2020年11月29日日曜日

こころ 40 その時、Kは何をしていたか

  四十三章の夜及び翌朝のエピソードについて、Kの遺書が上野公園の散歩の夜に書かれていたことを示す、という解釈を示した。

 この解釈は、このエピソードが書かれる必要性と、遺書に「墨の余りで書き添えたらしく見える」文句があることの必要性を、相互に支え合って最も強い必要性を感じさせる。それぞれが互いのエピソードによって、「真相」に辿り着く路を開き、辿り着いた時に最も強くそれが書かれることの必要性を納得させる。

 この「書かれる必要性」という考え方は、「作者」や「小説」「読者」といった枠組みを外から眺めた時に初めて可能となる。登場人物と同じ目線では考えることができない。


 ところで、このエピソードについての一般的な解釈「Kがこの晩に自殺しようとしていたことを示す」(仮説A)は、先述の通り、授業者には賛成できない。

 だがその近親解釈としての「自殺の準備」説は、「遺書が書かれていた」と矛盾しない。

 とりわけ「謎の記述」の②「近頃は熟睡できるのか」という問いについては、遺書を書いた上で、その晩に自殺を決行しようとしていたとは考えなくとも、またその決行がいつになるにせよ、その可能性を視野に入れて隣室の状況が気になってきたのだとは考えられるかもしれない。

 Kにとってそれほど意図的な質問でなくとも、関心の方向が自殺の決行に向かっていたことは認めてもいい。

 だがそれは仮説Aを認めるということではない。②についての解釈の可能性を認めるということであって、仮説Dに比べると、「この晩」という条件を付けない仮説Aはほとんど「エピソードの意味」としての重さはないと思う。

 したがって問2「Kは何のために『私』に声をかけたのか」についての仮説a「『私』の眠りの深さを確かめようとした」も賛成できない。

 問2については前述のとおり、仮説bcを合わせて考えるべきだと思う。すなわちKは「私」に何か話しかけたかった、だが具体的な話題は想定されていない、と。


 仮説Dが①「落ち着いていた」にとりわけ整合的なのは前述の通りだ。

 ③「強い調子で否定する」はどうか?

 ③は仮説Bの根拠となっている。Kのこの態度によって「覚悟」の解釈が変わったのである。

 だが物語の展開を推進する機能があるというのは、③が書かれる必要性があるということではない。結果的にそうなった、ということであって、やはりKにとって「そうではないと強い調子で言い切」る必要があったことについての納得が必要である。


 まずはこう考えれば説明はつく。

 「そうではない」は「私」の「あの事件について何か話すつもりではなかったのか」という問いかけに対する返答である。この指示語が曲者である。

 これが間接話法だとすると、「私」はこの問いかけを具体的にどのような表現でKに投げかけたのだろうか?

 もしもそれが「お前は昨夜、まだお嬢さんのことを話すつもりだったんじゃないのか」などと問われたとすれば、Kは明確に「そうではない」と言うはずである。

 確かにKが前日に話したかったのは「そう(お嬢さんのこと)ではない」。「あの事件」とは「私」にとってはお嬢さんの話なのだと認識されている。だがKが上野公園で話したかったのは自らの信仰の迷い、己の弱さのことだ。

 そしてこの食い違いがKの強い否定となって表れているのである。


 さらに仮説Dに拠れば、より納得できる説明が可能だ。

 Kにとって、昼間口にした「覚悟」は「薄志弱行で到底行く先の望みはない」自分への決着のつけ方としての自己所決の「覚悟」だ。Kにとって「覚悟」とは、その言葉にふさわしい重みをもっている。

 そしてさらにKは既にそのことを記した遺書さえ書き終えているのである。それはKにとっての「覚悟」の自己確認にほかならない。

 一方「私」はKの「覚悟」を「お嬢さんを諦める覚悟」の意味だと捉えつつ、「独り言」「夢の中の言葉」から、なおもKに迷いがあるように感じている。だから「話」を止めることができない。

 だがKには、もはや昼間のようにくだくだしい「話」をするつもりはない。

 「僕はばかだ」の後もそうだ。Kにとってこの言葉の重さがわかっていない「私」は、これを「お嬢さんに進む」という「居直り強盗」的宣言なのかと思って「話」をやめることができない。Kが「悲痛」な声で「やめてくれ」と言っているのに。

 二つの場面は同じだ。Kにとっての言葉の重みが、「私」にはわからない。

 このすれ違いが「私」のしつこい詮索に対するKの否定の強さに表れている。

 この記述に対する違和感が注意を喚起し、読者をそうした考察にいざなう。


 さて、仮説Dの信憑性は高いと思われるのだが、実は仮説Aにおいて提起した疑問は、仮説Dで解決したわけではない。

 なぜ自殺をしようとしていたのに、その後12日間は行動を起こさなかったのかという疑問はそのまま、なぜ遺書まで書いたのに実行しなかったのかという疑問につながる。

 なぜ襖を開けて自殺したのか、という問題も未解決だ。

 だがこれらは次節「Kの自殺の心理を考える」で再考する。

 ただし、なぜ「私」の隣室で自殺したのか、という問題も仮説Aに対して提示したのだが、これは、Kの自殺の実行が「私」の眠りの深さには関係ないと考えれば、そもそも疑問にはならない。

 Kは遺書の中で「私」に片付けや、奥さんへの迷惑に対する詫びを頼んでいる。これはKの中で既にこの時点で、隣室で自殺することが前提になっていることを示す。

 考えてみれば、どこか他所で自殺すれば、知らない他人に迷惑をかけることになる。そんなことをKが望むはずはない。申し訳ないと思いつつ知り合いの世話になることをKが選ぶのは何の不思議もない。


 さて、重要な会話の交わされた上野公園の散歩の夜のエピソードについて、Kの自殺につながる重要な解釈をしてきた。

 この解釈は、小説中に直接的には描かれていない時間について読者が想像することの妥当性を試す。

 果たして「私」が目を覚ますまでKは何をしていたのか。

 そしてそれを考える妥当性とともに、その必要性についても注意を喚起する。

 例えば、自殺の直前にKが「私」の部屋との間を隔てる襖を開けて、「私」の顔を見下ろしていたであろう時間。

 例えば、奥さんから「私」とお嬢さんとの婚約の話を聞いてからの「二日あまり」の時間。

 これらの時間のKについて想像することの妥当性と必要性に納得できたとき、読者は、小説の中で直接的には描かれていない時間の存在を想像することが許されるのである。

 小説の描く物語は、そこに描かれていない時間をも含んで成立している。


2020年11月27日金曜日

こころ 39 サインの数々

 きわめて「意味ありげ」に見える「最後に墨の余りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句」という表現は、むろん、そこに込められたKの心情を考えさせるための手がかりでもあるが、同時に、それ以外の部分が別の日に書かれたものであることを示すヒントなのだという解釈をもとに、仮説Dをたてた。

 だがまだそれは、可能な解釈の一つとして提案してもいい妥当性を認めるとしても、唯一の解釈として認められるわけではない。

 この深夜の訪問が自殺の決行のための準備だという解釈を否定しておいて、一方で、それでもKがこの時、遺書を書いてはいたのだという「真相」を漱石が想定していたことを受け入れるとしたら、他にはどんなサインが文中から見つかるだろうか?


 解決すべき三つの謎の記述の①「彼の声は普段よりもかえって落ち着いていたくらいでした」という記述は、仮説Dによく整合する。

 この「落ち着き」については「覚悟」の宣言によるものであるとの解釈を先に示した。これは仮説A「Kはこの晩に自殺しようとしていた」説を採る論者も共有する解釈である。

 だがそれならば宵のうちから、Kの態度には相応の「落ち着き」が見え始めていてもいい。その変化の兆候を読者に示さないまま、夜中には「落ち着いていた」という変化の結果をいきなり提示するのは唐突である。

 むしろこの変化は、その間に何かあったと考えるべきであることを示している。

 Kが宵のうち「私」を「迷惑そう」に疎んじていたのは、「私」が感じている「勝利」や「得意」とは対照的に、「敗北」や「失意」のうちに置かれているからではない。一人で考えたいことがあったからだ。むろん昼間の「私」との会話の内容についてである。はからずも自らが口にしてしまった「覚悟」についてである。

 それは自分の恋心に決着をつけるなどという軽薄なものではない。自らを所決する悲愴な「覚悟」である。それを心に秘めたKは「私」の世間話に気楽につきあうことなどできない。

 そうしたKが夜中にはなぜか「落ち着い」た声で、なぜか自分から「私」に話しかける。

 こうした変化は、Kが「覚悟」の証としての遺書を書き終えたことを示していると考えるといっそう腑に落ちる。


 また四十八章では遺書について「手紙の内容は簡単でした」「ごくあっさりした文句」と描写されている。これらの形容から想像される遺書本文の印象はきわめて淡泊なものだ。

 それはこの時のKの「落ち着い」た声と符合しているようにも思える。Kは激情に流されることなく「必要なことはみんなひと口ずつ書いてある」手紙を書き終えたのである。

 自殺する「覚悟」を決めたことによってKの声が「落ち着いていた」のだという納得に比べて、遺書を書き終えたことによって「落ち着いていた」のだと考えることは、相対的に強い納得が得られると思う。

 こうした「納得」は、繰り返すが「なぜKの声は落ち着いていたのか?」という疑問に対する「納得」というより、正確に言えば「作者はなぜKの声が落ち着いていたと書くのか?」という疑問に対する「納得」である。


 また遺書の記述「自分は薄志弱行でとうてい行く先の望みがないから、自殺する」が、上野公園でKが口にした「自分の弱い人間であるのが実際恥ずかしい」「ぼくはばかだ」と符合していることは明らかだ。

 だからこそKの自殺の動機はこのとき既にKの裡に準備されているのだと考えられるのだが、こうした類似性のさりげない提示もまた、この晩のうちにこの遺書が書かれたことを示すサインの一つだと考えるとさらに納得がいく。


 また遺書に「お嬢さんの名前だけはどこにも見え」ないことについて、「私」は「Kがわざと回避したのだということに気がつきました」という。

 この記述は、それこそ「わざと」らしい。またしても「意味ありげ」である。

 これも巧妙なミスリードだ。こう書かれてしまうと、お嬢さんのことは遺書に書かれるはずだということが前提になり、その上でなぜKは書かなかったのか、と考えたくなってしまう。

 だがここでも、お嬢さんの名前が遺書に書いていなかったということだけが事実で、「Kがわざと回避した」などというのは例によって「私」の根拠のない憶測に過ぎない。

 お嬢さんのことが遺書に書かれていないのは当然である。Kの苦悩はお嬢さんへの恋によるものではなく自らの弱さによるものなのだから。

 この、当然であることをわざわざ書いているのは、それについての「私」の誤った判断(Kがわざと回避したのだ=自殺の原因はお嬢さんの婚約だ)によって読者をミスリードすることを意図していると同時に、「真相」に至る道筋を用意しているのだともいえる。

 あえて読者を誤解に導きながら、それが誤解であることにも後で気付くよう、注意喚起のためのフラグを立てるのである。

 ここでは次の三つのテーゼが、相互に因果関係を持つ、整合的な解釈を構成している。

  • Kの自殺の動機は、「私」とお嬢さんの婚約とは無関係である。
  • 四十三章でKが口にした「覚悟」は、自殺の覚悟のことである。
  • 遺書が書かれたのは、四十三章の晩である。

 遺書にお嬢さんの名前が書かれていないのはなぜか、と考えさせることは、この解釈に気付くための端緒になるのである。


 考えるほどに、こうした様々なサインが、遺書がこの晩に書かれていたという「真相」を読者に知らせようとしているように思えてくる。

 だがそれでも読者がそれと気付くための符牒としては不充分である。

 このわかりにくさ、気付きにくさが、仮説Dを突飛なものと感じさせてしまう。

 実際にどれほどの読者がこうした解釈の可能性に気づいているのだろうか。少なくともこうした解釈について書かれたものは、授業者の知る限り、ない。


 今ではこの仮説Dは信じるに値すると思っているが、依然として、これがひどくわかりにくい、にわかには認めがたい、突飛なものと感じられるだろうこともわかる。

 だがこの「わかりにくさ」には理由がある。

 仮説Dが示す「真相」はなぜこんなに読者にわかりにくいのか?


 同じ趣旨の疑問を、上野公園の散歩の会話の分析においても投げかけた。二人の会話がアンジャッシュのコントのようにすれ違っているなどという「真相」は、普通の読者がすぐに気付けるものではない。

 この問いには、「こころ」の物語が一人称の「私」の視点から語られているからだ、と答えることができた人は、とりあえずここまでの学習が把握されている。

 「私」がそうした「真相」に気づいていないのだから、その視点から書かれた情報しか与えられない読者も当然気づかない。

 だがなぜ作者には、そのようにわかりにくく書く必要があるのか?


 この問いに、その方が面白いからだ、と答えるのはとりあえず正しい。「真相」がわかりにくいほど、気づいたときの満足は大きい。

 だが読者が気づかなければ、せっかくの仕掛けも無意味になってしまう。

 それは、そうした危険を冒しても、作者にはそうする必要があったことを意味する。

 なぜ「わかりにくい」必要があるのか?


 それは、わかりやすかったら「私」が気づいてしまうからだ。

 「真相」に「私」が気づいてしまったら「こころ」のドラマは成立しない。認識の食い違い、意思疎通のすれ違いこそが「こころ」のドラマの核心なのだから(エゴイズムの葛藤などではなく)。

 このドラマツルギーが、この「わかにくさ」を要請している。

 つまり漱石は物語の真相を、語り手の「私」には気づかれないように、しかも当の「私」自身の口を通して読者には伝えなければならないという難題に挑んでいるのである。

 この二律背反の課題を、漱石は奇跡的な離れ業で乗り切っている。その精妙なバランス感覚は驚嘆すべきものだ。

 むろん、大学生当時の「私」には気づかなかったが、遺書を書いている「私」はその「真相」に気付いたことにすることもできる。

 だが「こころ/下」の語りは、実はほとんど物語渦中にある大学生の「私」の視点からしか語られていない。そのことによって「私」の不明を読者も共有することができているのである。それなのに十年後の「私」が「真相」をすっかり説明してしまったら、作品の論理は理に落ちてしまって、この精妙な離れ業は台無しになるだろう。

 「真相」は、わかりにくい必要があるのである。

 つまりこれは名探偵の出てこないミステリーである。読者が探偵になるしかないのだ。


こころ 38 「墨の余りで書き添えたらしく見える」

 仮説Dを最初に聞いた時、授業者が直ちに挙げた反論の根拠は次の一節だ。

(この手紙の)最後に墨の余りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句(四十八賞 205頁)


 この「文句」は内容的に、どうみても自殺の直前に書かれたものに見える。こんなことを書いてから、10日あまり経ってようやく自殺したなどという「真相」を受け入れることはできない。そしてそれは「最後に墨の余りで書き添えた」ものなのである。したがってこの遺書は、やはり自殺の直前に書かれたとしか考えられない。

 とすればこの手紙はやはり自殺の直前、土曜の晩に書かれたものに違いあるまい。


 だが度々鋭い読解を示してきたその生徒に対する信頼が、後に授業者にこの解釈について再考を促した。

 そしてある時ふと、仮説Dを否定するための根拠として挙げたこの記述こそが、そもそもその生徒に仮説Dを発想させた手がかりであり、またその妥当性を証明する最大の根拠なのだということに、突然気づいたのである。

 どういうことか?


