きわめて「意味ありげ」に見える「最後に墨の余りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句」という表現は、むろん、そこに込められたKの心情を考えさせるための手がかりでもあるが、同時に、それ以外の部分が別の日に書かれたものであることを示すヒントなのだという解釈をもとに、仮説Dをたてた。
だがまだそれは、可能な解釈の一つとして提案してもいい妥当性を認めるとしても、唯一の解釈として認められるわけではない。
この深夜の訪問が自殺の決行のための準備だという解釈を否定しておいて、一方で、それでもKがこの時、遺書を書いてはいたのだという「真相」を漱石が想定していたことを受け入れるとしたら、他にはどんなサインが文中から見つかるだろうか?
解決すべき三つの謎の記述の①「彼の声は普段よりもかえって落ち着いていたくらいでした」という記述は、仮説Dによく整合する。
この「落ち着き」については「覚悟」の宣言によるものであるとの解釈を先に示した。これは仮説A「Kはこの晩に自殺しようとしていた」説を採る論者も共有する解釈である。
だがそれならば宵のうちから、Kの態度には相応の「落ち着き」が見え始めていてもいい。その変化の兆候を読者に示さないまま、夜中には「落ち着いていた」という変化の結果をいきなり提示するのは唐突である。
むしろこの変化は、その間に何かあったと考えるべきであることを示している。
Kが宵のうち「私」を「迷惑そう」に疎んじていたのは、「私」が感じている「勝利」や「得意」とは対照的に、「敗北」や「失意」のうちに置かれているからではない。一人で考えたいことがあったからだ。むろん昼間の「私」との会話の内容についてである。はからずも自らが口にしてしまった「覚悟」についてである。
それは自分の恋心に決着をつけるなどという軽薄なものではない。自らを所決する悲愴な「覚悟」である。それを心に秘めたKは「私」の世間話に気楽につきあうことなどできない。
そうしたKが夜中にはなぜか「落ち着い」た声で、なぜか自分から「私」に話しかける。
こうした変化は、Kが「覚悟」の証としての遺書を書き終えたことを示していると考えるといっそう腑に落ちる。
また四十八章では遺書について「手紙の内容は簡単でした」「ごくあっさりした文句」と描写されている。これらの形容から想像される遺書本文の印象はきわめて淡泊なものだ。
それはこの時のKの「落ち着い」た声と符合しているようにも思える。Kは激情に流されることなく「必要なことはみんなひと口ずつ書いてある」手紙を書き終えたのである。
自殺する「覚悟」を決めたことによってKの声が「落ち着いていた」のだという納得に比べて、遺書を書き終えたことによって「落ち着いていた」のだと考えることは、相対的に強い納得が得られると思う。
こうした「納得」は、繰り返すが「なぜKの声は落ち着いていたのか?」という疑問に対する「納得」というより、正確に言えば「作者はなぜKの声が落ち着いていたと書くのか?」という疑問に対する「納得」である。
また遺書の記述「自分は薄志弱行でとうてい行く先の望みがないから、自殺する」が、上野公園でKが口にした「自分の弱い人間であるのが実際恥ずかしい」「ぼくはばかだ」と符合していることは明らかだ。
だからこそKの自殺の動機はこのとき既にKの裡に準備されているのだと考えられるのだが、こうした類似性のさりげない提示もまた、この晩のうちにこの遺書が書かれたことを示すサインの一つだと考えるとさらに納得がいく。
また遺書に「お嬢さんの名前だけはどこにも見え」ないことについて、「私」は「Kがわざと回避したのだということに気がつきました」という。
この記述は、それこそ「わざと」らしい。またしても「意味ありげ」である。
これも巧妙なミスリードだ。こう書かれてしまうと、お嬢さんのことは遺書に書かれるはずだということが前提になり、その上でなぜKは書かなかったのか、と考えたくなってしまう。
だがここでも、お嬢さんの名前が遺書に書いていなかったということだけが事実で、「Kがわざと回避した」などというのは例によって「私」の根拠のない憶測に過ぎない。
