「進む/退く」とはどこへ向かって「進む/退く」ことなのか。文脈からは二つの正反対の解釈ABが可能だ。いったいどちらなのか?
ABは相反する。そのままにしてはおけない。
だが実はこの「どちらか」は決着がつかない。
どう考えればいいか?
この問題の「解決」は、それぞれのクラスで誰かが気づく。それは誰だったか? 皆はそれぞれ、自分でその「解決」を思いついたか?
こう考えればいい。つまりKが言った意味と「私」が受け取った意味が違っていたのである。二人はそれぞれ次の意味で「進む/退く」と言っているのである。
K 今まで通りの道を進む/道を退く
私 お嬢さんに進む/お嬢さんを諦める
二人は直接の会話の中で一度として具体的に「進む/退く」の方向がどこを向いているのかを口にしていない。そしてお互いの言っていることが反対方向にすれ違っていることに気付かずに会話しているのである。
こうした結論は「正解」のように「教わる」べきではない。授業における読解は、その結論を「理解」すべきものではなく、認識の変容として「体験」されるべきものである。最初無理に感じられたかもしれない二つ目の解釈が、しかし考えているうちに腑に落ちることが重要である。
それでも、二つ目の解釈に読者が自ら気づくことは難しい。だからその解釈は、可能だとしても、そもそも成立することが不自然なのではないか、可能ではあるがそもそも不必要な解釈をいたずらにしている(こういうのを「穿ち過ぎ」という」)というだけなのではないか、という疑う者もいるだろう。大事なことだ。他人から言われたことを鵜呑みにせず、自分で納得するまで考えるのは。
漱石は本当にそんなことを考えているのだろうか?
漱石がこの「方向」について意識的だったことは、たとえば次の一節を読んでもわかる。
その頃は覚醒とか新しい生活とかいう文字のまだない時分でした。しかしKが古い自分をさらりと投げ出して、一意に新しい方角へ走り出さなかったのは、現代人の考えが彼に欠けていたからではないのです。彼には投げ出す事のできないほど尊い過去があったからです。彼はそのために今日まで生きて来たといってもいいくらいなのです。だからKが一直線に愛の目的物に向かって猛進しないといって、決してその愛の生温い事を証拠立てる訳にはゆきません。いくら熾烈な感情が燃えていても、彼はむやみに動けないのです。前後を忘れるほどの衝動が起る機会を彼に与えない以上、Kはどうしてもちょっと踏み留まって自分の過去を振り返らなければならなかったのです。そうすると過去が指し示す路を今まで通り歩かなければならなくなるのです。(「四十三」193頁)
これは上野公園の散歩のシークエンスが終わった後の章段だが、ここにもしつこいほど「方向」を示す標識が書き込まれている(まるで和歌の修辞法の「縁語」のように)。
「新しい方角へ走り出す」「愛の目的物に向かって猛進する」などは「私」の捉えている「進む」であり、とすれば「自分の過去を振り返る」、つまり信条に従って恋心を棄てることが「退く」なのである。
だがKの主観に立ってみれば「過去が指し示す路を今まで通り歩く」こそ「進む」ことなのだ。
しかし、「私」の意識に同調しながら物語を追っている読者がそのことに気づくことはない。
読者が気付かない解釈の可能性を作者が文中に忍ばせたのは、語り手である「私」にそのことを気付かせないようにする必要があるからである。
二人の思考のすれ違いは、この後の会話全体に渡っている。読者がそうしたすれ違いに容易に気づくようでは、語り手である「私」がまずそのことに気付かないわけがない。それではこのすれ違いが起こらない。すれ違いを起こすためには「私」が誤解に気づかない必要があり、そうなれば読者もその誤解に気づくのは難しい。
それでもまだ、上のような解釈が、そもそも穿ち過ぎ、深読みに過ぎるのではないか、という疑問がぬぐえないかもしれない。
だが、こうしたすれ違いが生じているのだという解釈は、ここまで指摘した根拠のみに拠るものではなく、以下に続く「私」とKの問答全体を整合的に解釈することに拠っている。
とりわけ「覚悟」という言葉をめぐって二人の間にすれ違いが生じているらしいという最初に行った考察については、多くの読者にも気づく可能性があろうが、実はそのすれ違いの端緒がどこにあるかを考え、会話全体を見直した時に、はじめてこの会話が、最初から一貫してすれ違っていたのだという仮説の妥当性が確かめられるのである。
「進む/退く」はそうしたすれ違いを表わす方向標識として恰好の手がかりなのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