上野公園の散歩のエピソードの会話を通観してみよう。
実際に交わされている台詞は、文章量に比べて意外と少ない。
「私」とKそれぞれにとっての会話の意味を、なるべく対比が明瞭になるように言い換えてみる。
左(ピンク地)が「私」、右(水色地)がKにとっての意味である。
K:「どう思う」
恋愛の淵に陥った彼を、どんな目で私が眺めるかという質問
精進の道に迷っている自分が、どんなふうに見えるかという質問
私:「この際なんで私の批評が必要なのか」
K:「自分の弱い人間であるのが恥ずかしい」
恋愛に突き進んでいけない自分の弱さが恥ずかしい
ひたすらに信ずる道を貫けない自分の弱さが恥ずかしい
私:「『迷う』とはどういう意味だ」
K:「進んでいいか退いていいか、それに迷うのだ」
恋に突き進んでいいのか、恋を諦めるべきなのか、迷う
これまで通り精進の道を貫くべきか、信仰を捨てていいのか迷う
私:「退こうと思えば退けるのか」
お嬢さんを諦められるのか
今まで信じてきた道を棄てられるのか
K:「苦しい」(苦しそうなところがありありと見えている)
お嬢さんへの恋を諦めるのは苦しい
道を捨てることは苦しい
→道を捨てた自分をどうするか考えると苦しい
私:「精神的に向上心のないものはばかだ」(厳粛な態度)
精進をやめて恋愛に進むのは馬鹿者だ
(馬鹿になりたくないのなら、ただちにお嬢さんを忘れろ)
ひたすら精進できずに迷っている今のおまえは「馬鹿」だ
K:「ぼくはばかだ」(力に乏しい)
(僕は「馬鹿」だから)お嬢さんに突き進む(だがまだ迷っている)?
その通り、ぼくは弱い、馬鹿者だ
K:「もうその話はやめよう。…やめてくれ」(頼むように)
私:「やめたければやめてもいいが、ただ口の先でやめたってしかたがあるまい
君の心でそれをやめるだけの覚悟がなければ」
話をやめるのではなく、考えること自体をやめる覚悟はあるのか?
(お嬢さんを諦める覚悟はあるのか?)
話をやめるのではなく、考えること自体をやめる覚悟はあるのか?
(迷っている自分に決着をつける覚悟はあるのか?)
K:「覚悟? 覚悟ならないこともない」(独り言のよう)
お嬢さんを諦める「覚悟」はある
(翌日には「お嬢さんに進む覚悟はある」)
弱い自分を自ら所決する「覚悟」はある
左と右、それぞれに会話の流れにおいて、論理は一貫している。
読者は「私」の意識に合わせて読むから、左の流れ(ピンク地)にしたがって会話の論理を理解する。
だが、Kにとっては右の流れ(水色地)で論理を一貫させている。
このように考えれば、Kの口にした「覚悟」は自己所決=自殺の意味にしかならない。
そしてこのすれ違いに二人が気がつく契機は、巧みに回避されている。
このことに気づいてみると、「こころ」はもはや以前のようには読めない。
Kが何を考え、何を感じているかについての再考が迫られるからである。
さて次は、この晩の謎めいたKの言動の意味を考察する。
ここでもまたあらたな「コペルニクス的転回」が起こるはずだ。
わかりやすい
返信削除