2021年11月10日水曜日

舞姫 12 心理分析

 エリスのぎりぎりの戦いはその後も続く。

 8章(326頁)で、カイゼルホオフに赴く身支度をする次の場面もまた実に興味深い読解が可能だ。

 「これにて見苦しとは誰もえ言はじ。わが鏡に向きて見たまへ。何故にかく不興なる面持ちを見せたまふか。我ももろともに行かまほしきを。」少し容を改めて。「否、かく衣を改めたまふを見れば、何となくわが豊太郎の君とは見えず。」また少し考へて。「よしや富貴になりたまふ日はありとも、我をば見棄てたまはじ。わが病は母ののたまふごとくならずとも。」

 「何、富貴。」余は微笑しつ。「政治社会などに出でんの望みは絶ちしより幾年をか経ぬるを。大臣は見たくもなし。ただ年久しく別れたりし友にこそ逢ひには行け。」


 ここではエリスと豊太郎の心理を分析しよう。

 エリスの心理は、三つに分割された科白ABCそれぞれの推移を、間に挟まる「少し容(かたち)をあらためて。」「また少し考えて。」といった描写を考慮して分析する。

A「これにて見苦しとは誰もえ言はじ。…」

↓  少し容を改めて

B「否、かく衣を改めたまふを見れば、…」

↓  また少し考へて

C「よしや富貴になりたまふ日はありとも、…」


 そして豊太郎。

 次の二つの描写はそれぞれどのような心理を表わしているか?

 「不興なる面持ち」「余は微笑しつ」

 そして、これら二つの形容の間の齟齬・矛盾・変化をどう考えるか?


 分析の容易なのはエリスの心理だ(といって「わかる」ことより「分析」の方がはるかに難しい。それを的確に言葉に表すのも)。

A 立派に正装した豊太郎を見て誇らしく思う

B 豊太郎と自分との距離を感じて不安になる

C 豊太郎が離れていく可能性に気づいて牽制する


 Bの「感じて」が「少し表情を変えて」、Cの「気づいて」が「少し考えて」に対応している。


 一方、豊太郎の心理は少々難しい。

 これは、読み取るのが難しいということではない。大抵の読者はここでの二人の心理を正しく読み取っている。だがそれを適切に表現するのが難しいのだ。

 それでもそれなりに表現できるのは「微笑」だ。

 BCのエリスの不安を なだ めるための微笑みであることはわかる。そのように表現することは間違っていないが、その微妙なニュアンスを充分に表現しきっているわけでもない。それは「不興」の心理を的確に表現し、それとの関連で初めて明らかになる問題だ。

 エリスの科白によって「不興なる面持ち」をした豊太郎の様子を読者に知らせておいて、なのにその内面を、地の文では解説しない。

 だがこの「不興なる面持ち」は、わざわざ書かれている、と思わざるをえない。となれば「書いてあることには意味がある」の法則に従って解釈しないわけにはいかない。

 だが「意味」とは何か?

 豊太郎の「不興なる面持ち」とはどのような心理を表わしているか?


 例えばこれを、たまたま歯に挟まった食べ滓が取れずに気になっていたのだとか、朝から腹を下し気味だったのだとか考える者はいない。

 だがそれらは文中でそうではないと否定されているわけではない。にもかかわらずなぜそれを誰も支持しないのか?

 解釈が妥当であるかどうかという判断は、それが置かれた文脈が、その可能性についてどのような限定をしているかに依存する。限定がなければどんな解釈をしてもいいということではなく、むしろそれはそもそも解釈の必要がないということだ。

 だから文脈が解釈の範囲を限定する。文脈の中でその妥当性を判断する。

 「食べ滓」「腹痛」説を誰も支持しないのは、そう考えることの妥当性を示す標識が文中にないからだ。関連する要素がみつからないのである。


 では、エリスの締めるネクタイがきつすぎて苦しかったから顔をしかめたのだ、というのは?

 これは科白の直前にある情報から導かれる解釈だ。だから文脈に依存しているという点では「食べ滓」「腹痛」よりはマシだ。だがやはり依然としてそれを本気で支持する人はいまい。なぜか?

 そうしたことをなぜ文中に載せるのかという必然性が腑に落ちないからである。例えばこの身支度の様子をコミカルに描きたいのだ、などという意図が感じ取れるなら、その必然性はわかる。だがそのようにも見えない。

 久しぶりの正装が窮屈だったのだ、は?

 これが単に身体的な感覚のことを言っているのではなく、心理的な抵抗感を示しているとすると、「ネクタイが苦しい」よりも必然性が高い。

 具合の悪いエリスの体調を心配しているのだ、という解釈は?

 これも本文中に関連する情報はある。エリスを気づかう豊太郎の心理が表わされているのだと考えれば「意味」もあると見做せる。

 あるいは「不興なる面持ち」は、エリスからそう見えているだけで、豊太郎にとっては別に意味はなく、これはむしろエリスの心理を表わしているのだ、という説もちらほらと聞こえた。これは去年の「こころ」の読解が活かされた発想だ。

 これらの諸説をどう考えればいいか?


 実際に授業で提案されるのは主に次の二つの解釈。

 エリスの科白の前の部分と結びつけるならば、

エリスの甲斐甲斐しい世話焼がかえって煩わしい

という解釈が可能であり、後の豊太郎の科白から引用すれば、

大臣に会いたくない

という心理を表わすものだと解釈できる。

 それぞれに文脈に依存した解釈ではある。

 また、エリスの世話が煩わしいとか大臣に会いたくないとかいう解釈は、豊太郎がそれらの人物に対してどのような感情を抱いているかを表わしているのだと考えれば「ネクタイが苦しい」よりは有用な情報であると見なすこともできる。

 だがこれら、簡単にとびついてしまいそうな説明は、まだ腑に落ちない、と考えるべきである。

 なぜか?


0 件のコメント:

コメントを投稿