「覚悟」の解釈についての疑問を残したまま、話は一旦遡って、上野公園の散歩中の会話のはじめ辺りに戻る。
四十章、「私」とKの会話の始まり近くに次の一節がある。
彼は進んでいいか退いていいか、それに迷うのだと説明しました。(「下/四十」189頁)
この「進む」「退く」とはそれぞれ何のことか?
この部分の解釈は、「こころ」の読解の最も重要なポイントである。ここを転換点として、「こころ」という小説は、世間が思っているのとは全く別の様相を露わにする「コペルニクス的転回」を迎える。
だが、この問いの答えは、それが問われる意義がわからないほどに明らかに思える。「進む/退く」が「お嬢さんに進む/お嬢さんを諦める」という意味であることはわかりきっている。
だが問題は解釈の根拠である。
「進む/退く」はなぜ「お嬢さんに進む/お嬢さんを諦める」のことだと解釈できるのか?
先の「覚悟」で考察したように、言葉の解釈は文脈に依存している。「進む/退く」は、文脈の中でそのように解釈されるのである。そのことを自覚する必要がある。
「進む/退く」という動詞は「前後」というベクトルを前提している。「動く/とどまる」ならばそのような「前後」の方向性は限定されないが、「進む/退く」が何のことか読者に了解されるとしたら、前後に何があるのかが何らかの形で読者に予め提示されているはずなのである。それはどこに書いてあるのか。
「恋愛の淵に陥った彼」(188頁)という記述を挙げる者は多い。問題の在処が「恋愛」なのだから「進む」のは「恋愛」の方向なのだといえないこともない。
だが、「陥る」は上下の方向性が示されているのであって「進む/退く」という前後の方向性が示されているわけではない、ともいえる。
では明確に「前後」が示されている記述はどこにあるか?
例えば次のような記述が指摘できる。
- 彼の恋をどう取り扱うつもりかと尋ねました。それが単なる自白に過ぎないのか、またはその自白についで、実際的の効果をも収める気なのかと問うたのです(187頁)。
- 彼の態度はまだ実際的の方面へ向かってちっとも進んでいませんでした(188頁)。
- こうと信じたら一人でどんどん進んで行くだけの度胸もあり勇気もある男なのです(189頁)。
1・2・3を順に辿れば、「進む」のは「恋」の「方面」なのだという解釈が、読者の中に自然に形成される。
つまり文脈の中で「進む」という動詞が、「恋に進む」という意味で何度も使われていることによって、読者はそれをコード(解釈規則)としてKの言った「進む」という言葉を、無自覚に「恋に」という方向で受け取ってしまうのだ。読者の解釈は、知らないうちに語り手である「私」の認識に誘導されているのである。
これより後にも、例えば次のような一節がある。
私はその一言でKの前に横たわる恋の行く手を塞ごうとしたのです。(190頁)
この表現なども、あからさまに方向性を示している。
そして前方にあるのはやはり「恋」なのである。
以上の解釈に不審な点はない。だが、話はここで終わりではない。
四十一章(190頁)の「Kは真宗寺に生れた男でした。」からの一連のKの人柄についての記述中には、次のような表現がある。ここからは「進む/退く」について、どのような解釈が可能か。
精進
恋そのものでも道の妨げになる
Kが急に生活の方向を転換して、私の利害と衝突する
さりげなく置かれた右のような表現もまた、前後の移動を暗示している。
そしてそこから導かれるのは、「進む=精進する/退く=道を棄てる」という解釈である。当否は後回しにしても、誘導に従えばそうした結論に辿り着くしかない。
・「進む/退く」=「お嬢さんとの関係を発展させる/お嬢さんを諦める」
・「進む/退く」=「精進する/道を棄てる」
「精進する」ためには「お嬢さんを諦める」しかない。
反対に「お嬢さんにアプローチする」ならば「道を棄てる」しかない。
つまり二つの解釈は、「前後」の方向性が反対を向いている。
これらの相容れない二つの解釈をどう考えたらいいのか?
もちろん後者は誘導に従って無理矢理解釈しただけで、にわかに納得する気にはなれないだろう。なぜそんな無茶な解釈をわざわざするのか?
だがよく考えれば「進む/退く」はそれ自体ではどちらへ向かって、とも言っていないのである。とすれば、根拠がありさえすれば、その解釈はどうとでも成立するのである。
「進む/退く」にそれぞれの解釈を代入してみよう。次のやりとりをAB二つの解釈を元に言い換えて読んでみるのである。
K「進んでいいか退いていいか、それに迷うのだ」
私「退こうと思えば退けるのか」
K「苦しい」
第一の解釈
K「嬢さんとの関係を進めていいのか、諦めるべきか、それに迷うのだ」
私「お嬢さんを諦めようと思えば諦められるのか」
K「お嬢さんを諦めるのは苦しい」
第二の解釈
K「今まで通り精進を続けるか、道を棄てるか、それに迷うのだ」
私「道を棄てようと思えば棄てられるのか」
K「信じてきた道を棄てるのは苦しい」
最初に誘導に従って二つ目の解釈を無理矢理考えたときよりも、もっともらしく感じられてきただろうか。
あらためて考えてみよう。どちらが妥当か?
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