 授業で仮説Dを提示すると、その仮定を受け入れるために、四十三章の時点でKが「もっと早く死ぬべきだのに」と書いたのだとすると、それが何を意味しているのかと考察を巡らせる者がいる。

 だが、四十三章の時点から見た「もっと早く」とはいつのことか、などと考える必要があるのではない。

 この「文句」だけが自殺した四十八賞の「土曜の晩」に書かれたものであり、それ以外の部分が四十三章で書かれたのだと言っているのだ。


 発想の転換のためには、こう考える必要がある。

 「墨の余りで書き添えたらしく見える」とは、「私」に「らしく見える」に過ぎない。「墨の余りで書かれた」というのは、小説内において何ら確定された事実ではない。あくまで「そう見える」に過ぎない。

 毎度の「私」フィルターだ。

 「こころ」に書かれていることは、実は常に「私」の目を通して判断されたものに過ぎず、客観的なものだとは限らないというのが「こころ」読解の基本ルールであった。そのことは上野公園の散歩の会話の分析でも、いやというほど思い知らされたはずだ。


 ここからわかる「事実」は、その文句とその前までの遺書の文面との間に、何らかの差異が認められるということだけである。つまり、それが前の部分に続けてすぐに書かれたものであることは、この記述からは何ら保証されていないのである。

 だとすればそこだけは自殺を決行した土曜の晩に書き加えられたものであって、その前の本文はもっと以前に書かれたものであっても構わない。

 「墨の余りで書き添えたらしく見える」という形容こそ、この部分とそこまでの部分の時間的連続性を示しているように見えながら、同時に、書かれた日時の断絶を示すサインなのだとも考えられるのである。

 つまり反証と考えられたものが、そのまま根拠にもなりうるのである。


 「墨の余りで書き添えたらしく見える」とは具体的にはどういうことか?

 「事実」の具体的な様相を想像してみよう。

  1. それ以前の文章に比べて墨が薄い。かすれている。
  2. 字の大きさが前の部分と違う(大きい・小さい)。乱れている。
  3. この部分だけ余白が不自然に狭いなど、レイアウト上アンバランスである。
  4. 他の部分が「礼」や「依頼」といった、宛先である「私」へ向けたことが明白である文章であるのに対し、この部分だけが独り言のような内容である。
  5. そこまでが堅い文語調であるのに、ここだけが口語調になっている。


 「墨の余りで書き添えたらしく見える」から想像される具体的状態として、まず1が思い浮かぶ。

 だがそれ以外に2~5のような特徴がなければ、「私」がそれを「書き添えた」ものだと判断する理由がない。

 23も視覚的イメージとして想像されてもいい。

 4はある程度の分析的思考が必要である。前の部分が「必要なこと」であるのに対して、この部分はにわかには意図が伝わらない。

 5については解説が必要である。

 先生の遺書(「下」本文)が「西洋紙」に「印気(インキ)」で「縦横に引いた罫の中へ行儀よく書いた」「原稿様のものであった」のに対して、Kの手紙は「巻紙」に「墨」で書かれたものであるという対照は、おそらく先生の遺書が口語体(言文一致体)であるのに対し、この手紙が文語体の「候文(そうろうぶん)」であったことを示している。

 「候文」とは、文末に「候」が補助動詞として付けられる手紙独特の文体のことだ。

 漱石の『吾輩は猫である』から引用する。


 主人が書斎に入って机の上を見ると、いつの間にか迷亭先生の手紙が来ている。

新年の 御慶目出度申納候 ぎょけいめでたくもうしおさめそうろう 。……

 いつになく出が真面目だと主人が思う。迷亭先生の手紙に真面目なのはほとんどない。それに較べるとこの年始状は例外にも世間的である。

一寸参堂仕り度候 ちょっとさんどうつかまつりたくそうらえ ども、大兄の消極主義に反して、出来得る限り積極的方針を以て、此千古未曾有このせんこみぞうの新年を迎うる計画故、毎日毎日目の廻る程の多忙、御推察 願上候 ねがいあげそうろう ……

 なるほどあの男の事だから正月は遊び廻るのに忙がしいに違いないと、主人は腹の中で迷亭君に同意する。


 一方で同じく漱石の『三四郎』の中には「母に言文一致の手紙を書いた」という記述がある。つまり手紙が言文一致で書かれることは特に記述すべき事柄なのであり、裏返せば、手紙は通常「候文」で書くものなのである。

 もちろん相手と手紙の性格によるのであって、残っている漱石の書簡には、候文のものも口語文のものもある。友人や年下の相手には口語文で、あらたまった相手や公的な用件ならば候文である(授業で読んだ森鷗外宛ての手紙みたいに)。

 したがって、Kの性格から考えても、この遺書は「候文」で書かれたと考えられる。

 そして「もっと早く…」の部分だけは言文一致体で書かれている。4のように「独り言」じみた内容を「候文」で書くはずがない。


 だがこうした123「外見」や4「内容」や5「文体」による差異によって、この文句が特別な位置にあることが読者に意識されるわけではない。

 この文句はそれよりむしろ「私の最も痛切に感じたのは」という反応に沿って読者に解釈される。つまりそこにKの心情/真情、Kの悲痛な心の叫びを読み取る、といったような情緒的な読みである。

 だから、この部分について考えるにしても「Kはなぜこの文句を書いたのか」というような問いになる。例によって「この時のKの気持ちを考えてみよう」である。

 もちろんそれは考えるべきことである(特にKの自殺の動機を考える上で、この「文句」を書いた心理を勘案するのは必須であり、そしてそれはかなり難問でもある。この後でそれを考察する)。

 だが同時に、こうした意味ありげな符牒は、この部分とそれ以前の文面が別な機会に書かれたものであるという「真相」を読者に知らせようと作者が置いたサインなのだとも考えられるのである。

 これもまた、先に述べた、登場人物の心理に終止せずに、それが語られる物語上の「意味」を捉える発想である。


こころ 37 小説に書かれていない「時間」

 四十三章、上野公園で重要な会話を交わした晩、Kは既に四十八章で「私」が目にすることになる遺書を書き上げていたのではないか?

 この解釈について真面目に検討しよう。


 こう考えることの妥当性についての重要な論点は、物語に直截描かれていない「事実」をどこまで認めるか、という問題だ。

 すなわちここでは、「私」が目を覚ますまで、つまりKが襖を開けて「私」に声をかけるまでの間、Kは何をしていたのか、という想像である。

 語り手の「私」から見ればKが襖を開けてこちらに声をかけるまでの時間は存在しない。これは「私」だけでなく読者にとってもそうなのである。そうした時間のことをどこまで考える必要があるか。

 一般に、物語にとってのあらゆる展開の可能性の中で、直接描かれていない場面・時間は、とりあえずまだ存在はしていない。エピソードとエピソードの間、場面と場面の間は跳んでいる。そしてそれについて想像しなければならない必要が常にあるわけではない。登場人物は、観客の目の前に登場する直前にスイッチを入れられて舞台に登場するロボットのようなものに過ぎないのかもしれない。

 だが物語によっては、書かれていない時間・場所で起きた出来事について想像することが読者に要請される場合もある。

 ミステリーなどは、語られている場面の裏で何が起こっていたかという想像こそが物語享受の作法の核心だ(コナン君が語る黒タイツ人間の行動の顛末だ)。

 そうしたジャンル的特性に限らず、書かれていない時間について読者に想像を促す必然性をもった物語は、それだけ豊かなものになりうるはずだ(もっとも、ミステリーでは結局物語内で語られてしまうのだが)。

 このエピソードにおいて、この想像は要請されているのだろうか。Kの「その時間」は物語にとって存在したのだろうか?

 そうした想像の要請を受け入れるためには何が必要か?

 何をもってそれを小説世界にとっての「事実」と見なすか?


 書いていないことを解釈によって作品内の「事実」と見なすためには、その解釈につながる情報を作者が意図的に文中に書き込んで読者に提示していると見なせなければならない。それは後から振り返って読み直したときにはじめて気付くようなものでもいい。とにかく、そのためにわざわざ書いたと見なせる符牒=サインが見つかることが、そうした解釈の正統性を根拠づける。

 文中で否定されていない解釈、というだけなら、どれほど突飛な解釈でも、文中で言及されていないならば否定されていることにはならないし、整合的に成立するというだけでも解釈の幅はかなり広く確保される(実はKは宇宙人でしたと言っても、それを否定する言及はない)。

 だが小説は現実ではないのだから、読者が解釈すべき物語世界の限界については、作者が文中に何らかのサインを書き込んでいることによって保証されると考えるべきなのである。

 先に、書いてあることにはすべて整合的な解釈ができるはずだと述べたが、同時に、書くべきことが書いていなければ、それはないものと見なす、とも述べた。これは解釈の妥当性を判断する上での、裏表の条件である。

 書くべきこととは、書かれている事柄の解釈に大きな影響を及ぼすような事柄であり、それ以外は常識の範囲で想像すればよい(だからKが宇宙人だったり超能力者だったりする可能性については、それを否定する証拠が書かれていなくとも特に考えなくていい)。

 出来の悪いミステリーは、結末で突飛な真相が語られて、唖然としてしまうことがある。読者と作者の知恵比べであるはずのミステリーの作法は、真相へのヒントや伏線が読者に提示されていることだが、それを守らない「何でもあり」のミステリーは、いたずらに虚仮威しに走る下手物だ(と思うのだが、メフィスト賞受賞作品でもそういうのがあって、それはつまり同賞には論理パズルとしての「本格物」というこだわりがないということなのかもしれない)。

 ここでも「遺書は上野公園の散歩の晩に書かれたものだ」という、文中で明示されていない「真相」を読者に伝えるべく漱石が残したサインが見つからないことには、こうした解釈を採らなければならない必然性はない。それはトンデモ仮説にすぎない。

 Kが遺書を書いていたという、小説に書かれていない時間を読者に想像させるべく作者が書き込んだサインは見つかるのか?


こころ 36 第4の仮説

 夜のエピソードについて、さらに別な解釈を提示する。

 この夜のエピソードは、「私」の目からはKの言動が謎めいて見えるばかりで、だからこそ「意味」をはかりかねるのだが、これをKの視点に立って読むことで、その「意味」が明らかにはできないだろうか。

 まずはこう考えてみよう。

 「私」に声をかけるまでKは何をしていたか?

 「便所へ行った」とKは言うが、これは声をかける直前であるに過ぎない。

 さらに想像するためにこう考えてみる。

「私」に声をかけるまでKは起きていたか?

 Kが尿意を催して眠りから覚め、便所へ行き、そのついでに「私」に声をかけたのだと、読者は考えない。Kは宵からその時まで起きていたのだと感じられる。

  なぜか? そう感じられる根拠は何か?


 2点指摘できる。

  • 見ると、間の襖が二尺ばかり開いて、そこにKの黒い影が立っています。そうして彼の室には宵のとおりまだ灯りがついているのです。
  • Kはいつでも遅くまで起きている男でした。


 ここでは、「Kの黒い影」ばかりが不気味な印象で読者の視線を捉えるが、ふと視線を逸らせてみればKの室内には「灯りがついている」。「灯り」は言わば「黒い影」の背景に過ぎないように見える。

 「Kの黒い影」は「黒い影法師のようなK」と繰り返されて読者の注目を誘導するが、一方「灯り」も「洋灯(ランプ)」と繰り返される。

 わざわざ「彼の室には宵のとおりまだ灯りがついている」と言及されることの意味を考えると、にわかにそれが、そこでKが「宵」から過ごした時間を暗示しているように思えてくる。

 Kは暗闇で沈思黙考していたのではなく、ランプの下で何事かしていたのである。Kは何をしてそれまで起きていたのか?


 さて、こうした作為的な誘導によって浮かんでくる答えがあるはずだ。

 そう、Kは遺書を書いていたのである。

 可能性と言うだけなら平生の通り学問をしていても、ただ考え事をしていてもかまわない。何せ「いつでも遅くまで起きている男」なのだ。

 だがこの場面で「Kは何をしていたか?」という問いに対する答えとして、答えるに値すると感じられる答えは「遺書を書いていた」しかない。

 この「遺書」とは何のことか?

 無論、まさしくあの「手紙」のことである。物語の背後で人知れず反故にされ破り捨てられた下書きなどのことではなく、四十八章で読者の前に提示される遺書のことだ(204頁)。

 そう考えなければ、エピソードの「意味」として成立しない。

 つまり「Kが遺書を書いていた」というのが「エピソードの意味」だと言いたいわけではないのだ。

問1の仮説D Kの遺書が上野公園の散歩の夜に書かれていたことを示す。

 これが「真相」ならば、エピソードの意味として充分な重さを持っていると納得できる。

 「遺書を書いていた」だけだと、「そりゃ自殺しようとしていたんだから遺書くらい書いていてもおかしくはない」という、仮説Aから派生した想像にしか感じない。

 「あの遺書がこの晩書かれていた」ならば、物語の解釈に大きな影響を与える「意味」を持ちうる。


 だがこの思いつきは、誘導に従って発せられたものであり、信憑性に欠ける怪しいトンデモ仮説かもしれない。まずはそう感じられる方がむしろ健全である。

 こんな解釈をしている人は、文学研究者や国語教師の中には、ほとんどいないはずだ(授業者はこういう解釈に基づく文章を読んだことがないし、発言としても聞いたことがない)。

 実はそもそもこの解釈は授業者が思いついたものではない。

 この解釈を授業者に提示したのは、ある年の授業を受けていた生徒だ。

 しかもこうした解釈は、まずもって四十三章のKの訪問を、自殺の決行のための偵察であると解釈する仮説Aに付随して発想されたものであり、それについては、先に述べた通り、授業者は否定的なのだ。

 授業中にこのような発言をした生徒に対して、Kはこの晩に自殺しようとしていたわけじゃないよ、と言いつつ、だからこそ、この晩に遺書を書いたなんて解釈はありえないよ、と言った。


 さて、今年の授業でも、こちらが誘導する前からこの解釈を提示してきた者がいた。

 訊いてみると、やはりKが自殺しようとしていたという解釈から、ということは遺書も書いていただろうと発想したという。

 この晩にでもKは自殺を実行に移す可能性があったと考える世のA説を採る論者は、明らかにそのような言及をしていないというだけで、当然この晩のうちに遺書も書かれていると考えているのだろうか?

 おそらくそうではない。そんなことを思いついたら他人に言いたくなってしまうはずだ。

 だからこの晩にKが自殺しようとしていたという解釈と、遺書も書いていたという解釈は、一般的にはまったく結びつけて発想されないのだ。

 あるいはごく稀に、少数の生徒が全国のどこかでそれを発想し、黙っているか、発言して否定されているのだろうと思う。

 

 はたして仮説Dはトンデモ解釈か?


こころ 35 仮説の整理

 ここで一度、仮説を整理しておく。


問1の仮説A Kがこの晩既に自殺しようとしていたことを示す。

問2の仮説a 自殺の準備として「私」の眠りの深さを確かめようとした。


問1の仮説B 物語を展開させるはたらきをする。

問2の仮説b Kの言葉通り、特別な意味はない。


問1の仮説C 「襖」の象徴性について手掛かりを与える。

問2の仮説c 「私」に話しかけたかった。


 仮説Cでもなお充分でないと考えられる点はどこか?

 先に挙げた次の三つの謎めいた記述が、まだ充分には解決していない。


①「彼の声は普段よりもかえって落ち着いていたくらいでした」

②「近頃は熟睡できるのか」と問う

③「Kはそうではないと強い調子で言い切りました」


 「上野から帰った晩」に「私」は「Kが室へ引き上げたあとを追いかけて、彼の机の傍に座り込み」「取り留めもない世間話をわざと彼に仕向け」る。するとKは「迷惑そう」にしている。宵の口には「私」を疎んずるKが、なぜ夜中には「私」に話しかけたくなったのか。またなぜそのときの声は「落ち着いていた」のか。この変化はなぜ生じたのか。仮説Cは①を説明しない。

 また、話がしたかった(c)とすると、③と矛盾する。特に話題が想定されていたわけではないとすれば「そうではない」と否定することに矛盾はないが、それにしても「強い調子で」という形容をする理由はやはり説明がつかない。

 ②についても、仮説Cから腑に落ちる解釈を引き出すことはできない。


 仮説Bとともに、仮説Cも、間違ってはいない。このエピソードは物語を展開させる機能をはたしているし、「襖」の象徴性は明らかに意図的だから、そこに注意が向けられるのもこのエピソードに因ってである。

 だがいずれも充分ではない。そういう役割は確かにはたしているが、それだけでは上記の様な疑問を放置していいということにはならない。

 「エピソードの意味」はまだ明らかにはなっていない。


 仮説Aについては疑問を提示したまま保留にしているが、ちなみに、授業者はこれを支持していない。「覚悟」を「自己所決の覚悟」だと解釈することには確信があるが、だからといってKがこの晩にそれを実行に移そうとしていたとは考えない。

 なぜか?

