2021年11月10日水曜日

舞姫 11 母の手紙

 公使館から告げられた免官の宣告から、態度を決定する一週間の猶予の間に、日本から手紙が届く。母の手紙と母の死を知らせる親族の手紙である。

 この母の手紙の内容について考えてみよう。


 その死を知らせる手紙と「ほとんど同時に」出されたということは、母の手紙が、その死の直前に書かれたということを意味する。遺書なのだ。

 そこには何が書かれていたか?


 母の死自体もまた悲しいに違いないが、その内容を「ここ(手記)に反復するに堪えず」と書かれているから、問題は内容だ。

 不慮の死であったというのは、「わざわざ書かれるべき特別な事由」にあたるから、そうでないとすれば母親は自らの死を知っていて、息子に手紙を書いたということになる。それが殊更に悲しいとしたら、そこにはどのようなことが書かれていたと考えられるか?


 病気で死期が迫った母が息子に残す言葉として、単なるその死以上に息子を悲しませるとしたら、この息子の現状との対比がそこにある場合だ。

 ここでの豊太郎はちょうど、事実とは言い難い(だが「無根」とも言えない)中傷によって免官になったところだ。

 そこから考えると、死期の迫った母は、息子の将来に希望と期待を述べ、あなたは太田家の誇りです、くらいのことを書いていたと考えるのが、そのコントラストによって、より豊太郎を悲しませるにふさわしい。


 もう一つ、母の死が自死である可能性について考えた人もいるだろう。これもまた遺書であるという可能性から考えられる一つの死因である。

 授業では 諫死 かんし という言葉を紹介した。

 諫死とは、死をもって主君に忠告することだ。豊太郎の行状に対し、母親がその死をもって息子を諫めたのだと考えることは、この時代の親子、とりあわけ家庭教育の賜物としての立身出世を期待する息子に対する母親の身の処し方としては考えられるところである。

 問題は、免官の宣告を受けた一週間のうちにこの手紙が届いたことだ、と授業では言った。

 当時は航空便もなく、船便による郵便は日独間で1ヶ月以上かかったという。母親が、豊太郎の免官を知って諫死したのだと考えるのは無理だ、といって、悪評程度を仄聞するくらいで諫死までするだろうか?

 自分の行いのせいで母親が死んだのだとすれば、それが豊太郎にとってどれほど辛いかは想像に難くない。諫死という死因は豊太郎の悲しみに対してきわめて整合的であると感じられるのだが、この、情報の伝達のタイミングの不整合が容易には腑に落ちない要素ではある、と注釈した。


 電信の発達・普及がどうなのか、という問題もある。実はこのころ既に大西洋を海底ケーブルが渡されていて、大陸間で電報を送ることが可能だった。

 だがもちろん現在のように気軽に連絡ができるわけではない。一留学生の罷免について、わざわざ電信を使って日本からドイツに知らせる必然性があるとは考えにくい。まして豊太郎が舞姫と遊んでいるようだ、というような報告が、電信を使って伝えられるべきこととは思えない。

 したがってこれらは文書をもってやりとりされたはずだ。

 とすれば、母親からの手紙は、いつ、どのような契機で書かれたものなのか?


 だがこうした疑問は、以下の記述についての浅はかな勘違いに基づくものだった。

…余がしばしば芝居に出入りして、女優と交はるといふことを、官長のもとに報じつ。さらぬだに余がすこぶる学問の岐路に走るを知りて憎み思ひし官長は、つひに旨を公使館に伝へて、わが官を免じ、わが職を解いたり。公使がこの命を伝ふる時余に言ひしは、御身もし即時に郷に帰らば、路用を給すべけれど、もしなほここに在らんには、公の助けをば仰ぐべからずとのことなりき。余は一週日の猶予を請ひて、…

 さらさらと記述されているが、実際には「官長のもとに報じつ」や「旨を公使館に伝へて」に、それぞれ文書の船便で1ヶ月以上の時間が経過しているのだ。

 独公使館からの報告を受けて日本にいる官長が豊太郎の罷免を決めたことは、正式にか、周囲の人からの忠告でか、母親にも知らされたのだろう。それを知った母親が死をもって不甲斐ない息子を諫める。

 その時に書かれた遺書と、それを知らせる親族の手紙は、官長による豊太郎罷免の通知を追いかけるようにして日本からドイツに海を渡ったのだ。そして免官の宣告を受けた豊太郎に、その宣告に追い打ちをかけるように、母の死の報せが届いたのだ。

 母親の死が既に1ヶ月以上も前のことであったことを知って、その間もエリスとの淡い交際に胸をときめかせ、浮かれて日々を送っていた豊太郎がどれほど胸を痛めたか。

 あらためて想像されるその悲痛は、この時間経過を考えることで、より強く迫ってくる。


 以上の追加考察は、D組のMさんとM君の提言に基づいている。貴重な意見に感謝するとともに、他クラスの人にも知らせたいと思い、ここに掲載した。

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