天方伯爵の訪欧に随行してきた相沢との再会後、文書の翻訳を依頼された豊太郎は伯爵らが宿泊するホテル、カイゼルホウフへ出入りすることが多くなる。一月ほど過ぎたある日、天方伯は豊太郎にロシア訪問の通訳としての随行を依頼する。例によって豊太郎は咄嗟に肯うことしかできない。
ロシア旅行の間、エリスは毎日豊太郎宛に手紙を書き送る。11章(331頁)には、最初の一通目と、出発後二十日ほど経ってからの手紙についての記述がある。後者の手紙は「否といふ字にて起こ」されている。
この奇妙な(そして重要な)手紙について考察したい。
どのような問いを立てるか。「この手紙にはエリスのどのような心情が表われているか」などという問いでは、手紙の内容の、不必要で不正確な同語反復になるばかりだ。ポイントを絞る必要がある。
何といっても奇妙なのは冒頭の「否」である。ここを問う。
何が「そうではない」といっているのか? 何に対する否定か?
「いいえ」「そうじゃない」「違うわ」…、口語訳はいくつも考えられるが、いずれにせよ否定する前部がないのに否定の言葉から始まる文章の奇妙さにもかかわらず、この書き出しが持つ切迫感は確かに読者にも感じ取れる。
体育科のA教諭は、話し始めに「いや」と言う口癖があるという。それが何を否定しているかをいちいち考える必要はないだろうが、といって「さて」とか「えー」などという無意味な発語と完全に同一視することもできない。「いや」が選ばれるには、何かしらそこに前後の逆接をともなっているはずだ。それはごく曖昧な微弱な論理かもしれないが。
ここでも、その論理を語るには慎重に本文を追わねばならない。
直前に記述されているのは一通目の手紙であり、これとただちに逆接するわけではないことは確認する必要はある。一通目は豊太郎の出発の翌日に書かれており、問題の手紙は「二十日ばかり」経ってからの手紙である。そして手紙は「日ごとに」書かれている。つまり二十通目前後の「ほど経ての書」なのである。
とはいえ、二通目以降も同じようなことが繰り返し書かれていたとすると、この一通目に対して「否」という逆接でつながる論理を説明すればいいのかもしれない。
また、豊太郎からの返信に対する逆接かもしれない、とも考えられる。その頻度は明らかではないが、豊太郎もまたエリスに手紙を書いている。「書き送りたまひしごとく、大臣の君に重く用ゐられたまはば」と、ロシアでの通訳の仕事ぶりについて、エリスに知らせている。これらの返信の内容に対する反対の意志表明なのだろうか。
だとすればこの逆接から、豊太郎の手紙の内容を推測すべきなのだろうか?
おそらくそうではあるまい。「否」から豊太郎の手紙の内容を推測させるような迂遠な論理を読者に期待しているとは考えにくいからだ。
実際には、手紙を書き出す前にあれこれと考えをめぐらせ、それを自分自身で否定したのがこの冒頭の「否」なのだろう、とは思われる。
ではエリスの頭にはどのような思いがよぎったのか。
論理の組み立て方のアイデアは一つではない。視野をどのくらい拡げて考えるか?
まず一つは、「否」に続く書き出しの一文「否、君を思ふ心の深き底をば今ぞ知りぬる。」を素直に逆転させるアイデア。
a 今までも豊太郎を思う心については充分その深さを知っていたつもりだった。だがその思いがこんなにも深かったのだと今初めて知った(今まで自分でも知らなかった)ということ。
エリスの手紙は、一通目から「あなたが恋しい」ということを訴えているに過ぎない。それは自分でも自覚している。だがこれほどとは思わなかった、と言っているのである。いつも通りに「あなたが恋しい」と書きそうになり、それでは足りないと思う思考が「否」に表われているのである。これはすこぶる論理的な説明だ。
もう少し視野を拡げる。続く手紙全体の内容の趣旨を抽出した上で、それを逆転させる。これには、悲観的な方向と楽観的な方向が考えられる。
一通目の手紙に示されているのは、豊太郎との別離の不安である。それは問題のこの手紙にも通底している。だがこの手紙に表明されているのはむしろ、そうした不安に対し「わが愛もてつなぎとめではやまじ」という積極的な意志だ。あるいはそれに続く「それもかなはで東に還りたまはんとならば、親とともに行かん」という具体的な対抗策の提示である。そこから考えられる逆接は次のようなものだ。
b 豊太郎の帰りを待つ不安が心に兆して、つい弱気な泣き言を書きそうになる。それを打ち消し、自らを鼓舞して強い意志を表明している。
c 不安の裏返しとして安易な希望的観測(「大丈夫、あなたはきっと帰ってくる」など)にすがりそうになるのを自ら打ち消し、自分の意志で事態を変えることを宣言しようとしている。
bは「悲観的」という誘導にしたがったものであり、cは「楽観的」な方向だ。このb不安とc希望は表裏一体である。したがって両者は基本的には同じ心理がそれぞれの表現型をとったものである。
授業では、「否」を挟む逆接を、対照的な言葉で示せ、と指示して、多くの班で「知っているつもり/今知った(=知らなかった)」と「待っています/着いていくわ」という表現に至った。
さらにこの逆接を示す対比的な抽象語を挙げよと要求して、各班ともに「受動的/能動的」という言葉を挙げたのは適切だった。
これらの説明には、論理を整理して語ることと、表現のニュアンスに気を配ることが求められる。
繰り返すが、入試で問われるのもそれなのだ。
ところで、話題に挙がっていた班もあったようなので附言する。
最近ではコロッケによる物まねで有名な美川憲一という歌手に「さそり座の女」というヒット曲があり、その歌い出しが「いいえ」で始まるのである。
いいえ 私は さそり座の女お気のすむまで 笑うがいいわ
あなたはあそびの つもりでも
地獄のはてまで ついて行く
思いこんだら いのち いのち
いのちがけよ
そうよ私は さそり座の女
さそりの星は 一途な星よ
この歌詞を考察したとあるサイトでは、この前に男が星座の話題をふったのだろうと考えている。つまり「君の星座を当ててみよう。乙女座かな?」などというチャラい問いかけに対して「いいえ私はさそり座の女なのよ」と答えているのだ、というのである(これを美川憲一の声で言われたところを想像すると怖い)。
しかし1番の歌詞全体を見ると、「笑うがいいわ」「ついて行く」などから、何を否定しているかが見えてくる。
男は、棄てようとしている愚かな女の思いを軽く見ているのである。あなたは気軽な遊びのつもりでたやすく棄てられると思っているかもしれないけれどお
「地獄のはてまで」って!
エリスって、「さそり座の女」だったのか。
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