 この段階でKが自殺しようとしていたという「真相」は、物語がこの後、お嬢さんとの婚約の事実を知ってからKが自殺するという展開にいたるドラマツルギー(作劇法)の必然性と整合しないと考えるからだ。Kがこの晩すでに自殺を実行に移そうとしていたのだと考えることは、その後の「私」の裏切りにいたる物語の展開の「意味」を無効にしてしまう。

 だからといってそれは、Kの自殺が「私」の裏切りによるものであることを(一般的に考えられているようには)意味しない。Kの自己所決の「覚悟」は、とうにKの中にある。それはこの日初めてKの中に生じたものではない。この日は、それがあらためて「私」に対して宣言されただけだ。

 もちろんそれは軽い出来事ではない。一度口から発せられた「覚悟」は、今までとは違った重さでKにのしかかることになる。

 だが「覚悟」とは、いざとなったらそれを実行に移す「覚悟」であり、ただちに実行に移す「決意」や、条件が整い次第実行に移す「計画・予定」ではない。「覚悟」とは、自己矛盾にけりを付けるために自己所決という手段を胸に秘めているという自覚を語った言葉であって、ただちに実行するつもりだ、と言っているわけではない。Kはこの時点ではまだそれを実行するに至る契機を得ていない。

 「覚悟」はこの日のうちにKの中で確認されている。だがそれを決行するには、Kが奥さんから「私」とお嬢さんとの婚約の件を聞き、なおかつその後「二日余り」沈黙のまま過ごすことが契機として必要なのである(この「二日余り」については後で考察する)。

 上記の「ドラマツルギー」とはそのことだ。


 それでは、これが「覚悟」=「自己所決の覚悟」という言葉がKの口から語られた晩のエピソードであるという展開上の必然をどう考えればいいのか。

 それは次に考察する第4の仮説において明らかにする。


こころ 34 第3の仮説

 この夜のエピソードには、物語を展開させるはたらきがある。このエピソードによって、「私」が次の行動を起こし、物語が動く。

 だが、このはたらきをもってこのエピソードの「意味」が説明しきれたわけではない。

 なぜか?

 これではこのエピソードの意味がこのエピソードの前後で完結してしまって、四十八章のKの自殺と関連させて解釈しなければならない、という視点がすっぽり抜け落ちてしまっている。何のために四十八章でこのエピソードを読者に想起させたのかわからない。

 ただこれは仮説Bを否定するものではない。少なくともこのエピソードがそのような「意味」を持っていることは事実であり、否定できない。

 ただ、充分ではない、のである。


 仮説Bでは説明できない、四十八章の自殺の発見の場面とこのエピソードのつながりについて考えよう。四十八章でこのエピソードを想起することを読者に要求する漱石の意図について考えるために、まずは両者をつなぐ糸口を考える。

 四十八章の場面とこのエピソードの共通点は何か?


 Kが襖を開けたことである。

 これが何の意味をもっているか?

 これだけでは考えようがない。次のようないくつかの記述を読むことで、このことの意味をはじめて考えることができるようになる。

私は書物を読むのも散歩に出るのも厭だったので、ただ漠然と火鉢の縁に肱を載せてじっと顎を支えたなり考えていました。隣の室にいるKも一向音を立てませんでした。双方ともいるのだかいないのだか分らないくらい静かでした。もっともこういう事は、二人の間柄として別に珍しくも何ともなかったのですから、私は別段それを気にも留めませんでした。/十時頃になって、Kは不意に仕切りのを開けて私と顔を見合せました。彼は敷居の上に立ったまま、私に何を考えていると聞きました。(三十五章 180頁)

私はKが再び仕切りの襖を開けて向うから突進してきてくれればよいと思いました。私にいわせれば、先刻はまるで不意うちにあったも同じでした。私にはKに応ずる準備も何もなかったのです。私は午前に失ったものを、今度は取り戻そうという下心を持っていました。それで時々眼を上げて、を眺めました。しかしそのはいつまで経っても開きません。そうしてKは永久に静かなのです。(三十七章 182頁)

そのうち私の頭は段々この静かさに掻き乱されるようになって来ました。Kは今の向うで何を考えているだろうと思うと、それが気になって堪らないのです。不断もこんな風にお互いが仕切り一枚を間に置いて黙り合っている場合は始終あったのですが、私はKが静かであればあるほど、彼の存在を忘れるのが普通の状態だったのですから、その時の私はよほど調子が狂っていたものと見なければなりません。それでいて私はこっちから進んでを開ける事ができなかったのです。(三十七章 183頁)

私は遅くなるまで暗いなかで考えていました。私は突然Kが今隣りの室で何をしているだろうと思い出しました。私は半ば無意識においと声を掛けました。すると向うでもおいと返事をしました。Kもまだ起きていたのです。私はまだ寝ないのかと越しに聞きました。もう寝るという簡単な挨拶がありました。何をしているのだと私は重ねて問いました。今度はKの答えがありません。(略)私はまた半ば無意識な状態で、おいとKに声を掛けました。Kも以前と同じような調子で、おいと答えました。私は今朝彼から聞いた事について、もっと詳しい話をしたいが、彼の都合はどうだと、とうとうこっちから切り出しました。私は無論越しにそんな談話を交換する気はなかったのですが、Kの返答だけは即坐に得られる事と考えたのです。ところがKは先刻から二度おいと呼ばれて、二度おいと答えたような素直な調子で、今度は応じません。(三十八章 185頁)


 上の記述から、「襖」について何が考えられるか?


 それぞれの文脈を意識的に読み進めていけば、「襖」が「二人の心の壁(距離・隔たり…)」を表していることはすぐにわかる(「エヴァ」の「ATフィールド」だ)。

 「仕切り」は空間を仕切るものであると同時に、二人の心を仕切っている。

 こういうの何と呼ぶか?

 すぐ想起できなければだめだ。おなじみの「象徴」である。

 「ホンモノのおカネの作り方」から「少年という名のメカ」「ミロのヴィーナス」「山月記」「ロゴスと言葉」、全ての教材で象徴について考察した。「おカネ」「少年」「手」「虎になる」すべて象徴だ。「ロゴスと言葉」では言語のもつ「象徴化」作用について考察した。

 ここでの「襖」もまた、「羅生門」における下人の頬の 面皰 にきび と同じく、典型的な「象徴」である。

 「象徴」とは何か?

 復習だ。適切に説明できるだろうか。

 象徴とは、ある具体物がある抽象概念を表していると見なすことである。

 この場合は、襖(具体物)が、心の距離(抽象概念)を「象徴」していると考えられるのである。

 ここからこの場面についてどのようなことが考えられるか?


 襖を象徴として見ると、襖を開けるという行為はすなわち、Kがこのとき「私」に心を開こうとしていたことを示すということになる。つまり、この深夜の訪問はKから「私」への不器用なアプローチだということになる。

 この場合、問2についてはどのように表現したら良いか?

 敢えて言えば「話をしたかった」が近いか。

 そうなると、何を話したかったのか、またなぜ話すのをやめたのか、という疑問が浮上してくる。

 だがそれも、明確に何かを話したかったわけではなく、ただ話しかけたかっただけなのだと考えてもいい。「覚悟」という言葉を口にして、昼間の逡巡に一定のけりをつけたKが、すぐその夜に再開したい話などあろうか。

 話しかけるだけなら(まして眠っているかどうか確かめるだけなら)襖を開ける必要はない。実際に三十八章では「私はまだ寝ないのかと襖越しに聞」き、その後で襖越しに「おい」というやりとりが繰り返される。

 つまり問題は話すことより、「襖を開ける」というのが象徴的な行為だということだ。

 むしろ明確な用件などなく、それが「私」の目からはKの行動が不可解なものとして映る意思疎通の齟齬が、基本的な「こころ」のテーマにつながっているのだと考えてもいい。Kの「意図」などというものは、このエピソード自体が「意味」ありげであることから要請される、いわば「幻」なのではないか。

 つまり極論してしまえば、Kが何のために襖を開けて「私」に話しかけたのかは、K自身にさえ自覚されていなくともいい。「大した用でもない」は、Kにとって正直な言葉なのかもしれない。


 では問1「エピソードの意味」はどうなるか?

 四十八章の自殺の場面を読む読者にこのエピソードを想起させることで、Kが自殺する前になぜ襖を開けたままにしたのかを考えるための注意を喚起し、あわせてその参考となる、という機能をもっているということになる。

問1の仮説C 「襖」という共通性から、自殺する際に襖を開けたKの心理を推測させる手掛かりを与える。

問2の仮説c 「私」に話しかけたかった

 2のcは、具体的な話題が前提されていないという意味では、bの「特に意味はない」と変わらないが、bが積極的に意味を読み取るべきではないというという「意味」であるのに対し、Kの心情をこのように読み取るべきだという「意味」である。


 これでこの問題に結論が出たことになるだろうか?


 またしても、ならない。

 なぜか?


こころ 33 第2の仮説

 この夜のエピソードを、Kが自殺しようとしていたことを暗示するものと解釈する仮説Aは、その自殺がこの晩と想定されているにせよ、今後いつかと想定されているにせよ、なお看過しがたい疑義を残している。


 ここで、別の角度から考える。

 いったん問2を措いて、問1の「エピソードの意味」を「このエピソードの機能・働き・役割・必要性」と考えてみる。

 エピソードが語られる必要は、大きく言えば主題を形成する必要だが、限定的に言えば、まずは物語の展開に必要だということである。

 そこでこう考えてみる。

 このエピソードの前後で何が変化したか?


 既習事項だ。Kの口にした「覚悟」の意味を「私」が、ほとんど反対方向に解釈しなおしたのである。

 この変化から、このエピソードの「意味」を説明してみよう。


 「私」がKの「覚悟」の意味を考え直した直接的な契機は、翌日Kに問い質した際、Kが「そうではないと強い調子で言い切」ったことだ(これも既習)。

 こうした態度から、Kの「果断に富んだ性格」を思い出した「私」は、上野公園の散歩の際にKが口にした「覚悟」を、当初の「お嬢さんを諦める『覚悟』」とは反対の「お嬢さんに進む『覚悟』」であると思い込んでしまう。

 直接的な契機は確かにこの「強い調子」だが、その前に、そこに至る背景がある。

 前日に上野公園でKが口にした「覚悟」という言葉は、「私」にとっては「お嬢さんを諦める覚悟」のことである。そうKに言わしめた「私」は「勝利」「得意」を感じている。

 だが一方でそこに「彼の調子は独言のようでした。また夢の中の言葉のようでした。」という違和感も感じている。「私」が「Kが室へ引き上げたあとを追い懸けて、彼の机の傍に坐り込み」「取り留めもない世間話をわざと彼に仕向け」るのは、勝利を確信した優越感を味わいたいというだけではなく、そこに混じる微かな違和感から、なおもKの意志を確かめずにはいられない不安が無意識に影を落としているからだと考えられる。

 そこにKの不可解な行動があることで、再び「私」が不安にかられ、なおも問い質すと、Kの強い否定に遭う。さらに高まる疑念が「覚悟」の意味について考え直すよう「私」に促す。

 そうして「覚悟」の解釈を変更して、焦った「私」は、奥さんに談判を切り出す。

 こうした展開の導因としてこのKの謎めいた行動があるのだから、このエピソードは、Kの心理が「私」にとって謎であることによって「私」の疑心暗鬼を誘い、「私」に悲劇的とも言える行動を起こさせる誘因となる、といった、物語を展開させるはたらきがあるのだ、と説明できる。

 これがこのエピソードの「意味」だ。

 こうした「エピソードの意味」に整合的な「Kの意図」は何か?


 敢えて言うならば、Kの言葉通り「大した用でもない」である。特別な意味はないのだ。

 Kには特別な意図はないのに、「私」が考えすぎてしまっているのだという解釈は、心のすれ違いを描いた「こころ」という作品の基本的な構図にふさわしい。

 この解釈は①「Kの声が落ち着いていた」にも整合的だ。

 「落ち着いていたくらいでした」という描写は、反動として「落ち着いている」ことに対する不審を読者に抱かせる。「落ち着いている」はずはない、おかしい、と思わせるのだ。

 だが「特に意味はない」ならばKの声に特別の響きがなくてもいいのだし、②「近頃は熟睡できるのか」も、「意味がない」のならば考える必要がない。

問1の仮説B 物語を展開させるはたらきをする。

問2の仮説b Kの言葉通り、特別な意味はない。


 これでこの問題に結論が出たことになるだろうか?


 ならない。

 上の結論では充分でないと考えられるのはなぜか?


2020年11月26日木曜日

こころ 32 仮説Aに対する疑義

 四十三章の夜のエピソードを「Kが自殺しようとしていたことを示す」と解釈する、仮説Aを共有した。

 仮説Aの問題点を検討しよう。


 素朴な疑問としては、この晩に自殺しようとして実行に至らなかったとして、その後実際に自殺するまでの12日間(月曜から翌週の土曜日まで)をどう考えたらいいのか、という問題がある(授業でも「間、空き過ぎじゃね?」という声がそこここから聞こえてくる)。

 この晩は「私」が目を覚ました。では翌日以降もKは同じように襖を開けて「私」の眠りを確認したのだろうか?

 これはありえない。なぜか?

 翌晩以降もKが同じように「私」の眠りを確かめるべく声をかけたのなら、そのうちいずれかの晩には「私」は目を覚ますはずだ。そうしたらそのことが記述されないはずはない。記述がないということは、そのような事実が小説内に存在しないということだ。

 それよりも、そもそも「私」が目を覚まさなかった夜があったとすると、上記の論理からいえばKはその時点で自殺してしまうはずだ。例えば翌日にでも。

 とすると、次にKが襖を開けたのは自殺を決行した12日後の晩ということになる。

 この12日間の空白は何を意味するのか? この間、Kは何を考えていたのか?


 あるいは、次のように反論もできる。

 襖を開けて名前を呼ぶのは「私」の眠りの深さを確かめるためだということは、つまり裏返せば自殺の実行にあたっては「私」が目を覚ますことは不都合だということだ。

 ならば、わざわざ襖を開けて、隣室で眠っている者の名を呼ぶのは、むしろ目的に反している。眠っていてほしいのに、なぜ起こすのか?

 眠りの深さを確かめるだけなら、襖を閉めたままでも確認はできる。三十八章(185頁)では「私」とKは襖越しに会話を交わしている。


 この反論に対しては、Kの自殺の決行が、「私」が目を覚ますかどうかに拠っていること自体に、Kの迷いを見てとる解釈を提示することができる。つまり、目を覚まさなかったら決行していたが、むしろKは「私」が目を覚ますことで決行を延期することを(つまり「私」に止めてもらうことを)どこかで望んでいたのである。

 この解釈は、もしも「私」が目を覚まさなかったら、Kはこの晩に自殺してしまったのではないかという魅力的な解釈を補強する。


 一方でこの解釈は「覚悟」という言葉の強さと不整合にも思える。「覚悟」は「ないこともない」が、やはり迷いもあるのだと考えればいいか。

 だがそれではKの声が「普段よりもかえって落ち着いていた」という形容との間で新たな不整合を生ずる。


 ところで、この仮説Aには亜種がある。

 Kの行動を「いずれ自殺するための準備として、まずは隣人の睡眠状態を確かめた」ものだというのである。

 これならばこの夜の訪問が自殺と関係のあるエピソードでありうるし、自殺の決行がここから12日後になった理由もつく。Kはそもそもこの晩に自殺しようとしていたわけではなく、様子をみたのだ。そして「私」が簡単に目を覚ますことを確認して、しばらくは決行を延期したのだ。翌朝の「近頃は熟睡ができるのか」とかえって向こうから問う意味ありげなやりとりとも符合する。

 ただしこの解釈では、もしも「私」が目を覚まさなかったらKはこの晩のうちにでも自殺を決行していたのだ、という魅力的な解釈を諦めることになる。


 Kはこの晩に自殺するつもりだったのか、この晩はあくまで「偵察」だったのか?