お嬢さんのことが遺書に書かれていないのは当然である。Kの苦悩はお嬢さんへの恋によるものではなく自らの弱さによるものなのだから。
この、当然であることをわざわざ書いているのは、それについての「私」の誤った判断(Kがわざと回避したのだ=自殺の原因はお嬢さんの婚約だ)によって読者をミスリードすることを意図していると同時に、「真相」に至る道筋を用意しているのだともいえる。
あえて読者を誤解に導きながら、それが誤解であることにも後で気付くよう、注意喚起のためのフラグを立てるのである。
ここでは次の三つのテーゼが、相互に因果関係を持つ、整合的な解釈を構成している。
- Kの自殺の動機は、「私」とお嬢さんの婚約とは無関係である。
- 四十三章でKが口にした「覚悟」は、自殺の覚悟のことである。
- 遺書が書かれたのは、四十三章の晩である。
遺書にお嬢さんの名前が書かれていないのはなぜか、と考えさせることは、この解釈に気付くための端緒になるのである。
考えるほどに、こうした様々なサインが、遺書がこの晩に書かれていたという「真相」を読者に知らせようとしているように思えてくる。
だがそれでも読者がそれと気付くための符牒としては不充分である。
このわかりにくさ、気付きにくさが、仮説Dを突飛なものと感じさせてしまう。
実際にどれほどの読者がこうした解釈の可能性に気づいているのだろうか。少なくともこうした解釈について書かれたものは、授業者の知る限り、ない。
今ではこの仮説Dは信じるに値すると思っているが、依然として、これがひどくわかりにくい、にわかには認めがたい、突飛なものと感じられるだろうこともわかる。
だがこの「わかりにくさ」には理由がある。
仮説Dが示す「真相」はなぜこんなに読者にわかりにくいのか?
同じ趣旨の疑問を、上野公園の散歩の会話の分析においても投げかけた。二人の会話がアンジャッシュのコントのようにすれ違っているなどという「真相」は、普通の読者がすぐに気付けるものではない。
この問いには、「こころ」の物語が一人称の「私」の視点から語られているからだ、と答えることができた人は、とりあえずここまでの学習が把握されている。
「私」がそうした「真相」に気づいていないのだから、その視点から書かれた情報しか与えられない読者も当然気づかない。
だがなぜ作者には、そのようにわかりにくく書く必要があるのか?
この問いに、その方が面白いからだ、と答えるのはとりあえず正しい。「真相」がわかりにくいほど、気づいたときの満足は大きい。
だが読者が気づかなければ、せっかくの仕掛けも無意味になってしまう。
それは、そうした危険を冒しても、作者にはそうする必要があったことを意味する。
なぜ「わかりにくい」必要があるのか?
それは、わかりやすかったら「私」が気づいてしまうからだ。
「真相」に「私」が気づいてしまったら「こころ」のドラマは成立しない。認識の食い違い、意思疎通のすれ違いこそが「こころ」のドラマの核心なのだから(エゴイズムの葛藤などではなく)。
このドラマツルギーが、この「わかにくさ」を要請している。
つまり漱石は物語の真相を、語り手の「私」には気づかれないように、しかも当の「私」自身の口を通して読者には伝えなければならないという難題に挑んでいるのである。
この二律背反の課題を、漱石は奇跡的な離れ業で乗り切っている。その精妙なバランス感覚は驚嘆すべきものだ。
むろん、大学生当時の「私」には気づかなかったが、遺書を書いている「私」はその「真相」に気付いたことにすることもできる。
だが「こころ/下」の語りは、実はほとんど物語渦中にある大学生の「私」の視点からしか語られていない。そのことによって「私」の不明を読者も共有することができているのである。それなのに十年後の「私」が「真相」をすっかり説明してしまったら、作品の論理は理に落ちてしまって、この精妙な離れ業は台無しになるだろう。
「真相」は、わかりにくい必要があるのである。
つまりこれは名探偵の出てこないミステリーである。読者が探偵になるしかないのだ。
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