2020年11月23日月曜日

こころ 29 上野公園の会話を通観する

  上野公園の散歩のエピソードの会話を通観してみよう。

 実際に交わされている台詞は、文章量に比べて意外と少ない。

 「私」とKそれぞれにとっての会話の意味を、なるべく対比が明瞭になるように言い換えてみる。

 左(ピンク地)が「私」、右(水色地)がKにとっての意味である。


K:「どう思う」

恋愛の淵に陥った彼を、どんな目で私が眺めるかという質問

精進の道に迷っている自分が、どんなふうに見えるかという質問


私:「この際なんで私の批評が必要なのか」 

K:「自分の弱い人間であるのが恥ずかしい」

恋愛に突き進んでいけない自分の弱さが恥ずかしい

ひたすらに信ずる道を貫けない自分の弱さが恥ずかしい


私:「『迷う』とはどういう意味だ」

K:「進んでいいか退いていいか、それに迷うのだ」

恋に突き進んでいいのか、恋を諦めるべきなのか、迷う

これまで通り精進の道を貫くべきか、信仰を捨てていいのか迷う


私:「退こうと思えば退けるのか」

お嬢さんを諦められるのか

今まで信じてきた道を棄てられるのか


K:「苦しい」(苦しそうなところがありありと見えている)

お嬢さんへの恋を諦めるのは苦しい

道を捨てることは苦しい

→道を捨てた自分をどうするか考えると苦しい


私:「精神的に向上心のないものはばかだ」(厳粛な態度)

精進をやめて恋愛に進むのは馬鹿者だ

(馬鹿になりたくないのなら、ただちにお嬢さんを忘れろ)

ひたすら精進できずに迷っている今のおまえは「馬鹿」だ


K:「ぼくはばかだ」(力に乏しい)

(僕は「馬鹿」だから)お嬢さんに突き進む(だがまだ迷っている)?

その通り、ぼくは弱い、馬鹿者だ



K:「もうその話はやめよう。…やめてくれ」(頼むように)

私:「やめたければやめてもいいが、ただ口の先でやめたってしかたがあるまい

君の心でそれをやめるだけの覚悟がなければ」

話をやめるのではなく、考えること自体をやめる覚悟はあるのか?

(お嬢さんを諦める覚悟はあるのか?)

話をやめるのではなく、考えること自体をやめる覚悟はあるのか?

(迷っている自分に決着をつける覚悟はあるのか?)


K:「覚悟? 覚悟ならないこともない」(独り言のよう)

お嬢さんを諦める「覚悟」はある

(翌日には「お嬢さんに進む覚悟はある」)

弱い自分を自ら所決する「覚悟」はある


 左と右、それぞれに会話の流れにおいて、論理は一貫している。

 読者は「私」の意識に合わせて読むから、左の流れ(ピンク地)にしたがって会話の論理を理解する。

 だが、Kにとっては右の流れ(水色地)で論理を一貫させている。

 このように考えれば、Kの口にした「覚悟」は自己所決=自殺の意味にしかならない。

 そしてこのすれ違いに二人が気がつく契機は、巧みに回避されている。


 このことに気づいてみると、「こころ」はもはや以前のようには読めない。

 Kが何を考え、何を感じているかについての再考が迫られるからである。


 さて次は、この晩の謎めいたKの言動の意味を考察する。

 ここでもまたあらたな「コペルニクス的転回」が起こるはずだ。

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