 両説は、議論の中で必ずしも区別されているとは限らない。だからみんなの意見を聞いても、どちらが最初に発表されるかはクラスによってまちまちだ。

 実は文学研究者や国語教師の間でも、あまり区別されてはいないと思われる。


 敢えて比較するなら前者の方が魅力的で、後者の方が整合性が高い。

 そこでいっそ、上記の説を融合してしまえばいいのでは?

 つまり、Kはこの晩自殺しようとしていたが、迷いもあった。「私」に声をかけることで、止めてほしいとさえ思っていた。はたして「私」は目を覚まし、Kは実行を思い止まったが、引き続き機会をうかがう意味で「近頃は熟睡できるのか」と訊いた…。

 これならば劇的な想像を諦めることなく、整合性がとれる。


 だが実はまだ解決はしない。

 結局「覚悟」「落ち着いていた」と「迷い」の不整合は解消されない。

 それに、Kが「私」の睡眠の深さを、自殺の完遂のために必要な条件だと考えていたとすると、実際にKが自殺した晩にKが襖を開けたままにしている理由がわからない。

 その晩、Kは襖を開けた後、「私」の名を呼んだのか?

 また、わざわざ熟睡の程度を確認してまで、それが障害になるかもしれないと考えるくらいなら、そもそも「私」の寝ている隣室で自殺などしなければいいのである。

 名を呼んだこの晩に「私」が目を覚ましたというのに、遂に自殺を決行した土曜日の晩には結局、隣室で、しかも襖を開けて事に及んだのでは、この「偵察」が無意味になってしまう。

 あるいは翌日以降に所決の決行が延期されたとしても、それがなぜ12日後には実行に移されたのか、その条件が不明だ。


 つまり、このエピソードを「自殺」に関連させて解釈するだけでなく、むしろ、12日後の土曜の晩にはなぜKはそれを実行したのか、なぜ隣室で、なぜ襖を開けたまま自殺したのかという問題を、このエピソードの解釈と関連させて考えなければならないのである。

 12日後の土曜の晩、Kはなぜ「覚悟」を実行に移すことにしたのか?

 なぜその時、襖を開け、開けたままにしたのか?

 そして、そうした疑問とともに、四十三章で襖を開けて「私」の名を呼ぶKの心理を考えなければならない。

 ここでもやはり、二箇所の解釈は、その整合性とともに互いの妥当性を支え合っている。


2020年11月24日火曜日

こころ 31 第1の仮説

 上野公園を散歩した夜のエピソードについて次の二つの問いを立てた。


問1 このエピソードの「意味」は何か?

問2 Kは何のために「私」に声をかけたのか?


 問2は物語の内部で考える問題で、問1はその地平を越えたメタな問いだ。

 両者は互いに整合的であることによって、互いの正統性を支え合っている。


 さて、これらの問いに対しては、大勢を占める答えが既にある。多くの者が思いつくから、しばらく話し合いをしてみると、すぐにそれが共有される。

問1の仮説A Kが自殺しようとしていたことを示す。

問2の仮説a 「私」の眠りの深さを確かめようとした。


 Aとaは、同時に発想されている。aを抽象化したものがAであり、Aという解釈を構成する具体的な要素としてaが想定されている。

 注意すべきことは、四十三章を読み進めている時点では、この解釈が生ずることはないということだ。この解釈が可能となるためには、Kの自殺が決行される四十八章までを読まなくてはならない。

 同時に、その日の昼間、上野公園での会話の中でKが口にした「覚悟」が自己所決=自殺の「覚悟」であるという解釈ができていなければならない。

 そもそも「覚悟」を自己所決の覚悟であると解釈することも、実際にKが自殺しなければ不可能である。上の仮説AはKの自殺という展開と昼間の「覚悟」の解釈を結んだ線上に発想されるのである。

 ではなぜこのエピソードをKの自殺と結びつけて考えるべきなのか?


 根拠は、四十八章のKが自殺をした晩の描写中にある次のような記述である。

見ると、いつも立て切ってあるKと私の室との仕切の襖が、この間の晩と同じくらい開いています。けれどもこの間のように、Kの黒い姿はそこには立っていません。(203頁)


 ここでいう「この間の晩」が問題の四十三章のエピソードを指していることに疑いはない。したがって、このエピソードの「意味」については、四十八章のKの自殺と関連させて解釈しなければならない。いわば、四十三章のエピソードは、四十八章で回収される伏線として置かれているということになる。


 さらに、この解釈を補強する要素がある。

 先に、小説内の全ての要素は整合的に解釈されるべきであると述べた。このエピソード全体が、それをどう解釈すべきかにわかにわからないが、同時に次の記述は、にわかには位置づけるべき文脈の見当がつかず、宙に浮いているいわば「ノイズ」となって、このエピソードの意味を「わからない」と感じさせている。

① 「彼の声は普段よりもかえって落ち着いていたくらいでした」という描写

② 翌朝の「近頃は熟睡できるのか」という問い

③ 翌朝の登校途中の、「私」の問いかけに対するKの否定に付された「強い調子で言い切りました」という形容


 三点とも、これらの記述から浮かぶKの心理は謎めいている。

 仮説Aはこれらを回収する。

 とりわけ②の「近頃は熟睡ができるのか」は、それこそが仮説Aの発想の元になっているはずだ。Kが「私」の眠りの深さを知りたがっているというのは、そのままaでもある。

 ①についても、自殺の「覚悟」ができているゆえの「落ち着」きなのだと考えればいい。

 ③については、自殺の意図を悟られたくないということだと考えてもいいし、Kにとってそれは軽く話せる話題ではないということを示しているのだと考えてもいい。

 こうして「私」の眠りの深さをはかって自殺を決行する機会をKがうかがっていることを示しているのだ、という解釈が生まれる。


 そしてそう考える読者は、次のような可能性に思い至って慄然とする。

 もしも「私」がKの呼びかけに対して目を覚まさなかったら、この晩のうちにでもKは死んでしまったのではないか?

 この想像に伴う戦慄は確かに魅力的である。


 仮説Aは専門家・研究者の中でも定説だし、実際に授業でも多くの者の支持を集める。

 問題はこの解釈で生ずる不都合である。

 この仮説に疑問はないか?


こころ 30 「エピソードの意味」と登場人物の心理

 上野公園の散歩の場面は、読むほどに新しい発見のある情報量の詰まった場面だ。ここで「私」とKの間に交わされた会話を詳細に分析することで、二人の認識のくい違いについて考えてきた。この食い違いが「こころ」の基本的なドラマツルギーを成立させているのだが、このことは後で全体を振り返ってあらためて考えよう。


 次に検討するのは、その晩のエピソードである。

私はほどなく穏やかな眠りに落ちました。しかし突然私の名を呼ぶ声で眼を覚ましました。見ると、間の襖が二尺ばかり開いて、そこにKの黒い影が立っています。(194頁)


 このエピソードはどうみても「意味」ありげであり、それは何かしら、「こころ」という小説を読む上で看過することのできない重要な「意味」であるように感ずる。このKの謎めいた行動について、読者はある種の納得を必要とする。

 そこで考えてみよう。

 このエピソードの「意味」は何か?


 エピソードの「意味」?

 問いの趣旨がわかりにくい。

 「エピソード」とは、物語中の展開の一部分、ある出来事や場面の「塊」のことだ。「こころ」授業の最初期に「曜日の特定」の考察をしたが、これはこの「エピソード」ごとに考察を進めた。その時に通し番号にした②と③が今回考える「エピソード」だ。

 それ以外のエピソード、例えば①「上野公園の散歩」は、中で細かいところは必ずしも「わかった」とは言い切れなくとも、何のエピソードなのかがわからないということはない。つまり「上野公園を散歩しながら話したエピソード」なのだ。④「奥さんとの談判」や⑦「Kの自殺」も、つまりそういうエピソードだ。

 ところが②③はどういうエピソードだと受け止めれば良いのかがにわかにはわからない。

 なぜか?


 なぜこのエピソードが「わからない」と感じるのか、という問いは考える価値のある問題だ。どうならば「わかる」と思えるのか?

 自分の思考がどのように働いているかを自覚するという考察は、これまでも様々な場面でしてきた。「永訣の朝」の語り手のいる場所についての考察でも、「こころ」の「進む/退く」の考察でも、「居直り強盗」の比喩の意味の考察でも。

 それは、そう考えることの根拠と推論の妥当性について再検討するということだ。

 ここでは、「わからない」という感じが万人に共通するかどうか検討する。


 一方で、この部分で何を考察すべきか、といえば決まって問題になるのはKの心理だ。

 「この時のこの人物の気持ちを考えてみよう」という質問は、小中学校で散々聞かれてきた問いのはずだ。

 近代文学の読解において、登場人物の心理を考えずに読むことはできない。


 「心理」というと対象が広くなってしまうので(まして「気持ち」などという語を使うとますます曖昧になってしまうので)、ここではKの「意図」と言おう。

 Kは何のために「私」に声をかけたのか?


 この点について、K自身は何と説明しているか?

 K自身は「ただもう寝たか、まだ起きているかと思って、便所へ行ったついでに聞いてみただけだ」と語っている。

 だが読者はその言葉を額面通りに受け取らずに、そこに何かしら隠された意図があるはずだと深読みしてしまう。

 「私」も同様にKの言葉を素直に受け取らないから、翌朝わざわざ「なぜそんなことをしたのかと尋ねる」。そうした「私」の疑問を、読者は不審に思わない。読者もまた語り手である「私」の認識に誘導されて、Kの言葉を真に受けないことが当然であるように感じてしまう。

 Kの言葉をなぜ信じられないか?


 夜中に、眠っている隣室の友人をわざわざ起こして「何でもない」ことはなかろう、というのが素朴な感覚ではある。

 だが、これがKの言葉を疑う決定的な根拠ではない。これでは「そういうことがありえないとは言えない」という反論に答えることはできない。

 ではなぜか?

 この疑問に、まずは「文学」的な説明をしてみよう。

 「黒い影」「黒い影法師」という印象的な表現が、Kの心情が基本的に「わからない」ものであることを象徴していると解釈できるのである。だからK自身の説明の直後で「彼の顔色や眼つきは、全く私にはわかりませんでした。」と言ってしまう。Kの言葉は額面通りに受け取ることを留保されている。

 これもまた「こころ」の基本構造である意思疎通の断絶を象徴的に示した映像である。

 映像を象徴として読む、というのは意識しないとできない「文学」的な読み方だ。


 だがそれよりも重要なことは、「ただ~だけ」と限定される理由が、十分な意味づけの重みを持っているとは感じられないということだ。

 「十分な意味づけ」とは、夜中に隣室の者をわざわざ起こすという特別な行動についての特別な理由、という「意味」でもあるが、それよりもやはりこの行動を含むエピソードがわざわざ語られる小説としての必要性という意味での「意味」である。

 つまり、Kの心理・意図は、このエピソードの「意味」という文脈の中で理解する必要があり、「聞いてみただけ」ではその「意味」を支えきれないと感じるのである。


 作品の解釈は原則的に、作品内のテキストのすべての情報に基づいて成立する。

 小説という虚構は人間が創作したものだから、すべての要素は、作者がわざわざ書かなければ存在しない。

 だから「完全な」解釈にとって、そこに整合的に組み込めない情報はない。原理的にはすべての記述、表現、展開が相応の「意味」をもって把握されなければならない。「特別な意味がない」という「意味」ですら、とにかく確定されなければならない。

 それなのにこのエピソードは何のために挿入されているかがにわかにはわからない。だから読者はこのエピソードの「意味」について考察すべきだと感じる。

 この小説にとって、なぜこのエピソードが語られる必要があるのか?

 読者はこのエピソードからどんな情報を読み取るべきなのか?


2020年11月23日月曜日

こころ 29 上野公園の会話を通観する

  上野公園の散歩のエピソードの会話を通観してみよう。

 実際に交わされている台詞は、文章量に比べて意外と少ない。

 「私」とKそれぞれにとっての会話の意味を、なるべく対比が明瞭になるように言い換えてみる。

 左(ピンク地)が「私」、右(水色地)がKにとっての意味である。


K:「どう思う」

恋愛の淵に陥った彼を、どんな目で私が眺めるかという質問

精進の道に迷っている自分が、どんなふうに見えるかという質問


私:「この際なんで私の批評が必要なのか」 

K:「自分の弱い人間であるのが恥ずかしい」

恋愛に突き進んでいけない自分の弱さが恥ずかしい

ひたすらに信ずる道を貫けない自分の弱さが恥ずかしい


私:「『迷う』とはどういう意味だ」

K:「進んでいいか退いていいか、それに迷うのだ」

恋に突き進んでいいのか、恋を諦めるべきなのか、迷う

これまで通り精進の道を貫くべきか、信仰を捨てていいのか迷う


私:「退こうと思えば退けるのか」

お嬢さんを諦められるのか

今まで信じてきた道を棄てられるのか


K:「苦しい」(苦しそうなところがありありと見えている)

お嬢さんへの恋を諦めるのは苦しい

道を捨てることは苦しい

→道を捨てた自分をどうするか考えると苦しい


私:「精神的に向上心のないものはばかだ」(厳粛な態度)

精進をやめて恋愛に進むのは馬鹿者だ

(馬鹿になりたくないのなら、ただちにお嬢さんを忘れろ)

ひたすら精進できずに迷っている今のおまえは「馬鹿」だ


K:「ぼくはばかだ」(力に乏しい)

(僕は「馬鹿」だから)お嬢さんに突き進む(だがまだ迷っている)?

その通り、ぼくは弱い、馬鹿者だ



K:「もうその話はやめよう。…やめてくれ」(頼むように)

私:「やめたければやめてもいいが、ただ口の先でやめたってしかたがあるまい

君の心でそれをやめるだけの覚悟がなければ」

話をやめるのではなく、考えること自体をやめる覚悟はあるのか?

(お嬢さんを諦める覚悟はあるのか?)

話をやめるのではなく、考えること自体をやめる覚悟はあるのか?

(迷っている自分に決着をつける覚悟はあるのか?)


