2020年11月24日火曜日

こころ 30 「エピソードの意味」と登場人物の心理

 上野公園の散歩の場面は、読むほどに新しい発見のある情報量の詰まった場面だ。ここで「私」とKの間に交わされた会話を詳細に分析することで、二人の認識のくい違いについて考えてきた。この食い違いが「こころ」の基本的なドラマツルギーを成立させているのだが、このことは後で全体を振り返ってあらためて考えよう。


 次に検討するのは、その晩のエピソードである。

私はほどなく穏やかな眠りに落ちました。しかし突然私の名を呼ぶ声で眼を覚ましました。見ると、間の襖が二尺ばかり開いて、そこにKの黒い影が立っています。(194頁)


 このエピソードはどうみても「意味」ありげであり、それは何かしら、「こころ」という小説を読む上で看過することのできない重要な「意味」であるように感ずる。このKの謎めいた行動について、読者はある種の納得を必要とする。

 そこで考えてみよう。

 このエピソードの「意味」は何か?


 エピソードの「意味」?

 問いの趣旨がわかりにくい。

 「エピソード」とは、物語中の展開の一部分、ある出来事や場面の「塊」のことだ。「こころ」授業の最初期に「曜日の特定」の考察をしたが、これはこの「エピソード」ごとに考察を進めた。その時に通し番号にした②と③が今回考える「エピソード」だ。

 それ以外のエピソード、例えば①「上野公園の散歩」は、中で細かいところは必ずしも「わかった」とは言い切れなくとも、何のエピソードなのかがわからないということはない。つまり「上野公園を散歩しながら話したエピソード」なのだ。④「奥さんとの談判」や⑦「Kの自殺」も、つまりそういうエピソードだ。

 ところが②③はどういうエピソードだと受け止めれば良いのかがにわかにはわからない。

 なぜか?


 なぜこのエピソードが「わからない」と感じるのか、という問いは考える価値のある問題だ。どうならば「わかる」と思えるのか?

 自分の思考がどのように働いているかを自覚するという考察は、これまでも様々な場面でしてきた。「永訣の朝」の語り手のいる場所についての考察でも、「こころ」の「進む/退く」の考察でも、「居直り強盗」の比喩の意味の考察でも。

 それは、そう考えることの根拠と推論の妥当性について再検討するということだ。

 ここでは、「わからない」という感じが万人に共通するかどうか検討する。


 一方で、この部分で何を考察すべきか、といえば決まって問題になるのはKの心理だ。

 「この時のこの人物の気持ちを考えてみよう」という質問は、小中学校で散々聞かれてきた問いのはずだ。

 近代文学の読解において、登場人物の心理を考えずに読むことはできない。


 「心理」というと対象が広くなってしまうので(まして「気持ち」などという語を使うとますます曖昧になってしまうので)、ここではKの「意図」と言おう。

 Kは何のために「私」に声をかけたのか?


 この点について、K自身は何と説明しているか?

 K自身は「ただもう寝たか、まだ起きているかと思って、便所へ行ったついでに聞いてみただけだ」と語っている。

 だが読者はその言葉を額面通りに受け取らずに、そこに何かしら隠された意図があるはずだと深読みしてしまう。

 「私」も同様にKの言葉を素直に受け取らないから、翌朝わざわざ「なぜそんなことをしたのかと尋ねる」。そうした「私」の疑問を、読者は不審に思わない。読者もまた語り手である「私」の認識に誘導されて、Kの言葉を真に受けないことが当然であるように感じてしまう。

 Kの言葉をなぜ信じられないか?


 夜中に、眠っている隣室の友人をわざわざ起こして「何でもない」ことはなかろう、というのが素朴な感覚ではある。

 だが、これがKの言葉を疑う決定的な根拠ではない。これでは「そういうことがありえないとは言えない」という反論に答えることはできない。

 ではなぜか?

 この疑問に、まずは「文学」的な説明をしてみよう。

 「黒い影」「黒い影法師」という印象的な表現が、Kの心情が基本的に「わからない」ものであることを象徴していると解釈できるのである。だからK自身の説明の直後で「彼の顔色や眼つきは、全く私にはわかりませんでした。」と言ってしまう。Kの言葉は額面通りに受け取ることを留保されている。

 これもまた「こころ」の基本構造である意思疎通の断絶を象徴的に示した映像である。

 映像を象徴として読む、というのは意識しないとできない「文学」的な読み方だ。


 だがそれよりも重要なことは、「ただ~だけ」と限定される理由が、十分な意味づけの重みを持っているとは感じられないということだ。

 「十分な意味づけ」とは、夜中に隣室の者をわざわざ起こすという特別な行動についての特別な理由、という「意味」でもあるが、それよりもやはりこの行動を含むエピソードがわざわざ語られる小説としての必要性という意味での「意味」である。

 つまり、Kの心理・意図は、このエピソードの「意味」という文脈の中で理解する必要があり、「聞いてみただけ」ではその「意味」を支えきれないと感じるのである。


 作品の解釈は原則的に、作品内のテキストのすべての情報に基づいて成立する。

 小説という虚構は人間が創作したものだから、すべての要素は、作者がわざわざ書かなければ存在しない。

 だから「完全な」解釈にとって、そこに整合的に組み込めない情報はない。原理的にはすべての記述、表現、展開が相応の「意味」をもって把握されなければならない。「特別な意味がない」という「意味」ですら、とにかく確定されなければならない。

 それなのにこのエピソードは何のために挿入されているかがにわかにはわからない。だから読者はこのエピソードの「意味」について考察すべきだと感じる。

 この小説にとって、なぜこのエピソードが語られる必要があるのか?

 読者はこのエピソードからどんな情報を読み取るべきなのか?


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