2021年11月17日水曜日

舞姫 16 我が地位

 11章では、手紙と関係してもう一点、考察したい問題がある。この手紙の直後の「ああ、余はこの書を見て初めて我が地位を明視し得たり。」という述懐である(332頁)。

 ここで述べられている「我が地位」とはどのようなものか?


 ただちに思いつくのは、自分が大臣に重く用いられるようになるということは日本に帰れる可能性が高まってきたということであり、そうなるとエリスを棄てなければならず、どちらをとるかという選択の板挟みになるという状態を指しているのだ、といった説明である。

 これは、次の段落の次のような記述と対応している。

大臣は既に我に厚し。されど我が近眼はただ己が尽くしたる職分をのみ見き。余はこれに未来の望みをつなぐことには、神も知るらむ、絶えて思ひ至らざりき。されど今ここに心づきて、我が心はなほ冷然たりしか。(332頁)

 「ここに心づ(いた)」が「我が地位を明視し得た」に対応していると考えれば、帰国の可能性と、それ故に生ずる板挟みに「心づいた=明視した」のがこの時だったということになる。


 だがこうした説明に素直に納得することはできない。このような状態であることは、とうにわかっていたことではないのか。今更「明視し得たり」などと言うことなのか。

 いや、わかっていなかったわけではないのかもしれない。ただ「胸中の鏡は曇」っていたのだ。心の奥底で「わかっていた」としても、それが今初めて「明視し得た」、つまり明らかに自覚されたのだ。

 だがこのような説明でも腑に落ちない。この場面より2ヶ月ほど前の天方泊と相沢の訪独の際、身支度を整えている場面において、豊太郎の「不興なる面持ち」が示すものは、既にそうした未来を予想してのものだと分析したではないか。

 また実際に相沢と再会した際にはエリスと別れることを相沢に口約束していた。そしてホテルを出る時に「心の中に一種の寒さを覚え」ているのは、約束に従うことでエリスを棄てて東へ帰る可能性が心に兆しているからではないか。

 では「今ここに心づきて」という記述は嘘なのだろうか?


 「初めて我が地位を明視し得たり。」の続きの文章を検討しておこう。

 次の一節における「逆境」とはどのような事態を指すか?

余は我が身一つの進退につきても、また我が身にかかはらぬ他人のことにつきても、決断ありと自ら心に誇りしが、この決断は順境にのみありて、逆境にはあらず。我と人との関係を照らさんとする時は、頼みし胸中の鏡は曇りたり。

 この「逆境」は「我が地位」と同じ状況を指している。「逆境」において「胸中の鏡は曇」っていたため「我が地位」が見えなかったが、エリスの手紙によって初めてそれを「明視し得た」といっているのである。

 だがそうだとしても、エリスを棄てて日本に帰る道とエリスと共にドイツに残る道、自分が大臣とエリスのどちらを選ぶかという板挟みになっているという状況のことを指して「逆境」と言っているのだと考えることは容易い。また、それを指して「我が地位」と言っているのだと考えることも。

 だが、繰り返すが豊太郎がそのことに気づいていないはずはない。

 なのになぜ今さら「明視し得た」「心づいた」などと言っているのか?


 この記述には一面の真実と自己弁護的な嘘が混ざっていると考えられる。この手記には読者が想定されているのだ。

 確かに豊太郎は、大臣から与えられる「職分」に対して、積極的・能動的に「未来の望みをつなぐこと」は意図していなかったかもしれない。だが消極的・受動的であれ、結果的にそうなる可能性について、本当に「思い至ら」なかったのかといえば信じ難い。カイゼルホウフでの相沢との再会から二ヶ月に及ぶ天方伯との関わりの中で、その可能性に全く気づかないなどということはありえない。エリスは既に最初の手紙に「独り後に残りし」不安を書いていたではないか。それがロシア旅行だけにとどまらない可能性について気づかないなどということがありえない。

 だから、当然わかっていてもいいその可能性について敢えて考えないようにして、自らに対し、気づかないふりをしていた、といったところであろう。「絶えて思ひ至らざりき」というのは、告白的な手記における欺瞞なのだ。

 問題は、それがなぜこの手紙によってその「ふり」ができなくなったのか、である。この手紙のどんな情報が豊太郎の自己欺瞞に孔を穿ったのか。この手紙には、それまでの手紙にはないどのような情報が書かれているのか。

 エリスの手紙のどのような内容によって、豊太郎はどのような「我が地位」に気づいたのか?


0 件のコメント:

コメントを投稿