K:「覚悟? 覚悟ならないこともない」(独り言のよう)

お嬢さんを諦める「覚悟」はある

(翌日には「お嬢さんに進む覚悟はある」)

弱い自分を自ら所決する「覚悟」はある


 左と右、それぞれに会話の流れにおいて、論理は一貫している。

 読者は「私」の意識に合わせて読むから、左の流れ(ピンク地)にしたがって会話の論理を理解する。

 だが、Kにとっては右の流れ(水色地)で論理を一貫させている。

 このように考えれば、Kの口にした「覚悟」は自己所決=自殺の意味にしかならない。

 そしてこのすれ違いに二人が気がつく契機は、巧みに回避されている。


 このことに気づいてみると、「こころ」はもはや以前のようには読めない。

 Kが何を考え、何を感じているかについての再考が迫られるからである。


 さて次は、この晩の謎めいたKの言動の意味を考察する。

 ここでもまたあらたな「コペルニクス的転回」が起こるはずだ。

2020年11月20日金曜日

こころ 28 再び「覚悟」とは何か

 ここまでたどって、ようやく最初に考察した「覚悟」に戻る。

「もうその話はやめよう」と彼が言いました。彼の眼にも彼の言葉にも変に悲痛ところがありました。私はちょっと挨拶ができなかったのです。するとKは、「やめてくれ」と今度は頼むように言い直しました。

 ここにある「変に悲痛なところがありました」の「変に」もまた、「私」がKの心を理解していないことを示すサインである。「悲痛」なのは、「私」の言葉がKの存在をまるごと否定する死刑宣告にほかならないからだが、「私」はそのことを自覚していない。「私」が語る「変に」は、事態の深刻さがまるでわかっていない暢気さの表れである。

 自らの弱さを認めているKにはそれ以上話すべきことはない。だから「もうその話はやめよう」というしかない。そしてKには「君の心でそれをやめる」が「お嬢さんのことを考えることをやめる」という意味ではなく、会話の流れにしたがっていうと「信仰の進退について悩むのをやめる」という意味に受け取られている。

私はその時彼に向って残酷な答を与えたのです。

「やめてくれって、僕が言いだしたことじゃない、もともと君のほうから持ち出した話じゃないか。しかし君がやめたければ、やめてもいいが、ただ口の先でやめたって仕方があるまい。君の心でそれをやめるだけの覚悟がなければ。いったい君は君の平生の主張をどうするつもりなのか」

 「心でそれをやめる覚悟」とは先に見たとおり「心で『話』をやめる」すなわち「考える」ことをやめることを意味している。

 ここに見られる「残酷」もまた、先の「復讐以上に残酷な意味」と同じだ。「私」がKに迫る「覚悟はあるのか?」という問いは、「お嬢さんを諦める覚悟」をKに宣言させようとしている。

 「私」にとってそれこそが「残酷」なのだ。

 だが「悩むのをやめ」たKに許されるのは単にお嬢さんを忘れることなどではなく(ましてお嬢さんに進むことであるはずもなく)弱い自分を自ら所決することだけである。

 Kは死をもって自らけりをつける「覚悟」はあるのだ、と言ったのだ。

 そうKに言わせた「私」の言葉は確かに「残酷」である。

 だがその意味について、「私」はまるで自覚していない。


 だからKはこのとき「卒然」何かに気づいたわけではなく、「私」が「卒然」と感じただけなのだ。しかも二人の会話はこのとき「卒然」すれ違ったわけではなく、最初からことごとくすれ違ったままだったのだ。

 Kは最初から自らの信仰上の悩みについて話していたのであり、お嬢さんとの恋のことなど話してはいない。会話全体のすれ違いをたどり直してみれば、Kが言った「覚悟」が「自殺の覚悟」を意味しているという解釈は無理がないどころか、これはもうそう考えるしかないのであり、「卒然」というべき飛躍はそこにはない。

 単に「覚悟」と言った場合、それが何の「覚悟」なのかは、前後の文脈から判断するしかない。これがKの真意まで含めて、都合三通りもの解釈を可能にしていることの巧妙さにこそ、読者は驚嘆すべきである。だがこのことの凄さはじっくりと分析的に考えないと気付かない。

 だからともすればそれは「お嬢さんを諦める覚悟でもあると同時に自己を所決する覚悟でもある」とか、「自殺と言うほど明確ではないにせよ何らかの形での覚悟」などと、しばしば曖昧な形で語られる(いずれも教師用の解説書から引用)。

 そうではない。これら三つの解釈はどちらでもありうるようなものではなく、排他的なものだ。

 「お嬢さんを諦める覚悟」があるのならKは死を選ぶ必要はないはずである。したがって「お嬢さんを諦める覚悟」と「自らを所決する覚悟」は両立しない。

 あるいは「明確でないにせよ何らかの形で所決するつもり」などという曖昧な想念を「覚悟」とは呼ばない。「お嬢さんを諦める」もしくは「自己処断としての自殺」といった決着点が見据えられていなければ、「覚悟」という強い言葉が使われるはずがない。その方法や時機については漠然とした曖昧なものであったとしても、少なくとも「死」といった決着点が想定されたうえで「覚悟」という言葉が発せられていることだけは確実である。

 Kの言った「覚悟」を「私」が二つの正反対の意味に解釈したのも、K自身がそれとは全く違った意味で「覚悟」と言っているのも、すべて文脈の中では整合的である。


 「私」がKの心を読み損なう根本的な理由は、Kの心を推測するにあたって、自分の心を投影して、それをK自身の心であると錯覚してしまうことにある。そう考えたときに、次の一節はその意味を劇的に変える。

私はちょうど他流試合でもする人のようにKを注意して見ていたのです。私は、私の眼、私の心、私の身体、すべて私という名の付くものを五分の隙間もないように用意して、Kに向かったのです。罪のないKは穴だらけというよりむしろ明け放しと評するのが適当なくらいに無用心でした。私は彼自身の手から、彼の保管している要塞の地図を受け取って、彼の眼の前でゆっくりそれを眺める事ができたも同じでした。

 「私」はKのことをよく見ていた、と殊更に書いてある。そしてKの「こころ」がわかっているということがこのように念入りに強調されている。

 これはそのまま、その強調の絶対値のままに方向を完全に逆転して、「私」がどれほどKの「こころ」がわかっていないのかを示すアイロニーなのである。

 この「要塞の地図」とは何か?

 「私」がKの「こころ」の地図だと思っているものは、実は「私」自身の「こころ」の地図なのである。

 「私」は自分の心を相手に投影して、その鏡像と闘っている。


 結局、二人の会話を最初から最後までたどってみても、二人がそのすれ違いに気付く契機は周到に回避されていることがわかる。二人はそれぞれ異なった一貫性によって会話を続けているのである。

 ミステリーではしばしば、一見して気付かれないようそれとなく投げ出された細部を手がかりに、探偵が、皆の思い込んでいるのとは別の、もう一つの真実の姿を再構成してみせる手際が鮮やかに披露される。

 だが、「こころ」が実現しているのは、一人称小説の語り手が捉えているのとはまったく違った、語り手が意識し得ない事実を、当の語りの細部から浮かび上がらせるという離れ業である。

 ただしそれはミステリーのように、解かれるべき謎として読者の前に差し出されているわけではないし、探偵がそれを得意気に解いてみせるのでもない。微かな違和感をたどって細部を見直しているうちに、不意にそれまで見えていたのとは違う「もう一つの真実」が、読者の前に形をなすのだ。

 これがあからさまな謎であったり、あからさまな真実であったら、そもそも語り手の「私」がそれに気付かないはずはない。

 といって読者にわかるはずもない真実など、小説に存在する意義はない。

 漱石は驚くべき微妙なバランスで、一人称の語り手が明確には理解することのない真実を、読者に伝えようとしているのである。


こころ 27 「復讐以上に残酷な意味」

 「精神的に向上心のないものはばかだ」という言葉が、「私」とKの間でどのようにその意味を変えるのかについて、「仮定条件/確定条件」という言葉を使うことで、表現の糸口を捉えることができた。

 だが実はまだこの言葉の持つ「残酷な意味」は、本当には捉えられていない。


 先の対比図には、実は一カ所、誤りがある。どこか?


 ここまでこの対比図を使って説明しておきながら実は「誤り」があるというのは何のことだと皆は思うかもしれないが、授業者の経験では、しばらく考えさせているうちに大抵のクラスではこの「誤り」に気づく者が現れる。

 本当は先ほどの対比図を考察する段階で、既に違和を感じてもいい。あるいは「僕はばかだ」を言い換える際の「恋に退く」の違和感も看過しがたい。

 あるいは、この対比図を、単なる論理操作によってではなく、「私」とKの思考を真剣に想像しながら組み立てていこうとした時に、本当はその違和感に気づくべきである。

 どこが違っているか?


 問題は、先の対比図における「道」の対立項の「恋」である。

 「道」を外れている自分を「弱い」というKの苦悩が「恋」を目指していると考えることに違和感があるのだ。

 そもそも「道/恋」という項目は、「私」の視点からのみ見えている対立項なのである。他の三項目がそもそも対義的であるのに比べ、「道/恋」は対義語なわけではない。ここまでは「私」が対立項として捉えている項目のいくつかがKにおいては逆になっているのだと考え、「私」とKの認識のずれを捉えようとしてきたのだが、実はこの対立項目そのものがKの認識を適切に表わしていなかったのである。

 では「道」の対立項は何なのか?


 それでもすぐに発想されないのなら、次の一節を参照しよう。

その頃は覚醒とか新しい生活とかいう文字のまだない時分でした。しかしKが古い自分をさらりと投げ出して、一意に新しい方角へ走りださなかったのは、現代人の考えが彼に欠けていたからではないのです。彼には投げ出すことのできないほど尊い過去があったからです。彼はそのために今日まで生きてきたと言ってもいいくらいなのです。


 漱石の誘導に素直に従うならば、「道」の対比項目は「死」だということになる。


    進む ←→ 退く

    強い ←→ 弱い

     道 ←→  恋  →死

    向上 ←→ ばか


 こう考えてみてはじめて、「精神的に向上心のないものは、ばかだ」が「復讐以上に残酷な意味をもっていた」という表現に漱石が込めた真意がわかる。

 図らずもKの現状認識を追認した「精神的に向上心のないものは、ばかだ」という言葉は、Kの存在をまるごと否定するものであった。

 「私はこの一言で、彼がせっかく積み上げた過去を蹴散らしたつもりではありません。かえってそれを今までどおり積み重ねてゆかせようとしたのです。」という「私」の意図とは全く逆に、この一言はまさしくKが「せっかく積み上げた過去を蹴散らした」のである。

 「尊い過去」を否定することは、Kにとって生を否定することである。

 つまりこの言葉はKにとって、まるで死刑宣告にも等しいものだったのである。


 以上の考察に基づくと、先に「進む/退く」の考察の際に触れた「彼はただ苦しいと言っただけでした。」の「苦しい」についてもあらためて見直さなければならない。

 先にはこの「苦しい」は、Kにとっては「道を棄てることは苦しい」であり、「私」はそれを「お嬢さんを諦めるのは苦しい」と解釈したと考えることで、一応は二人のすれ違いの様相は整理できるように見えていた。

 だがこのような解釈では、「私」の捉えたKの苦悩と、K自身の苦悩の間に、実はそれほどの違いはない。

 本当にKが自らの信じてきた道だけが大事なのだとしたら、「退けるのか」と問われたとき言下に「できない(退けない)」と答えればいいだけのことだ。

 だが「退けない=道を棄てられない」とすぐに答えられずに「苦しい」と言うとすれば、それは選択の岐路に立つことの苦悩を意味することになる。選択することが「苦しい」のなら、それは「道」を棄てることの「苦しさ」を示すだけでなく、Kにとって選択肢のもう一方「恋」の重みをも必然的に証し立ててしまう。

 これは「苦しい」を、選択に伴う苦悩であると捉える以上、必然的に生ずる論理的機制である。

 だがそもそも、道を棄ててお嬢さんに突き進むという行動をKが選択肢として想定しているという前提自体が「私」の錯覚なのである。

 実は本文を、「私」の思い込みを排して読んでいくと、Kが具体的にお嬢さんに対して進みたがっている(そしてそれを信仰が妨げている)と見なせる記述はない。ただ「私」の疑心暗鬼だけがそのような選択の迷いを錯覚させているのであり、読者もまたすっかりそうした仮初めの問題の前にKを置いてしまう。

 「私」とKの認識のズレの本質はここにある。

 「私」はKの苦悩を、「道か恋か」の選択の苦悩だと捉えている。

 だがKにとって少なくとも「恋」は「道」との選択の対象ではない。

 「私」にとって選択はこれから行われる〈仮定〉の問題であり、Kにとっては〈確定〉された現状に対する決着のつけ方の問題である。

 「退けるのか」という問いに答えるのが難しいのは、それだけ「退く=道を棄てる」ことが難しいということなのではなく、「お前は退いた自分をどうするのか」、という問いかけがその後ろに控えていることをK自身が自覚しているからである。「苦しい」というKの言葉には、退いた先にある「自己所決」が既に含意されているのである。


こころ 26 「精神的に向上心のないものはばかだ」

 「精神的に向上心のないものはばかだ」という言葉についてさらに考察を進めよう。

 まず「私」の認識について確認する。この言葉は「私」にとって「復讐以上に残酷な意味をもっていた」と語られている。

 この「復讐」とは何か? また「復讐以上に残酷な意味」とは何か?


 「復讐」については、この言葉がKから発せられた房州旅行の場面を読んでいない皆には若干考えにくいが、教科書本文からでも推測はできる。

 「私」はかつてこの言葉によってKに軽侮され、自尊心を傷つけられた。「復讐」とは同じことをKに仕返すことを意味している。

 一方「復讐以上に残酷な意味」とは、続く一文で「私はその一言でKの前に横たわる恋の行手を塞ごうとしたのです」と解説されている。

 「以上」で示される大小関係についてはっきりと認識しておきたい。

 つまり「私」にとっての「残酷」さの大小は

Kの自尊心を傷つける < Kの「恋の行手を塞ぐ」

なのである。

 これはその前の会話における「苦しい」の解釈と論理的に整合している。

 Kの「苦しい」は「私」にとって「お嬢さんを諦めるのは苦しい」という意味に解釈される。それが「実際彼の表情には苦しそうなところがありありと見えていました。」と強調されている。

 お嬢さんを諦めることがこれほど「苦しい」と言っているKをそこに追い込むのは、確かに「残酷」である。


 だがこの言葉の「残酷」さはそれだけではないように感じる。

 読者が感じる「残酷」さは、K自身の言葉によって自分自身を追い詰めるという、自らの手で自らの首を絞めさせるような巧妙な方法の持つ逃げ道のない構造にもよっている。あくまで「私」が言っている「意味」は上記のとおりだが、読者はこうした構造からも「残酷」のニュアンスを感じ取っている。

 さらに、それだけではない。この言葉はそれ以上の意味でも「残酷」であり、そのことに、漱石は自覚的である。「復讐」と「復讐以上に残酷な意味」という表現によって重ねられた「意味」について読者に考えさせる注意喚起は、その延長上に、「私」が思いもしなかった「意味」があることへ読者の思考を誘う。


 Kにとって、この言葉はどのような意味だと考えればいいのか?


 考察の緒としてまず次のように考えてみる。


「僕はばかだ」を「僕は〈  〉から〈  〉に〈  〉つもりだ」と言い換えてみよう。空欄には上から順に「強い/弱い」「道/恋」「進む/退く」のどちらが入るか?


 先の対比図によれば、「私」にとって「僕はばかだ」は「僕は強いから進むつもりだ」とKが言っていることになる。これが「居直り強盗のごとく」の意味である。

 同様にKにとっての対比項目をそのまま代入すると「僕は弱いから退くつもりだ」と言っていることになる。

 だがこの言い換えは何かヘンだ。Kはそういうつもりで「僕はばかだ」と言っているのだろうか。

 この違和感の原因は何か?


 対比軸の上下(左右)を間違えているのではない。この言い換えの文型が不適切なのだ。単に対比の項目を逆にするだけではKの真意を表わすことはできないのである。

 どうしたらいいか?

 Kの言う「僕はばかだ」を先の対比を使ってもう一度言い換えてみよう。


私 僕は強いから進むつもりだ。(居直り強盗)

K 退いているような自分は弱い。(力に乏しい)


 これならば、Kの言っているニュアンスにいくらか近づいているように思える。

 ここから何がわかるか?

 つまり「私」はKが「これから」どうするつもりなのかを言っているように受け取ったのだが、Kは「今」を表現しているのである(この「これから/今」は各クラスでさまざまな言い方が提案された。「意志/現状」「決意/自虐」など)。

 とすると「私」とKとの間で「精神的に向上心のないものはばかだ」はどのような認識の違いを示しているか?


 この、「私」にとっての「意味」とKにとっての「意味」の違いは、こんなふうに表現することができる。つまり「精神的に向上心のないものはばかだ」は「私」にとって「仮定条件」のようなものであるのに対して、Kにとっては「確定条件」のようなものだ…。

 どういう意味か?

