきたが、ここからいよいよ「舞姫」という小説を全体として捉える。


 「舞姫」という小説の主題は何か? 「舞姫」というのは、何を言っているテクストなのか?

 高校生であった頃の授業者には、授業において提示された「愛か出世かの選択」というテーマ設定は凡庸なものに思えた。積極的にそうではないと考えていたわけではなく、まあそうなんだろうと思いつつも、それが自分の身に迫るような問題として捉えられたりはしなかった(もちろん「羅生門」の〈生きるために為す悪は許されるか〉とか、「こころ」の〈友情か愛情かを巡るエゴイズム〉などといったテーマも、同様につまらなかった。現在ではこうした把握自体が間違っていると思っているわけだが)。

 そもそもこうしたテーマとして「舞姫」を描くなら、結末は次の3通りにしかならないはずだ。

  1. 大臣と相沢の誘いを断ってドイツに残る(ハッピーエンド)
  2. 悲しみ暮れるエリスをおいて帰国する(悲劇)
  3. 発狂したエリスを抱えて失意の中でドイツに残る(バッドエンド)

 とりわけ3は、豊太郎がドイツに残るという、ヒロインにとってのハッピーエンドのはずの結末が最悪のかたちで実現するという、ギリシャ悲劇的、「こころ」的アイロニーを醸し出しているともいえる。

 ところが「舞姫」の結末はどれでもない「発狂した女をおいて帰国する」という不可解な決着を迎えるのだ。

 この結末が選択されていることの不全感は、西洋列強に伍して立国していこうとしている明治という状況をいくら勘案して、豊太郎にとって「やむを得ない選択だった」という判断に落ち着こうとしても、到底無理だった。

 だから「舞姫」をテキストとして「自分だったらどうするか」を問うのは的外れだ。自己を豊太郎の立場において問うのなら先の3択のうちの1・2であり、どうにもならない悲劇を享受するという意味では3の読書体験もありうるが、いずれにせよ、この小説が示す結末は選択に迷うような釣り合いにはない。


 ではこの小説をどう読めばいいか。

 アカデミックな「舞姫」研究の多くは、鷗外の伝記的事実から「舞姫」の執筆動機や主題を考察するものだが、そうした、テクスト外部の情報を「教える」ことが高校の国語科授業の使命ではない。興味があればネットでも「国語便覧」でも調べられる。

 小説は、それが小説という虚構として書かれる以上は、いくら「私小説」「自伝小説」などと言おうが、現実からは独立したものとして受け取られなければならない。「永訣の朝」もそうだ。あれは宮沢賢治が妹を亡くした実体験に基づいて書かれたものだという知識があることはかまわない。だがその詩はそこにあるテクスト自体から読み取らなければならない。宮沢賢治の伝記的事実を並べて、こういう人がこういうメッセージを込めているのだ、などと読むべきではない。

 とはいえ、「舞姫」を読むための構えとして、知っておくべき最低限の基礎的知識はおさえておこう。

 「舞姫」が鷗外の実体験に基づいているということは、たびたび触れてはいた。そうした事実と小説の相違を知っておくと、この小説に感ずる不快感はいくらかは減ずるかもしれない。


 まず豊太郎が19歳で東大を主席で修了したことは、鷗外=森林太郎の実話だ。東大開校以来のことだという。その後豊太郎は法律を扱う省庁に勤めるが、典医の家に生まれた林太郎は医学を学んで陸軍軍医となる。その後、豊太郎は法律を、林太郎は医学を学ぶためドイツへ官費留学する。時期も大体事実に基づいている。

 天方伯爵は山県有朋のことで、その大陸視察旅行も事実に基づく。もちろん相沢謙吉のモデルらしき人物も同定されている。

 そして林太郎と恋愛関係にあったエリスもまた実在する人物、エリーゼ・ワイゲルトをモデルとしている。本人と思われる写真も見つかっている。

 一方で、豊太郎は一人っ子で早くに父を亡くし、物語中で母を亡くす。頼りになる親族はいない。だが林太郎の両親は健在で弟妹もいる。

 そして現実のエリーゼは、帰国した林太郎を追って来日するのである。名前を記した船員名簿が見つかっている。

 つまり、実在のエリーゼは発狂してはいない。妊娠もしていないかもしれない。

 来日したエリーゼは横浜のホテルに一ヶ月ほど滞在する。その間、森家の説得により、諦めてドイツに戻る。

 翌年、林太郎は軍関係者の娘と結婚する。


 史実が小説ほど酷いことにはなっていないと知ったことで、読者の不快感はいくらかはいくらか減じるかもしれないが、そのぶん、ではなぜ小説をこのように描いたのか、という謎はいっそう深くなる。

 その謎がすっきりと解けるという保証はできない。そもそも問題は、なぜ鷗外は「舞姫」を書いたか、ではなく、「舞姫」という小説をどう読むか、だ。

 ここからは、評論でも用いた「読み比べ」という方法を使う。

 その相手は、高校の国語の授業で読む小説としては「舞姫」以上の「定番」と言っていい「山月記」「こころ」「檸檬」「羅生門」である(「羅生門」は時間次第)。


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