 「仮定条件/確定条件」といえば古典文法だ。

 接続助詞「ば」は、上の活用語が未然形のときは「仮定条件」を表わし、已然形の時は「確定条件」を表わす。それぞれにお約束の口語訳がある。これを使って、「私」とKの認識の違いを表現してみよう。


 「私」の言った「精神的に向上心のないものは、ばかだ」という台詞は、構造的に「精神的に向上心のないもの」と「ばか」が、相互に仮定として置かれているのだと言える。もし「精神的に向上心のないもの」であるとするなら、その者は「ばかだ」、あるいは、もしその者が「ばかだ」とすると彼は「精神的に向上心のない」者だ、というように。

 つまりどちらか片方の結論を覆したければもう一方の仮定を棄てればいい、という選択の岐路に相手を立たせたうえで、「平生の主張」をたてにして「これまで積み上げた過去」の方向に誘導することを意図しているのである。

 「精神的に向上心のない」「ばか」であることを認めたくないならば恋愛を諦めればいい。恋愛を諦めることが「苦しい」としても、少なくともその場合「精神的に向上心のあるもの」として自らの立ち位置は保てる。「私」の自覚する「残酷」は、そのような逃げ道を残している。

 一方Kにとっての苦悩は「選択」の苦悩ではない。Kは既に自らを「精神的に向上心のないもの」=「ばか」=「弱い」と見なしているのである。


 つまり二人にとって「精神的に向上心のないものはばかだ」は次のようにその意味を変えるのである。


私「もし向上心がないのならば、そいつはばかだ」〈仮定条件〉

K「向上心がないのだから、君はばかだ」〈確定条件〉


 「私」が仮定として語るテーゼは一般論だが、Kにはそれが自分自身の現状を指摘したものであるかのように響く。


 読者には「私」が言ったような「意味」でしかこの言葉を読むことはできない。この〈仮定〉がもつ「残酷」さは、お嬢さんを諦めさせることである。

 だがKの関心が、最初から一貫して自らの裡なる苦悩に向けられているとすると、Kに対して「私」が「厳粛な改まった態度」で「言い放」った「精神的に向上心のないものはばかだ」なる台詞は、Kの苦悩をそのまま追認するものであり、いわばKの存在をまるごと否定してしまっているのである。

 これはまだこの言葉の持つ「残酷」さを捉える端緒に過ぎない。


2020年11月17日火曜日

こころ 25 「私」とKの認識の違いを対比的に捉える

 「精神的に向上心のないものはばかだ」「僕はばかだ」というやりとりを「私」がどう理解しているかはわかった。

 だが一方で「精神的に向上心のないものはばかだ」という言葉がKにとってどのような意味を持っており、それに対する「僕はばかだ」にはどんな真意が秘められていたかを直ちに表現することは困難である。この考察は、この一連の会話の分析の中でもとりわけ難しい。

 そこでまず、二人の認識のずれがどのようなものであるかを明らかにするために次のような整理をしておく。

 二人の会話における次の四つの「対比」を、ここまでの解釈にしたがって同一の対比軸上に、向きを合わせて並べる。

  

「進む/退く」「強い/弱い」「道/恋」「向上/ばか」


 これらの対比要素は、それぞれ左右のどちらに整理されるか?


 まずは、どれか一つの対比を共通する規準として置いておく。「対比」を考えるときに必要な「ラベル」である。

 どれでもいいのだが、この対比を考え始めるときに目印にした「進む/退く」をラベルとしよう。それに合わせて他の三つの対比を同一軸に並べるとすると、「強い」と「弱い」はそれぞれ左右のどちらに書かれるべきか?


 もちろん、これだけの指示では足りない。そのことに気づけば、ここまでの学習が把握されているということだ。

 一体誰にとっての「同じ向き」のことだ?

 つまり「私」とKでは逆になる項目があるのである。

 そこで中央に「進む/退く」を書いて、それを規準に上下に「私」とK、それぞれにとっての対比を書き込む。


 さて、こんなふうになっていれば、ここまでの考察を正しく把握している(授業の板書では上下に並べているものをここでは左右に並べる)。


  ○「私」にとって

     ばか ←→ 向上

      恋 ←→ 道

     強い ←→ 弱い

  ―― 進む ←→ 退く ――(←共通項・基準)

     強い ←→ 弱い

      道 ←→ 恋

     向上 ←→ ばか

  ○Kにとって


 真ん中の「進む/退く」は共通で、そこから上が「私」の認識、下がKの認識である。

 もちろんどれを基準に並べてもいい。例えば「向上/ばか」を共通項として整理し直してみよう。


  ○「私」にとって

     退く ←→ 進む

     弱い ←→ 強い

      道 ←→ 恋

  ―― 向上 ←→ ばか ―(←共通項)

      道 ←→ 恋

     強い ←→ 弱い

     進む ←→ 退く

  ○ Kにとって


 「向上/ばか」という対比が「道/恋」という方向に把握されていることは、二人の間で違いがない。「強/弱」「進/退」が逆なのだ。


 こうした考察は「進む/退く」以降の読解の結論に基づいて単に論理的な操作によって解答を導き出せる問いではある。

 だがこの問いの目的は単なる論理操作にあるわけではない。考えようとすれば、「私」とKの思考内容を想像し、彼らの心情に共感しようとすることで考察を前に進めているはずである。

 特にKの心理(思考と心情)に同調しようとすることが、ここでの考察の肝だ。「私」の心理はそのまま語られているが、「私」の解釈を通していないKの心理は、意識的に整理しないとわからないからである。


 さて、こうした図式によれば「僕はばかだ」は「私」とKの間でどのような違いとして把握されることになるか?


 上の整理にしたがえば、Kの「僕はばかだ」という言葉は、「私」には「僕は恋に進む」と聞こえるはずである。「私」にとって「進む」ことは「強い」ことである。だから「僕はばかだ」が「居直り盗のごとく感ぜられ」てしまう。

 一方Kにとって「僕はばかだ」は「僕は退く」と言っていることになる。そして「退く」のは「弱い」ことなのだ。だからこそKの声は「いかにも力に乏しい」のである。


 二人の間で「進む/退く」や「強い/弱い」の意味する方向が反対方向であることを示すことで、二人の認識のずれを簡易的に整理して捉えることはできた。

 だがこれらの標識を「精神的に向上心のないものはばかだ」に代入して、その意味の違いを示すことはこれ以上できない。

 それどころか先の対比図は、簡易的に二人の認識の違いを整理してはいるが、実は重大な錯誤を含んでいる。それは授業者による意図的なミスリードでもあるのだが、そこには「私」の根本的な誤解の構造を解き明かしてKの真意に迫る契機がある。

こころ 24 「居直り強盗」とは何か

 この後、会話は、これもまた重要な「精神的に向上心のないものはばかだ」に続く。

 だが、この言葉は、以上のような「私」とK、それぞれにとっての意味の違いとしてただちに語るのは難しい。「進む/退く」が逆方向を示しているように、「向上/ばか」が反対方向を指しているわけではない。その点については二人の認識は一致している。

 だがやはり、この言葉を口にした「私」の意図とは違った形で、Kはこの言葉を受け止めるのである。


 考察の難しい「精神的に…」より先に、まずはその言葉に対するKの反応について検討する。

 Kは「僕はばかだ」と言って返す。

「僕はばかだ」/(略)私は思わずぎょっとしました。私にはKがその刹那に居直り強盗のごとく感ぜられたのです。しかしそれにしては彼の声がいかにも力に乏しいことに気がつきました。

 ここでは「しかしそれにしては」によって、「私」とKの認識のズレが明瞭に示されている。

 Kにとってこの言葉はどのような意味であり、それが「私」の耳にはどのように聞こえるか?


 この一節で、明らかに解釈の必要性を感じさせるのは「居直り強盗のごとく」という比喩である。

 だが「『居直り強盗のごとく感ぜられた』とはどういうことか?」という問いに、後述のように答えるのは難しくない。

 だがそのような了解が、どのような論理に拠っているのかを明らかにするのは、毎度のように容易ではない。これはなかなかに興味深い考察となる。

 段階を追って展開してみよう。

 まず「居直り強盗」とは何か?


 まずは文脈から推論してみる。「永訣の朝」の「永訣」と同じで、知らなければ知らないなりに文脈から考えてみる。その後で辞書で確認する。

居直り強盗…こっそり盗みにはいった者が家人に発見され、その場で強盗に変ること

 つまり「居直り強盗」とは、最初「泥棒」のつもりだったが、見つかってから「強盗」になることだ。


 問題はこの後である。

 「居直り強盗」は「泥棒」「強盗」とはどこが違うか?

 隣接する語との差異を明らかにすることで問題を明確にするというのは毎度の「対比」の考え方である。


 Kの言葉が「私」には「居直り強盗のごとく」感じられたというのだが、では、Kの行動がどのようであれば「泥棒のごとく」と感じられ、どのようであれば「強盗のごとく」と感じられたはずなのか?


 まずはこう答えがちである。

 「泥棒」は不当に他人のものを得ようとするときに、行為の最中には人に見つからないようにそれを遂行しようとする。

 「強盗」は、相手の前に姿を現したうえでそれを遂行しようとする。

 「泥棒」は「こそこそ」、「強盗」は「堂々と」だ。

 この語義からすると「私」に知られないようにお嬢さんを自分のものにしようとすれば「泥棒のごとく」であり、堂々とアプローチすれば「強盗のごとく」と感じられた、ということになる。


 だが「私」がKの言葉を「居直り強盗のごとく」感じたということは、「私」はKを「泥棒」だと思っていたということだ。

 つまりこの説明では「私」がKを「泥棒のごとく」感じることと「居直り強盗のごとく」感じることの違いは表せないできない。


 問題は「泥棒」と「居直り強盗」を分かつ分岐点である。そこまでは「泥棒」と「居直り強盗」の違いは存在せず、その瞬間に両者は分岐する。

 そこには何があるか?

 「家人に見つかる」である。

 両者の違いは何か?

 見つかった時に逃げるか否かである。


 この「見つかる」は、この場面の何に対応するか?


 「精神的に向上心のないものは、ばかだ」という言葉である。これは言わば、お前の犯罪行為を見つけたぞ、という指摘である。

 ということは、「私」は「精神的に…」という言葉、つまりお前自身の「平生の主張」に反するではないかという指摘をすればKが逃げる(=お嬢さんを諦めると言明する)はずだと想定しているのである。

 これが、「私」がKを泥棒だと見なしていたということの意味である。

 ここまで考えて、当初の問いの答えが明らかになる。

 Kの言葉が「居直り強盗のごとく感ぜられた」とはどのような意味か?


 すなわち、「精神的に向上心のないものはばかだ」というK自身の言葉によって、Kが引き下がらざるをえない状況に陥って(つまり泥棒行為が見つかって逃げるしかない状況で)、かえって居直ってお嬢さんに突き進む(=「ばか」であることを認める=強盗をはたらく)かのごとき返答をしたのかと「私」は受け取ったのである。

 これが「居直り強盗のごとく」という比喩の意味だ。


 では「強盗」は?

 「ばかだ」という指摘は「見つけたぞ」という意味だから、泥棒ならば逃げるはずだ。Kがよもや「ばか」であることを自ら認めると「私」には思いもつかなかった。

 一方「強盗」は最初から隠れるつもりがない。つまり「強盗のごとく」とは、Kが日頃の主張に反することを隠さずに堂々とお嬢さんに突き進もうとすることを指す。

 とすれば、Kが「強盗」だとすれば、そもそも「精神的に…」がKに対して「恋の行く手を塞ぐ」効果を持つとは期待できないということだ。

 「私」はそのような想定はしていなかったのである。


 先述の通り、こうした結論を述べること自体はそれほど難しくない。読者はこの比喩がそのような意味であることを自然に読み取っている。だが、こうした比喩の理解がどのような論理に拠っているのかは、このようにたどってみて初めてわかることなのである。


 そしてもちろん、こうした結論を理解することが国語の学習なのではない。「わかる」ことは目的ではない。自分でわからなければならないし、わかるはずである。

 ただそれがどのようにもたらされた認識なのかを分析することが、ここでの学習としての意義なのだ。


 さて、以上の考察で「僕はばかだ」というKの言葉を「私」がどう受け取ったかは明らかになった。だがKはそういう意味で言ったのだろうか。

 もちろんそうではない。「しかしそれにしては彼の声がいかにも力に乏しい」のである。

 これもまた、最初に確認した「覚悟」の際の「卒然」「独り言のように」などと同じく、「私」とKの間に認識の食い違いがあることを示している。

 Kはどのような意味で「僕はばかだ」と言ったのか?


こころ 23 すれ違いの端緒

 「私」とKは「進む/退く」という言葉が意味する方向が反対であることに気付かずに会話をしているのではないか、という仮説を立てた。この仮説に沿って会話全体を見直してみよう。

 二人のすれ違いは「進む/退く」において突然生じたわけではない。

 その前にKが口にしたのは次の言葉である。

彼はいつもにも似ない悄然とした口調で、自分の弱い人間であるのが実際恥ずかしいと言いました。

 この「弱い」とは何か?

 「お嬢さんに恋してしまい、自らの信念に迷いを生じていること」「精進の道に反する恋心を抱いてしまったこと」などと説明するのは難しくない。

 この説明は間違ってはいないが不徹底である。

 物事の輪郭を明確にするには、差異線によってそれをそれ以外のものから区別しなくてはならない。ここまで繰り返し用いてきた「対比」の考え方である。

 だから「『弱い』とはどういうことか」ではなく、「強」かったらどうするのか? 何ができないことを「弱い」と言っているか? と考える。

 これも文中に根拠を見出すことが必須である。

 この一節の直前に「彼の天性は他の思わくを憚かるほど弱くでき上ってはいなかったのです。こうと信じたら一人でどんどん進んで行くだけの度胸もあり勇気もある男なのです。」とある。前節の「進む」の考察からするとこの「進む」はお嬢さんの関係を「実際的の方面」に押し進めることを意味していると「私」は認識しているはずだ。

 したがって、「私」からすると、Kが「強」ければお嬢さんに突き進んでしまうことになる。つまりKの言う「弱い」は、迷わずにお嬢さんに進んでいけないことを表現した言葉だと受け取られる。

 これは、この翌日、「私」が「Kの果断に富んだ性格」を思い出して、彼の口にした「覚悟」を「お嬢さんに突き進む覚悟」だと解釈してしまうことと符合する。これが「私」の焦りを生じさせ、後に展開する「私」の策略を誘発する。


 一方Kにとっての「強」さは当然、昔から信じてきた精進の道を迷わず歩み続けることである。すなわち、二人の考える「強い/弱い」は反対方向を指しているのである。

 K 迷わず精進できない自分は「弱い」(強かったら恋心を棄てる)

 私 迷わずお嬢さんに突き進めない自分は「弱い」(強かったら恋に進む)


 この違いは、「強かったらどうするか」を意識的に考えることによってしか明確にはならない。この時点で既に二人の考えは反対方向にすれ違っているのだが、当の二人は気づいていない。読者も同様である。


 そしてこのすれ違いはここで生じたわけですらない。会話に先立って「私」は「彼は例の事件について、突然向うから口を切りました。」と読者に予断を与えてしまう。それに続く最初の言葉「どう思う」というKの問いかけを、「私」は「どう思うというのは、そうした恋愛の淵に陥った彼を、どんな眼で私が眺めるかという質問なのです。」と解説する。

 読者には、こうして提示された情報を疑う前提はない。

 そしてこの情報は、全く事実に反するとも言えない。Kにとって「恋愛の淵に陥っ」ていることは確かに問題だ。

 だがそのことの何が問題かと考えたとき、そのまま「恋愛」に進めないことをKが悩んでいるのだと言うか、「道」に反する現状に心を痛めているのだと言うかでは、問題の所在が違う。「恋愛」が問題だと考えてしまうのは「私」の関心に沿った誘導だ。

 問題の重心が「恋」にあるのか「道」にあるのか、と考えると、既に二人の関心は反対方向にすれ違っているのである。


 そして「どう思う」というKの言葉には「ただ漠然と、どう思うと言うのです。」という形容がついている。

 この形容は、この言葉が解釈の多義性を生じさせる可能性について、読者の注意を喚起している。「どう思う」とは、何について「思う」のか限定されていないよ、と作者はわざわざ言っているのである。

 この形容がわざわざ付されている理由はこれ以外に想定できない。


 そしてもちろん、このすれ違いは、この会話の開始に伴って生じたわけではなく、四十章以前から二人の「こころ」のすれ違いは、とうに生じていた。

 例えばKが恋心を自白した場面を注意してみてみよう。

私の心は半分その自白を聞いていながら、半分どうしようどうしようという念にたえずかき乱されていましたから、細かい点になるとほとんど耳へ入らないと同様でした(181頁)。

 「私」はKの話をよく聞いていないのだ!

 お嬢さんへの恋心が話題であることは間違いないとしても、Kの問題の所在がどこなのかを、「私」が本当には捉えていないことをこうした描写によって、漱石はさりげなく読者に伝えている。

 とすればここでKが打ち明けていたのはこの時から一貫して恋の悩みというよりも自分の信仰のゆらぎ、自らの弱さのことかもしれなかったのである。

 そしてそれはお嬢さんへ進んでいけない「弱さ」のことではなく、信仰を貫けない「弱さ」のことなのである。


 こうした、すれ違い続ける会話をお笑いに転換したのがお笑いコンビ「アンジャッシュ」のコントだ。

 Youtubeなどでも見ることのできるアンジャッシュのコントの多くは、二人の会話がそれぞれ全く違った一貫性で続けられ、その事にお互いが気づいていないちぐはぐがおかしみを生むという構造になっている。

 こうした仕掛けはアンジャッシュの発明というわけではない。

 100年以上前に「こころ」を書いていた漱石が念頭に置いている可能性があるとすれば古典落語の「蒟蒻問答」かもしれない。


 アンジャッシュのコントでは、そのすれ違いの生む悲劇を笑い飛ばすことが観客の正しい享受のあり方である。

 さて、「こころ」においてこのすれ違いが生み出す悲劇はどこに帰結するか?


こころ 22 どこへ「進む/退く」のか

 「進む/退く」とはどこへ向かって「進む/退く」ことなのか。文脈からは二つの正反対の解釈ABが可能だ。いったいどちらなのか?


 ABは相反する。そのままにしてはおけない。

 だが実はこの「どちらか」は決着がつかない。

 どう考えればいいか?


 この問題の「解決」は、それぞれのクラスで誰かが気づく。それは誰だったか? 皆はそれぞれ、自分でその「解決」を思いついたか?


 こう考えればいい。つまりKが言った意味と「私」が受け取った意味が違っていたのである。二人はそれぞれ次の意味で「進む/退く」と言っているのである。


 K 今まで通りの道を進む/道を退く

 私 お嬢さんに進む/お嬢さんを諦める


 二人は直接の会話の中で一度として具体的に「進む/退く」の方向がどこを向いているのかを口にしていない。そしてお互いの言っていることが反対方向にすれ違っていることに気付かずに会話しているのである。


 こうした結論は「正解」のように「教わる」べきではない。授業における読解は、その結論を「理解」すべきものではなく、認識の変容として「体験」されるべきものである。最初無理に感じられたかもしれない二つ目の解釈が、しかし考えているうちに腑に落ちることが重要である。

 それでも、二つ目の解釈に読者が自ら気づくことは難しい。だからその解釈は、可能だとしても、そもそも成立することが不自然なのではないか、可能ではあるがそもそも不必要な解釈をいたずらにしている(こういうのを「穿ち過ぎ」という」)というだけなのではないか、という疑う者もいるだろう。大事なことだ。他人から言われたことを鵜呑みにせず、自分で納得するまで考えるのは。

 漱石は本当にそんなことを考えているのだろうか?


 漱石がこの「方向」について意識的だったことは、たとえば次の一節を読んでもわかる。

その頃は覚醒とか新しい生活とかいう文字のまだない時分でした。しかしKが古い自分をさらりと投げ出して、一意に新しい方角へ走り出さなかったのは、現代人の考えが彼に欠けていたからではないのです。彼には投げ出す事のできないほど尊い過去があったからです。彼はそのために今日まで生きて来たといってもいいくらいなのです。だからKが一直線に愛の目的物に向かって猛進しないといって、決してその愛の生温い事を証拠立てる訳にはゆきません。いくら熾烈な感情が燃えていても、彼はむやみに動けないのです。前後を忘れるほどの衝動が起る機会を彼に与えない以上、Kはどうしてもちょっと踏み留まって自分の過去を振り返らなければならなかったのです。そうすると過去が指し示す路を今まで通り歩かなければならなくなるのです。(「四十三」193頁)


 これは上野公園の散歩のシークエンスが終わった後の章段だが、ここにもしつこいほど「方向」を示す標識が書き込まれている(まるで和歌の修辞法の「縁語」のように)。

 「新しい方角へ走り出す」「愛の目的物に向かって猛進する」などは「私」の捉えている「進む」であり、とすれば「自分の過去を振り返る」、つまり信条に従って恋心を棄てることが「退く」なのである。

 だがKの主観に立ってみれば「過去が指し示す路を今まで通り歩く」こそ「進む」ことなのだ。

 しかし、「私」の意識に同調しながら物語を追っている読者がそのことに気づくことはない。


 読者が気付かない解釈の可能性を作者が文中に忍ばせたのは、語り手である「私」にそのことを気付かせないようにする必要があるからである。

 二人の思考のすれ違いは、この後の会話全体に渡っている。読者がそうしたすれ違いに容易に気づくようでは、語り手である「私」がまずそのことに気付かないわけがない。それではこのすれ違いが起こらない。すれ違いを起こすためには「私」が誤解に気づかない必要があり、そうなれば読者もその誤解に気づくのは難しい。


 それでもまだ、上のような解釈が、そもそも穿ち過ぎ、深読みに過ぎるのではないか、という疑問がぬぐえないかもしれない。

 だが、こうしたすれ違いが生じているのだという解釈は、ここまで指摘した根拠のみに拠るものではなく、以下に続く「私」とKの問答全体を整合的に解釈することに拠っている。

 とりわけ「覚悟」という言葉をめぐって二人の間にすれ違いが生じているらしいという最初に行った考察については、多くの読者にも気づく可能性があろうが、実はそのすれ違いの端緒がどこにあるかを考え、会話全体を見直した時に、はじめてこの会話が、最初から一貫してすれ違っていたのだという仮説の妥当性が確かめられるのである。

 「進む/退く」はそうしたすれ違いを表わす方向標識として恰好の手がかりなのである。


2020年11月13日金曜日

こころ 21 「進む/退く」とは何か

 「覚悟」の解釈についての疑問を残したまま、話は一旦遡って、上野公園の散歩中の会話のはじめ辺りに戻る。

 四十章、「私」とKの会話の始まり近くに次の一節がある。

彼は進んでいいか退いていいか、それに迷うのだと説明しました。(「下/四十」189頁)

 この「進む」「退く」とはそれぞれ何のことか?


 この部分の解釈は、「こころ」の読解の最も重要なポイントである。ここを転換点として、「こころ」という小説は、世間が思っているのとは全く別の様相を露わにする「コペルニクス的転回」を迎える。


 だが、この問いの答えは、それが問われる意義がわからないほどに明らかに思える。「進む/退く」が「お嬢さんに進む/お嬢さんを諦める」という意味であることはわかりきっている。

 だが問題は解釈の根拠である。

 「進む/退く」はなぜ「お嬢さんに進む/お嬢さんを諦める」のことだと解釈できるのか?


 先の「覚悟」で考察したように、言葉の解釈は文脈に依存している。「進む/退く」は、文脈の中でそのように解釈されるのである。そのことを自覚する必要がある。

 「進む/退く」という動詞は「前後」というベクトルを前提している。「動く/とどまる」ならばそのような「前後」の方向性は限定されないが、「進む/退く」が何のことか読者に了解されるとしたら、前後に何があるのかが何らかの形で読者に予め提示されているはずなのである。それはどこに書いてあるのか。


 「恋愛の淵に陥った彼」(188頁)という記述を挙げる者は多い。問題の在処が「恋愛」なのだから「進む」のは「恋愛」の方向なのだといえないこともない。

 だが、「陥る」は上下の方向性が示されているのであって「進む/退く」という前後の方向性が示されているわけではない、ともいえる。

 では明確に「前後」が示されている記述はどこにあるか?


 例えば次のような記述が指摘できる。

  1. 彼の恋をどう取り扱うつもりかと尋ねました。それが単なる自白に過ぎないのか、またはその自白についで、実際的の効果をも収める気なのかと問うたのです(187頁)。
  2. 彼の態度はまだ実際的の方面へ向かってちっとも進んでいませんでした(188頁)。
  3. こうと信じたら一人でどんどん進んで行くだけの度胸もあり勇気もある男なのです(189頁)。

 1・2・3を順に辿れば、「進む」のは「恋」の「方面」なのだという解釈が、読者の中に自然に形成される。

 つまり文脈の中で「進む」という動詞が、「恋に進む」という意味で何度も使われていることによって、読者はそれをコード(解釈規則)としてKの言った「進む」という言葉を、無自覚に「恋に」という方向で受け取ってしまうのだ。読者の解釈は、知らないうちに語り手である「私」の認識に誘導されているのである。


 これより後にも、例えば次のような一節がある。

私はその一言でKの前に横たわる恋の行く手を塞ごうとしたのです。(190頁)

 この表現なども、あからさまに方向性を示している。

 そして前方にあるのはやはり「恋」なのである。


 以上の解釈に不審な点はない。だが、話はここで終わりではない。

 四十一章(190頁)の「Kは真宗寺に生れた男でした。」からの一連のKの人柄についての記述中には、次のような表現がある。ここからは「進む/退く」について、どのような解釈が可能か。

恋そのものでもの妨げになる

Kが急に生活の方向を転換して、私の利害と衝突する

 さりげなく置かれた右のような表現もまた、前後の移動を暗示している。

 そしてそこから導かれるのは、「進む=精進する/退く=道を棄てる」という解釈である。当否は後回しにしても、誘導に従えばそうした結論に辿り着くしかない。

・「進む/退く」=「お嬢さんとの関係を発展させる/お嬢さんを諦める」

・「進む/退く」=「精進する/道を棄てる」


 「精進する」ためには「お嬢さんを諦める」しかない。

 反対に「お嬢さんにアプローチする」ならば「道を棄てる」しかない。

 つまり二つの解釈は、「前後」の方向性が反対を向いている。

 これらの相容れない二つの解釈をどう考えたらいいのか?

 もちろん後者は誘導に従って無理矢理解釈しただけで、にわかに納得する気にはなれないだろう。なぜそんな無茶な解釈をわざわざするのか?


 だがよく考えれば「進む/退く」はそれ自体ではどちらへ向かって、とも言っていないのである。とすれば、根拠がありさえすれば、その解釈はどうとでも成立するのである。


 「進む/退く」にそれぞれの解釈を代入してみよう。次のやりとりをAB二つの解釈を元に言い換えて読んでみるのである。


  K「進んでいいか退いていいか、それに迷うのだ」

  私「退こうと思えば退けるのか」

  K「苦しい」


第一の解釈

  K「嬢さんとの関係を進めていいのか、諦めるべきか、それに迷うのだ」

  私「お嬢さんを諦めようと思えば諦められるのか」

  K「お嬢さんを諦めるのは苦しい」


第二の解釈

  K「今まで通り精進を続けるか、道を棄てるか、それに迷うのだ」

  私「道を棄てようと思えば棄てられるのか」

  K「信じてきた道を棄てるのは苦しい」


 最初に誘導に従って二つ目の解釈を無理矢理考えたときよりも、もっともらしく感じられてきただろうか。

 あらためて考えてみよう。どちらが妥当か?


こころ 20 「自殺」の意味は含まれているか

 Kの口にした「覚悟」とは何か?

 考えられるのは次の三つの選択肢と、それを組み合わせたバリエーションだ。

  1 お嬢さんを諦める「覚悟」

  2 お嬢さんに進む「覚悟」

  3 自己所決する「覚悟」

 事前の調査の段階では組合わせのバリエーションは、1と3しかないと考えていた。選択肢もそれで用意した。2「進む」は1「諦める」とは反対だから組み合わせることはできないし、「進」みつつ「自殺する」というのも意味がわからない。

 だが回答の自由記述の中で、2と、1や3の組合わせを可能にするアイデアを提示してきた者がいた。

 1と2ならば、「進むが、駄目ならば諦める覚悟」であり、2と3ならば「進むが、駄目ならば自己所決する覚悟」ということになる。なるほど「進みつつ諦める」「進みつつ自殺する」では意味を成さないが、一連の行動として時間に沿って直列するのならば可能なのだ。そしてそれらは、単に1や2や3とは明らかに違う「覚悟」ではある。

 したがって、組合わせは3通り、さらにその重み付けで区別するなら、選択肢は7通り以上になる。


 徒に可能性を広げるばかりでなく、収拾させていく。

 三つの中で、文脈に沿った最も真っ当な解釈は1「諦める」だ。

 だがこの「覚悟」は、単に「諦める」ではないと考えていい。なぜか?

 これは、積極的に2や3の意味合いを主張することによって1を否定するということではない。文脈上直ちにそう意味づけられる1を、まず否定すべきなのである。

 なぜか?


 Kの言う「覚悟」が「お嬢さんを諦める覚悟」以外の意味を持っていると考えるべき根拠は、Kがこの言葉を口にした科白の前後に付せられた「卒然」「私がまだ何とも答えない先に……つけ加えました。」「彼の調子は独り言のようでした。また夢の中の言葉のようでした。」などの形容である。

 これらの表現は、班討論の中で既に指摘されているかもしれない。「自殺」説の根拠を考察する際、また、なぜ「進む」に解釈が変わったのかを考察する際に。

 これらの形容は、Kと「私」の認識のズレを示すサインだ。「独り言のよう」「夢の中の言葉のよう」がそれを示していることは明らかだし、「卒然」や「私がまだ何とも答えない先に」は、Kと「私」の会話のタイミング、すなわち思考の流れがズレていることを示している。

 したがって、Kの言う「覚悟」はこのときに「私」が想定しうる「覚悟」、すなわち「お嬢さんを諦める覚悟」そのままの意味ではないと読者は積極的に考えるべきなのだ。

 これらの表現が付せられた理由を授業者は今のところ他には思いつかない。そしてこれらは何らかの意図がなく置かれた表現ではありえない。

 とすれば、Kの言った「覚悟」を1「お嬢さんを諦める覚悟」とのみ受け取ることはできないのである。


 これらの表現はまた、「私」が「覚悟」の意味を翌日に「お嬢さんに進む覚悟」と考え直してしまうことになる原因にもなっている。

 先に、Kの「強い調子で言い切った」ことが、「私」が「覚悟」の意味を考え直す直接の契機になっていることを指摘したが、その反転を促す前提として、これらの表現に示されている違和感が「私」の中にあったのだ。

 つまりこのサインは、「私」に「覚悟」の意味を考え直させると同時に、読者にも1とは違った解釈を促しているのである。


 さらに、少なくとも2「進む」とのみ考えるべきでもない。

 なぜか?

 195頁で「進む」の解釈を思いついたときのことを述べる文中にある「もう一遍彼の口にした覚悟の内容を公平に見回したらば、まだよかったかもしれません」「いちずに思い込んでしまったのです」などの表現があるからだ。

 これらの表現の語り手は、遺書を書いている「私」だ。

 「こころ」の語り手は時に、物語の渦中にいる大学生の「私」だったり、時にそれから10年程未来の、遺書を書いている「私」だったりする。二つの視点の間を行き来しているのだ。そして遺書を書いている「私」は出来事全体を俯瞰しているから、相対的に「作者」に近いところにいる。その語り手が、翌日新たに生じた2「進む」という解釈が間違っていたと判断しているのである。これを否定して、やはり「進む覚悟」なのだと考える根拠は、読者にはない。


 以上の推論は、Kの心理を推測することで、この「覚悟」が「諦める」でも「進む」でもないことを論証したのではない。読者に、「諦める」でも「進む」でもないと作者がメッセージを送っていると考えられる、と言っているのだ。

 いわば小説読者としての作法を問題にしているのである。


 とすれば、いくほどかにせよ、この「覚悟」には「自殺」の意味合いを読み取るしかない。それ以外の意味合いを思いつかないならば。

 だがそもそも3「自殺をする覚悟」はどのような推論によって導かれた解釈なのか?

 「自殺」説は優勢だが、よく考えてみると、この場面を読んでいる時点で、「私」が「お嬢さんを諦める覚悟」があるかと訊いたのに、Kが「自殺する覚悟」がある、と答える論理を想定することは、読者にはできない。この場面では、ただ「諦める」だけではなさそうだとぼんやり考え、後でKが自殺する顛末を知ってから振り返って、この「覚悟」をその前触れだと解釈するしかない。そうして「自殺の覚悟」という解釈が生まれる。

 ただ、いったんそう解釈をしてしまうと、それが腑に落ちてしまい、最初からそう考えていたように錯覚してしまう。


 さしあたって今はその解釈の可能性を認めた上で、問題は、「お嬢さんを諦める覚悟はあるか」という問いかけに、なぜKは「自殺する覚悟はある」などという噛み合わない応答をするのか、という点だ。

 なぜか?

 この問いに答えることは難しい。

 というか、そもそもこれを謎だと感じないという人もいるだろう。

 この謎が看過されがちなのは、「覚悟」を1「お嬢さんを諦める覚悟」でもあり、かつ3「自殺する覚悟」でもあると考えるからだ。

 先に述べた通り、1と3は排他的ではないように思える。つまりKは1の意味で答えつつ、そこに3の意味を重ねていると考えるのである。ズレてはいるが断絶はしていない。こう考えた者は事前の調査では半分近くにのぼる。


 だがこのように考えてはならない。なぜか?


 「お嬢さんを諦める」なら、Kは死ぬ理由がなくなるはずだからである。

 逆に、「自殺する」のは、自分の未練を断ち切るためなのだから、その「覚悟」を持っているということは、「諦める」ことができていないということに他ならない。

 つまり「諦める」と「自殺する」は併存しない。


 では、「自殺する」といった意味合いがあるとしてもそれはまだK自身にとっても曖昧なものだと考え、そのズレを許容することはできないか。

 これもできない。「覚悟」という言葉の強さに釣り合わないからだ。

 「覚悟」とはその決着点なり方向性なりが曖昧なまま使える言葉ではない。「諦める覚悟」でもあり、うっすらと「自殺する覚悟」でもある、などという曖昧な解釈はできない。

 つまり二人の「覚悟」は完全にズレていると考えるしかない。


 どちらでもあるように考えてしまうのは、文脈上整合的な「諦める」を否定しきれず、だがそれだけではなくここに「自殺」のニュアンスも読み取りたくなるからだ。

 だがそのように考えることは、単によく考えていないというだけのことだ。


 このズレを認めた上で、なぜズレたかを説明するために考えられたのが、例えば次のような解釈だ。

(「卒然」とは)「先生」の口にしたひとつのことばが、Kの内に何かを目ざめさせたさま。「卒然」は、不意にの意。Kは深く自身の内部を見つめ「先生」に語るよりは、自分に確かめるようにして、「覚悟ならないこともない」と付け加えたと思われる。(角川書店『日本近代文学大系 夏目漱石集Ⅳ』註釈)

 Kの思考が「卒然」ズレたのだ、と考えるのである。

 なるほど。何せ「彼の調子は独り言のようでした。また夢の中の言葉のようでした。」なのだ。Kは一人の世界に入ってしまったのだ。

 だがそうではない。

 およそ2時限後に得られる結論からいえば、Kの思考に断絶や飛躍はない。

 「こころ」は三人称小説ではなく、一人称の「遺書」という体裁をとった小説だ。

 その記述は基本的に語り手である「私」の視点から捉えられている。ということは、「卒然」という表現は、Kの心理状態を推測するための手がかりとなる客観描写というより、むしろ「私」の受け止め方を表現したものなのだ。

 つまり

Kは「卒然」…と言った。

のではなく、

「Kは卒然…と言った」(ように「私」は感じた)。

のだ。

 こうした形容が示しているのはあくまで二人の会話の齟齬であり、それを読者に伝えるサインなのである。

 Kの思考は飛躍などしておらず、論理的に連続している。

 だがそのことは、考察を進めて納得するしかない。


 少なくとも「覚悟」の意味を「私」が受け取っている1「諦める」の意味でのみ解釈することは本文の重要なサインを無視することになる。したがってKの言った「覚悟」にはそれと違った意味合いを見てとらなければならない。

 といって3「自殺する」であると考えるならば、1の意味の上に3を重ねるような解釈をしてはならない。1と3は両立しない。


 単独で1でも2でもなく、それらと3との両立もできないとすると、この「覚悟」は「自殺する覚悟」のことだと考えるしかない。他の解釈を思いつかない以上は。

 ではなぜ「お嬢さんを諦める覚悟」について問われたKは「自殺する覚悟ならある」などと答えたのか?

 「私」の言った「心でそれをやめる覚悟」は、「お嬢さんを諦める」にも「進む」にも解釈できたのだが、「自殺する」にも解釈できるのだろうか?

 なぜKはそう解釈してしまったのか?

 だがこの疑問に答えるためには、長い迂回をする必要がある。


2020年11月10日火曜日

こころ 19 なぜ「覚悟」は反対に解釈できるのか

 「私」はKの言った「覚悟」を、当初「お嬢さんを諦める」の意味に受け取る。

 だが翌日には「お嬢さんに進む」という意味ではないかと考え直す。

 「お嬢さんを諦める覚悟」と「お嬢さんに対して進む覚悟」は全く正反対の意味だが、一つの「覚悟」という言葉が、どうしてこのような正反対の解釈を許容するのか?


 しかしこの問いの趣旨は、にわかには理解しにくいはずだ。

 例えば「やばい」という言葉を、若者は否定的にも肯定的にも使う。「あいつ〈やばい〉よ」と言った時、相手を賞賛しているのかディスっているのかはこれだけではわからない。「そりゃ〈おかしい〉な」は「笑える」にも「変だ」にも受け取れる。また「いいよ」という台詞は、文脈次第で「OK」(「良い?」「いいよ」)の意味にも、「No Thank You」(「要る?」「いいよ」)の意味にもなる。「すごいね」は称讃にも皮肉にも使える。

 だが一方でこれらは多くの場合、文脈や口調によって、その区別ができるようになってもいる。

 それなのに、「覚悟」はある文脈で、ある口調で発せられた言葉であるにもかかわらずなぜ正反対のどちらの意味にも解釈できてしまうのか?


 これは「どうして反対に変わったのか」という問いではない。それは本文に書いてある通りだ。とはいえその論理を追うにも、若干の考察は必要だった。

 だが真に驚くべきなのは、この言葉がどのような精妙な仕掛けによって正反対に変わりうることが可能になるように設定されているか、だ。ここで考察に値するのはこの点である。

 「私」は確かに「お嬢さんを諦める覚悟」はあるか? とKに問うている。にもかかわらず、それに答えたKの「覚悟」が「お嬢さんに進んでいく覚悟」かもしれないと、なぜ当の「私」自身が考えることができるのか?


 「覚悟」を口にするKの様子は「彼の調子は独り言のようでした。また夢の中の言葉のようでした」と形容されている。これのせいか?

 確かにこの印象は「諦める」以外の解釈に「私」を誘導するきっかけになってはいるが、「進む」の解釈を直接導くわけではない。

 そうではなく、Kの言った「覚悟」は、確かに「お嬢さんに進む覚悟」にも解釈できるのである。まずそのことを納得しよう。

 どういう読解で?


 まず「覚悟」が置かれた文脈を確認しよう。

 Kの口にした「覚悟」は次の「私」の台詞を受けている。


「君がやめたければ、やめてもいいが、ただ口の先でやめたって仕方があるまい。君の心でそれをやめるだけの覚悟がなければ。いったい君は君の平生の主張をどうするつもりなのか」


 気になるのは「それ」という指示語だ。

 「それ」という指示語が指している対象が二つの正反対の候補をもつのではないか?

 「恋する」「精進する」のように。それならば「覚悟」も分岐する。

 よしよし。


 だがこれは無理だ。この文脈で「それ」に「精進する」を代入することはできない。

 もともとこの「やめる」は「もうその話はやめよう」というKの言葉を受けている。したがって「それ」とは「話すこと・話」である。

 ではどう考えるか?

 こう考えてみる。

 「心でそれをやめる(覚悟)」を「  ことをやめる」と言い換えてみる。空欄に入る適切な動詞は何か? その動詞を入れたとき、それが「諦める」と「進む」のどちらにも言い換えられることを説明する。

 「心でそれ(話)をやめる」の言い換えとして可能な動詞を考える。

 空欄に入る動詞として思いつくのは考える、悩む、迷うの三つだ。

 これらの動詞を挿入して、それが正反対の意味に分岐する論理を説明してみよう。


○「考えることをやめる」

  • 考える対象を頭から消し去る=お嬢さんのことを「諦める」(①)
  • 考えることをやめて行動に移す=お嬢さんに「進む」(②)

○「悩むことをやめる」

  • 悩みの種である①お嬢さんを「諦める」(①)
  • 悩むのをやめて思い切ってお嬢さんに「進む」(②)

○「迷うことをやめる」→いずれにせよ「選択する」ことになる

  • 迷うのをやめてお嬢さんを「諦める」(①)
  • 迷うのをやめてお嬢さんに「進む」(②)

 このように、Kの言う「覚悟」は「私」にとっては、正反対のどちらの解釈も可能なのである。

 それを可能にする実に精妙な表現が、明らかに漱石によって意図的に設定されていることに、あらためて驚かされる。


 「覚悟」は確かに「諦める」にも「進む」にも解釈できる。

 だがさらに「自殺する」にも解釈できるのはなぜか?

 そして、三つ、さらにそれらを組み合わせたバリエーションも含めて、結局どれなのか?


こころ 18 何の「覚悟」か

 ここからの展開は、「私」とKが上野公園を散歩する「下/四十~四十二」章の読解である。

 この部分の精密な読解は、知的興奮を味わえる高度な考察の果てに、目も眩むような「コペルニクス的転回」による認識の更新が訪れるはずである。


 みんなは既に通読してあるはずなので、授業は本文を順に扱う必要があるわけではない。ここでは核心といっても過言ではない次の一節について最初に考える。

    彼は卒然「覚悟?」と聞きました。そうして私がまだ何とも答えない先に「覚悟、―覚悟ならないこともない。」とつけ加えました。彼の調子は独り言のようでした。また夢の中の言葉のようでした。(「下/四十二」192頁)

 この「覚悟」とは何をする「覚悟」か?


 考えうる候補は次の三つ。

 1 お嬢さんを諦める「覚悟」

 2 お嬢さんに進む「覚悟」

 3 自己所決する「覚悟」

 1は文脈に従った素直な解釈だ。

 2は、そのまま読み進めると、翌日に「私」がたどりつく解釈である。

 問題は3だ。どうしてこんな解釈が可能なのか?


 だが3を支持する者は多い。

 3のみ、もしくは1と3の意味を含むニュアンスだと考える者は、事前の調査によれば受講者の3分の2に及ぶ。

 それらの者は、そうは考えない3分の1の者に向けて、Kの「覚悟」に自殺の意味合いが含まれていると考えることの妥当性を説かなければならない。


 さて、「覚悟」に自己所決の「覚悟」を読み取ることはありうることだとして、その妥当性を主張するのはそれほど簡単なことではない。

 だが一度そうだと思ってしまうと、もうそのように思うことが当然のように感じられる。それでもあらためて考えてみる。

 そのような論理はどこから生じたのか?

 またその妥当性は何に支えられているのか?


 Kがその言葉を口にする場面で、そこに自殺の意味合いがあることに「私」が気づくことはありえないのだが、そもそも読者もそのように解釈することは不可能だ。

 この解釈は、後ろまで読み進めて、実際にKが自殺することを知って、振り返ってみたときにしか成立しない。

 そしてそう考えたときに、ある程度の説得力、納得感があるのももっともだ。

 だがその妥当性の根拠を説明しようとすると、それはKの自殺の動機を説明することになってしまいがちだ。

 導入の展開でKの自殺の動機を考えたが、その時に③「道を外れた自分を許せない」という動機を考えた者は多い。その説を繰り返してしまうのだ。

 Kがこの月曜日の時点で自殺する動機が既にあったことは、Kが自殺の意味で「覚悟」を口にすることがありうることの前提ではある。だがそれは、この時口にした「覚悟」がそれを示すと考えることとは別だ。

 問題は、この場面でKがそれを吐露したのだと考える必然性を説明することである。

 それはなかなかにやっかいな論証だ。


 自殺の意味合いが含まれているか否かの検討をいったん措いて、まず1と2について検討する。

 まず会話の時点で「私」はこの「覚悟」を、「お嬢さんを諦める覚悟」だと思っている。そのつもりでKに「覚悟はあるのか」と迫ったからだ。

 ところが「私」は翌日「四十四」章(195頁)には「お嬢さんに進んで行く覚悟」だと考える。


 なぜ「私」は「覚悟」を前日と反対の意味に考え直してしまったのか?


 なぜ考え直したかは、本文を着実に追えば明らかだ。そのことはそのまま説明されている。

 だが実は、その論理は案外に追いにくいのだ。


 「私」の認識が「諦める」から「進む」に転換する論理を確認する。

 まず、「私」がKの「覚悟」について考え直した直接の契機は何か?

 これもまた、全員が直ちにそれと指摘できるわけでもない。だが的確に論理を追えば、それが上野公園の翌日、Kに問い質した際の「強い調子で言い切った」Kの口調であることは確認できるはずだ。

 これをきっかけとして「私」はどう考えたか。

 「私」が「覚悟」の意味を考え直す際の思考の流れは次のように説明されている。

    私はこの場合もあるいは彼にとって例外でないのかも知れないと思い出したのです。(略)私はただKがお嬢さんに対して進んで行くという意味にその言葉を解釈しました。果断に富んだ彼の性格が、恋の方面に発揮されるのがすなわち彼の覚悟だろうといちずに思い込んでしまったのです(195頁)。

 この「例外」はその前の次の部分を受けている。

 Kの果断に富んだ性格は私によく知れていました。彼のこの事件についてのみ優柔な訳も私にはちゃんと呑み込めていたのです。つまり私は一般を心得た上で、例外の場合をしっかり攫まえたつもりで得意だったのです(195頁)。


 この一節の「一般」「例外」とは何か?

 聞いてみるとこれも、ただちに全員が正解するというわけではない。「一般」は「精進・禁欲」で、「例外」は「お嬢さんに恋していること」だと答える者は案外に多い。確かにKの性格の「一般」は「精進」なのだし、恋していることはKにとっての「例外」的な事態に違いない。

 だがこのように考えるのは間違っている。「一般」=「精進」/「例外」=「恋」ではなぜダメか?

 先の引用の「例外」に「恋」を代入して「恋ではないのかも知れない」とすると中略以降と矛盾するのである。「恋ではない」と考えたから「恋に進む」のだと考えた、などというのは意味不明だ。また、「例外ではない=一般である=精進」だと考えたら「恋に進む」の意味に解釈するはずはない。

 「ダメ」だと判断できること自体も必要だし大事だが、それよりこうした、「なぜダメか?」の根拠を述べることにこそ高度な国語力が必要である。


 さてでは「一般/例外」は何なのか。これはもともと難しい問いではない。確認に過ぎない。「つまり」で言い換えられている前後を対応させるだけだ。

 「果断に富んだ=一般/優柔な=例外」である。

 先の「例外」に「優柔」を代入すると「優柔ではない」となり、「果断に富んだ彼の性格」と論理的に整合することになる。


 ではここで言う「果断/優柔」は何を指しているか?

 「果断=思い切ってお嬢さんにアプローチする/優柔=言い出せずに思い悩む」である。

 では「優柔な訳」とは何か?

 Kの「平生の主張」が恋に進むことを妨げているのである。


 ここまで確認してやっと問える。

 なぜ「私」の解釈は反転したのか?


 四十三章の終わりにKが「強い調子で言い切」った(195頁)ことで、Kが「鋭い自尊心を持った男」であることにあらためて気づいた「私」は、「覚悟」についても「一般=果断に富んだ=お嬢さんに進む」意志を示しているのではないかという推論につながったのである。


 さて、1が、全く反対の2に変わった論理はわかった。

 ここまで確認して、考察したい問題はこの後である。

 「覚悟」の解釈は、なぜ反対になりうるのか?